5◇追放

「父さんっ!!」


 祥華の声は荒々しい大人たちの足音に掻き消される。そして、そんな祥華たちのことも、次から次へと押し寄せる宦官兵たちが取り囲んだ。

 冷たい目に見下ろされ、兄妹は震えるばかりだった。


「蔡桂成の子らだ。閉じ込めておけ」

「はっ」


 宦官たちの手には少しのあたたかみもない。祥華と兄を押さえつけ、家畜のように力づくで連行する。

 その時、倒れていた黎基が動いたのが見えた。


「殿下! 殿下! ご無事ですか!!」


 祥華は声の限り叫んだ。

 生きている。黎基はきっと助かる。

 父が飲ませた薬湯は毒などではないはずだ。


 しかし、それ以上踏ん張ることもできずに祥華は連れていかれた。不幸中の幸いというのか、兄と引き離されなくて済んだから、頭の中にはまだ僅かに冷静な部分を残しておくことができた。


 兄妹が入れられたのは牢ではなく、部屋であった。使用人たちが使う部屋だろう。調度品の類はなかった。ひんやりとした石床の上、兄は祥華を抱き締めた。

 けれど、兄の方がよほど震えている。


「殿下が飲まれた薬はなんだったの? 父さんはどうなるの?」


 そんなことに兄が答えられるはずがない。それでも口を開かないと不安で仕方なかった。


「わからない」


 やはり、兄もそんなことしか言えないようだった。

 祥華は強く握りしめていた手をやっと開いた。土が爪の中に入り込んで汚らしい。そんな祥華の小さな手の中にあったのは、とっさにちぎった草と、一粒の珠だった。黎基の項鏈こうれんの一部だ。

 後で渡そう。一粒でも高価なものだろうから。


 しかし、祥華は黎基に会う機会を与えられなかった。

 日が暮れて、日が昇って、それからようやく、二人を閉じ込めてあった部屋の戸が開いたのだ。


 ハッとしてそちらを向くと、そこにいたのは、いつも家まで父を迎えに来ていた官人であった。

 今までのどんな時よりもずっと、残虐な目つきで床に座り込んでいる兄妹を見下ろす。兄妹は震えながら抱き合った。

 すると、その官人は唾棄する勢いで言った。


「お前たちの父親が殿下に飲ませた薬湯に毒物が含まれていた。蔡桂成は、悪意はなく誤って混入したのだと主張している。田舎のむら医者が殿下に毒を盛ったところでなんの得もない。誤って調薬したというのも嘘ではないのだろう。殿下のお命に別状はない。しかし――」


 黎基は生きている。それを聞いてやっと息がつけた。

 けれど、父が薬を間違えて作ったのだと、この官人は言う。

 父は人一倍慎重で、今まで薬を誤って患者に与えたことなどない。祥華は、それを素直に受け入れられなかった。

 ただ、それでも官人は無情に言う。


「お目覚めになられた殿下は、何も見えぬのだと申されている」


 祥華は、ひたすら瞬きを繰り返した。それが意味することがすぐに呑み込めなかったのだ。

 兄は、祥華を抱き締める腕に力を込める。官人は憐れな兄妹にも冷ややかだ。


「御目を患われたのだ。もはや、光をお感じになられることもない。いかに悪意のない過失とはいえ、この罪は万死に値す。三族さんぞくもろとも誅殺せねばならぬところだ」


 わざとでなかろうと、皇太子を失明させてしまったのだ。なんの処罰もせずに済ませられることではない。


 祥華の父が、黎基の目から光を奪った。

 大好きな父が、大好きな黎基を害した。

 その現実が、幼い祥華に圧しかかる。


 もはや泣き叫ぶ気力もなく、ハラハラと涙を零した。

 祥華はただの子供だ。この命にそれほどの価値があるとは思わない。それでも、この命でもって黎基の償いになるのなら差し出しても構わないとさえ思った。


 一家皆が死を賜るのなら、兄と一緒に逝ける祥華はまだましだ。父と母は孤独に逝く。黄泉こうせんで家族がまた会えると信じたい。

 ギュッと目を強く瞑るが、官人たちの手が兄妹に伸びてくることはなかった。


「――本来であれば、そうなるはずであった。それが、お目覚めにならた殿下は開口一番にお前たち子供の助命を願われたのだ。当事者である蔡桂成は罪を免れぬが、子と妻はゆるせと。決して命を奪うなと仰せだ。国外追放というところか」


 国外追放。

 この国に再び戻ることはまかりならないという。


 それでも、命があるだけいいのだろうか。母と兄と三人、身を寄せ合えば生きていけるだろうか。

 しかし、そこに父はいない。生きながらえても苦しむだけかもしれない。


 父のことも救ってほしかった。それを口にするのがどれほど厚かましいことか、子供にもわかる。

 目の光を失い、それでも祥華たちの命を救ってくれた黎基に、とてもそんなことは願い出られない。


 悲しくて、胸が張り裂けそうで、祥華は抜け殻になって、無気力のまま宦官たちに離宮の外へ出された。

 このまま放逐されるのではない。連行されるのだ。


 家まで見張りつきで戻され、官人が母に事情を告げる。


「そんな――っ!」


 母は顔色を失って泣き崩れたが、家族が逃げ出さぬようにと家を囲まれた。むらの人々のざわつきが聞こえるが、誰も近づかない。

 官人たちが父の罪を高らかに読み上げている声が家の中まで聞こえて、祥華は歯を食いしばって耐えた。


 兄は父がいない以上はこの家でただ一人の男だからか、涙は見せずにいた。何も喋らないけれど、祥華と母とを気遣って立派に立っている。



 家から家財は何も持ち出せなかった。母子、身ひとつで見知らぬ土地へ送られてゆく。死を賜る父の遺品も何も持たせてはもらえなかった。

 涙にくれる母を祥華は精一杯慰めようと寄り添っていた。母が泣くから、祥華は泣けなくなってしまった。誰もが羨むほど、仲睦まじい夫婦だったのだ。


 一人ずつを官人が馬に乗せたのだが、兄だけは男児だからか手をいましめられた。

 こうして祥華は生まれて初めて汎群を出ることになったのだが、こんな形とは皮肉なものだ。


 官人たちは離宮から離れるわけにいかないのか、汎群を出る時につき添ってきたのは兵士の他にはただ一人で、その後、祥華たちを搬送したのは、隣のぼく群の役人たちだった。


 ついてきた一人の官人は、いつもの男よりも年若く、目が優しかった。不遇な母子に同情しているのだと思えた。



 そこから数日、さらに穆群を抜け、最西のゆう群へ踏み入る。西の方から国外に出されるのかと母子は察した。途中、游群のきょうという鄙びた里に着いた時、年若い官人は馬から降りて初めて口を利いた。


「ここは游群の姜という里で、私の故郷です。田舎の貧しい土地ですが、奏琶国の領土には違いございません。あなた方にはこれからここで暮らして頂くことになります」


 国外追放ではなかったのか。皆が呆けている中、兄が口を開いた。


「国外追放だと伺いました。……よろしいのですか?」


 その官人は苦笑する。どこか泣き出しそうにも見える表情だった。


「殿下が、あなた方がこの国の片隅で暮らすことをおゆるしくださったのです。国外に出たのでは、母子だけで生き延びられるとは思えないからと。里でひっそりと穏やかに暮らしていければいいと仰ってくださいました」


 黎基は、誰のことも恨んでいないのか。

 失明のきっかけになってしまった医者の家族を気遣う、そんな黎基の優しさに、祥華はただ涙が滲んだ。


 それでも今後、度重なる不自由があり、それを重ねるごとに恨みは募るかもしれない。

 もしそうなったとしても、黎基の怒りを受け止められるように生きていよう。祥華はそう決意した。


 若い官人は、兄に向けて少し言いにくそうに目を細める。


「こうして生きてこの地にいられるのは殿下の温情あってのこと。しかし、これをおおやけにしたのでは殿下のお立場に差し障る。年若い君には酷なことだが、この里より出ることはまかりならん。名を上げたいと出仕することもできない。君たち親子の籍は、あってないようなものなのだ」


 兄はどんな気持ちでその言葉を受け止めただろうか。

 きっと、これを告げられるもっとずっと先に諦めていたのではないだろうか。

 兄は穏やかに、落ち着いて答えた。


「こうして私共を救ってくださったことに感謝こそすれ、不満などございません。私はこの生が尽きるまでこの里で過ごし、殿下の大恩に報いるためにこの地に貢献して参りたく思います」


 まだ少年の口から発せられた言葉に、官人も憐憫を覚えたのか、苦しげにうなずいた。

 ありがとう、とつぶやいたのは、ここが彼の故郷だったからだろうか。

 

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