3◇皇太子
それから、祥華は兄と共に毎日のようにして天河離宮へついていった。黎基が来てもいいと言ってくれていたのだ。
黎基が嫁にもらってくれると言ったから、祥華はあの日、家に帰り次第、両親に嬉々としてそのことを告げた。二人とも、口をあんぐりと開けていた。
「しょ、祥華、それは……」
「だって、今までそんなことを言ってくれる方はいなかったから嬉しくって」
この時、祥華はすでに恋する乙女だった。うっとりと黎基の微笑みを思い出しながらつぶやく。
母は黎基と会ったことがない分、どう答えていいのかわからないようだった。父は、深々と嘆息すると祥華に言った。
「祥華、よく聞きなさい。あの御子様は皇太子殿下であらせられる。つまり、将来の皇帝陛下というわけだ。嫁ぐとは、後宮に入ることなんだよ」
「へ? 皇太子殿下?」
黎基がゆくゆくは皇帝になる人物だという。
それを聞き、祥華は怯むどころか浮足立った。こういうところがまだ物を知らない子供であったと後になって思うが、この時はそれがどうしたという気分であったのだ。
親王でさえ両手の数ほどの妃や妾を持つところが、皇帝ともなれば桁が違ってくる。そこには気づかなかった。
「うわぁ、素敵! 黎基様なら、とってもお美しくて神々しい天子様におなりになるでしょうね」
大人になった黎基が
父と母は顔を見合わせる。
「まあ、子供の口約束だ。あまり気にすることもないか」
父がこっそりとそんなことを言った。聞こえている。
「貴妃様と殿下のご逗留はいつまでかしら?」
「半月からひと月とのことだが、貴妃様のお体の具合にもよる」
「貴妃様は大層お美しくて、陛下の寵愛を一身に受けておいでだとお聞きしていたのに。そんなに長く陛下のおそばを離れるお許しがよく出たわね」
「もともとお体がご丈夫とは言い難い。ご無理が祟ってはいけないと、陛下が貴妃様のお体を
大人たちの話は、祥華にはよくわからない。兄はきっと意味をわかっていただろうけれど、祥華に噛み砕いて話してくれる気はなさそうだった。
ただ、就寝前に廊下ですれ違った兄は、心配そうに祥華の頭を撫でた。
「もちろん殿下は素晴らしい御方だと思うよ。その殿下
「どうせ誰かのお嫁さんにならなくちゃいけないのなら、黎基様がいい。苦労するのなら、困らないように今からたくさん勉強するね」
祥華の意気込みを聞くと、兄は安心するどころかかえって不安げな目をした。
「お前は頑固だもんな。これと決めたら絶対に曲げない」
「そう?」
「――あれはお前が五歳の頃だ、子犬を拾ってきて、もとの場所に戻すまで家に入れないって叱られたら、一日中庭にいたな。五歳の子が一日立ちっぱなしで、それでも折れないんだから、お前は相当な頑固者だ。一度決めてしまったらもう駄目だな」
ずいぶん昔のことを覚えている。あの子犬は結局、たまたま来ていた患者の家族が家畜の番犬にするからと言って引き取ってくれたのだった。
うちは薬も扱うから、誤って舐めてしまったら死んでしまうので飼えないという理屈はわかった。わかっていても折れなかったのは、その後、子犬をどうしたらいいのかということを提示してもらえなかったからだ。
薬を舐めて死んだら可哀想だ。けれど、親とはぐれた子犬一匹を放り出して、それで生きていけるとは思えなかった。だから、手を放せなかった。
これと決めたら曲げない。突き進む。
祥華は確かにそういう子供だったかもしれない。しかし、強く願うからこそ突き通せる願いがあるのだと思っている。
「兄さん、わたし、自分が決めたことなら頑張れる」
「うん……」
苦笑する兄は、いや、父も母も、まだ幼い祥華だから、あと十年もする頃にはすっかり考えが変わっていることを願っているのではないかという気になった。いずれはごく平凡な相手と結婚し、穏やかな家庭を築いてほしいと。
しかし、残念ながら、先に黎基と出会ってしまった。
今さら他の相手など選べるはずがない。
◆
「殿下!」
礼儀作法も大事だとわかってはいるけれど、祥華は黎基の顔を見るとどうしてもはしゃいでしまうのだった。まだ子供だから、その辺りは大目に見てもらえた。
なんとなく、祥華が畏まっていない時の方が黎基が嬉しそうに見えたと言ったら、自惚れが過ぎると叱られそうだけれど。
「やあ。晟伯、祥華、よく来たね」
父は、宦官たちに囲まれつつ、貴妃の診察をしている。祥華たちは庭で遊んでいても咎められなかった。
ただ、兄はずっと気がかりだったことを黎基に訊ねたかったようだ。
「あの、うちの父は田舎の医者で……腕がいいと言ってもらえていますけど、それでも貴妃様のお体を診るような地位にはございません。何故、うちの父をお召しになったのでしょう?」
祥華は、黎基に会えるのが嬉しくて、あまり細かいことは気にしなかった。しかし、兄は祥華よりもずっと大人で、そんなわけには行かないらしい。
黎基は、うん、とうなずいた。
「典医は連れてきていた。けれど、途中で『よくない』繋がりが発覚して、母上を診てもらうには不安を覚えたんだ。そこから取って返す前に母上の具合が悪くなって、それならいっそ、
その、よくないというのが何を意味するのか、祥華にはわからない。兄はもしかすると気づいたかもしれないが、口に出すことを憚ったように見えた。
黎基は、兄妹を信じてくれたのか、そっとつけ足す。
「つまり、よくないというのは、母上の親族が権威を持つことが面白くない連中の、そういう繋がりだ。宮中には色々な思惑が渦巻いているから、用心に越したことはない」
この時の黎基の話は、祥華には難しかった。黎基は頭がいいなと惚れ惚れしただけで、祥華は話の内容をちっとも気にしなかった。
兄は神妙な顔つきで言葉を選んでいるふうだった。気が重いから、祥華は話題を変えたくなったほどだ。
「夏が終わっても、殿下はまた来年の夏には汎群のこの離宮に来てくださいますか?」
皇太子である黎基が、ずっとこの僻地に留まれるはずがないのはわかっている。それでも、せめて年に一度くらいは顔が見たい。会って話がしたいと思うのだ。
この時、祥華はすがるような目をしていたのだろう。黎基は何度か目を瞬かせると、フッと力を抜いて微笑んだ。
「そうだね、そうしようかな。年に一度は二人に会いにここへ来よう」
「うわぁ、嬉しいです!」
「こ、こら、殿下の御前だぞ」
無邪気に諸手を上げて喜んだ祥華を、兄は恥ずかしそうに窘める。それでも、黎基が気分を害していないことくらいはわかる。
サッと吹いた風が黎基の髪をなびかせた。
「この汎群はとても美しいから、私も気が休まる。
黎基はこんな子供のうちから重圧を背負って生きているのだと思うと、やはり祥華はどうあっても黎基の助けになりたいと固く決意するのだった。
「わたしたちはいつでも殿下をお待ち申し上げます」
気持ちが言葉から伝わったのか、黎基は大人びたいつもの様子よりもほんの少し子供らしい笑みを浮かべて祥華の手を握った。
「うん、ありがとう」
あたたかい手だった。
いつまでも、いつまでも繋いでいたいと思った。
けれど、そんな願いは叶うはずがなかったのだ。
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