8◆廃太子

 奏琶国、京師みやこにて――。


 この時、せつ黎基れいき京師みやこ永樂えいらくを訪れたのは実に半年ぶりというところであった。


 普段は国にある五つの州のうちで最も南寄り、七つの群がある州を治めながら暮らしている。九つの時に廃太子となったが、幽閉されることもなく勝手気ままに過ごすことを許されているのは、黎基が盲目であるからに他ならない。


 謀反を企もうとも、一人で隣家に攻め入ることすらできない。誰かの手を借りねば何も成すことはできないこの身に、誰も脅威など感じないのだ。


 黎基は常に黒紗の薄い布を目の周りに巻いて、世界から自分を護っている。


「殿下、そろそろ参られますか?」


 しんだいに腰かけていた黎基に、腹心のりゅう昭甫しょうほが声をかける。


 昭甫は二十七歳、科挙を通過した若き進士であるが、上官からの妬心により閑職――つまりは廃太子である黎基のもとへと送り込まれた文官である。


 そのような扱いに耐え、理不尽さに反論もせずに送られてゆく辺り、気の弱さを感じさせるかといえば、そうではない。機を見て今はここにいるのだと言った。それなりに野心のある男だ。

 黎基は昭甫のそうしたところが気に入り、そばに置いている。この男は聡い。


「ああ、案内を頼む」

「畏まりました」


 恭しく答え、昭甫は黎基の手を己の肩に沿えた。黎基はそれを頼りに歩むのだ。

 この役は、他の誰にも任せない。本当に信の置ける者でなければ黎基は歩めないのだから。


 だからといって、黎基と昭甫が龍陽りゅうよう(男色)の間柄であると噂されてしまうのは頂けないと昭甫は苦りきっている。


 目で見ずとも、場が変わればすぐにわかった。

 人々の息遣い、雰囲気が一変する。視線で人を射抜くことはできないが、触れるのとそう変わらない程度には相手に圧を感じさせる時がある。


 カチャッ、と控える武人たちの甲冑が擦れる音がする。昭甫が立ち止まったので、黎基も立ち止まり、その場で拝手拝礼した。


「お久しゅうございます、陛下。お呼びとあり、馳せ参じました」


 静まり返った中、黎基は声を張り上げるでもなく、涼やかに遠い玉座の父へ声を届ける。

 しかし、御簾の裏側から降る声は父のものではない、女の声だった。


「ご不自由な身でよくおいでくださいました。陛下もいたくお喜びにございます」


 抜け抜けとよく言う。

 しかし、黎基はそれをおくびにも出さず、口元だけで微笑んだ。


しん貴妃も、ご機嫌麗しゅう存じ上げます」


 秦貴妃――。

 黎基の異母弟であり、現皇太子である賢思けんしの母堂だ。


 この十年、容色は衰えを知らず、未だ皇帝の寵愛を一身に集めているとされる。黎基の母から貴妃の位を勝ち取り、後宮を統べる妖婦。


 そして、その恩恵を受ける一族。

 その筆頭、秦貴妃の父親である秦呂石りょせき。正一品の太師で、まつりごとは彼によって行われていると言っても過言ではない。

 呂石の長子、貴妃の兄に当たる秦爛石らんせき、従兄である秦謹丈きんじょうがそれぞれ正三品、百官を総括する尚書省しょうしょしょうの右丞相じょうしょうと左丞相だ。


 顔かたちは整っているが、皆がそろって猛禽のような男たちだ。彼らに初めて会った時、黎基の幼心が感じ取ったのは、隠されつつも零れ落ちる害意であったかもしれない。とにかく、この連中は危険だと、それだけは勘づいた。


 秦貴妃が御簾の裏でクスリと笑ったのがわかった。視覚に頼らない分、黎基の感覚は鋭敏だ。


「久しぶりにいらしたのに、急なことで申し訳ないのですが、北の武真国ぶしんこくより援軍の要請があったのです。彼の国は先の災害で国力を損ないました。こちらとしても同盟国のことでございますから、十分な見舞いは贈りましたのに」


 その、いかにも施してやったという口ぶりを武真国の者が聞いたらどう思うだろうか。北の武真国では二年前に野火事が起こり、その辺り一面が焦土と化した。それによる物資の不足、国力の低下は否応なく起こる。

 そんな時には他国から攻め入られるものなのだ。西からの侵略を防ぐのに手一杯であるという噂は黎基の耳にも届いていた。


 今、この奏琶国が武真国に攻め入らぬのは、何も同盟のせいばかりとも言えない。この秦貴妃は豪奢な宮を好み、すぐに飽いて新たな宮を建設させる。費用も人員も工事に割きたい。戦なんぞしている場合ではないのだ。

 費用も人員も戦で掠め取ればよいと男ならば思うかもしれないが、この貴妃は気短でそんなに先までは待てないのだから。


 そこへ来て、武真国からの援軍要請だ。正直なところ、使者を切り刻みたい衝動に駆られたのではないだろうか。

 何故、お前たちのために骨を折らねばならないのかと。

 しかし、それをしなかったのは、ただひとつの利点を見出したからに過ぎない。


儀王ぎおう様は陛下の長子であらせられますから、陛下の名代として兵を率いて北上し、武真国の兵と合流して頂きたいのです」


 長子とはいえ、黎基は盲人だ。それを戦地へ送ろうとする。

 馬上にあって槍を巡らせろというのではない。旗印として行けと、そういうことである。

 だとしても、この身に危険がないはずがない。そんなことはわかっている。


 この妖婦は、目は見えぬがそれ以外は健康体である黎基が子を成す前に死ねばいいと思っている。それを感じていたからこそ、あまり女人をそばへ寄せないようにはしてきたのだ。

 戦に乗じて消されるな、と黎基は察した。だからこそ、応えた。


「ものの数にもならぬ身でございますが、陛下のお役に立てますのなら、喜んで赴きましょう」


 もう、このままの自分でここには戻らない。

 戻る時は違った形であることだろう。

 黎基の覚悟に気づいたのは、この場では昭甫ただ一人に違いない。


「儀王薛黎基を行軍こうぐん元帥げんすいに任ず――と、以上が陛下のお言葉でございます」


 父の声は聞こえない。

 父は、目をかけていた嫡子の黎基が失明し、興味を失った。あの時から直に声をかけられたことはない。


 それはいい。けれど、同時に母への寵も薄れた。いいや、消え失せた。その後の母への冷遇を忘れはしない。


「謹んでお受け致します」


 黎基の声が響いた。

 心ある臣たちは、戦地へ行かされる目の見えぬ廃太子を憐れと感じただろうか。

 しかし、黎基は昭甫の肩を借りて部屋に戻ると、くつくつと笑い声を立てた。


「なあ、私が行軍総帥だと。お飾りもいいところだが、まあいいだろう。しかし、あの女狐がまともな兵を貸し与えるわけがない。寄せ集めの烏合の衆を連れてゆかねばならないのは骨が折れるが――」

「骨が折れるのは殿下よりもこちらの方かと」


 しれっとそういう口を利くから、昭甫は信頼できる。黎基は堪えきれずにまた笑った。


「もちろんお前は連れていく。だからそれも否定せぬがな。他の将軍は無理にしろ、雷絃らいげんだけは必ず確保しろ」


 雷絃というのは、武門であるかく家の三男坊である。五男あるうちの真ん中だが、一番の偉丈夫で誠実な男だ。黎基がまだ皇太子の時分に出会い、忠節を誓った。


 それを黎基が廃太子となった今でも反故にはしない実直さを持つ。だからこそ、黎基もこの昭甫と同様に雷絃のことも信じている。

 この二人だけいれば、後はどうにかなる。


「あと、問題があるとすれば母上か」

「さすがにお連れするわけには参りません。さて、どうしたものか――」


 二人は黙った。二人して、きっと考えたことは同じだからこそ、口に出したくはなかったのだ。

 それでも、黎基が言わねばならないと諦めてつぶやいた。


「母上は南の汎群だ。私が行くのは北。そして、王都はその間にある。私を北へ向かわせる際、母上は人質のようなものだ。母上がそこから動かぬことで女狐の油断を誘える。母上は汎群にいてもらわねばなるまいな」


 黎基がもし、行軍を拒めば母を盾にするつもりでいることくらいわかっている。病身を理由に後宮から離れている妃だ。利用できるなら迷わず使うだろう。


 昭甫は、静かに、淡々と語ってみせる黎基の腹の中に渦巻くものを察したのか、溜息をついた。


「しかし、その御身に何かあってはいけません。機転が利き、信の置ける者を選んでおそばに仕えさせてはおりますが」

「当然だ。母上は気の休まる時もなく生きてこられた。心安らかな時を過ごせるまでは長生きしてもらわねば、私も息子としてあまりに不甲斐ない」


 誰よりも美しく、皇帝ちちからの寵愛が厚かった母だ。

 それが、今となっては床に伏しがちになり、あの女にすべてを奪われた。


 母は多くを望まぬが、それでも奪われたものは取り返すべきだと黎基は思う。

 あの日を境に、すべてが変わった。


 黎基の戦いはこれから始まるわけではない。

 あの日からずっと、続いている。

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