宮本武蔵『五輪書』

『五輪書』を読む。私が読んだのは講談社学術文庫の、鎌田茂雄・訳注のもの。ただし、訳者による付記は飛ばし読みして、原文と訳文のみ読んだ。他人の解釈に興味はない。


 私は剣豪にさして興味がないので、今までこの本も読もうと思わなかった。

 ではなぜ読んだかというと、暇をしている時に、たまたま本棚でこの本を見つけたからである。そういえば読んだことなかったなと。


 私は剣術家ではないから、ここに書かれていることが剣術で役に立つかはわからない。ただ、書かれている心得や戦術に関しては、様々な分野で応用可能である。



 武蔵は、自らの心身を穏やかにし、自在に動ける状態を作ること、そして相手の心身を乱し、動きを制限し、崩れたところで勝負を決めることを理想としていたようである。

 そのために重視していたことは、訓練すること、知識を広めること、研究すること、実戦を経験すること。


 また、型を重視することを繰り返し批判している。兵法は人を斬るもので、人が斬れるなら型などどうでもいいとしつこいくらいに書かれている。

 日本は今でも形式を重んじる傾向が強い。武蔵は形ばかり気にして中身のない人が溢れている現実にうんざりしていたのかもしれない。


『五輪書』に書かれている戦術論は、明日からでも使える便利な小技も載っているが、その本質は「明日から君も無敵だ!」とかいうお手軽なものではなく、むしろ、地道な努力を積み重ねることを説いている。と同時に、ただ闇雲に努力するのではなく、それがなぜ必要で、それを使ってどうやって目的を果たすのか(この場合は人を斬るのか)を考えることも説いている。

 要するに、剣の道は誰かに教えてもらうものではなく、自分で考えて自分で訓練して自分で実戦を積むことによってしか得られないということである。

 ……そうすると、二天一流の道場に入って教えを請うことは、根本的に何もわかっていない行為になってしまうような気がする。


 これと同じことを、奥泉光が小説について言ったことがある。小説の技術は結局は自分で獲得するしかない、と。

 奥泉は大学で小説の創作を指導する講義をやっている(今現在もやっているかは知らないが)。にも関わらず、そう言うところに重みがある。

 彼は、自分は人にものを教えるのがうまいと自慢している。若い頃、家庭教師をして教え子を合格させたりしていたらしい。それでも、私に教われば誰でも小説を書けるようになるとは言わないのである。


 その理由は、そもそも小説は「何物でもない文章」であることから出発したジャンルだからだと言える。小説は歴史書ではないし、論文や伝記や神話や演劇でもない。かつて存在したあらゆる文章の形式から自由であるものとして誕生した。だからnovel(ラテン語の「新しい」から来ている)と呼ばれたのである。

 形式から自由であることを宿命付けられたジャンルであるために、型を覚えてどうこうするという、通常の技術修得法が使いにくい。



 二天一流というと二刀流で有名だが、どうやら二刀流は、実戦で二刀流をやるためではなく、修練法としての意味合いが強いようである。片手で太刀が扱え、左手で脇差を扱えるようになれば、両手でしか太刀を扱えない人よりもより自由に戦えるようになる、ということ。また、仮に片腕を斬られても戦える。



 武蔵が合理主義者だったことはこの書を読めば明らかだが、少し面白いのは、武器の中でも太刀こそ兵法の根本だとしていること。「太刀の徳よりして世を納め、身を納むる事なれば、太刀は兵法のおこる所也」とある。この辺は文化や時代性もあるのだろうが、「人を殺せればなんでもいい」という考えからは矛盾している。合理主義者なら、太刀も所詮は人殺しの道具のひとつに過ぎないという冷めた感覚を持っていてもよさそうなものだが、武蔵をしても刀に特別感を抱かざるを得ないほど、日本人は刀が大好きだったということなのだろう。

 もっとも、この感覚は日本人だけのものではなく、海外にも刀に特別感を覚え、刀最強説を唱える人は結構いる。



『五輪書』に書かれていることは当たり前のことばかりで、他の兵法書やHowto本などからでも得られる知識ばかりである(太刀の持ち方や姿勢などについてはビジネス本などにはもちろん書かれていないが、そこは考えないことにする)。

 ただ、お手軽Howto本という側面を有しながらも、「これを読むだけでできるようになった気になるなよ。自分でよく研究し、訓練しろ」と毎度毎度書かれていたりするところは一線を画している。世の中、楽でおいしい話はないんだという現実の厳しさを思い知るにはいい本かもしれない。


 しかしたぶん、この本を読んだ人の半分以上は、毎回末尾に書かれている「能々吟味し鍛錬有るべきもの也」などの記述を読み落とし、この本を読んだだけで武蔵になった気分に浸るんだろうなとも思う。人間は自分にとって都合の悪い情報は読み落とすようにできている。

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