泉昌之『食の軍師』

 今年の冬は寒いのでセラミックファンヒーターの側で漫画を読むことしかできない第二弾。

 今回は泉昌之『食の軍師』。


 泉昌之は、作画・泉晴紀、原作・久住昌之のコンビ名義。彼らの漫画は欲しくても買えないものがほとんど。廃版になっていて本屋では取り寄せできず、古本屋にも滅多にない。たまにあればプレミアが付いている。


 なので、『食の軍師』が普通に本屋で売られているのを見て、当時の私はたいそう驚いた。こんなどマイナーな漫画家の漫画がなぜ普通に売られているのかと困惑した。

 こんな奇跡は二度とないと思い、私は速攻でそれをひっつかんでレジに向かったが、その後、奇跡は再び起きた。なんと、『食の軍師』の2巻が出たのである。しかも、またしても普通に売られていた。そんな馬鹿な!


 さすがにおかしいと思った私は、ネットで調べた。すると、私の知らない間に、なぜか『孤独のグルメ』がドラマ化していたことを知った。


『孤独のグルメ』は、原作・久住昌之、作画・谷口ジローによる漫画で、単行本が出たのは20世紀末のこと。当時は有名でもなんでもなかったはずである。例によって入手困難で、私は結構苦労した。それがなぜか発売から10年ほども経ってからドラマ化したらしい。意味わからん。


 おそらく『食の軍師』は、『孤独のグルメ』のドラマ化に乗っかって連載された漫画だったのだろう。それ以外に考えられない。そして驚くべきことに8巻も続いた。泉昌之の漫画で8巻も続いたものは他にないはず。たいがいは1巻で終わっている。



 泉昌之は「夜行」で『ガロ』にてデビューした。「夜行」は、列車の中で弁当をどうやって食べ進めるかを考えるだけのしょうもない内容を、ドス黒い劇画調の絵で描いた作品。トレンチコートを着たハードボイルドなおっさんは、弁当の中身を観察して計画を練り、カツとサバを中心にしつつ、飯とおかずのバランスを取りながら食べ進める肚を決めるが、サバが思ったよりしょっぱかったことで、徐々に当初の計画は崩れていくのである。

 二人は作品が完成したとき、これで大儲けできると考えたらしい。しかし、どこの出版社も原稿を買ってくれず、結局、原稿料なしの『ガロ』に掲載された。主人公がちまちまと立てた計画が崩れていく様を描いた漫画家コンビの計画もまた崩れたわけである。


 劇画調でしょうもないことを描く手法は、後に竹熊健太郎と相原コージのコンビが『サルでも描けるまんが教室』で実践し、大ヒットを飛ばしている。

 実際、「夜行」は文句なく面白いと思うのだが、当時の編集者はどいつもこいつも見る目がなかったようである。


『孤独のグルメ』は「夜行」の延長線上にある漫画だが、「夜行」はしょうもないこと誇張して描くことで面白さを出しているのに対して、『孤独のグルメ』は飯屋での一幕を淡々と描いている。一見するとオチらしいオチもないし、何が面白いのか説明しにくいタイプの漫画。こんなのが人気が出てドラマ化までするんだから、世の中わからんものである。

 もちろん私は大好きである。この漫画のいいところは、計画通りにいかないこと。食べようと思っていたものが売っていなかったり、頼んでみたら思ったものと違っていたり。そうした些細な齟齬を描いているところに妙味があると思う。

 あと、谷口ジローが、こんなしょうもない内容の漫画を、ひとコマひとコマものすごく緻密に描いているのは、もはやギャグと言ってもいいと思う。才能の無駄遣いが過ぎる漫画だが、だからこそいい。



 で、『食の軍師』である。『孤独のグルメ』の人気にあやかって、「夜行」のコンビが再び、トレンチコートのおっさんがどうやって飯を食うかを考えるだけのしょうもない漫画を描いたのである。しかも長期連載で。

 このコンビが「夜行」っぽい漫画を持つ書くこと自体はちょくちょくあったが、これだけ「夜行」ネタだけで長くやったのは初めてだと思う。もちろん『芸能グルメストーカー』や『天食』があるのは知っているが、前者は芸能ネタの割合が多いし、後者は、収録作品の一部には「夜行」タイプの完成型と言ってもいい、究極に酷い飯屋漫画もあるが、全部が全部「夜行」タイプではない。


 説明するまでもないと思うが、『食の軍師』というタイトルは「蜀の軍師」のもじり。

 トレンチコートのおっさん、本郷播は、自身を『三国志』に登場する「蜀」という国の軍師、諸葛孔明になぞらえ、飯屋に華麗に入店し、淀みなく注文をして粋に食べ進め、クールに会計を済ませて退店して颯爽と帰宅することを目指しているのだが、主に自滅によってダサい失態を犯す。


 泉昌之の作品集には、ちょくちょくトレンチコートをきたおっさんが登場し、たいがいその名前は「本郷播」である。「夜行」の主人公もトレンチコートを着たおっさんなので、これも「本郷播」だと解説している文章をネットで見かけるが、これは間違っている。「夜行」では、主人公が弁当を食べる前に「イタダキマー」と言ってしまって前に座る客に笑われるシーンがあるが、そのときに「オフクロが憎いぜ」とモノローグしているコマに「マサユキ、食べる前にイタダキマスするのよ」とある。つまり「夜行」の主人公の名前はマサユキである。

 一方、『食の軍師』の主人公は、姓が「本郷」なのは早くからわかっていたが、名前が「播」なのかは不明だった。しかし、7巻の「鶯谷の朝食」にて、主人公が自分の銅像が建つ様を妄想するシーンがあって、その銅像には「バン・ホンゴー記念公園 本郷先生の像」とあるから、おそらく彼は本郷播で間違いないだろうと思われる。



 この漫画では、飯屋のことを「城」と呼び、飯を食うのを城攻めになぞらえ、戦として表現している。その馬鹿馬鹿しさがこの作品の魅力と言える。そこを面白いと思えるかどうかかがこの漫画の評価の全てだろう。


 あと、日本の戦国時代ではなく、古代中国の『三国志』を主な引用元にしているところも特徴。日本の飯屋に食いに行くんだから、戦国時代の表現にでもした方が親和性があるが、それだと当たり前すぎて面白くない。尾張に古代中国の兵を引き連れた孔明が攻め込むから面白いのである。

 しかも、そのミスマッチについて、漫画では触れられていないところがいい。「孔明が尾張に攻め込むのよ、ね、面白いでしょ。ププッ」といった説明臭さや独り善がり感がなく、あくまでナチュラルに、ごく当たり前に蜀軍が日本各地に侵攻する様が描かれていることがポイント。……わかるかね。この微妙なさじ加減。

 あまりにさりげないので、読んだ人の多くは、これがいかに変なシチュエーションか、気付かないのではないかと思う。しかし、よく考えてみて欲しい。現代日本で飯を食うだけなのに、本郷の脳内では孔明が蜀軍を率いて尾張や三河の城に攻め込んでいるのである。めちゃくちゃである。


 久住昌之はガロ出身のマイナー漫画家らしく、ネタについて説明しないことが多い。わかる奴だけわかればいいというスタンスである。

 メジャーになるにはそれではダメで、誰にでも何が面白いのかわかるように懇切丁寧に説明してやった方が一般受けはいい。

 しかし、ギャグを説明することほどダサくて恥ずかしいことはこの世にない。わかる奴にだけわかればいいんだよ、わからん奴は知らん! というスタンスの方が私は好きである。


『食の軍師』では、「ない」という意味で「ぬ」という表現を使ったり、力石に負けたときに足を4の字にしてずっこけるシーンがある。

 当初はそれに説明は付いていなかったのだが、意味がわからんというクレームがあったのか、説明した方がいいと編集者が言ったのか、途中から「ぬ!(ないの意)」とか、4の字の足に「『死』の意味」といった註釈が付くようになった。私は、そんな説明いらんだろと思ったが、それで連載が続くんだったら仕方ないか、とも思った。あまりに読者を突き放してしまうと、いつものように1巻分で連載が終了しかねない。ダサい註釈を付けたことで8巻も続いたのだと思えば、その妥協は必要だったのだろう。関係ない気もするが。



 この漫画には主人公のライバル、力石という存在がある。力石は、本郷が行く先々の飯屋でたまたまよく出会うただの客だが、本郷は勝手に力石をライバルとみなしており、力石の注文の仕方や食べ方に「こやつデキル!」とか「くそっ、負けた!」とか勝手に悔しがっている。

 あと、本郷は馬鹿なので、他の人と同じ注文をするのを「真似しているみたいでかっこ悪い」と思っている。力石は本郷の食いたいものを先に注文したり、「これうまいよ」とお薦めしてくるので非常に邪魔な存在なのである。

 もちろん、本郷がおかしいだけで、基本的に力石はいい奴である。付き合いも良くて、本郷が勝手に力石をライバル視していることを知ると、適当にごっこ遊びに付き合ってくれるようになる。



 1巻では「おでん屋台での兵法」とか「鮨屋での兵法」といった描き方をしていたが、2巻以降はグルメリポート的なものになっていく。観光スポットや実際にある店の紹介的な漫画へと変化した。

 ただ、これが久住昌之原作漫画の特徴だが、この漫画では店のことを手放しで褒めて終わることはほとんどない。わりと「まずい」とか「フツー」とか言っている。すんごいおざなりな紹介の仕方をする店もある。

 久住原作漫画は「計画通りに進まない」ことが特徴で、それこそが生命線になっている。飯の食い方のこだわりとか、うんちくを語る漫画はいくらでもあるが、そのこだわりやうんちく通りに物事が進まない展開に持っていく漫画はあまり多くない。特に、注文した飯がまずいとか、接客が酷いとか、そういう描写はなかなかしない。実在する店を舞台にしていればなおさらやれないだろう。それをやるのが久住原作の漫画である。これは『孤独のグルメ』でも、土山しげるとコンビを組んだ『野武士のグルメ』でも同じ。一貫した特徴である。


 一方で『食の軍師』には観光地などとタイアップした回もあり、単行本にはそれも収録されているのだが、その回では本郷は一切失敗することがないし、飯を戦と捉えて勝手に勝ったり負けたり、といった展開もない。すんごい無難にPRに徹している。この、本編とPR回のギャップがまた面白い。あれ? ホンゴーさん、軍師ごっこはしないの? と思って巻末を見ると、決まってPR漫画として描かれたものなのである。いつもは言動のおかしい本郷がまともだと、それだけで笑える。


 私はこのコンビは、とんがったヒッピー漫画しか描けないんじゃないかと思っていたが、実はすんごい無難な漫画も描けるのである。そういう漫画も描けるのに、普段はあえて描かない。無難に取材した店を褒めちぎって終わるだけの食レポ漫画も描けるのに、あえて一般受けしない、食レポとしても中途半端な、しょうもない漫画を描いているのである。素晴らしいことである。

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