夏目漱石『三四郎』

 夏目漱石の『三四郎』は、たぶん日本人ならたいがいの人は知っていると思う。しかし、実際に読んだ人は少ないのではなかろうかと思う。


 国語で読むことを強要されるのは、たいがいは『坊っちゃん』と『こころ』だけ。

 そして、『こころ』でひどい目に遭った高校生諸君は無事、夏目漱石が大嫌いになり、他の作品を読もうとはしなくなるだろう。国語教育様々である。


 中には、有名な作品だし、とりあえず読んでみようかなと思って図書室の本棚から引っ張り出してみる熱心な生徒もいるかもしれない。しかし、その多くはすぐに挫折するか、読んでいる内にいつの間にか意識を失って、内容を全然覚えていないのではないかと思う。



 私と『三四郎』との思い出は、大学一回生のときのこと。

 大学で近現代日本文学を専攻することにしたぺーぺーの駆け出し学生の私は、とある講義で『三四郎』についての感想を聞かれた。


 私は何と答えていいか分からなかったので、「はあ、まあ、面白かったですけど」と答えた。

 すると教授は厭味ったらしい笑みを浮かべながら、「君はこれから文学の専門家になるんだから、そんな答え方をしちゃいけない。具体的に作品を分析して、どこが良くてどこが悪いかを述べられるようにならなければいけないよ」と言った。

 じゃあ最初からそう言えよと思った。



 余談だが、三回生の時に、同じ教授の講義を受講したのだが、その際、中上健次の「岬」についての感想を聞かれたから、「技術的に優れているのは認めるが、面白いとは思わない」という内容のことを言った。

 すると教授は「僕の前でそんなことを言うなんて、度胸があるねえ。まあ、(僕がその作家を専門にしていることを)知らないから言ったんだろうけど」とか、意味深な笑顔を取り巻きのゼミ生に向けた。


 中上健次は生前、柄谷行人と仲が良かった。柄谷行人というと、日本文学界では良くも悪くも影響力の強い批評家である。

 その柄谷行人が評価する中上健次を「面白くない」などと言うのは、文学界ではタブー視されているところがある。皇帝陛下に諫言を申し上げたようなもの。陛下の気分次第で死刑である。

 柄谷の腰巾着であるその教授は「(柄谷陛下の威を借る)この僕に楯突くなんて、度胸があるねえ。まあ、君は無知だったのだろうから今回だけは赦してやるよ」と言ったわけである。


 私は当然、そうした事情を全部わかった上で、あえて「面白くない」と言った。権力に屈して自分の考えを曲げるのは学者としての態度ではないからである。それに対して、つまらん脅しで返してきた教授にはずいぶん失望したものである。


 中上健次が技術的に優れていることは認めるが、性と暴力を泥臭く書く作風については賛同しない。そういう小説があってもいいとは思うが、私はそれを評価しない。同等の技術を持つ作家がいて、片方がエログロを露骨に描写し、片方が一切描写しない作風なら、私は後者を評価する。

 私が後藤明生や星新一を評価して、大江健三郎や三島由紀夫を好まない理由はこの辺にある。


 というわけで、私は日本文学の大半が嫌いだったりする。だいたい日本文学って、人間の汚い部分を露骨に描写するのが芸術だと思っているような連中ばかり。そして、特殊な性癖を持つ変態共がそれを小難しい言葉で持ち上げる。本当に日本文学は不潔でキモい連中のたまり場である。


 これは私の好みの問題だから、何と言われようと変えようがない。小汚い変態小説を評価する人はたくさんいるんだから、私がそれに追従しなければならない理由はないだろう。



『三四郎』の話に戻ろう。


 夏目漱石は、日本文学では神のように持ち上げられているが、実は夏目漱石のフォロワー自体は少ない。夏目漱石はエログロを露骨に描かないタイプの作家で、実は日本文学の本流ではない。なのに本流であるかのように言われている、変な作家だったりする。


 その理由は、だいたい江藤淳のせい。この話は前にも書いたか。江藤淳の論文の影響で、夏目漱石が日本文学の本流であるかのように錯覚した人が大勢現れたものの、実際の日本文学は田山花袋『蒲団』あたりから派生した、自然主義、私小説、純文学の系譜が主流。つまり、人間の汚い部分を露骨に書くのが芸術だとする、露出狂の変態ムーブメントなのである。


『三四郎』は一見、私小説風にも見えるが、実際は違う。登場人物たちの言動はだいぶ作られている。よく考えみればわかる。いくら当時の学生がインテリ集団だったとしても、日常的にあんなに気取った言い回しを連発するわけがないだろう。

 当時、『三四郎』を読んだ学生達は、登場人物の言い回しを面白がって真似したらしい。そうして大流行作家になった漱石に嫉妬した自然主義者たちは、漱石なんかただの流行作家で、あんなの文学じゃないとネガキャンを展開したそうである。



 世にある『三四郎』のあらすじを読むと、だいたい、三四郎の成長物語だとか、急いで西洋化しようとする日本への皮肉や警鐘、あるいは美禰子との恋愛について書かれた作品だと書かれている。


 しかし、実際に読んだことがある人ならわかるだろう。この作品の大半を占めるのは、熊本から東京にやってきた高等学校一年生のどうでもいい日常。

 いくら読み進めても絶望的なほど中身がなく、読んだ人の大半は「なんじゃこりゃ」と思ったはずである。筋らしい筋がない。だらだらと、お上りさん学生の日常が延々と描かれているだけ。

『三四郎』の下には、作品のテーマや「作者が言いたかったこと」を掴もうとしても一向に掴めず、心を折られた亡者が群らがっているはずである。こうしてますます夏目漱石嫌い、文学嫌いが増えていくことになる。



『三四郎』は、どちらかというと『吾輩は猫である』の系統の作品と言える。『猫』も特に筋はなく、先生の家の日常について延々と綴られているだけの、中身のない作品となっている。最初は猫同士の交流の話などのエピソードもあるが、そのうち、とにかく先生の家にインテリ連中がたむろしてだべっている様子が延々書かれているだけの内容になっていく。


『猫』的な作品が好きな人なら、『三四郎』は面白く読めるだろう。

 また、当時の学生が面白く読んだ理由もわかる。『三四郎』は新聞小説だったわけだが、この作品にはろくな筋がないから、前回までの話を忘れていても、読むのが何回分か抜けても面白く読める。新聞小説としては理想的な形だと言える。


 しかし、そんなことを知らない現代の生徒が、普通の小説だと思って読もうとすると地獄を見る。作品の中心となるべき筋もテーマもなく、ひたすら意味のない内容が延々と続くことに絶望を覚えるに違いない。


 それは、読み方が間違っている。この小説は何も考えずに、適当に読めばいい。筋とかテーマとか考えなくていい。とにかく、その場その場の登場人物の言動を面白く読んどけばいいのである。


 そして、そう読んだ時に、この小説は確かに面白い。

 夏目漱石は、筋立った小説を書くのは得意ではなかったようで、意味もなくダラダラ続くだけの小説をよく書いている。

 しかし、場面の構成はめちゃくちゃうまくて、そのシーンのことだけ考えて読むと面白い。

 この小説も、全体としてはまとまりがない意味不明な作品だが、書かれた場面のことだけ考えると、登場人物の暗喩に満ちた意味深げな言葉の応酬が面白いのである。


『三四郎』を読む時はぜひ、全体の構成のことは忘れて、とにかくそのシーンの登場人物の言動の妙味にだけ注目して読んでみてほしい。

 これは成長物語でも、文明批判小説でも、恋愛小説でもない。気取った学生達のゆるふわ日常小説なのである。シーン毎に特に繋がりがあるとは考えず、短編連作くらいに考えるくらいでいい。なんなら飛ばし飛ばしで読んでもいい。つまらんと思ったところは飛ばせばいい。その方が新聞小説らしさが味わえるかもしれない。


 実際には、以前のシーンで使われたキーを他のシーンのキーとして使うテクニックは散りばめられていて、その代表が「ストレイシープ」という言葉なのだが、これは読者サービス程度のものと考えていい。つまり、ちゃんと全部読んでくれている読者がニヤリとするための仕掛けで、仮に気づかなくても読める構成になっている。

 文学研究として読むなら、こういう仕掛けは全部見つけて検証しないといけないが、普通に読むならそんなことは考えなくていい。できるだけ頭を使わず、適当に読むほうが『三四郎』の面白さは理解できるだろう。


 ただ、これで読書感想文を書くのは難しいから、読書感想文の題材として選ぶのは避けたほうがいいと思う。

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