1◇祥華の悩み

 誰しも、すべてに恵まれて生まれてくるわけではない。


 七歳になるさい祥華しょうかは、池に映る自分のうねった髪を見ては溜息をついていた。家族の中で祥華だけが癖毛であった。


 女人の値打ちがほぼ髪によって決まるとまでは言わぬものの、やはり美しい黒髪には憧れる。磨き抜いた漆器のごとく艶光る黒髪を持つ八歳差の兄は、そんな祥華の悩みを笑い飛ばすのだった。


「そんなことで悩むよりも琵琶の稽古に力を入れて、からかってくるやつらを見返してやればいいんだよ。祥華は筋がいいと先生も褒めていたじゃないか」


 男の兄にこの劣等感はわからぬと見える。

 そんなにみっともない髪じゃ、嫁の貰い手もない。だからといって後宮で女官として働いても、天子様のお目に適うことはないとか、苛められに行くようなものだとか、同じ年頃の子供たちは心ない言葉を浴びせかけてくる。

 子供心はずたずたであった。そんなにも自分は醜いのかと。


 それに加え、父は医者であった。穢れにも触れる医者を、人々は敬いつつも恐れる。生まれた時から穢れのそばにいる娘を嫁にと望む家も少なかった。

 兄はそれでも志高く、人々を救うべく努める父を尊敬してやまず、跡を継ぐのだと日々学びの中にある。それならば、祥華もまた男児であれば父や兄の手助けができたものを。


「母さん、わたしも男に生まれたらよかったのに」


 思わず母に言うと、祥華の母親とは思えないほど美人の母は苦笑した。


「どうして? 祥華はこんなにも可愛いのに。男の子になんて勿体ないわ」


 そんなことを言って、祥華の癖毛を撫でる。しかし、そんな優しいことを言ってくれるのは家族だけであった。


 祥華は、同じ年頃の子供たちから癖毛をからかわれるたびに心では泣いていたけれど、表向きだけは男の子に負けないほど勝気に見せていた。弱みを見せられるのは家族にだけだ。いつもはどれだけからかわれても、なんでもないというふうに撥ね除けてみせた。


 その気の強さが余計に、嫁の貰い手がないと言われるところに拍車をかけていたかもしれないが。



 そうして、祥華の癖毛は直らないまま平凡な毎日が過ぎていく中、ある日、祥華の耳に邑人むらびとたちの噂話が飛び込んできた。


「――の家の爺さんが見たんだってよ。ありゃあかなり高貴な御方の一行だって」

「まあ、この汎群はんぐんにある離宮には皇帝陛下だって避暑においでなさるからな。どんな御方が来たって不思議じゃないさ」

「ああ、俺も昔、見たことがあるぜ。あの時、遠くから眺めた竜船の見事なことといったらなかったなぁ」


 どうやら、身分の高い人々がこの地に赴いているらしかった。しかし、表向き、そうしたしらせはなかった。短期の滞在なのか、極秘裏にだからなのか、そのところは知らない。子供の祥華にしてみれば、癖毛の跳ねっぷりよりもどうでもよかった。


 とにかく、来たのは祥華たちには関わりのない、雲の上の人であるはずだった。その貴人が同じ土地にいたからといって、祥華たちの日常が変わるとは思ってもみなかった。



 しかし、祥華がそんなことを考えてすぐ、その翌日には運命が否応なしに交わる。

 きっかけは、祥華の家に偉ぶった官人がやってきたことであった。


 役職までは知らないが、その見慣れぬ官人は薬臭い家に顔をしかめつつ、家の奥へ入った。子供たちは出てこないようにと釘を刺されたが、滅多にないことだけに気が気ではなく、兄の晟伯せいはくと庭で話し込んだ。


「兄さん。あの人、顔がきらい」


 率直すぎる妹の意見に、晟伯は苦笑した。


「顔は関係ない。問題は、何をしにうちへ来たのかだ」

「何って、父さんはお医者さんだから、診てほしい人がいるんでしょ?」

「そうだ。それが誰なのかってこと。あの様子だと邑人むらびととか商人とか、そんなのじゃない」


 兄はすでに十五だ。母譲りの美しい黒髪に、父譲りの痩躯。背は伸びたのに、細い。祥華が力いっぱい飛びつくと、大体が一緒になって倒れてしまう。武具も振り回せるような才覚はなく、本の虫というやつだ。その代わり、老成しているのか思慮深さがあった。

 なんにせよ、祥華にとっては頼れる兄であることに間違いはない。


「誰だって一緒よ。父さんは貧乏でもお金持ちでも、人は人だって言ってるんだから」


 診察料を払えない貧しい人が、なんの木の根だろうかと思うような野菜を銀子おかねの代わりに差し出したとしても、父は笑ってそれを受け取る。仁人というのは父のような人を言うのだと母が教えてくれた。


「そうだなぁ。だからこそ心配なんだけど――」


 兄が空を仰ぎながらつぶやいた。その声に不穏な響きがあるように思えたのは、祥華の思い過ごしであってほしかった。



 父はそれから毎日出かけていった。官人が迎えに来るのだ。にこやかに出かけていく父は、いつもとなんら変わりなかった。

 帰ってきてからもおかしなところは別にない。いつもの優しい父だった。


 ただ、父が留守にしがちであることが、むらの患者たちにしてみると面白くなかったようだ。この時重篤な患者はいなかったはずだが、穏やかな父に話を聞いてほしいだけの老人たちもいる。


 さい先生は報酬に目が眩んで貴人を優先するようになったと陰口を叩かれた。それをむらの子供を通して聞いた祥華は腹立たしくて仕方がなかった。


「父さんはそんな人じゃない!」


 祥華は家の庭で兄に向かって喚きながら泣くだけだった。兄は落ち着いて祥華の背を撫でた。


「うん、父さんが優先するのなら、その貴人の状態が思わしくないんだろう。もしくは、とても断れないほどの身分なのか――。それは金銭に関わりのないことだ」


 あの官人が毎日迎えに来るのだ。父も、行かないと言えたものではないだろう。断ればむらにも迷惑がかかるはずだ。

 それにしても、何故わざわざ父を迎えにくるのだろう。医者なら他にもいるはずなのに。腕がいいと評判だから、父を選んだのかもしれないけれど。


 こんな陰口は、気苦労の多い父にはとても聞かせられない。祥華はいつも通り振る舞おうと決めたのだった。



 その日の晩、皆で食事をしていると、父は笑顔で切り出した。


「晟伯、祥華。明日は私と一緒についてきなさい」

「え?」


 祥華も兄もあんぐりと口を開けてしまった。母は困惑して見えた。


「あなた、どういうことですの?」


 母の問いかけに父は苦笑する。どこか照れ臭そうだ。


「いや、昨日、うちの子たちの話になったんだ。そうしたら、是非連れてきてほしいと仰られて――」


 兄は粥をすくっていた匙を置き、姿勢を正して父に向き直る。


「父さんが診ている貴人はどなたなのですか? その方が僕たちに会いたいと仰るのですか?」


 すると、父は言いにくそうに首を斜めに傾けた。それはうなずいたような、首をかしげたような、どちらとも見える仕草だった。


「そうだ。それと、その方にも御子がおられて、その御子がお前たちに会いたいと仰られている」


 貴人の子とはどんな子供なのだろう。嫌だな、と祥華は思った。

 むらの子供たちでさえ、祥華の癖毛を馬鹿にするのだ。貴人の子はなんと言ってわらうのだろう。


「どんな御子なのでしょう? 年の頃は……」


 兄が訊ねる。


「御年九歳。祥華のふたつ上であらせられる。聡明な御子だ。お会いできる好機は二度とないかもしれないからな」


 はぁ、と兄もあまり気乗りしないふうに答えた。この段階で父はあまり多くを語らなかった。だから、兄も祥華もどう答えていいのかわからない。

 それでも、嫌だとは言えないのだ。


 結局、祥華はその晩、ひたすらに髪をくしけずり、少しでも癖毛がましに見えるようにと涙ぐましい努力をしたのだった。

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