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「障害」と「障碍」(と「大東亜戦争」)

 大学生の時、私は文芸サークルみたいなものに所属していた。

 これがまあ、やる気のないサークルで、文化祭とか合宿とか、お遊びにばかり力を入れていて、小説を積極的に書いて読み合おうとする人はほとんどいなかった。何がしたいんだか、さっぱりわからんサークルだった。


 やる気のないサークルなくせに権力闘争だけは激しくて、OBがいつまでも居座り、「このサークルは儂が育てた。だから好き勝手は許さん」と、いちいち現役メンバーのやることを邪魔し続けていた。

 見かねた下回生がクーデターを起こして潰れたが、良かったと思う。


 文学は基本的に無意味でしょうもないものだが、だからこそ、見栄と暴力で権威付けし、偉そうに見せかけようとする。無意味でしょうもない上に腐っている、というのが文学界の実情である。



 そのサークルでは、年1~2回ほどサークル誌を出していた。

 出したいから出していた、というよりは、サークルとして大学に認めてもらうための活動実績として、仕方なくやっているような有り様だったが。やる気がないならやめちまえよと思わんではない。


 そのサークル誌の記事のひとつに、学内の障害者問題について取り扱っているものがあった。

 内容は忘れたが、たぶん、学内の構造がどれだけ障害者に配慮していて、どこに問題があるかをレポートした感じのものだったのだろうと思う。

 確認を取ろうと思ったが、サークル誌が見つからなかった。


 やる気もなく、仕方なく作っているんだから、原稿さえ揃えばなんでもいいだろうと思うかもしれないが、そうはいかないのが文学くずれ。創作意欲のない人、実力のない人ほど、他者の作品にはめちゃくちゃ厳しいのであった。


 というわけで、その記事は編集長(後にOBのくせに居座って邪魔する人)にボロクソにダメ出しされていた。

 その中で、特に印象に残っている一節がある。正確にどう言ったかまではさすがに覚えていないが、意味としてはこんな感じ。



「そもそも『障害者』は、正しくは『障碍者』と書く。『障害者』と書くと、その人が障害、邪魔になっているという意味になるだろ? そんな基本的なこともわかっていないのに、障碍者について書こうとするから、こんなやる気のない記事になるんだ」



 批判の内容はどうかと思うが、ともかく、私はそのとき、「障害者」は「障碍者」と書くのが正しいということを知り、その後は「障碍者」と書くようにしていた。



 それから幾世紀後。私は久々に「障碍者」という表記を目にした。それも、カクヨムとXで立て続けに見ることになった。

 それがきっかけで、ふと、そもそも「障碍者」という表記は本当に正しいのだろうかと疑問に思った。


 実のところ、世間では「障害者」という表記のほうが一般的で、「障碍者」と書いていることなんかほとんどない。障害者自身も「障害者」と書いている。「障碍者」という表記は流通していない。

 なのに、「障碍者」が正しく「障害者」という表記は間違っている、なんてことが本当にありうるのだろうか? 世の中の人はほとんどみんな間違っているってこと? 


 当時はインターネットがそこまで発達していなかったし、私自身もパソコンを使いこなせていなかったが、今なら、疑問に思ったことはネットですぐに調べることができる。

 というわけで調べた。



「障碍」は、正式には「障礙」と表記し、「しょうげ」と読む。

 もともとは仏教用語で、悟りを開くのを邪魔する煩悩などのことをいう。

 そこから転じて、「妨害するもの」という意味でこの言葉が使われるようになり、明治時代頃には「しょうがい」と読まれるのが一般的になったのだとか。


「妨害するもの」という意味において、「障碍」と「障害」は、歴史的には特に区別して使われてはいなかったようである。どっちでもいいという感じ。



「障害者」については、以前は「不具癈疾者(ふぐはいしつしゃ)」と呼ばれていたが、1950年に施行された「身体障害者福祉法」の条文で「身体障害者」「障害者」という言葉が使われたことから、この表記が一般的になっていく。


 また、1982年には「障害に関する用語の整理に関する法律」が成立し、条文における「不具廃疾」や「傷病」といった表記を「障害」という表記に統一することになった。


 というわけで現状、法律的には「障害者」という表記が正しいことになる。



 しかし、日本にはありがちなことだが、「障害者」と書くと、その人自身が邪魔者みたいで印象が悪いんじゃないかと言い出す人達が出てきて、そういう人達が「障碍者」「障がい者」といった表記を提唱したようである。



 つまり、「障碍者」という表記が正しいという根拠はない。むしろ法的表記としては間違っているとすら言える。



 というわけで、あの時編集長が言っていたことは間違っていたわけである。

 人の言うことを鵜呑みにするもんじゃないなと、改めて思った。




 本文とは関係ない話だが、これを書いている時、陸上自衛隊の第1師団、第32普通科連隊の公式Xで「大東亜戦争」という表記をしたことが話題になっていた。


「大東亜戦争」というのは大日本帝国が閣議決定した名称だが、その名称の根底には「大東亜共栄圏」という大義名分がある。


 大東亜共栄圏とは、アジアを白人の植民地支配から解放し、日本を盟主とした新たな秩序を作ろうというもの。


 ただ、日本は本気で大東亜共栄圏を作ろうとしたわけではなく、単に米英から植民地を奪って、乗り替わっただけだった。東南アジアを占領して何をしていたかというと、歓楽街を作って遊んでいただけ。

 せめて現地の政府やゲリラと仲良くしていたら対米戦で有利に展開できただろうに、アメリカのほうが現地ゲリラと手を組んで日本軍と戦うことになる体たらく。



「大東亜戦争」という呼称が避けられるのは、「大東亜共栄圏」という大義名分を肯定しているように取られかねないから。日本は白人からアジアを解放するために戦ったのであり、悪いのは鬼畜米英で、日本は善である、という主張が滲んでいるように見えるから。

 実際、「大東亜戦争」という呼び名にこだわる人の多くは、この戦争を美化したがっている。


 なお、「大東亜戦争」という呼び名はGHQによって規制されたが、その規制はすでに失効しているから、いま「大東亜戦争」呼びしたからといって法的にしょっ引かれることはない。



 私個人としては、この戦争の呼び名なんてどうでもいい。私は通りがいいから「太平洋戦争」か、もう面倒くさいからいっそ「第二次世界大戦」に含めてしまうことも多いが、あえて「大東亜戦争」と呼ぶのは、歴史的な理由でその方が適切だと思われる場合や、皮肉を込めている場合。


「大東亜戦争」というのは、壮大な構想をブチ上げるだけブチ上げて、それで満足して実際には何もしないという、日本のダメなところが凝縮されている点で、ふさわしい呼び名だと思う。カッチョイイ名前を付けて、それだけで満足して終わる。字面だけで中身がない。

 そういう日本らしさを象徴する意図で、あえて使うことはある。



 個人があの戦争をどう呼ぶかは自由だし、それぞれに責任を取ればいいと思うが、陸上自衛隊の公式文章で「大東亜戦争」と表記すれば、当然それは問題にされる。


 重要なのは、問題にされることをわかった上で書いているのか、ということ。

 陸自が「大東亜戦争」なんて書いたら、絶対、「あの戦争を賛美する気なのか」といったツッコミが来るに決まっている。そういうツッコミへの対処を考えた上で、ちゃんと覚悟して書いているのか、ということが問題。


 たぶん、何も考えていないのだろう。連隊内では「大東亜戦争」と呼んでいるから、という身内の論理で書いているだけだと思われる。

 身内の論理は外では通用しないということをわかっていない奴が公的な文章を書くという、そのことに危機感のなさを感じる。国を守る自衛隊の広報がそれでいいのかと。こんなところで不要な問題を起こすべきではないだろう。



 ところでこの第32普通科連隊の公式X、プロフィールに「近衛兵の精神を受け継いだ部隊」というイカした一文がある。

 何を考えているんだこいつらと思って調べてみたら、第32普通科連隊は、1962年に創設された当初から近衛連隊を自称しているらしい。もともと大日本帝国色の強い連隊のようである。


 となると「大東亜戦争」呼びも当然なわけだが、たぶん陸自や第1師団は「身内で近衛兵を自称するのはいいけど、調子に乗って外で余計なことを書くなよ、余計な問題を増やすなよ」と思っていることだろう。


 実際、第1師団の公式ページを見ると、第32普通科連隊の公式Xへのリンクが外されていた。

 やはり陸自としては「大東亜戦争」呼びはアカンやろという認識のようである。そりゃそうである。

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