スティーヴン・R・コヴィ『7つの習慣』

 自己啓発本の元祖について言及したついでに、私が初めて読んだ自己啓発本についても言及しておこう。


 私は17歳の時、新聞の広告で『7つの習慣』を見かけて、是非読みたいと思った。それで本屋で取り寄せてもらった。

 普段は「たぶん中学から高校くらいのとき」などといい加減なことを言っているくせに、なぜこの本に限っては「17歳の時に読んだ」とはっきり言えるのかというと、奥付を確認したから。私の持っている本が何年に刷られたかが明記されている。



『7つの習慣』は、真のリーダーシップを発揮できるようになるための本である。まずは主体性を発揮して自己研鑽して自立し、その上で他者と協力してWin-Winの関係を築き、みんながハッピーになれる素敵な人生、社会を作り出すための本である。この本に書かれていることをすべて実践できたら、素晴らしい人格者になれるだろう。



 私はこの本に書かれてあることを実践した。あるいはしようとした。明確な目標を持ち、優先事項を見極め、主体性を発揮し、自分の力が及ぶ範囲のことにのみ専念し、自分や周囲によい影響を与えようとした。

 そしてそれは、高校時代まではある程度成功していた。


 しかし、大学に入ると雲行きが怪しくなる。私は大学で文芸サークルに入った。わざわざ文学部に所属してまで小説を書いている連中が集まっているサークルなのだから、さぞかし素敵な集まりなのだろうと思っていたら、その実態はただ遊んでいるだけの集まりだった。小説なんかろくに書かず、世間話をしたり、合宿という名のレジャーに出掛けたり、文化祭で出店を出したりするだけの集まりだった。


 とはいえ、小説を書こうとしている人達も少しはいたので、私はなんとかそのサークルで基盤を作って、小説を書いて読み合う場にしようと努力した。遊びたい奴は勝手に遊べばいいが、志のある者には望む活動ができるような場を作ろうとした。


 その基盤ができつつある時に、妙なことが起きた。こんなどうでもいい集まりの主導権を巡って、派閥争いが勃発したのである。OBが現サークルの運営にケチを付け、部外者のくせにサークルに干渉してきた。現部長はOBに頭が上がらず、一体誰がこのサークルのトップなのかがわからない状態になった。

 私はできる限り現部長を補佐して、組織の正常化を図ろうとした。しかし、力は及ばず、結局そのサークルは消滅した。



『7つの習慣』には、様々な成功談が書かれている。提唱されている習慣を実践すれば、こんな成功が待っていると美談を並べている。

 しかし、この本に書かれてあることを実践したからといって、必ずしも成功するわけではない点については書かれていない。


 また、この本に書かれてある相互依存の関係作り、Win-Win、相互合意に達しなかった場合はno dealとする交渉の原則は、自分が相手に対して優位か、あるいは対等に近い立場を作れる状況でしか役に立たない。


 この本では、親が子供に対してどう接するか、社長が従業員に対してどう接するか、といった立場からの成功談や実体験が多く書かれている。一方で、虐げられている弱者が成り上がることについては多く書かれていない。

 この本に書かれてあるそうした例は、主にヴィクトール・フランクルの著書からの引用となっている。ナチスの強制収容所での体験を書いた『夜と霧』で有名な人。『7つの習慣』の著者自身は、こうした悲惨な体験をしたわけではないし、圧倒的不利な状況から成功したわけでもない。

 この本に書かれてあることは、まあまあの環境がある、もしくは作れる場合には役に立つが、不条理なほど酷く、改善も難しく、かといってその環境から逃げることもできない状況ではあまり役に立たない。


 この本では、どんな悲惨な状況でも、自分の力の及ぶ範囲で主体性を発揮していけば、その影響の輪を広げて、やがては周囲の環境にも影響を与えられるようになると書かれている。その例として『夜の霧』を持ち出しているわけだが、これはたまたまうまくいった例を挙げているに過ぎない。

 おそらく強制収容所に連行されたユダヤ人の中には、『夜の霧』と同じように、悲惨な状況にも関わらず主体性を発揮し、立派に生き続けた人達もいただろう。しかし、その多くは成功することなくゴミのように殺され、その高潔な生き様が語り継がれもしていない。その事実をこの本の著者は見ていない。都合の悪いことには目を向けないのである。

 それがこの本の欠陥である。この本は成功することについてしか書かれていないが、最善を尽くしても失敗することはある、という点については触れられていない。


 これは時代性もあると思う。この本が書かれたのは1989年。石油が枯渇するかもとか、恐怖の大王が降臨するかもとか、いろいろ心配事はあったとはいえ、なんだかんだ言っても人類が楽観的でいられた時代だった。アポロが月面に着陸し、アポロとソユーズが宇宙でドッキングし、オゾンホール問題を国際的協力によって解決し、ベルリンの壁が崩壊した時代で、人類は協力すればなんでもできるし、協力できると信じることができた時代だった。だからこんな楽観的な本が生まれたのだろう。

 しかしその水面下では、そうした成功の裏で虐げられていた人々が、この世の中に対して復讐を誓っていた。その事実は2001年9月11日に象徴的な形で思い知らされることとなる。



 というわけで、もしこの本を読むのであれば、この本に書かれていない事実を2つ、肝に銘じる必要がある。

 ひとつは、最善を尽くしても失敗することはありえる、ということ。

 もうひとつは、成功の裏には必ず犠牲者がいること。A社とB社がWin-Winの交渉をしてお互いに成功すれば、同業のC社は割りを食う。全員がハッピーになる選択肢などない。A社とB社のことだけ考えればお互いハッピーだが、その裏では首を吊った人が必ずいることを忘れてはならない。


 生物は、他の生物からエネルギーを奪うことで進化してきた。人間の知性は、効率よくたくさんの生物を殺して食うことによって進化・維持してきたのである。美しく高潔な生物、知性などこの世には存在しない。全ては殺戮の元に成り立っている。

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