"『ごんぎつね』の読めない小学生たち"

 twitterで「国語力崩壊の惨状」というハッシュタグがトレンドになっており、元を手繰っていくと、文春オンラインの"『ごんぎつね』の読めない小学生たち、恐喝を認識できない女子生徒……石井光太が語る〈いま学校で起こっている〉国語力崩壊の惨状(https://bunshun.jp/articles/-/55970)"という記事だった。ネットの記事はいろんなところに転載されるので、情報源がどこか特定するのは難しいが、たぶん文春オンラインが大元だと思われる。


 問題になっている「ごんぎつね」の文章はここ。


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「なんだろう、秋祭りかな。祭りなら、たいこや笛の音がしそうなものだ。それにだいいち、お宮にのぼりが立つはずだが。」

 こんなことを考えながらやって来ますと、いつのまにか、表に赤い井戸のある兵十のうちの前へ来ました。その小さなこわれかけた家の中には、おおぜいの人が集まっていました。よそ行きの着物を着て、こしに手ぬぐいをさげたりした女たちが、表のかまどで火をたいています。大きななべの中では、何かぐずぐずにえていました。


「ああ、そうしきだ。」と、ごんは思いました。「兵十のうちのだれが死んだんだろう。」


愛知県半田市教育委員会ICTサポートページ『「ごんぎつね」本文編』

https://www.handa-c.ed.jp/monoshiri/gonhonbunhen/index.html

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 本を持っていればそこから引用したのだが、手元にないので、ネットで比較的信頼できそうなソースを元にした。

 複数のサイトに転載されているので確認を取ったが、漢字が平仮名になっていたりするだけで、文章そのものは全て同じだった。


 記事によると、小学4年生の授業で、先生が「大きななべで何を煮ていたのか?」と質問すると、複数の生徒が大真面目に「死体を煮ていた」と答えたらしい。煮ることで消毒したり、溶かしたりしているんじゃないかと。


 記事ではこれを、「これは一例に過ぎませんが、もう誤読以前の問題なわけで、お葬式はなんのためにやるものなのか、母を亡くして兵十はどれほどの悲しみを抱えているかといった、社会常態や人間的な感情への想像力がすっぽり抜け落ちている」としている。



 私はこれは、作者の書き方が悪いと思う。この作品の舞台背景を知らない人が読めば、この村では死者を煮るのだと読む人がいてもおかしくない。こういう誤読をされたくないなら、「大きな鍋で、訪れたみんなに振る舞うための料理を煮ていました」とでも書くべきだった。

 しかし、国語教育では、小説は有り難いものであり、絶対的に正しいものとされている。批判なんて以ての外であり、作者様を批判することなど畏れ多い。というわけで小学生が誤読したことが悪いとされるわけである。クソである。

 実際には、このくらいの書き方の緩さは許容してもいいし、であるなら、曖昧な書かれ方をしているが故に、変な想像をする人がいることも許容されるべきだろう。



 世の中にはいろんな葬式があるわけで、大きな石の上に死体を放置して鳥に食わせるとか、埋めた死体を掘り起こして体の一部を切り取り、先祖代々のキメラ人体を作ってまた埋めるとか、内蔵を抜き取って乾燥させて長期保存するとか、沼に沈めるとか、火を付けて燃やすとか、川に流すとか、宇宙探査機に遺灰を入れて太陽系外に追放するとか、その文化圏に所属していない人にとっては奇妙に映るものばかりである。煮るという葬儀法があったって、私は驚かない。


 この手の誤読は昔からあった。たとえば、三好達治の「雪」の「太郎を眠らせ」の「眠らせ」を「殺す」という意味に取る人は少なからずいる。これは、ミステリーやサスペンスが流行した影響だろう。同じように、「大きななべの中では、『何か』ぐずぐずにえていました」と、いかにも思わせぶりに「何か」と書かれていたら、伏線と取る人がいてもおかしくない。



 そもそも先生はなぜこの質問をしたのだろう。

 鍋で何を煮ているかなど、この作品にとってはどうでもいい。どうでもいいから「何か」で済ませている。その、どうでもいい部分をあえて訊いた理由が何かと言えば、おそらく、想像力を働かせて欲しかったからだと思われる。文科省の考えそうなことである。

 一方、生徒からすれば、「何か」とは何か、と訊かれたら、その「何か」は作品にとって重要な要素だと考える。どうでもいいことならあえて質問などしないからである。となると、料理などの平凡な答えではないんだろうと考え、そうか、死体か、となるわけである。これは非常に論理的な答えだと思う。


 私も、あえてこの「何か」が何かと問われたら、死体と答える可能性はある。わざわざそこを問題にするなら、作品にとって重要なファクターでなければならないからである。

 もう少しサスペンス風味を効かせたいなら、このとき煮ていたのはごんの母親だったとしてもいい。ごんが「悪いことをしたな」と反省したその時、実は彼の眼の前では彼の母親が煮られていたのだった。魚が捕れなかった兵十は、代わりにきつねを煮るしかなかったのである……これぞ小説というもの。


 この「誤読」の問題はむしろ、教師に「人の心情へのごく基本的な理解」が欠如していることにあると思う。「鍋で煮ている『何か』とは何か」と訊いたとき、生徒がどういう思考プロセスを辿るかを想像していない。誤読をしてほしくないなら、「この鍋では参列者に振る舞う料理を作っているわけですが、何を作っていると思いますか?」と聞きゃいい。それを聞いて意味があるのか? と思うが。作品にとって全く重要でない箇所だし、大昔の田舎の葬式で何を煮るかなんて、私だってよく知らない。どうせ教師だって知らないんだろう。


 あえて想像するとすれば、たぶん、人参、大根、ごぼうあたりを昆布汁で煮たものだろう。葬式では精進料理を出すことが多いから、生臭物は使わないと思うので、かつおだしは使わないはず。

 ……で? その答えに何の意味があるんだ?


 この文章にかこつけて、「仏式の葬式では精進料理が振る舞われ、生臭物は使わないんだよ」とか、「自分では常識だと思っていることも、他者にとっては常識ではないことがあります。文章を書く時は、どういう読まれ方をするかをいろんな角度から検討して、誤解が生じにくいように書きましょう」とか教えるならいい。想像力を働かせてもらいたいくせに、「死体」と答えたらけしからんというのは矛盾しているし、子供の情操を不安定にするからやめていただきたい。


 なお、私が何も考えずにぱっと読んで思いついたのは芋粥だった。そして五位の某が、鼻から芋粥が噴き出るまで食わされる。それを見たごんが「ああ、葬式だ」と気づくのである。どういう葬式だ。



 学校で国語力が身につかないのは、学校では国語を教えていないからだとしか言いようがない。学校教育における「国語」とは、文科省の用意した通りの解答を答えることであり、教師の顔色を伺って、気に入るような解答を答えるものである。それで身につくのは、上司に媚びへつらい、部下に尊大に振る舞うことである。そして今の日本人は、文科省が望んだ通りになっている。


 この記事にある、彼氏が「非常識なことをしたら罰金1万円」といい、彼女がそれに忠実に従って、親から盗んででも罰金を払い続けたというのは、まさしく長年の国語教育の成果である。国はそういう人間を育てており、実際そうなったのだから、その成果を喜ぶべぎたろう。おかげで、安倍政権があれだけ好き勝手に振る舞っても「他にふさわしい人がいないから」と政権を支持し続ける、国にとっては誠に都合のいい素敵な国民になったのである。良かったね。



 文科省は現状の国語教育できちんと成果を上げているから、国語教育の方針を変えることはないだろう。それが気に入らないなら、自分で何とかするしかない。


 それにはまず、「国語とは文科省や教師が気に入る解答を答えるものだ」という現実を知ることから始まる。要するにTRPGの『パラノイア』みたいなもんである。「市民、あなたは幸福ですか?」と問われたら、「もちろん幸福です」と答える。本当に幸福かは関係ない。

 それと同じで、「この作品を読んだ感想はどうでしたか?」と問われたら、「僕も主人公と同じような経験をしたことがあったので、主人公にとても共感しました」と答えるのが国語教育としては正しい。読書感想文でも、実体験と絡めて書くと評価が高いから、夏休みの宿題をやる人は覚えておくといい。宿題を抱えているような人がこの文章を読むかは知らないが。本当に同じような経験をしたかはどうでもいい。なければもっともらしい体験を捏造して、主人公と似た体験をしたことにするのだ。文科省様は、国語教育を通じて人生を豊かにしてほしいと願っている。作品と実体験がリンクすることを望んでおられるのである。なので、ウソでもいいから豊かになったフリをするのである。


 本格的に文科省の「心情」を知りたいなら、教育指導書を読むといい。どういう答えが国語では「正解」かがよくわかる。最初からこれを生徒に配ればいいのに、配らないのが国語教育のクソなところ。


 この媚びへつらいクソゲーを通して、生徒は「表現とは何か」を学ぶ。表現とは、自分の感情をそのまま素直に出せばいいものではない。相手に合わせて変えるべきである。同じ作品について語るにしても、国語の授業で発表するものと、友達同士で語るもの、文学部の講義で発言するものとでは全く異なる。

 そしてこのことは、「読み方」には複数の可能性があることも示唆する。同じ作品を読むにしても、どういう立場や目的で読むかによって読み方は変わってくる。どの読みが「正解」はその場によって変化する。

 物事の解釈はひとつではないし、どの解釈が正解ということはない。ただし、限られた局面においては「正解」がある(国語で点を取るには選択肢の中から「正解」を選び出さねばならないし、自殺しようとしている人を思いとどまらせるにも、やはり「正解」がある)。このことを知ることで、生徒の読解力は飛躍的に伸びる。

 ただしこれを教えることは、文科省や教師がいかにアホかを教えることにもなるから、学校は絶対に教えないことでもある。


 向学心のある人は、さらにソシュールの記号論を学んでおくといい。ソシュールの言っていることを完全に理解する必要はない。ソシュールを知ることで文章の構造分析ができるようになり、システマチックに文章を読解できるようになる。これができるようになれば、自分の素直な感想を表現することも、文科省様の気に入る解答を導き出すことも自由自在。国語で満点を取りつつ、国語教育を馬鹿にすることができるようになるわけである。

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