黒い白衣
大学生の頃、私には夢があった。
それは、白衣を着ること。
医者や化学者が白衣を着るのは、それが作業着だからである。汚れてもいい服、ということ。
数学者が白衣を着るのはよくわからない。別に化学実験とかするわけでもなし。必然性はないから、たぶん格好付けで着ているのだろう。
で、数学者が着るなら、文学者だって着たっていいだろう、と、私は思った。
しかし、残念なことに、当時の私は白衣の入手方法がわからなかった。
今ならネット検索で調べ、ネットショップで注文すれば、たいがいのものが買えるが、当時はインターネット黎明期で、私の家にはネット環境がなく、あったとしても、ネットショッピングに信頼性がなく、恐ろしくて利用できなかった。
私は無い知恵を絞り、作業着専門店に行って白衣を探した。
果たして、白衣を見つけて購入し、意気揚々と家に帰って買ったものをよく見てみたら、それは調理用白衣で、思っていたのとちょっと違った。なんかやたらと厚手で丈夫だし、丈が短くてヒラヒラしてない。
あと、当時、私が在籍していた大学内では、学生が白衣を着て構内を歩くことが問題視されていた。
得体の知れない薬品の付いた白衣を着て学内をうろうろするのは衛生上問題だし、白衣が他の学部の学生に威圧感を与えて良くない、ということだった。
そんな中、文学部の学生が白衣を着てうろうろするのは、余計な問題を増やしそうだったので自粛せざるを得なかった。
こうして私の夢は、家で料理をする際に調理用白衣をたまに着るだけという現実に終わったのであった。
あれからどれだけの月日が流れただろう。
もうすっかり、そんなことは忘れていたのだが、最近、ネットで調べ物をしていると、「黒い白衣」なるものが存在することを知った。
もともとはコスプレ衣装的なものとして発生したものらしく、めちゃくちゃカッコイイが高価で、点数も少なく、そう簡単に買えるものではなかったようである。
しかし、現在ではなぜか「黒い白衣」は市民権を得ており、ちゃんとした作業着メーカー数社が、カラーバリエーションとして黒いドクターコートを作って売っている。値段も普通。
黒い白衣の利点は、まず、カッコイイということが挙げられる。いかにも悪の科学者が着ていそうである。もしくは凄腕のヤブ医者か。
もうひとつは、黒い白衣を着て外を出歩いても、白衣ほど変に見えないこと。
黒い白衣は一見すると普通の上着に見え、白衣っぽくない。なので、「なにあの人、白衣着てる」とか不審に思われにくい。
さらに、一般的な上着よりも薄手で軽量で、汚れても洗濯しやすい、という利点もある。
私は気持ちとしては上着をガッツリ着て出歩きたいのだが、暑がりなため、実際には冬でもシャツ2枚重ね程度の薄着で出歩くことが多い。
コートを着ると、最初は暖かくていいのだが、いくらか歩いたりしていると、そのうち暑くなって脱ぎたくなるのである。そうすると、コートを手に持つ必要が生じ、非常に邪魔になる。だったら最初から着ないほうがいいや、と、だんだんなっていた。
その点、白衣は薄いので、コートほどの保温性はない。
また、もともと白衣は作業着なので、汚しても簡単に洗える。汗をかいたりしても、普通に洗濯すればいい。水洗い不可とか、手洗いじゃなきゃダメとか、そういう面倒くさいことがない。実用面でもメリットがある。
というわけで、私は買った。一応探したものの、さすがに周辺の店にはなかったのでネットで買ったが、ともかく普通に買えた。
で、着てみた。ちょうどなんか朝だけやたら寒い日が何日かあったので、いそいそと買ったばかりの黒い白衣を着て、何気にスーパーとかショッピングモールをぶらつき、買い物したり喫茶店でコーヒーしばいたり(なぜか関西では喫茶店に行くことを「茶をしばく」という。「しばく」は「ひっぱたく」みたいな意味。茶をひっぱたくとは謎の言葉だが、なんでもしばきたがるのは関西らしい気もする)してみたが、変な目で見られることはなかった。
実際、あれが白衣だと思う人はそういないと思う。もともと白衣は見た目がジャケットとほとんど差がないし、その上白くないわけで。
こうして、思いがけず「白衣を着る」という、かつての夢を叶える日が来てしまった。
ついでなので、黒い白衣に合わせて、黒いズボンと黒いYシャツ、黒い中折れ帽も買った。全身黒ずくめ。黒い中折れ帽をかぶるだけで、一気に60年代のマフィアのような印象になるが、着ているのはスーツじゃなく白衣という、どことなく変な感じの漂うコーディネイト。
黒ずくめはさすがに怪しすぎるかね、とも思ったが、街を出歩いて観察してみると、意外と黒ずくめの人は多く、かえって目立たないようである。黒い帽子までかぶっている人は珍しいが。
それはそれとして、そもそも黒い白衣は普通に医療現場や化学実験用の作業着としてニーズがあるのだろうか?
私のように謎の願望に駆られてオシャレ(?)として着る人はいてもおかしくないが、黒い白衣を着た医者とか、化学者とかはあんまり想像できない。あるいは今後、そういうのが流行ってくるのか。
それなりにニーズがあるから作られ、普通の値段で売られているはずなので、あれを買って、着ている人は結構いるはず。しかし、実際、どういう人が着ているのか、となると、よくわからない商品ではある。
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