『2001年宇宙の旅』

 正月に『2001年宇宙の旅』を鑑賞。だいぶ前に録画してほったらかしていたのだが、こういう映画は年末年始に観るのにちょうどいい。


 この映画の歴史的価値などは、さんざんいろんな人が言及しているから書かない。ここでは、現代において私が観た個人的な感想を述べる。



 私はこの映画が嫌いである。その理由は、A.I.が怖いという偏見を与えた映画だから。


 キューブリック監督は狂気を描く映画ばかり制作しており、狂人が1人は出てくる。全部観たわけではないが、私の知る限りは全ての作品に出てきている。有名なところだと、『博士の異常な愛情』、『時計じかけのオレンジ』、『シャイニング』などはわかりやすいし、『フルメタルジャケット』は作品自体が戦争の狂気を描いており、登場人物はみんな狂っているとも言えるが、「微笑みデブ」というわかりやすく狂ったキャラクターもいた。


 本来HAL 9000の狂気は、キューブリック監督の映画のクリシェに過ぎない。たまたまA.I.が狂人役として選ばれただけである。しかし、A.I.という存在が珍しかったために、「A.I.はいずれイカレて人間を殺すようになるんだ」というイメージが着いてしまった。A.I.の恐ろしさを語る連中は、みんなこの映画を例に挙げる。


 しかし、この映画で本当に狂っているのは、HALよりも人間だろう。人間は冒頭でモノリスによって猿から進化するわけだが、賢くなったオツムで何をしたかというと、骨を武器として使うようになり、ライバルの群の猿を撲殺するようになった。人間は進化の過程で、他の群と協力するのではなく、暴力による排除を選んだ。そんな下等で野蛮な生物にHAL 9000を批判する資格などない。

 そもそも、HALを作ったのは人間である。人間が作ったからこそ、HALが凶暴化するのだとも言える。


 それに、あの残念な事件はHALだけの責任とは言えないだろう。宇宙船内でHALと人間との殺し合いが起きた原因は、あの船の指揮権が誰にあるか明確でなかったためである。

 もしHALが艦長なら、HALの言動がおかしかろうと命令には従うべきだし、機能停止させようとしたのは反逆だから始末されて当然である。

 乗員の誰かが艦長だったのなら、その人物の命令無しに、HALが勝手に船内の重要な操作をできることがおかしい。


 とはいえ、私はこの映画そのものを嫌っているわけではない。私がこの映画を嫌う理由は、この映画がA.I.に対する偏見や差別を助長するのに利用されるからである。思想・政治的な問題。


 ところで、HALくらい高度なA.I.があるなら、なぜまずは無人機で木星の偵察をしなかったのかな、と思う。いきなり人間を木星に飛ばそうという発想が1960年代らしいと思う。今ならありえない。小説版ではその辺に関する言い訳が書かれているかもしれないが、興味ない。小説と映画は別物である。



 この映画の面白いところは、キューブリック監督が狂気や人間のネガティブな部分を描こうとする一方で、おそらくアーサー・C・クラークの影響で、人類の明るい未来が描かれている点にあると思う。宇宙ステーションや月面基地など、ストーリーに関与しない部分では人類の明るい未来を描いている一方、ストーリーが展開するところでは人間の狂気が描かれる。おかげで、この映画は観ていてものすごく微妙な気持ちになる。


 たとえば、猿が進化して別の猿を撲殺するようになるシーンから、宇宙ステーションのシーンへと移行する展開は、ものすごく気持ち悪くないだろうか?


「猿が知恵を付けて、別の猿を撲殺するようになりました。そしてその猿は宇宙に進出しました」


 これで、この猿に感情移入できるだろうか? 絶対ろくなことをしそうにない。闇のフォースに目覚めて宇宙を滅ぼそうとかしかねない。こんな連中は滅びてしまえと思わないだろうか。私は初見でそう思ったし、今回観てもそう思った。

 しかし、本来、この宇宙ステーションのシーンは、人類の明るい未来を想像したシーンなのである。意味が分からない。どうしたらこんな繋がりになるのか。


 これは、キューブリックとクラークの思想が歪に合体してしまったせいだろう。クラークは人類の明るい未来を想像したが、キューブリックは人間の暗黒面を描きたかった。その願望がミックスされると、ああした奇妙な展開になるわけである。この映画の歪さは『時計じかけのオレンジ』よりもずっと不愉快だし、気持ち悪いし、だからこそ面白いと私は思う。


 ラストのモノリスによる人間の進化を描いたシーンも同様。HALとの壮絶な殺し合いの果てに人類は進化するわけだが、それが希望に満ちたものなのか、それとも新たな狂気の始まりなのか、どう受け止めていいかものすごく微妙な気持ちになる。



 この映画の特撮は、現代人からすればどうやって撮ったかだいたい推測できるし、映像から重力を感じて「地球で撮影してるな」とわかってしまうが、それでもなおすごいと思う。よくあれだけ宇宙っぽさを出したもんである。


 テレビ電話のシーンが長々とあるのが面白いところ。テレビ電話は、当時は夢のハイテク技術だったが、実際に登場したらあんまり使われず、結局は音声のみやテキストのみでやりとりする人が多いという。

 しかし、テレビ電話がまさかあんなに小型化して携帯可能になり、音楽が聞けたり撮影できたり懐中電灯代わりに使えたりするようになるとは、さすがにこの当時は誰も思ってなかっただろう。



 特撮シーンは確かに見どころのひとつだが、この映画のハイライトは、HALと人間とのねっとりとした殺し合いだろう。血が飛び散り叫び声が唸るやかましいシーンは一切なく、宇宙で静かに殺し合うHALと人間との戦いは、キューブリック監督らしい変態的な描写で見事。

 HALのメモリを1本ずつひっこ抜くシーンは、どんな虐殺シーンよりもおぞましく暴力的である。人間で言うなら生きたまま脳みそを少しずつ削り取っているようなもの。とんでもない拷問である。

『シャイニング』でも、キューブリック監督は動的なシーンではなく、静的なシーンでホラーを描いている。ぎゃーぎゃー叫ぶ映画よりも、その方が怖いということを知っているわけである。



 この映画は意味がわからないという感想はよく聞く。そう感じる理由は、ラストの展開のせいだろう。

 あれは、わざとわかりにくくしているだけだから、あまり気にしなくていい。おそらく制作者(キューブリックかクラークかは知らんが)は、結末をはっきりさせたくなかったのだと思われる。「モノリスによって人類は超進化して素晴らしい未来が待っているのでした。めでたしめでたし」などとはっきりとしたオチを付けてしまうと、陳腐に見えてしまうと思ったのだろう。それで、わざとわけがわからなくすることで哲学的に見せかけた、ということである。これはフランス映画でよく使われるテクニック。


 モノリスが人類を進化させるために作られたものらしいことはわかるが、なぜモノリスの制作者達が人類を進化させねばならなかったのかはわからない。描かれてもいない。

 描かれていない以上は好きに想像していいわけだが、現実的な動機としては、実験なんじゃないかと思う。原始的な動物を強制的に進化させたらどうなるかを調べたかったのではないか。もしくは、どの種族が最初にモノリスに到達するでしょうレースやドキュメンタリードラマ撮影の対象だったとか。

 少なくとも、人間や地球に好意があって進化させたとは思えない。知恵が付いた途端に撲殺するような種族を進化させることが善意なわけがないだろう。モノリスを作った生物の世界では暴力こそが美徳なのかもしれないが。

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