江戸川乱歩「クリスティーに脱帽」(『続・幻影城』所収)
ネットの情報によると、江戸川乱歩は1951年1月の『宝石』にて「クリスティーに脱帽」というエッセイを書き、そこでクリスティ作品のベスト8を挙げた、とされる。
複数のサイトで同じ情報が書かれているから、そうなのか、と思っていたのだが、ここはやはりちゃんと原典に当たるべきだと思い、久々に図書館に行ってきた。
どうでもいいことだが余談として言っておくと、私の図書館のイメージは、いつも年寄りが暇つぶしや避暑のためにたむろしているところだった。私が読みたい新聞を専有されて困ることはよくあったが、そういう利用の仕方を否定する気はない。
しかし、今回出かけると、びっくりするほど空いていた。新聞を占拠している老人軍団がいない。私が行かなかったここ数年の間に、図書館に何があったのだろうか。
今回利用したのは、光文社文庫『江戸川乱歩全集 第27巻 続・幻影城』の初版。
『続・幻影城』というのは乱歩の推理小説の評論エッセイを集めたもので、この中に「クリスティーに脱帽」も収録されている。
読んでみて、やはりネットの情報は鵜呑みにしたらダメだな、と思った。乱歩は「クリスティ作品のベスト8」を選んだのではない。自分が読んだ28冊の中で、特に良かったのに◎、良かったものに○、イマイチだったのに●を付けた。そして、◎を付けたのが8作だった、ということ。
乱歩が読んだという作品のリストをここに引用しておく。乱歩は原題で表記しているが、ここでは一般的な邦題で書いておく。発表年代順。□は短編集で、乱歩にとって面白かったかどうかは不明。
○『スタイルズ荘の怪事件』
●『ゴルフ場殺人事件』
□『ポアロ登場』
◎『アクロイド殺し』
●『七つの時計』
□『おしどり探偵』
○『牧師館の殺人』
◎『シタフォードの秘密』
●『邪悪の家』
□『火曜クラブ』
○『オリエント急行の殺人』
◎『三幕の殺人』
●『なぜ、エヴァンズに頼まなかったのか?』
○『ABC殺人事件』
□『死の猟犬』
□『死人の鏡』
●『もの言えぬ証人』
●『殺人は容易だ』
◎『そして誰もいなくなった』
◎『愛国殺人』
◎『白昼の悪魔』
●『動く指』
◎『ゼロ時間へ』
○『忘られぬ死』
○『ホロー荘の殺人』
□『ヘラクレスの冒険』
□『三匹の盲目のねずみ』
◎『予告殺人』
乱歩未読の重要作品は『ナイルに死す』、『五匹の子豚』、『ポアロのクリスマス』、『ひらいたトランプ』あたり。
エッセイによると、乱歩はもともとはさほどクリスティを読んでいなかったらしい。しかし、推理小説のトリック表をまとめるにあたり、読める限りの作品を読んだ、とある。
1951年当時は『予告殺人』が出たばかりで、それが50冊目の作品だった。当時の日本では、海外の作品は簡単には入手できなかったし、邦訳されていない作品も多かった。乱歩がそれぞれの作品を原文と邦訳、どちらで読んだかは不明だが、既読リストの中には当時邦訳されていなかったものもあり、それは間違いなく英文で読んでいる。
エッセイにあるように、乱歩はクリスティを「トリック表をまとめるため」に読んでいる。また、メロドラマが好きでないとも言っている。
そのことを加味すれば、なぜある作品が気に入り、ある作品が気に入らなかったかは見えてくると思う。
乱歩は基本的に、斬新な切り口やトリックを考えた作品を高く評価している。また、複雑な筋の作品を好む。『愛国殺人』や『白昼の悪魔』を◎にしている理由はそれ。
『もの言えぬ証人』を●にするのは、トリックという点では目新しくないからだろう。犬好きなら狂喜乱舞するし、ポワロとヘイスティングスのコンビが好きな人にとってもお気に入りの作品となりうる。
また、乱歩は『ゼロ時間へ』でクリスティの作風は変化したと書いている。犯罪に至るまでの描写が長く、殺人事件が起きる前に、長々と恋愛を中心としたメロドラマが展開される。しかし、そのメロドラマ自体は上質だし、この後に殺人事件が起きるのだと思えば、自分のようなメロドラマ嫌いでも面白く読める。メロドラマ好きならもっと楽しめるだろう、と書いている。
実際は、クリスティはもともとメロドラマを書くのが得意で、それは『スタイルズ荘』の頃からそうだった。
そして、少なくとも『ナイルに死す』(1937年)ですでに、殺人が起きる前にメロドラマが延々と展開されるタイプの作品は書いている。だから『ゼロ時間へ』(1944年)で作風が変わったという指摘は的外れではある。ただ、乱歩は『ナイルに死す』を入手できなかったのだからしょうがない。
『予告殺人』を◎にしている理由は、晩年になってこのレベルの作品を書けるミステリー作家は他にいないから、というのが理由。乱歩は同時期にクイーンの『ダブル・ダブル』、カーの『ビロー・サスピション』を読み、その創意や情熱を欠いた作品に比べると、『予告殺人』はクリスティの作品の第二位に挙げてもいいくらいのデキだと評している。一位は『アクロイド殺し』である。
このときの乱歩は思いもしなかったわけである。まさか『予告殺人』がクリスティ中期の作品になるとは。『予告殺人』のときにクリスティは60歳だったが、この後さらに20年以上作品を書き続ける。
私は『ビロー・サスピション』は読んでいないのでなんとも言えないが、『ダブル・ダブル』を低く評価するのはわかる。『ダブル・ダブル』は『そして誰もいなくなった』と同じく童謡殺人を扱った作品で、比べて読んだらどうしても見劣りするし、『そして誰もいなくなった』を高く評価している人にとってはなおさらだろう。
ついでに、この『続・幻影城』には、乱歩が好きなドイルの短編についても取り上げられていたから、それも紹介しておく(「英米の短編探偵小説吟味」より)。なお、こちらのタイトルも、原文のものではなく、現在一般的な邦題に変えておく。
◎赤毛組合
◎花婿失踪事件
◎唇のねじれた男
◎まだらの紐
○ぶな屋敷
○株式仲買店員
◎ノーウッドの建築業者
○六つのナポレオン
◎金縁の鼻眼鏡
○踊る人形
○ブルース・パーティントン設計書
○ソア橋
この中での一番としているのは「赤毛組合」。
「ノーウッドの建築業者」を高く評価しているのは、ドイルらしくない作品だからだとしている。
ドイルの作品には極悪人はあまり登場せず、偶然が重なって奇妙な結果が生まれた事件が多い。明るい作品が多く、わりと健全。それが万人受けするわけだが、極悪人が緻密な計画を立てるダークな作品を好む人には食い足りない。
そこへ行くと本作は、悪人が自身の犯行を隠すために過剰なほどのトリックを重ねる。そこが乱歩好みだということである。「金縁の鼻眼鏡」も同様。
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