ロラン・バルト『エクリチュールの零度』

 本作は『零度のエクリチュール』とも訳される。私の持っている本は森本和夫・林好雄 訳注のちくま学芸文庫で、そちらの訳に従った。


 この本は、現代文学を専攻する者なら必読。……が、実のところ、私が在籍していた大学の文学部では、この本を講義で扱ったことはなかった。ただ「読んどけ」と書名を教えられただけ。



 この文庫本は276ページしかない、文学論文にしては薄い本だが、さらに驚くべきことに、本文はその半分にも満たない。残りは註釈とか解説とか。

 文学論文というと、まわりくどくて読み辛いアホな文章で書かれた駄文ばかりだが、この本は圧倒的に読みやすい。具体的な書名や作者名を挙げて批判している部分は、その作者や著作についての知識が無いと何を言っているかわからないだろうが、その部分はそもそも蛇足であり、読まなくても支障ない。すると、ますます読まなければならない分量は少なくなる。こんなに読むのが楽勝な文学論文は貴重である。みんなこれくらい短く簡潔に書きゃいいのにと思う。どいつもこいつもダラダラまわりくどく書きやがって。



 この著作で書かれてある内容は、比較的簡単なことである。小説はどんな言葉で書かれているか、という話。


 小説の言葉には、3つの縛りがある。

 1つは言語体(ラング)。これは作者が所属している時代、文化、母語のこと。要するにその時代のその文化圏の人なら誰でも使っている言葉。

 1つは文体(スティル)。これは、作者の体験によって得られた言語体系。バルトはこれを「彼の栄光にして牢獄」と言っている。つまり、スティルは作者独自のものであり、そこにはオリジナリティがあるが、同時に作者はスティルによって束縛されることになる、ということ。

 ラングとスティルは、作者が文章を書く上で避けては通れない縛りであり、避けようがない。選ぶもクソもなく、作者が文章を書くと、絶対にラングとスティルの影響を受ける。そして、ラングとスティルだけでは小説は書けない。それだとただの文章であり、芸術的な何かとは言えないものになる。


 最後の1つは形式(エクリチュール)。これは一応、作者には選択の余地がある。書簡体で書こうとか、日記体で書こうとか。一人称の独白形式にするとか。

 むしろ「選ばなければならない」とバルトは書いている。選ぶ自由があるとも言えるが、何かを選ばなければ何も書けないのだから、作者はエクリチュールによって縛られているのだ、とも言える。

 また、作者が選べるエクリチュールの範囲自体が、歴史や伝統、あるいは階級や性別によって縛られている。たとえば紀貫之は、仮名で『土佐日記』を書くために、わざわざ自分が女であると偽る必要があった。それは当時の日本では、男は漢文で文章を書くものだったからである。

 また、形式を選ぶというのは、要するに過去の形式を真似することであり、作者が選べるのは「どれを真似するか」に過ぎない。


 作者の中には、新しいエクリチュールを作るものもいる。しかしそれは結局は過去のエクリチュールの組み直しか、あるいは一瞬先の未来における「既存」の先取りに過ぎない。仮に全く新しい「無色な(零度の)」エクリチュールを作ったとしても、それはすぐに既存のものとなる。エクリチュールが自由でいられるのは一瞬しかない。

 私の解釈としては、その一瞬を追い求めるのが小説の快楽なのだとバルトは考えているようである。


 ここまでの話で30ページくらいだが、実はこれだけ読めばこの論文の要旨を理解するにはOKだったりする。後は過去にどんなエクリチュールがあったかについて書かれているだけで、要は「エクリチュール」という観点から文学史を振り返っているだけ。



 ちょっと面白いのは、自然主義・写実主義について言及している部分。ここで言う自然主義は、日本のアレではなく、ゾラやモーパッサンのこと。

 バルトは、自然主義の連中は「自然」とか言いながら、そのエクリチュールはゴリゴリの人工物だと批判している。そして、彼等の作品には文体がなく、味も素っ気もないと書いている。


 日本の自然主義は、言葉の上では「事実をありのままに書く」主義だと言っていたが、その実はただの暴露小説だった。普通なら恥ずかしくて書けないようなことでも正直に書いちゃうことが「自然」なのだと解釈したようである。だから、自分の弟子に対する下心を丸出しにした田山花袋の「蒲団」が自然主義の代表格として取り上げられる。


 しかし、本場フランスの自然主義は、小説を科学的な観察眼によって描くことにより、一種の社会実験のようなものができるのではないかと考えられたものだった。自然主義とは「自然科学主義」だったのである。


 バルトの文章から推測するに、どうやらこの自然主義・写実主義は、その芸術もクソもない無味無臭さ故に、文化から排除されたプロレタリアートや、文学に疑問を抱いていたインテリどもに受けたらしい。そして写実主義という形式は、フランスで特権的な地位を得たようである。

 フランスの文学事情はよく知らないが、フランスでも文学気取りがこぞって写実主義的な作品を書いていた時期があったらしい。案外日本と似ていたわけである。



 ラング、スティル、エクリチュールという概念を理解するのは、現代において文学を論じる上では必須となる。

 小説を書く側が知っているべきか、というと、原理は知っていた方が役に立つことがあると思う。何も知らずに書くよりはいい。

 ただ、こんなことをいちいち考えて小説を書く奴はいないだろう。……いや、いるのは知っている。すんごい理屈っぽい小説になってつまらない。それこそ自然主義、写実主義と同類である。

 文学が権威を持っていた時代はとっくに終わったし、現代において権威的な小説を書くことに意味があるとは到底思えない。文学雑誌に掲載されて、文芸評論家に褒められて、何かいいことあるか? 文学なんてただの娯楽だし、しょうもないものをしょうもなく書いておけばいいのである。



 この問題に関する私の考えは、カミュの説を採用する。

 といっても、カミュはバルトと論争していたわけではない……はずである。同時代に生きていたが、接点があったかどうかは知らない。サルトルとは論争をしていたが。


 カミュは『シーシュポスの神話』にて、だいたいこのようなことを書いている。ギリシャ神話に登場するシーシュポスは神の怒りを買って、岩を山の山頂に運ぶ罰を受けることになった。岩は山頂に着くと、ごろごろと山の斜面をころがり降りて、最初の位置まで戻ってやり直しになる。シーシュポスは永遠に岩を運び続けるわけである。

 一見すると、シーシュポスは不幸かもしれない。しかし、永久に岩を運び続けるという自分の運命を知り、諦観し、その運命に積極的に関わろうとしたとき、シーシュポスは幸福であるかもしれない。どうせ運命が変わらないのであれば、それを嘆くよりも、今度は前回より早く運んでやろうとか考えた方が幸せになれる。

 つまり人は、不条理を見つめながらも幸福になれるのである、ということ。


 ラング、スティル、エクリチュールに縛られる運命から逃れる術がないのであれば、無駄なことはせずに、その運命を受け入れて、積極的に縛られに行った方がいいと私は思う。一瞬自由になったつもりになるために多大な労力を注ぎ込むより、諦めた方が合理的だろう。

 ここで重要なのは運命を知ること。自分が縛られていることを知らずにいることと、縛られているのを知りながら諦観するのとでは、一見すると同じだが、全然違う。

 無知でいることは幸福かもしれないが、それは人間性を捨てる行為だと思う。人間は今のところ知られている限りでは、自分の運命を知ることのできる唯一の動物である。人間が人間でいるためには、己の運命を知り、それを見つめるべきである。



 なお、この論文で登場する「ラング」「スティル」「エクリチュール」などの用語は、論者によって意味が異なることがままある。特にエクリチュールについてはデリダも論じているが、デリダのエクリチュールはバルトのそれとは定義が異なる。

 デリダは、パロール(話し言葉)に対する「書き言葉」という意味でエクリチュールという言葉を使っている。


 余談になるが軽く紹介しておくと、デリダによると、西洋哲学は伝統的にパロールを特権的なものとみなしており、エクリチュールは従属的なものとみなしているらしい。つまり、話された言葉の方が重要で、書き言葉は話された言葉を記録したものに過ぎない、と。

 しかし、パロールが発声される直前には、瞬間的にエクリチュールが存在するのだとデリダは主張した。頭の中にある、言葉にならない思考が言葉となる瞬間、そこにはエクリチュールが作られる。しかし、そのエクリチュールは次の瞬間にはパロールへと置き換わり、消滅する。


 つまり、西洋哲学では従属的と思われていたエクリチュールは、実はパロールに先立つものであり、言ってしまえばパロールもエクリチュールだから、パロールを特権的に考えるのは間違っている、ということである。これを「脱構築」という。

 これは簡単に言うと「卵が先か鶏が先か」議論みたいなもので、西洋哲学は卵が先だと信じていたが、そうとも言えないだろ、ということをデリダが示した、ということである。



 デリダが登場した頃には、この考えは斬新だったのかもしれない。しかし、私からすると別段驚きはない。私に限らず、現代人からすれば、「卵が先だ」と主張する哲学よりも、「どっちが先とも言えない」とする主張の方がすんなり受け入れられると思う。

 19世紀から20世紀初頭、人類は科学によって世界の全てを解明できると信じていた。いろんなことがわかるようになり、いろんなことができるようになり、人類には不可能はないと本気で信じることができた時代だった。

 しかし現代では、人間が解明した事象は宇宙全体からすればちっぽけなものであり、実はわかっていないことだらけで、その中にはどうやら証明不可能な問題もあるらしいということもわかってきた。

 現代において学問に関わったことがあり、まともな精神をしている人なら、自分が全知であるとか、人間は全知になれるなどとは考えていないだろう。あらゆる学問で、それまで常識だと思っていたことが覆されるような発見が続いている。常識だと思っていたことが実は常識でもなんでもなかったり、起源だと思っていたことにも起源があったりすることは、もはや驚くに値しない。


 さらに余談を続けると、このデリダの脱構築を日本文学史に応用したのが柄谷行人の『日本近代文学の起源』となる。デリダを知らなければ「うわー本当だすげえ」となるかもしれないが、種と仕掛けがわかれば単純な話だし、別段驚くような内容でもない。

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