応援コメント

"『ごんぎつね』の読めない小学生たち"」への応援コメント


  •  こんにちは。書かれていることの大半について強く同意します。ただ、この事件の背景には、文部省と教育委員会や一部教師たちの潔癖さも表れていると思いました。

    「学校での回答にホラーやミステリーは持ち込むな。なぜなら、これらは文芸作品とは呼べず、邪道で不謹慎な考え方であるから」

    「物事を単純思考で捉えず、深く掘り下げて考えてみよ(論理的に、とはいわない)」

    「そもそも、学生が死や遺体を連想するような暗い思考に捉われるべきでもない。心身の健全な発達を阻害する」

     これらのまったく科学的ではない教育指針が、今回のような病的な潔癖さを持つ記事を書かせたといえないでしょうか。日本の凶悪犯罪の件数は年ごとに減少しているそうですが、マスコミ報道の如何によっては、アメリカと同程度起きていると錯覚している人も未だにいるのかもしれません。かつて、宮崎某が連続少女誘拐事件を起こした際、彼がホラーやアダルト映画のVHSを収集していたとかで、青少年の目に、こういった映像がなるべく入らないようにしろ、などという偏った論調が湧いたことがありましたが、あの頃から、社会事件の責任を教育に転化する風潮が強まった気がします。すなわち、「ごんぎつねはとても心を打つ、良い物語なのだから、異端な回答は許せませんよ」ってな感じでしょうか。でも、解答が最初からひとつに決められているのなら、国語の問いかけにはならない気もしますね。話題が逸れてしまってすいません。

     自作PCに関する質問をしたいと考えをまとめていたら、『ごんぎつね』の単語が目に入り、思考が変に歪んでしまった……。今後もがんばってください。

    作者からの返信

     いや、話題が逸れているとは思いません。実際、国語教育には、教科書に掲載されている作品は無条件でいいものであり、いいものとして解釈しなければならないという信仰があります。その信仰があるからこそ、死体を煮るという発想が理解できないし、忌むべきものとみなすわけです。

     本来、文章読解とは、まずは筆者が何を表現したかったかを読み取り、その上でその表現が適切かやその是非を評価します。
     しかし、国語教育では、筆者の意図も作品の分析や評価も関係なく、「文科省が作品をどう解釈したか」「文科省が生徒に対してどういう感想を抱いてほしいか」を読み取る能力だけが求められます。
     そして、文科省の作品解釈とは「教科書に載っている文章は無条件で素晴らしいものであり、それを読むことによって人生が豊かになる」というものです。

     だから、国語教育という環境で「ごんぎつね」に求められる解釈は、文科省が考えるところの「道徳的」な文脈に沿っていなければなりません。要するに、「自分の身になって他者のことを考えれば、他者を傷つけることはできなくなる」ということに「気付く」ことが求められるわけです。
     一方で文科省は、生徒がこの文章を読んで「死体を煮ている」と誤読してしまう事情について、自分の身になっては考えません。なぜなら、文科省では「ごんぎつね」の解釈の仕方は「決まって」いるからです。誰が「決めた」か知りませんが、決まっていることは変えないのがお役所仕事というものです。潔癖というよりは、お役所仕事的なんですね。
     もちろん、潔癖な神話を心の底から信じ切っている信仰心の篤い信者も教育関係者にはおり、記事の石井光太という人も敬虔な信者の一人ということです。

     解答が最初から決まっているなら問いかけとして無意味だという指摘はもっともですし、まともな思考能力がある人ならみんなそう思うでしょう(誤読しがちな箇所だからこそ、註釈を入れるために質問するならわかるんですが、「死体」と答えるのを想定していないなら何のために質問するのかさっぱりわからない)。
     しかし、教育関係者の多くは、これがいかに歪んだ教育であるかを認識していません。私立だと学校によりけりなもののその傾向は弱まりますが、公立は本当に救いようのないくらい前時代的です。

     こんな馬鹿げた授業はやるだけ無駄ですが、点を取らなきゃ志望校には行けませんから、だったら教育指導書を読んで、文科省が何を望んでいるかを知り、その通りに答えてやる技術を磨けばいい、ということです。答えが決まっていることを知れば、簡単に点が取れます。そういう意味では国語は楽勝な教科でもあります。

     パソコンに関して質問があるなら、可能な限りは答えますので、また。