太宰治「走れメロス」

 誰それとか言った手前、太宰治へのフォローもしておくべきかもしれないと思った。

 芥川については、私がどうこう言うよりも、後藤明生の『しんとく問答』所収の「芋粥問答」を読んで欲しい。いい作品である。私が「いい」というのは変な小説だと言っているに等しいが。



「走れメロス」は大人気である。読書感想文で困ったら、とりあえず使っておけばいい。短いし、「僕にも約束を守れなくなりそうになったことがあったから主人公に共感した!」とか適当なことを書くだけで、少なくとも不合格にはならない。もちろん、約束を守り損ねたエピソードはウソでいい。ただし、ウソだとバレないようにする必要はある。


 国語教育で人気な理由は、短いから教科書に全文を載せやすいことと、友情とか約束とか、学校が是非とも生徒の脳髄に刻みつけたい素敵な題材だからである。道徳の授業とかにもってこいだね!


 そして、とりあえず太宰について何か適当にちょろちょろ書いてお茶を濁したい私にとっても、すぐ読める「メロス」は都合がいい。



 しかし、文学の俎上で「メロス」が扱われることはあまりない。文学で太宰を扱うなら、『人間失格』や『斜陽』、『お伽草紙』、「駆込み訴え」、「女生徒」など。大学の講義で「メロス」が扱われたことはなかったか?



「走れメロス」は、文末に註釈があるとおり、シラーの「人質」という詩が元になっている。筋書きはほぼ同じだが、シラーの「人質」は英雄譚なので、メロスが途中で諦めて寝っ転がったりはしない。

 メロスが「もういいや、どうせ間に合わないし」とか言って寝っ転がる展開は、近代小説の特徴。芥川も古典を近代小説にする際、登場人物の俗な心情を描き足している。


 そして、この話は、太宰の体験談が基になっているのも有名な話である。実話の方が面白い。


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 太宰は豪遊した。必ず、かの酒池肉林の熱海を遊び尽くさねばならぬと決意した。太宰には金がない。すでに妻や友が送ってくれた金も使い果たした。もう何日も笛を吹き、女と遊んで暮らして来た。けれども享楽に対しては、人一倍に敏感であった。

 さらなる悦楽を求めて高利貸に手を出した太宰は、期日になって借金取りに言われた。

「金を返せ」

「なぜ返すのだ」

「期日だからだ」

「おどろいた。お前は乱心か」

「乱心はお前だ。さっさと返せ」

「呆れた奴だ。そのうち返す」

「だまれ、下賤の者」借金取りはさっと顔を挙げて報いた。「口では、どんな清らかなことでも言える。わしには、お前の腹綿の奥底が見え透いてならぬ。返す気などないだろう」

「ああ、お前は悧巧だ。自惚れているがよい。私は、ちゃんと返すのに。バックレなど決してしない。ただ――」と言いかけて、太宰は足もとに視線を落とし瞬時ためらい、「ただ、私に情をかけたいつもりなら、三日間の日限を与えてください。三日のうちに、私は金をかき集め、必ず、ここに帰ってきます」

「ばかな」と借金取りは、嗄れた声で低く笑った。「とんでもない嘘を言うわい。逃がした小鳥が帰って来るというのか」

「そうです。帰ってくるのです」太宰は必死で言い張った。「私は約束を守ります。私を、三日間だけ許してください。そんなに私を信じられないならば、よろしい、この市に檀一雄というろくでなしがいます。私の無二の友人だ。あれを、人質としてここに置いて行こう。私が逃げてしまって、三日目の日暮れまで、ここに帰って来なかったら、あの友人を絞め殺してください。たのむ。そうして下さい」

「絞め殺しても金は返ってこねえよ」

 とはいえ、無い袖は振れぬのも事実なので、借金取りは檀一雄を人質に、太宰に三日の期限を与えた。

 しかし、約束の三日経っても太宰は帰ってこなかった。

 五日目になり、心配した檀は太宰を探す旅に出た。

 そして、井伏の家で将棋を指している太宰を発見した。

 檀一雄は激怒した。

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 ……どう考えても、事実の方が面白い。


 こうなると、なぜ太宰は自分をメロスになぞらえたのだろうという疑問が湧く。僕だってこう見えて借金を返すためにすんごい努力をしていたんだ、決して遊んでいたんじゃないんだということをアピールしたかったのだろうか。

 もしくは、自分が思い描いていた理想を作品に託したのか? 本当はちゃんと約束を守って、檀一雄とお互いぶん殴り合って号泣しながら抱きしめたかったのか。


『人間失格』が太宰自身を描いたものだとする説は、今では主流ではないが、かつてはよく言われた。

 しかし、友を人質にしたままバックレた太宰が「メロス」を書いたことを考えると、太宰が自分のありのままを赤裸々に書く人間とはとても思えない。もし『人間失格』がほぼ私小説として書いたものであるなら、「メロス」だってあんな話にはしなかったはずである。絶対メロスは帰って来ないし、逃亡先でセリヌンティウスに見つかって殴られるオチだったはずである。


 この件からわかるのは、太宰はなかなか複雑な作家だということである。太宰ほどの才能があれば、熱海事件がネタとして申し分ないことはわかっていたはずである。実際、井伏や檀はこの件をエッセイとして書いている。そりゃ書くだろう。

 しかし太宰は、頑ななまでに自分をネタにした小説を書かなかった。シラーの詩に芥川的アレンジを施して面白味を加えるに留めた。自分の私生活をわざとめちゃくちゃにしてまで面白ネタを作って私小説を書こうとする連中がうじゃうじゃいた時代に、である。かなりの偏屈である。



 太宰の作品を扱うにあたっては、ひとつ注意点がある。太宰の作品は、あらゆる読みを許容する、ということである。


「メロス」を例に挙げよう。この作品は友情の大切を訴えているのだと読めば、そう読むのに支障はない。いや、友情を皮肉った物語なのだと読めば、そうも読める。熱海事件を基にして書いたと思えばそうよめるし、そうではないとも読める。

 著しく内容から乖離した仮説を立てない限りは、たいがいの読み方は許容される。


 この性質は、読書感想文や論文を書く際には便利である。どんな好き勝手なことを書いてもたいがいモノになる。


 しかし、どの読みが一番正解なのだろう、太宰は実際にどう考えて書いたのだろうと考えた瞬間、行き詰まる。読みに優劣が付けられないのである。

 こんな作家は珍しい。たいがいの作家は、作家自身の思想や体験が作品に反映される。どれだけ浮世離れしたファンタジックな作品を書いても、どうしたって、どこかに自分が漏れ出るものである。

 しかし太宰は尻尾を掴めない。あまりにもあらゆる読みを許容するせいで、どれが本命かわからない。『人間失格』の主人公がお道化して自分の本性を隠していたように、太宰も道化によって自分を隠すのである。


 私は太宰の作品を分析していると恐ろしくなる。こいつは本物のサイコパスなのかもしれない。



 太宰の作品を読むと、私はいつも村上春樹を思い出す。

 村上春樹は、特に初期の作品では、サイコパスになりたがる小説を書いていた。あらゆる物事を数値化して捉え、感情的にならないようにする。他人の感情に深入りせず、自分の感情も他人に見せない。面倒くさいことがあったら「やれやれ」と言ってやり過ごす。そして、面倒くさくなった女は自殺に追い込む。ついでにパン屋を襲撃したりもする。


 しかし村上春樹は、しょせんは珍走団に憧れるチンピラに過ぎない。夜中に騒音を立てるのがカッコイイと勘違いしている傍迷惑な奴だが、そのうち丸くなって「オレも昔はヤンチャしたもんさ」とか言って恥ずかしい武勇伝を恥ずかしげもなく語るおっさんになるだろう。この例がアレなら、左翼運動にファッションで参加しただけの奴だとでも言えばいいか?


 一方、本物のサイコ野郎である太宰は、イキらなくてもナチュラルにサイコである。そして、危険度は遙かに高い。



 ファッション左翼だった村上春樹のことを言うなら、ついでに三島由紀夫にも触れるべきか。ファッション右翼。

 三島が本物の右翼じゃなかったことは『文化防衛論』を読めばわかる。彼は論理的理由から天皇を崇拝しているフリをしていたに過ぎない。無条件に天皇に畏敬の念を抱いていたのではなく、日本の文化を守るのに天皇というシステムが必要だと考えただけである。

 村上春樹と三島由紀夫は、どちらもアウトローのふりをして、パン屋を襲撃したり金閣寺を焼いたりする小説を書きはするが、実際は論理ゴリゴリの構成の小説を書く。頭で考えるタイプである。

 三島はエセ右翼である自分を乗り越えるべく、身体を鍛えたり切腹したりしたが、それで本物のイカレた小説が書けるなら苦労はない。


 大江健三郎も頭でアウトロータイプ。初期の頃は頑張って死体だの自殺だの天皇をおかずにする小説を書いていたが、途中でやめてしまった。その理由は、生まれてきた自分の息子が障碍者だったから。息子を守るという常識的な方向に舵を切ったわけである。


 なぜ、真性のクズではない人達が、無理をしてクズを演じて小説を書かねばならなかったのか。そういうのがウケた時代だったからという他ないだろう。理由としては、現代においてクズ主人公が堂々とチートしてハッピーになる小説が受けているのと同じようなもんである。


 文学小説が高尚だって? もっともらしく書かれているだけで、中身は異世界チートと大差ない。

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