4◇運命の日

 それからしばらくして、黎基が風邪をひいたのだと父が言った。


「貴妃様におうつししてはいけないと、殿下は貴妃様のそばには寄らぬように気遣われている。ただの風邪だが、治りが早いように薬湯をご用意して差し上げるつもりだ」

「殿下が? 大変! 私も看病に行きます!」


 祥華が意気込むも、この時の父は厳しい顔をしてかぶりを振った。今まで見たことがないほど、まなじりをキッとつり上げていた。


「駄目だ。しばらくは連れていかない。お前が騒がしくしたのでは、殿下のお体が参ってしまう」


 黎基のことが心配なのに、なんてひどいことを言うのだろう。祥華は堪らなくなってわんわんと声を出して泣いた。父はたまにしか泣かない祥華が泣くと慌てふためくのに、この日は頑として譲らなかった。


 相手が相手なので、娘が泣くからといって甘いことを言ってやれないのはわかる。それでも、祥華は黎基のことが心配だったのだ。


「……寝込まれているわけじゃない。少し咳が出るくらいの軽い風邪だ」


 父はそれだけ言った。ため息交じりに零した言葉と疲れた顔を見れば、父もまた気が滅入っていたのがわかったはずだ。それでも、祥華は聞き分けがなかった。


「ひと目お会いするだけでもいけませんか?」


 ぐすん、と鼻を啜る。それでも父は祥華を見ずに眉間の辺りを押えながら言った。


「駄目だと言っているだろう。さあ、もうこの話はおしまいだ」


 それだけ告げると、父は部屋に籠ってしまった。

 翌日、いつもの官人が父を迎えに来て、父は祥華と兄を置いて一人で離宮に行った。祥華は仕方なく、一日中黎基の無事を祈って過ごしていた。



 ――その晩、疲れて帰ってきた父は、祥華とはひと言も口を利かなかった。兄だけを呼んで少し話していた。きっと、また祥華が騒ぐだろうから、ちゃんと見ていなさいとでも言っているのだ。

 すっかりしょげた祥華を慰めてくれたのは母だ。


「祥華もすっかり女の子ね。父さんや晟伯以外の男の人のことをこんなに想うようになって、なんだか母さんも寂しいわ」

「母さんは殿下にお会いしていないけど、会ったらすぐにわたしの気持ちもわかってくれると思うの」


 祥華が言うと、母は苦笑しつつ祥華を抱き締めた。柔らかく、いい匂いがする。母の匂いは安らぎそのものだった。体の力がフッと抜けていく。


「大好きな人のためならなんでもできてしまうものよね。でも、まだ少ぅし早いから、祥華はゆっくりと大人になってね。急ぎ足で行ってしまうと、父さんも母さんも寂しいもの」


 母がそんなことを言う。祥華は、母の腕の中が心地よくて、なんとなく、うん、とうなずいた。


 きっと今は、黎基も母である貴妃のことが一番好きで、祥華はまだまだ敵わない。お互い、ゆっくりと大人になっていけばいいのかもしれなかった。



 その翌日も、いつもの官人が来た。

 祥華も兄も留守番だと思った。黎基が元気になったらまた会えると期待するしかない。

 しかし、この時、顔を合わせた官人が言った。


「殿下が蔡先生のお嬢さんにお会いしたいようなので、今日はお連れして頂きたい」


 そのひと言に、祥華が顔を輝かせたのは無理もなかった。しかし、それに反して父がこの世の終わりのような顔をしたのだ。


「い、いえ、娘は……」

「殿下がお望みでしたら、どこへでも参ります!」


 祥華が思いきって言うと、官人は細い目をさらに細めて笑った。


「そうか、頼もしい限りだ」


 ああ、やはりこの人の顔は好きではない。このところ美しい人ばかり見ていたから、余計にそんなことを思ってしまった。もしかすると自分は面食いなのかとこの時に自覚した。


 この顔は、どうにもいただけない。どこまでも失礼なことを考えていた祥華に気づかず、官人は祥華を連れていってくれる。


「……晟伯、お前も来なさい」


 父が、兄にも声をかけた。祥華が聞き分けのないことを言ったら止めるのは兄の役目だと言うのだろう。祥華は時と場所くらいは弁えているつもりなのだが、兄が来ることで父が安心できるなら別に構わない。


「はい、父さん」


 兄はにこりともしないで答えた。

 それから父は、母をじっと見た。いつもよりも少しばかり長く感じられる間があって、それから父はうなずく。


「いってくる」

「いってらっしゃいませ」


 両親の他愛ないやり取りが終わると、一行は離宮に向かった。祥華は、馬に揺られながらも黎基のことが心配で仕方なかった。



 けれど、黎基は案外けろりとしていたのだ。


「晟伯、祥華? 風邪をうつすからしばらくは来ないようにと言ったのに」


 わりと元気そうに見えたが、風邪をひいたのは本当らしい。ただ、苦しそうにうんうんと唸っている姿を想像していただけに肩透かしだった。


 今日もきちんと衣を整え、首からは青緑の珠が連なった項鏈こうれん(首飾り)を下げている。むらの子供たちとはまるで違い、気品が自然に備わっているからこそ似合う装いだった。


 祥華に会いたがっていたのではないのかと首を捻りかけたが、あえて問い質すことはしなかった。

 もしかすると、こっそり黎基がつぶやいた願いをあの官人が拾っただけで、表向き、黎基は風邪をうつすから呼ばないつもりだったのかもしれない。本当は会いたいのを我慢してくれていたのだと思うと、祥華も嬉しいのだ。


「殿下、お加減はいかがですか?」


 そう悪くは見えないが、黎基の顔はよく見るといつもよりも白く見えた。体調が万全というわけでもないらしい。


「うん、悪くはないよ」


 話が弾まなかった。黎基がいつもほど口を開かないのだ。


「やっぱり、お体の具合がまだよろしくないのでは……」


 心配になるほど、黎基は暗かった。しかし、祥華が声をかけると、黎基はかぶりを振って苦笑した。


「そんなことはない。私は平気だ。ただ、母上のお体の方が心配で」


 貴妃はいかにも儚い風情の女人だ。子を産んでから体が弱ることもあるそうだから、もしかすると、貴妃はもう子を授かれない体なのだろうか。


 黎基はとにかく、自分よりも母が心配で沈んでいるらしい。


「私の父がついていますから、信じてください」


 父も万能ではない。助けられない命もこれまでにあった。

 貴妃の状態がどうなのか、詳しいことを祥華は聞かされていないけれど、すぐに元気になると信じたかったのだ。


「そうだね。蔡先生はとてもお優しい仁の方だ。本当に、出会えてよかったと思っているよ」


 黎基は自分の言葉を噛み締めるようにしてささやいた。その心のうちを祥華が知ることはできないけれど、できることなら共有したかった。



 しばらく黎基の様子を気にしながら他愛のない話をした。黎基が気乗りしないふうであり、兄もそれに合わせてあまり喋ろうとしなかったので、祥華が一人で毒にも薬にもならないような話をただ続けていた。


「――って、隣のそんさんのおじいさんが言ったんです。わたし、びっくりしておばさんに訊いたんですよ。おじいさんは昔、兵士さんだった時、迷子になって桃源郷ってところに迷い込んだのって? そうしたら、おばさんはころころ笑って、狐に化かされたんでしょうねって。それで――」


 兄は祥華の話を聞いていなかったけれど、黎基は精一杯耳を傾けてくれているのがわかった。時折優しく微笑んでくれた。それでも、心ここにあらずであるのは間違いなかった。

 祥華が黎基のためにできることはないものだろうかと、祥華も話していて虚しい気持ちになるのだった。


 そんな時、父が中庭に来ていた。あずまやの下におり、背後には宦官が二人控えている。

 父はそこから黎基に向けて深々と頭を下げた。


「殿下、薬湯のご用意ができましてございます」


 風邪はそれほどひどくはないようだが、大事な体だ。念のためにということだろう。

 しかし、薬湯は苦い。祥華も大嫌いだ。だから、心配そうに黎基を見た。その心配が伝わったのか、黎基は少し笑った。


「私が先生に頼んでおいたんだ。苦いけれど、風邪にはよく効くそうだから」


 黎基はきっと、苦くても平気な顔をして飲み干すのだろう。立場のせいもあるかもしれないが、年齢よりもずっと大人だから。

 それでも、薬湯が美味しくないのは本当だ。黎基が薬湯をすっかり飲み干した後には、祥華は精一杯の賞賛を込めて迎えようと思った。


 黎基が静かにあずまやの方へ歩み寄る。なんとなく祥華も途中までついていったが、あずまやの下までは行けなかった。兄に止められたのだ。宦官たちが虫けらでも見るような目をして祥華を見遣った。


 煌びやかな後宮に侍す宦官たちだ。地方のむら医者の子供たちなど下賤な民としてしか認識していないのだろう。そんな子供たちが皇太子と友好を深めるなど褒められたことではないと。


 なんて嫌な目をするのだろう。祥華はあずまやに近づけもせず、悔しい気分だった。黎基はいつもああした冷たい家臣に囲まれているのなら、やはり寂しいのだ。だから、祥華や兄と会いたがった。

 そう思ったら、どんなことがあっても黎基の手を放してはいけないような気になる。


 父が、恭しくひざまずいて薬湯を黎基に差し出した。滑らかな白磁の茶碗に入った薬湯を、黎基が受け取る。黎基はそれを躊躇うことなく口に運び、飲んだ。

 そして――。


 黎基の手から白磁の茶碗が落ちる。

 パァン、と硬質な、茶碗が割れる音がした。


「え?」


 祥華は驚いて声を上げた。その直後、黎基は喉を押えてくずおれた。

 苦しげに呻きながら背を丸める。


「で、殿下っ!」


 宦官たちの甲高い声が響き、優雅な離宮の中庭は騒然となる。

 一体、何が起こったのだ。


 祥華の心臓が早鐘を打つ。狂ったように、叫ぶように鳴り響く。

 呆気に取られていた兄の手を振り払い、祥華は駆け出した。


「殿下っ!!」


 この時、黎基はすでに気を失っていた。苦しさから掻き毟ったのか、項鏈こうれんが千切れて珠があずまやの床に散らばっている。


 黎基に駆け寄った祥華を、宦官が突き飛ばした。子供相手だが力加減もされず、祥華はあずまやの段を転がり落ちた。体をぶつけた痛みと、この恐ろしい状況とに、祥華は息もできずに涙を零した。


「祥華!」


 兄が駆けつけ、祥華を抱き起す。祥華は地面の草と土とを握り締めて体の震えを止めようとした。

 しかし、現実は何ひとつ変わらない。


さい桂成けいせい! 貴様、殿下に毒を盛るとは……」


 キンキンと耳障りな宦官の声が、おぞましいことを口にする。


「わ、私は――」

「連れていけ!」


 父には弁明の機会も与えられず、まるで罪人のようにして取り押さえられた。父が最後に見せた顔は、子供たちのことを案じる親の顔でしかなかった。


「父さん!!」


 祥華が泣き叫んでも、宦官たちは父の無実を信じてはくれなかった。

 

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