小説

夏目漱石『こころ』

 どうもこんばんは。文芸評論家の涼格です。みなさん、ガツガツ漱石読んでますか? 私はここ数年は読んでませんでした。この文章を書くために仕方なく読み返したよ! ダメじゃん評論家。


 みなさんは、純文学と聞いてどの文豪を思い浮かべますか? 誰を思い浮かべるべきか、良い子のみんなはもうわかるよネ! そう、夏目漱石です! ……はぁ? 芥川? 太宰? 誰それ。


 純文学と言えばなんと言っても夏目漱石ですよね! 何しろ純文学の神様ですからね! 小宮豊隆や江藤淳や小森陽一などが必死で持ち上げるくらい凄い作家なんですよ! 知らんけど!

 志賀直哉や横光利一も「小説の神様」を僭称していますが、漱石神を差し置いて神を名乗るなんておこがましいにも程がありますよね! 地獄の火の中に投げ込むべきです!



 ……真面目にいこう。


 漱石は漱石信仰の第一人者である小宮豊隆によって祭り上げられ、さらにツンデレ批評家どもがこぞって「ふ、ふんっ! 漱石はみんなが言うような神様じゃないわ! みんなが言うよりもっと凄いんだからねッ!」とお墨を塗りたくったせいで無駄に崇拝の対象にされ、一時期血迷った日本政府によってお札にまでなってしまった。


 じゃあ実際、あいつはそんなに凄いのかというと、もちろん完全無欠ではない。


 漱石の文学キャリアは『トリストラム・シャンディ』から始まった。『トリストラム・シャンディ』は、トリストラム・シャンディの生涯を事細かく忠実に書き尽くそうと試みた阿呆な小説で、余すところなく書くためには、まずはトリストラムの素となる精子と卵子が受精するに至る経緯から書かにゃならんということで、結局、トリストラムが生まれてくるまでに長大な作品の半分くらいを費やしている。

 じゃあ、残り半分できちんと生涯を書き切れたかというと、作者が死んで未完となった。そりゃそうだ。


 漱石は、英文学を研究する際にこの本と出会ってしまい、ノイローゼになった。ノイローゼの原因がこの作品のせいかどうかは知らないが、こんな作品を真面目に読んだら頭がおかしくなっても不思議はない。


 漱石の小説は、多分にこの作品の影響を受けている。作品の構成をきちんと考えず、行き当たりばったりで書いている、もしくは、そう見えるようにわざと書いているのである。おかげで漱石の作品の多くはストーリーラインが明確でなく、どうでもいい世間話のシーンが多い。


 困ったことに、漱石は神になり、紙になったので、漱石の作風が正解だと勘違いした人達が、こぞってストーリー展開を無視した作品を書いた。そしてそれが高尚な純文学の手法であると勘違いされたのである。


 無駄話漱石を純文学だと考える人達は、『行人』や『明暗』、あるいは『猫』などを好む。一方で『こころ』は馬鹿にする。なぜなら『こころ』は、漱石の作品の中では珍しくミステリー風味で、きちんとストーリーラインがある作品だからである。



 私は漱石の作品の中では『こころ』が一番好きだが、ただし、私が好きな『こころ』は幻の作品だったりする。


 私は高校生のときにこの作品を読んだのだが、「先生と私」の部分は、全部夏休みの話だと思い込んでいた。夏休みに海に遊びに行った先で先生と出会い、一夏の間、先生の家に入り浸っている話だと勘違いしていた。


 実際には、夏休みは一瞬で終わっており、先生の家は冒頭シーンの海の近くでもない(冒頭の舞台は鎌倉で、主人公は先生の「宿」を訪れている。先生の家は東京にある)。そもそも、こたつに入ったり、梅が咲いただのなんだのという文章があるんだから、どこかで一夏の話じゃないと気付いてもいいはずである。

 しかし、「ある夏休みに謎の先生と出会う」というシチュエーションの良さに酔っていた私は、その脳内設定に合わない文章を無意識に全部読み飛ばしてしまったらしい。読んでいながら脳が処理しなかったのである。

 きっと恋とはこういうものなのだろう。恋愛でイカれた脳みそは、妄想に合わない情報をシャットアウトするらしい。周りが何を言っても無駄である。



 私がこの作品の何が好きかというと、所詮は他人でしかない先生に興味を持って、どんな人物か探るという、人間観察とミステリー風味のシチュエーションである。  この構成は『吾輩は猫である』の変形といえる。『猫』は、猫が人間を観察する話である。ただし、猫はさして人間に興味はないし、観察しなければならない理由もない。ただ暇つぶしで眺めているだけ。だから全体に話がダラダラしていて冗長に感じる。観察者の猫に動機や緊張感がないから、作品にも緊張感がないのである。それでメリハリのない作品になる。

 一方、『こころ』の主人公は、先生を知りたいという動機がある。先生が何者かは知らないし、たぶん、実はスパイとか悪魔とか水戸黄門といったオチはなくて、なんでもないただの人なんだけど、その、ただの人に興味を持ち、なんとか知ろうと探りを入れるところに私は惹かれるのである。


 ここで言う「ミステリー」は、探偵ものや怪奇ものとは異なる。探偵ものや怪奇もののミステリーは、その謎の奥には意外性や新奇性がある。意外な人物が意外な手法で殺人を犯していたり、名状しがたい化け物や他所の銀河からやってきた宇宙人が絡んできたりする。

 一方、私が好むミステリーは考古学的なもの。考古学の謎解きとは、昔の人がどういう生活を送っていたかとか、そういう日常的で些細なことである。考古学者は大金と多大な手間をかけた挙げ句に「ここが3000年前のゴミ捨て場だったんですねえ!」とか、そんなことを発見して興奮している。そこが昔のゴミ捨て場だからなんなんだという話だが、そこにロマンを感じる人もいる、ということ。


『こころ』のミステリーとはまさしく、考古学的なものだと私は思う。しょうもない男のしょうもない人生を知りたいというしょうもない話だからこそイイのである。わかるかね、このドキドキ。どうでもいい話であればあるほど夢とロマンが詰まっているのである。



 実際には、主人公が先生のことを知りたいと思う理由には、いくつか仕掛けが施されている。

 主人公の父親は今にも死にそうで、うまく立ち回れば遺産をゲットできる。しかし主人公は父親をあんまり好きでないし、遺産を巡って争いたくないし、争っても負けそうである。

 そんな境遇の主人公が、先生に惹かれる。先生は過去にKを自殺に追い込んで奥さんをゲットした。その先生が自殺する。主人公はどうするかというと、奥さんをゲットして先生の遺産をもらって悠々と暮らすわけである。主人公と先生との精神的な会話の数々は引き継ぎの準備だった、ということ。


 この筋書きは私の妄想ではなく、漱石は初めから仕組んでいる。十二、十三というかなり早い段階で、先生は「君は異性に恋する前段階として私のところにきた。そして君はすでに恋をしている」といった主旨のことを言っている。つまり、主人公は自分から奥さんを奪うのだということをすでに言っているわけである。


 面白いのは、主人公が奥さんについて、あえてあまり描写していないこと。あくまで他人行儀に書いている。しかしこれは故意の書き落としなのである。自分にとって都合が悪いから、あえて書いていない。アガサ・クリスティが『アクロイド殺し』でやったテクニックを、漱石はすでに使っている。

 漱石が凄い(そして意地悪い)のは、最後にネタバラシをしていないこと。主人公が汽車に飛び乗った後に奥さんをゲットするのは、少し考えりゃわかるでしょ、だったら書かなくていいじゃんということである。

 もっとも、『こころ』にポワロが出てきたら、この故意の書き落としは見抜かれていただろう。ポワロに隠し事は出来ませんよ、モナミ。


 先生はどうあれ、Kを自殺に追い込んだことに罪悪感を抱いていたことは間違いない。できれば人生をやり直し、正々堂々とKを負かして奥さんをゲットする世界線に住みたいと願っていた。それを擬似的に行うために、主人公に自分の全てを伝授して自殺する、というのがこの作品のプロットなわけである。現代なら「親友から恋人を奪ったら自殺して後味が悪いので、モブ男に転生して人生をやりなおすことにした件」とかタイトルを付けるところだろう。

 もっとも、汽車に跳ねられて自殺したら神様が現れて、学生に転生させてやろう、ついでに適当なチート能力も付けてやるよとか言われるわけではなく、なかなか回りくどい、シャーマン的な方法で転生するわけだが。



 国語の教科書だと、先生の遺書の内容を重視して、なぜKは自殺したのか、なぜ先生は自殺したのかを問題にする。なぜなら純文学とは自殺することで完成するからである。芥川や川端、太宰、三島が純文学の神として崇められるのは、自殺したからである。肺結核か自殺で死んでこそ文学者であり純文学なのである。漱石は自殺したわけではないが、自殺をテーマにした小説を書いたことで資格を得た。

 国語が『こころ』を好む理由はそこ。自殺サイコーなのである。生徒諸君もぜひ悩み、苦しんだ末に自殺して立派な文学者になって欲しいというわけである。苦しみこそ我が喜び、死にゆく者こそ美しい。酷いね国語教育。


 しかし、私はその辺には興味がない。自殺に文学性なんてないし、なぜ自殺したかなんて、本人にもわからないもんだからである。


 ただ、ある程度までは分析できなくはない。Kが自殺した理由は、先生に裏切られたからだろう。自分より下だと見下していた相手にちゃっかり恋人を奪われたあげく、「精神的に向上心のない者は馬鹿だ」という自分のカッコイイキメ台詞をブーメランされた。そりゃ死にたくもなるだろう。気持ちはわかる。


 先生が自殺した理由は、Kにとどめを刺したことへの罪悪感を、どこかで償いたいと思っていたから。明治天皇が死去したことをきっかけに、乃木希典が自殺したのを見て真似しようと思った、ということ。

 実は先生にとって、明治天皇の死去なんか大した問題ではなかったと思われる。ただ、死ぬ理由付けとしてはアリだった、ということ。


 これはサルトルの歴史参加の考えと似ている。サルトルは、人間の生に意味はないと考えた。実存主義というやつである(西欧では、人は神から使命を与えられて生まれてくるのだという考えが常識だった。実存主義以前の西欧哲学はそれを前提にしている)。しかし人は、自分の人生に意味がないと思っていたら生きられない。なんらかの理由付けが欲しい。そこで、歴史に参加することで理由付けをしようとアジった。サルトルの場合は共産主義運動に参加せよと言ったわけである。

 先生の自殺の理由もだいたいこれで、理由のない自分の生に意味付けをするために、「明治という時代に殉ずる」という形で歴史参加して自殺したわけである。


 もうひとつの解釈としては、先生を殺したのは主人公ということ。かつて先生がKに向かって「精神的に向上心のない~」と言って止めを刺したのと同じように、主人公は、先生の秘密を打ち明けてくれと迫ることで自殺に追いやった。もちろん、そう迫ることで先生を殺せると知った上で故意に行ったことである。

 この解釈は探偵モノ好きにはたまらんだろう。そして、探偵モノを低く見なければならないと固く信じている文学者どもがこの作品の悪く言う理由もここにある。この作品は犯罪ミステリーとしてもなかなかイケている。イケているから評価してはならないのである。探偵モノは例外なくクソだから。



 しかし、何度でも言うが、私はこの辺に興味がない。Kや先生がなぜ自殺したかなんてのは考古学的ミステリーではない。

 それよりもイイのは、先生の胸をかっ捌いてまで、他人のどうでもいい私生活を覗き見しようとする、究極の変態的人間観察っぷりである。

 私にとっては、この謎解きは無意味なものであって構わないし、無意味な方がいい。結果的に主人公は奥さんと財産をゲットするかもしれないけど、そこはどうでもいいのである。

 危篤の父をほったらかしてまで、汽車に乗り込む主人公、そこにはただ「なぜ?」があるから。なんて素敵な変態っぷりなのでしょう! 実の父より好奇心! そりゃそうだよ、よくわかるよその気持ち!

 たぶん小説の解釈としては間違っているだろうが、私にとっての『こころ』は人間観察の物語なのである。



 この小説がいいのは、日本文学にありがちな「自分語り」の話ではないことだろう。主人公の身の上話を聞くのはつまらない。主人公は話したいから話しているわけで、そこには緊張感がない。

 同じしょうもない身の上話でも、喫茶店で同僚から聞かされるよりも、喫茶店で知らない誰かが喋っているのに聞き耳を立てる方が断然面白い。『こころ』の面白さはまさにそこだと思う。

 もっともこの主人公は、先生の身の上話をこそこそ盗み聞きするわけではなく、自宅に上がり込んでまで聞き出そうとする。その突き抜けた変態っぷりがファンタジーでありいいのである。普通はなかなかここまでできない。


 というわけで、私は『三四郎』や『それから』などはあんまり好きでないのである。しょうもない身の上話を本人の視点から描かれても面白くない。

 これらは第三者の視点から出歯亀根性丸出しで描かれる方が良かったと思うし、おそらくその方が漱石の作風にも合っている。デビュー作が『猫』なのだから。

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