応援コメント

ロラン・バルト『エクリチュールの零度』」への応援コメント


  •  こんばんは。私はけっこうな読書マニアで、主にミステリーを中心に色々なストーリー小説を読みます。歳とともにその沼も深まり、最近ではいわゆる古典と呼ばれる長編作品も手に取るようになりました。ドストエフスキーやバルザックにはじまり、プルーストやカフカにも挑戦しています。そういう中で、否応なく、ストーリー文学に影響を与えた哲学者や作家以外の文学者の名前も耳にするようになりました。ニーチェやサルトルやヴァレリーや、今回のロランバルトなど……。ただ、さすがに意味も理解できないのに本を購入しても、お金の浪費になりますし、本棚の肥やしにするだけでは虚しくなります。そういう時に、今回のような解説文があるとかなり助かります。これまで手が届かなかった難解な書に一歩でも近づいたような気になれるからです。

     プルーストがどうたらと前置きをしましたが、もちろん、あの難解で長大な作品を読破したわけではありませんし、する自信もまったくありません。そこで、初心者向きの薄い解説書を何冊か購入して、何とか読んだ気になり、あわよくば、本書に乗り出そうという企みです。作者の言いたいことが何となく分かれば……、くらいです。ユリシーズに関しても、柳瀬さんや結城さんの解説書を購入してみたのですが、こちらは解説書を読むための解説書が必要なようで、これ以上本棚がややこしくなることを恐れています。

     さて、私のくだらない主張を明確にするために、ひとつ笑えないデータを挙げさせて頂きます。

     2016年に、イギリス国民に対して行われた以下のアンケート、すなわち、ドストエフスキーの罪と罰を読んだことがあるかとの問いに対して、YESと答えたのは3%、読んでみたいと答えたのは、7%。トルストイの戦争と平和もほぼ同じ数字。同国の国民的作家であるはずのエリオットのミドルマーチに至っては、どちらの回答もわずか1%。

     何が言いたいのかと申しますと、話法やストーリー文学の母国であるはずの英国でさえ、文学への興味はこの程度なのです。アニメやSNS、YouTubeに支配された日本の現状が、さらに厳しいことは自明です。ただ、私はこういう文学離れの責任は、流行の推移や科学の進歩や知性の退化、あるいは、作家の技量の低下だけが原因ではないと思います。プルーストやロランバルトなどの作品が難しいのは当たり前です。おそらく、発売された当時でも、これらをきっちり読めたのは、相当な知識階級だけだったのでしょう。それから、数十年、あるいは、百年以上という月日が流れたのですから、これは読み手が解読できなくなったのは、ある程度、仕方がないとも思えるのです。つまり、作家と読み手の間に割って入る立場の仕事、翻訳者や解説者などの有能な文学者の存在が、より重要になってきたのではないかと思います。どんな名作も手に取る前に嫌厭されたのでは意味を成さないからです。距離を詰めてあげる人々の仕事の重要性が増したのだと思います。

     今までは到底取り組めまいと思っていたロランバルトの作品に半歩でも近づけた感動から、長々しい文を書いてしまいました。応援していますので、これからもよろしくお願いします。ではまた。失礼します。

    作者からの返信

     3%というと少なく感じますけど、イギリスの人口6500万人の3%というと200万人近いことになります。200万というと意外と読まれているような気もする。

     近代以降の哲学や文学の論文が読みにくいのは、論戦のために書かれているからです。自説を披露するだけなら大して字数は必要ないし、難しく書く必要もないのですが、誰かを言い負かそうとしているから無駄な文章が増える。迷惑な話です。
     こうした論文を読むときは、当時その著者がどこの陣営で、誰と論争していたかを知っているとわかりやすくなります。そしてそれを知っていると「ああ、ここはあいつへの悪口を書いているだけの部分だから読まなくていいか」とわかるようになってきます。
     もちろん、階級的な問題もあります。偉そうに見せかけるために難しく書こうとしている。

     小説が読みにくいのはまた別の理由で、近代小説は「新しい」ことを宿命付けられているからです。
     近代小説は従来の文芸とは異なるものとして定義されました。従来のルールに従わないことがルールなのです。複雑で読みにくい小説ほど評価されます。

     また、近代の小説には、哲学者や文学者への批判から生じたものも多いです。『失われた時を求めて』も、作者の人生から作品を論じる批評法に対する批判から生まれた作品ですし、『ユリシーズ』は専門家達が延々と自分の作品について議論するように謎を仕掛けています。
     単なる一般読者向けではなく、専門家への挑戦を含んだ作品であるために、複雑で読みにくい作品になっているわけです。

     つまり、18世紀以降の文章が読みにくく感じるのは、もともと読みにくく書かれているから当然なのです。また、日本の文学者や翻訳者にも、読みにくいほうが高尚だという観念があったから、わざと読みにくい翻訳をしたり、難しく解説をしていました。

     今ではさすがに、哲学や文学ごときでお高く留まってもしょうがないと気付き始めたのか、わかりやすい翻訳が解説が書かれるようになってきているので、その点は多少マシになりつつありますね。
     ただ、どんなに翻訳や解説が改善されても、『ユリシーズ』が読みにくいのは変わらないと思いますが。