2◇出会い
翌日、
兄は十五にもなるので、一人で馬に乗れる。ただ、本当は祥華の方が上手く馬を操れる。ただし、馬が二頭しかいないので、仕方なくこの組み合わせになるのだ。
じりじりと照りつける太陽の下、涼やかな風が吹く。それが息を吹き返すほどに心地よかった。
本来ならば馬を走らせれば涼しいのだが、官人たちを追い抜くわけにもいかないのだ。のんびりと、田舎の風景を流しながらの道行である。
向かった先は、
夜空に浮かぶ星の群れが形作る河。その星々を象る宝珠がふんだんに散りばめられた、趣向を凝らした離宮は、あまり子供が近づくこともない場所であった。祥華がここへ来たのは生まれて初めてのことである。多分、兄ですら初めてではないだろうか。
兄はここへ来たことですでに何かを察していた。父の顔を窺い、父がうなずくと気を引き締めていた。
一方祥華は、これから会う貴人の親子のことは頭から抜け落ち、ただ離宮の美しさにため息を漏らしている。
ここに生える木々は今に宝玉の実をつけるのではないか。小川を泳ぐ魚の鱗も
目を輝かせ、馬上からうっとりと艶やかな瑠璃瓦の離宮を見上げていた。
それから馬を馬丁に預け、父と兄と共に中庭に通される。
この時になってようやく、祥華は今から貴人たちに会うのだということを思い出した。
今日は、母が着つけてくれた一張羅の
しかし、髪のことばかり気にしているわけにもいかなかった。父に、くれぐれも失礼がないようにと釘を刺されている。兄の面持ちからも緊張が伝わる。
美しい庭にいて、こんなふうに硬くなってしまうのは勿体ない。自由に駆け回りたい。そんなことを思いながら歩いていると、庭先の
陽が当たらぬ中に床几を置き、そこにゆったりと腰を下ろしているのは女人だ。幾重にも重ねた帛の衣から、艶やかな白い肌が磨き抜いた真珠のように見える。
祥華の母は美人ではあるが、それは人としての美しさであり、この麗人は人を越えた天仙の美しさであるようにすら思われた。神々しいとはこのことかと、祥華は幼いながらに打ち震えた。
父は
「
宝貴妃。
貴妃というのが名ではなく、この麗人を表す位であることを祥華はすでに知っていた。この麗人は今上帝の妃である。それも極めて位の高い――。
本来であれば、そのような身分の女人に地方の医者風情が会えるはずもないのだが。
「ええ、
美しい人は、声も美しかった。ほぅっと聞き惚れてしまう。
その時、貴妃の陰から出てきた子が、祥華たち兄妹を連れてきてほしいと言い出した子なのだと気づいた。
「連れてきてくれて嬉しいな。ここには子供がいなくて、私だけが子供でつまらないから」
この麗しい貴妃の子が母親によく似ていたとしても不思議ではない。
肩に下したまっすぐな髪、淡い色合いの澄んだ瞳、九歳だと聞いたが、この先にこの子がどう成長するのか、そこには期待しかない。自分たちと同じ人間だとは思えないと祥華は思った。
その子は祥華を見て、ふわりと微笑んだ。それをされてこの子供の虜にならない人がどれくらいいるだろうか。祥華の小さな胸も張り裂けそうなほど高鳴った。
しかし、その美しい子供を前にして、己のみすぼらしさに絶望しそうになる。相手は男児だ。それでも、祥華よりもずっと綺麗なのだから。
「母上が診てもらっている間に私は二人と遊んできます」
「
「ええ、もちろんです」
素直に答えると、貴妃の子、黎基は
「私は
「はっ。私は兄の蔡
祥華はひたすら頭を下げているしかなかった。胸が苦しくて、頭がぐらぐらとして、とても直視できない。
「晟伯と祥華だね。晟伯は十五だと聞いたけれど、もっと大人に見えるよ」
返す黎基の声は穏やかだった。
「背ばかりが伸びまして……」
照れ臭そうに答える兄の横で、祥華はおずおずと顔を上げる。すると、やはり黎基はにこりと微笑んだ。この微笑を見ると頭がぼうっとしてしまう。
「庭を散歩しよう。いろんな話を聞かせてほしいんだ」
黎基に聞かせられるような話が祥華にあるわけがない。兄頼みだが、兄の話の大半は医術か薬学だろう。黎基が面白いと感じるはずもない。
それでも兄は必死の形相で、口早に薬草採取のコツを話した。きっと、明日からは呼ばれないなと祥華は思った。
その場合、父に迷惑がかかるのだろうか。
しかし、黎基は非常に聞き上手であった。
兄が話す、なんでもないことを、絶妙な相槌を交えて聞いていた。時折挟む質問も的確で、兄も子供の相手をしているという気にはならなかったようだ。
「祥華は? 君も医術を学んでいるのかい?」
にこやかに黎基が訊ねてくる。祥華はへっ、と顔を引きつらせてしまった。
「い、いえいえ、いえ、わたしはこれでも女ですから」
「女だと医術を学べないというわけではないと思うが、その辺り融通の利かない者もいる。勿体ないことだ」
黎基は随分と柔軟な考え方をするらしかった。
貴妃の子であるのなら、父は皇帝に間違いない。それならば、黎基はこの国の中で上から指折りで数えられるほど高い身分であるはずなのに。
「では、得意なことは何かな?」
黎基の問いかけに、木登り、と答えてはいけないことくらい、祥華も弁えている。
「び、琵琶でしょうか」
この国の娘なら、琵琶くらい誰でも弾ける。これを口にするには相当な腕前がいるのだが、祥華が天才的な才能を持つということもない。並だ。
わかってはいるが、他に答えようがなかった。
しかし、黎基は優しく目を三日月のように細めて笑う。
「それはいい。祥華はきっとよい花嫁になるだろうから、今のうちから欠かさず練習をしておくといい」
気を遣ってくれたのか、黎基はそんなことを言うけれど、通りかかった池に映っていた祥華の癖毛はすでに産毛までうねっていた。念入りに梳かしたのに、すぐにこれだ。
悲しくなって、祥華はぼやいた。
「こんな癖毛でなければよかったのですが。これでは貰い手がないとよく言われます」
すると、黎基はきょとんとした。晟伯は困惑している。
まずいことを言っただろうかと祥華が焦っていると、黎基は軽く首を傾げた。
「癖毛だからなんだと言うんだ? 少し接しただけでも祥華が蔡先生譲りの優しい女の子だということくらいわかる。それくらいで貰い手がないと言うのなら、周りが価値のわからない男ばかりだというだけだ。それなら、私のところへ来たらいい」
微笑む、澄んだ瞳に嘘は見えない。
家族以外の、それも男の子がこの髪をからかいもせずに祥華を認めてくれたことが、涙が出るくらい嬉しかった。こんなことは初めてだ。
兄はさらに慌てふためいていた。子供の言うことだからと笑い飛ばせないのは、やはり黎基が親王であるからなのだろう。
その妻になるなら、何番目かという話だ。他にもたくさんの妻を抱えるようになるのはわかりきったことである。
けれど、それでも祥華は嬉しかった。
黎基のところに嫁ぎたいと、この時、七歳にして思った。美しい親王だ。身分違いで、不相応だとしても、祥華はこの少年にすっかり心酔してしまった。
これが初恋というものだと、後になって知った。
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