地球平面説

 1年か、もっと前だったかもしれないが、ナショジオチャンネルで『エクスプローラー』という番組を放送していたことがあった。ナショジオのニュース番組みたいなもの。毎回テーマに沿って、世界各地で起こっている出来事を紹介する。


 私はその番組を録画していて、ようやく今になって観ている。

 その中で、アメリカで地球平面説を信じる人が増えている、というニュースがあった。



 地球が球状らしいということは、かなり早くから予想され、受け入れられてきた。それが実証されるのはロケットの登場を待たねばならなかったが、自然現象について正確な計算結果を得ようとしたら、どうしても地球は球状らしいという結論に行き着く。そう考えないと計算が合わなくなってくる。地球球体説は実用上の必要に迫られて生じた概念だったわけである。


 中世ヨーロッパでは地球平面説が主流だったと誤解されることはしばしばあるが、これは天動説と混同されて生じたもの。

 天動説は地球が球状であることを前提としたモデルである。ただ、地球は宇宙の中心で、静止していると考えていた。当時、教会は天動説を支持していたのだから、当然、地球は丸いという概念を受け入れていたわけである。

 地動説がなかなか受け入れられなかった理由のひとつは、天動説を基にしても必要な計算結果が得られたから。困っていないのに、わざわざ別のモデルに乗り換える必要がなかったからである。

 一方、地球平面説を信じると、計算が合わなくて実用上の問題が生じる。比較的早い段階で地球平面説が廃れ、地球球体説が支持されるようになったのは、そういう背景がある。



 私は、本当に地球平面説の支持者が増えているかどうかは知らない。一般には、アメリカ人の2%が地球平面説を支持しているといわれている。アメリカの人口は約3.3億人なので、660万人である。これは多そうにも感じるが、見え見えの詐欺に引っかかる人は常に1%くらいはいると言われているから、そこから考えると妥当だし、しょうがない数だと言える。


 仮に増えているとして、その理由は、地球が平面だと信じていても困らない人が増えたからだろう。カレンダーや時計、気象予報、GPSを利用するのに、地球の姿を正しく理解する必要はない。こうしたものを利用しながら「地球は平たい」と言っていても通用する時代になったわけである。



 しかし、それは地球平面説を支持する理由にはならない。地球平面説を支持したって何のメリットもないからである。実用上、平面説のほうが都合がいい場面はない。地球の曲率が問題にならない範囲でならデメリットもないが、その範囲でなら、地球の姿そのものがどうでもいい。平らだろうが球状だろうが星型だろうが筒状だろうが関係ない。あえて平らだと強弁する理由にならない。



 地球平面説の支持者にとって重要なのは、地球が平面かどうかではない。金持ちや政府や政府機関が、人々にウソを教えて真実を隠している、という世界観である。つまりこれは陰謀論のひとつなのである。

 地球が球状だというウソを広めて何のメリットがあるかは知らないが、そんなことは陰謀論者にとってどうでもいい。要するにNASAの言うことは全部ウソであり、NASAが地球は丸いと言う以上、それはウソなのである。


 地球平面説は、一見すると科学の問題に見える。だから科学者はそれが広まることを危惧するわけだが、実はこれは科学の問題ではない。どちらかというと心理学や社会学、文学の領域の問題。

 科学者に地球平面説をどうにかすることはできない。いくら地球が球状である科学的証拠を見せたって、陰謀論者は絶対に納得しない。彼らにとって地球球体説はウソであり、それを支持する証拠は全てウソなのである。


 科学者はしばしば、科学が全てを解決できると信じる傾向がある。しかし、科学者が扱うのは自然現象や数学で、人間を扱うのは専門外。そして人間は、自然や数学ほど素直ではない。人間社会においては、科学や数学では解決しない問題も多いのである。



 では、文学者である私は、地球平面説に対してどう考えるか、というと、大きな問題がない限りは放っておいたほうがいいと思う。

 彼らは地球球体説が陰謀だと信じている。周囲が騒げば騒ぐほど、その信念を強める。彼らは金持ちや学校やNASAにマインドコントロールされているから、やっきになって地球平面説を攻撃するのだと。

 だったらいっそ、放っておけばいい。地球平面説を信じている人は、地球が平面だと信じていても支障がないから信じられるのである。信じていても実害がないから信じているのだから、放っておいても問題ない。彼らは地球の正しい姿を知らなくていい人達なのである。


 私達にとっても、彼らが地球平面説を信じていたって何も支障はない。

 陰謀説の多くは、一見すると放置すると危険そうな雰囲気が漂っているが、実際は大して実害はない。ケネディ暗殺が陰謀だとか、9.11が陰謀だとか、月面着陸が陰謀だとか言っている人は常に一定数いるが、彼らが大規模な事件を起こした例は意外と少ない。集会を開いたりささやかなデモをやったり、パンフレットを配ったりするくらい。過激そうに見えて、わりとおとなしいもんである。


 陰謀説には根本的な問題がある。それは、本気で調べると陰謀説が間違っていることがわかってしまうこと。だから彼らは決定的な行動は起こそうとしない。たとえば、地球平面説の人達が、地球の果てを撮影するために探検したり、ロケットに乗って平面な地球を撮影しようとしたりはしない。何かと理由を付けてやりたがらない。南極に行くには許可を取る必要があって、それが大変だからできないとか、もっともらしいことを言って避けようとする。最近、自家製ロケットに乗って死んだ人はいたが、それは自業自得なので、別に私たちは困らないだろう。

 陰謀論者が暴動を起こしたりするようになったら問題だが、たいがいの陰謀論者は、仲間内で集まって盛り上がっているだけなので、そっとしておけばいいと思う。

 地球平面説にしても、もし地球が球状だという認識がないと困る事態が起きれば、彼らはそれを捨てざるを得なくなるだろう。わざわざ説得する必要なんかない。


 これは陰謀論に限らず、たとえば神を信じる人達にも言える。彼らは神を信じているが、神がいることを本気で証明しようとはしない。神がいることは自明だから証明する必要などないとか、そんなことをしようとするのは神への冒涜だとか言ってやりたがらない。人間とはそういうものである。


 シャーロック・ホームズは地動説を知らなかった。彼はワトソンからそれを聞くと、「忘れなきゃ」と言った。彼の専門は犯罪学で、地球が静止しているか動いているかは知る必要がない。そんな余計な知識のために記憶のリソースを使う余裕はない、という考えである。

 これはホームズの変人ぶりを示すエピソードだが、一理ある。本人が必要ないと感じており、実際必要ないなら、なんでもかんでも知っている必要はない。

 国は子供に教育を施す義務があるが、それを子供がどう受け取るかは自由である。実際、学校教育で学んだことの中には、役に立っていない知識もあるし、忘れたものもあるだろう。それで支障がないなら別に構わないのである。



 なんらかの理由で、誰かをどうしても地球平面説から脱会させたい、という場合は、そもそもなぜ地球平面説を信じる必要があるのかを探る必要がある。

 その理由は個人によってまちまちだが、わりと多いのは、友達が欲しいから、理解し合える人達がほしいから、というもの。地球平面説を信じることで、同じ思想を持つフラットアーサー達と交流し、仲良くできる。陰謀論は一見過激だが、実はそういう素朴な交流を求めて信仰している人は意外と多い。これは右翼や左翼の政治運動や、変な宗教でも同じ。寂しいから群がりたくなるのである。

 こういう場合は、地球平面説を否定するのは逆効果になる。地球が球体か平面かについては関心はないが、ともかく何を信じていても俺はお前の味方だ、という態度を示し、信頼を得た上で策を練る必要がある。


 実のところ、この感覚は私には理解できない。私は子供の頃から、誰とも話が合わなかった。流行りの音楽は聴かないし、ジャンプは読まないし、持っているゲームハードはPCエンジンである。小中学生の頃は『三国志』にハマっていたが、塾の講師で『三国志』に詳しいと自称する人がいたから、孫乾の功績について語り合おうとしたら「誰?」と言われた。詳しくねえじゃん。


 子供の頃からずっとそうだったので、私はもう、同じ趣味を持つ人を求めなくなった。それで何も支障はない。全然違う趣味の人の話を聞いたり、文学について何も知らない人に文学の醍醐味を語ったりするのは、それはそれで楽しいし、コミュニケーションとして成立する。人と交流するのに、共通の趣味や思想を持つ必要はない。


 むしろ、趣味が下手に近い方が不和の材料になりやすい。たとえば、同じ日本文学を専門にしている場合、村上春樹を支持するか否かは激しい対立を生む。

 古代中国史の趣味にもそういうのがあって、三国時代を専門にしている人と、隋唐を専門にしている人とでは、本当に全く話が合わない。とてつもなく気まずい雰囲気が流れる。隋唐の専門家にとって、中国最強の英雄は岳飛であって、それに比べたら春秋戦国や三国時代の英雄など取るに足りないと思っている。言葉にはせずとも、そういう態度が節々に見られる。三国時代の専門家は、その態度が気に入らない。岳飛の功績は認めるが、いくらなんでも神格化し過ぎだろうと。だいたい、しょうもない奴に謀殺された人物を一番に推すのはどうかね。悪の宰相をぶった斬ってこそ英雄なんじゃないの? と思う。

 右翼と左翼が激しく対立するのも、実は似ているからである。キリスト教とイスラム教も元は同じユダヤ教だし、キリスト教内でもカソリックとプロテスタントは激しく争った。


 というわけで、私にとっては同じ趣味の人がいないのが当たり前だし、その方がかえって問題も起きにくい気もしているので、わざわざ変な説を信じてまで同じ趣味の友達を作る必要があるの? と思う。そんなのは結局、偽りの友情である。もし地球平面説が間違っていると気づいてしまった瞬間、その友情は激しい敵意に変わる。

 本物の友情とは、相手が何を信じていようが変わらないものである。

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