新書・論文・哲学・エッセイ

後藤明生『小説――いかに読み、いかに書くか』

 この新書は、後藤明生が早稲田大学で非常勤講師をしていたときの講義を文章化したもの。大学に行かなくても1年分の講義を聴講できるというお得な本である。

 もっとも、優良な新書はだいたい、大学の講義に匹敵する内容を持っているものである。新書ブームで乱造された新書の多くは中身が薄くて残念だが。


 これは小説の実技指導を行う学科の講義だが、その実態は、課題となる小説を読んで、その作品について後藤明生の解釈を聞く内容になっている。


 本来、大学の講義は対話的であるべきだが、大学の講師とまともに対話できる知識を持っている学生はそういないのが現実ではある。日本の学生は対話に慣れていない、というのもある。


 なぜ実技指導なのに「読む」講義なのか、というと、小説を書くには、まず読まなければ始まらないという、後藤の思想から来ている。

 ドストエフスキーは「われわれは皆ゴーゴリの『外套』から出てきた」と言ったらしい。この出典は不明だが、ともかく言えることは、小説を読んだことがないのに小説を書こうとはしない、ということである。


 ドストエフスキーはゴーゴリを読んで、「方法」を読み取った。「方法」とはいかに書くか、ということである。ドストエフスキーは『外套』を読んで、悲劇を喜劇として異化する方法を読み取ったのだ、と後藤は考える。


 それでは、日本の代表的な作家達は、何を読んで、どんな方法を学び取り、何を書いたのだろう。そして、それを読んだ我々は何を得て、何を書くのだろう。それがこの講義のテーマである。


 我々が現代において小説を書くのであれば、近現代の日本の小説を読んで、そこから方法を学び取るべきだろう。

 というわけで、この講義は、田山花袋『蒲団』を読むことから始まる。



 後藤明生は小説家としても優れているが、優れた批評家でもある。彼のいいところは、知らないことを「知らない」と言うところ。たいがいの批評家は知ったかぶりをして偉そうに読みにくい文章を書くが、後藤明生は根が小説家なので、批評を書くにしても読みやすい文章を書くし、偉そうなところがない。そして本来、批評とはかくあるべきだと思う。



 田山花袋。

「蒲団」の内容が事実かフィクションかに焦点が当てられている。「蒲団」は従来、「作者の体験を赤裸々に語ったもの」として評価されてきたからである。この講義では、中村光夫による定説に一石を投じ、違った読み方を試みることがテーマになっている。


 ただ、現代文学の観点からすると、小説の内容が事実か否かはどうでもいい話、ということになる。小説はフィクションであり、生身の作者と作品とは切り離して考えるべきだからである。竹中時雄が田山花袋かどうかは、はっきり言ってどうでもいい。


 この作品にとって真に重要なのは、ハウプトマンの「寂しき人々」との比較だろう。本書でも言及されているが、「蒲団」は「寂しき人々」を下敷きに書いたとされている。この講義のテーマである、「小説を書くのは小説を読んだからだ」に通じる話である。「寂しき人々」を読んだ花袋がどう「蒲団」を仕上げたのかが問題。


 後藤明生は、花袋はおそらく、「寂しき人々」は上品すぎると捉えたのではないかと解釈している。ヨハンネスがアンナの手も握らないどころか、邪な妄想すらしないなんてウソだろうと。それで「蒲団」の妄想だだ漏れの主人公が誕生したわけである。


 この解釈は妥当だと思うし、その発想自体は悪くないと私は思う。問題は、妄想だだ漏れ男を書くことが「自然主義文学」だと主張したことだろう。単に「面白い小説を書きました」と言っておけばいいのに、妄想だだ漏れ男を描くことが知的で高尚な行為だと真面目に喧伝したところに日本の自然主義の問題があったわけである。


 もし本気で文学的に妄想だだ漏れ男を描くのであれば、『トリストラム・シャンディ』を下敷きにする必要があったろうと私は思う。本気で狂っただだ漏れ小説が西洋にはすでに存在しているということを知らなかったからこそ、この程度の作品を書いて満足してしまったのだと思われる。



 志賀直哉。

 後藤は志賀直哉の「直写」とは、他者の解釈を拒絶する描写方法だと解釈している。読者の解釈を封じるように、作者の見方、解釈を書いていくのが「直写」の正体だと見ている。


 後藤は他者との「関係」を重視する作家だから、その彼が他者との関係を拒絶した文章と評価したのは酷評と同義である。志賀直哉はクソだと言ったに等しい。もちろん後藤はそんな下品な表現はしないが。



 宇野浩二。

 後藤が宇野浩二を評価するのはわかり切っている。アミダクジ式に話が展開する方式や饒舌体、ゴーゴリに影響を受けているなど、後藤の作風とよく似た作家だからである。

 ここで書かれていることは、後藤明生の著作を読んでいる人ならさんざん読んでいるので、私としては退屈な回である。



 芥川龍之介と永井荷風。

 二人とも後藤明生を語る上でなくてはならない作家だが、ここではそこまで深く言及されてはいない。

 後藤が芥川について語っている作品といえば、『しんとく問答』所収の「『芋粥』問答」である。講義録なのかエッセイなのか小説なのかわからない、不思議な形式で書かれた作品。初めて読んだ人は、「これ、本当に小説?」と思うだろうが、この新書の文体と読み比べればはっきりとわかる。「『芋粥』問答」の文体は、明らかに小説として書かれたものである。


 永井荷風については、この新書では、芥川について論じる過程でちょっと触れられているだけとなっている。

 一方、『壁の中』の後半では、霊界から呼び出された永井荷風とのお喋りが延々と書かれている。



 横光利一。私が好きな作家である。しかし、私が好きな作家はだいたい一般受けしない。横光利一も、下手をすると忘れ去られようとしている作家の一人である。面白いと思うのだが。

 新書では後藤らしく、関係の構造から「機械」を分析している。



 太宰治。

 太宰治は生前は文壇では冷ややかな評価を受けていたが、『人間失格』を書いて自殺したから「純文学」として評価されるようになった。文壇がいかにクソかがわかる話である。

 この回は、文学史としては興味深い内容だが、作品解釈としてはつまらない。作家論に偏りすぎている。



 椎名麟三。

 読んだことがない。この新書を読んでも興味を惹かれず、読まずじまいである。実存主義的な作風らしいが、それが私と相性が良くないのかもしれない。

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