7◇月日は流れ
祥華と兄が
十年が経てば、二人とももう子供ではない。
兄は父から学んだことと、里の老医者に教わりながら寝る間も惜しんで知識を身につけた続けた結果、その医者が亡き今、里でも一目置かれる医者となっていた。年を重ねるにつれ、亡き父の面影が兄を通して蘇る。
一方、祥華はというと――。
「祥華ぁっ!」
情けない声を上げたのは、祥華よりもひとつ年下の
しかし、畑仕事も嫌い、力仕事は嫌い、あれも嫌、これも嫌と、なんに対してもやる気を見せない少年だった。
小太りで背が低く、気も小さい。何かにつけて情けなかった。
今日も、武術の稽古をつけてもらっている最中に逃げ出そうとしたので、祥華が棒を持って追いかけてきたのである。
「いい加減にしなよ、展可!」
幼い頃に劣等感を抱いていた祥華の癖毛は、この頃になるとほとんど気にならなくなった。雨の日に少しうねる程度なのだから、どうして癖が取れたのか不思議なものである。癖毛というのは大人になると直ることもあるらしい。
今は背中まで届く長さの髪を束ね、後頭部で馬の尾のように束ねている。
年頃だというのに、ヒラヒラとした
祥華は棒を旋回させ、草むらに隠れようとした展可の足を払った。展可の丸い体は転がり、呻く。
「せっかく
この里には
里の子供たちに武術を教えながら暮らしていた。祥華にはその老爺が師匠である。
呆れて言った祥華に展可は泣き言を零すが、少しも可哀そうではない。むしろ、泣くと顔の造作がいつも以上に
「祥華はいいさ。褒められるところしかないもんな。逆に俺は叱られるばっかりだ」
「それは展可が真剣に取り組まないからだ」
「そんなの、武術なんて習って、いつ使うんだよ?」
「いつ入用になるかわからないから備えるんだよ」
祥華は、どんなことにもひた向きにこの十年を生きてきた。学びの中で生きることが、生かされたことへの恩返しになる日が来るかもしれないと思えたからだ。
――本当は、祥華が役に立つ日など来ない。この里から出るなと言われている。この里で一生を過ごせと。
すでに蔡家は途絶え、兄妹も表向きは死んだものとされているのだ。だから、祥華はもう、嫁に行くことは諦めていた。それなら、女らしくあることに意味がない。綺麗な衣も、
そうした心情が表れ、言葉遣いも淡々としたものになっていく。なよなよとした女言葉では心まで弱ってしまいそうな気がした。
「この里は平和だけど、戦になって敵兵が攻めてこないとも限らない。そうした時、武術を修めておけば護れる人もいる」
祥華も、唯一の肉親である兄のことくらいは護りたい。兄は体を動かすことが不得手だから、兄の苦手は祥華が補う。
展可は泣きやむと、不意に半眼になった。
「じゃあ、祥華が俺のことも護ってくれたらいいんじゃないのか? 棒、槍、剣、弓の武術は、師父も認めてくれるほどの腕前なんだからさ。その上、琵琶も里の誰よりも上手いし、祥華はなんだってできるんだからさ」
それは祥華が努力したからだ。最初からなんでもできるわけがない。そのところが展可にはわからないらしかった。
祥華は兄のようにたったひとつに特化していないからこそ、なんでも手を出してできることを増やしたかったのだ。人生、何が役立つのかわからない。
「またそんなこと言って……。展可は男なんだから、どの道いつ徴兵されるかわからないよ。真面目にやらないと戦地から生きて帰れないし」
これは半分脅しである。
しかし、まったくあり得ないことでもなかった。
太平とは言い難い世である。この奏琶国は三つの隣接する国があり、長年小競り合いを繰り返している。ここ十年、積極的に攻め入ることもなかったが、攻め入られたことは何度かあった。
そのたび、敵兵を押し戻すことができており、今のところ大きな戦には繋がっていないというだけの話で、天子がいつ挙兵すると
「そ、そそ、そんなの、俺みたいなの連れていったら、勝てるものも勝てなくなるんだからな!」
自分のことを自分でよくわかっていると見える。
展可は戦場において逃げ惑うばかりで、味方をも混乱させてしまうだろう。逃亡は軍律違反であるが、それでも逃げる気がする。
そうしたら、家族も連座だ。愽家の命運は途絶える。どうしても悪い方にしか転がらないだろう。
展可はこれでも嫡男で、男児は展可ただ一人。それ故に大事にされ過ぎているのだ。
「いっそ、お前が男だったらな。お前が行った方がよっぽど役に立つのに」
ため息交じりに言った展可の言葉が、田舎の里に虚しく響く。
祥華としてもそうしたいくらいだ。
皇帝は、あの
しかし、その皇帝が長子である黎基を廃すると決めたのだ。盲目では皇帝としての責務を全うできない。
しかし、皇帝が寵愛する
このままの暮らしを続ければ、いつかは破綻するだろうと、誰もが案じつつも口には出せない。
そんな中、黎基は今、どのように過ごしているのだろうか。
家臣には恵まれているだろうか。苦しんではいないだろうか。
いつでも、祥華は黎基を想わない日はなかった。ちくりと痛む胸を摩り、無事を祈るばかりである。
「本当に、私がお役に立てたらどんなにか……」
黎基は祥華に何も望んでなどいない。己の目から光を奪った医者に、そんな名の娘がいたことすら覚えていないかもしれない。
それでも、祥華は黎基を想わない日はない。
これはすでに恋ではなく、罪悪感がさせること――。
十年の歳月が初恋をそのように捻じれさせてしまった。
どちらにせよ、祥華にとって黎基が廃太子となった今も変わりなく特別な存在であることだけは確かだった。
そんな日々を過ごす祥華がいる姜の里に、ある日、とある触れを携えた役人がやってきたのだった。
そこから、祥華の運命は再び動き始める。
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