二十三

 わたくしはそのショウケースに、聊か奇妙な、誘惑めいたものを感じておりました。

 それは全面が硝子張りでできており、縁や取っ手に真鍮の細工がなされていて、輝かしい氷の宮殿のようでありました。

 なかは三つの段に別れており、それぞれに、硝子でできた人形や、調度品が幾つも並んでおりました。下段には、ロバやラクダなどの愛くるしい動物たち、中段には、愉快な道化や音楽家、上段には、きらびやかな衣裳に身をつつんだ貴族たちが、主として飾られておりました。暖炉も食器も、すべて精緻な硝子細工でこしらえてありました。それはそれは華やかで、まるで飽くことのない饗宴を催しているようでありました。しかしわたくしは、ショウケースのまえを通るたび、それがとてもうつくしく、心惹かれるものであると知っているにも拘らず、見てはいけないものを見ているような、いきがらしい背徳感におそわれたのです。

 時折、伯父が、どこからか新しい人形を仕入れて参ります。それを受け取り、ショウケースに並べるのは、息子である彗一さんの役目でした。彗一さんはそのたびに、ショウケースがうつくしく見えるよう、人形や調度品の配置を練り直してくださるのです。

 彗一さんは、硝子細工がなにかの拍子に倒れてしまわぬよう、底の部分に、特殊な接着剤のようなものを施しておりました。これは、衝撃や振動にはとても強いのですが、ゆっくりと持ちあげれば、固定物を傷めることなく、天板からきれいに取り外すことができるというものでありました。ですから、繊細な人形たちを、ショウケースのなかに安定した状態で保っておきながら、必要なときには、簡単に並び替えることができたのです。

 ショウケースの下段の隅には、いつも決まって、槍を手にした兵隊の人形が一体、置かれておりました。

 わたくしは、この兵隊は職務のためにそこにいるのであって、けして宴を楽しむためにいるのではないということを解っておりました。鎧をまとい、武器を持ち、気を張りつめ、周囲に目を凝らしながら、この終わらない宴を守りつづけているのです。目のまえに酒や御馳走が置かれても、楽しい音楽が鳴り響いても、道化が火の玉を丸呑みしても、手を叩くことも、笑うことも許されなかったでしょう。兵隊とは、往々にしてそのような役割でした。

 けれどあるとき、なにかのはずみで、革命が起こったら。

 わたくしは洋服が好きでございます。そして、選ぶ衣服によって、格好がつくことも、見窄らしくなることも、偉くなることも卑屈になることもできると知っておりました。そして、ショウケースの中身を、簡単に並び替えられるということも。

 わたくしは兵隊のために、豪華な衣裳を仕立ててやりました。光沢のある布地に、金の糸で太陽の刺繍を入れ、フリルやビジューをふんだんにあしらった、ショウケースのなかのどの人形よりも華やかなものでございます。材料には、双子の従姉弟たちから頂いた不要な洋服を使いました。彼らは高価な衣服を好んで購入しますが、それらは数回身につけられたのち——若しくは一度も身につけられることなく——床に投げ飛ばされ、挙句捨てられてしまうことが多かったのです。しかしながら、彼らが選ぶ品々は、シルクやカシミヤなど、いつも上等なものでありました。

 あれは、五月の初旬のことでありました。

 わたくしはできあがった衣裳をシャツのなかに隠し入れ、ショウケースの置かれてあります洋間へと向かいました。幼少期より、わたくしの傍に纏わりついている姉の花織を欺くのにはたいへん苦労いたしました。まんまと姉からのがれることに成功いたしますと、家の者をあっと言わせたかったので、わたくしは誰にも姿を見られぬよう、忍び足で廊下を進んでゆきました。

 ショウケースに錠などは付いておりませんでした。

 とびらを開け、兵隊の人形をゆっくりとひっぱりあげました。思っていたとおり、兵隊はあっさりと天板から外れたので、わたくしは手早く、こしらえた衣裳を着せてやろうと考えました。

 袖を通してやろうとして、兵隊の腕を握ったとき、兵隊の手許から、槍の部分がぽろりと取れました。

 わたくしは血の気がひきました。名は失念しましたが、この人形たちというのは、古くからある有名な硝子メーカーの骨董品で、とても高価な品だということを聞いていたのです。もはや、家の者を驚かすどころの騒ぎではありません。

 わたくしは着せかけていた衣裳を兵隊から剥ぎとり、手垢がつかないよう、服の袖口で表面をぬぐいました。それから、天板のうえの、もとあった接着剤の部分に押しつけました。

 取れてしまった槍を握りしめ、走ってゆき、自宅の離れの一室の、掛け軸のしたについている、軸棒の中にそれを隠しました。まえにそれをいじくっていたとき、両端の蓋が外れて、なかが空洞であることを覚えていたからです。

 平静を装いながら、姉の花織の許へもどりました。あまり長いあいだ傍を離れると、なにをしていたのかとしつこく訊かれると思ったからです。

 拍子抜けしたことに、ショウケースのなかから兵隊の槍が消失したことに気がつく者は、一晩過ぎても二晩過ぎても、誰ひとりありませんでした。わたくしたち一族は、硝子の人形を価値ある財産と思い、とても大切にしておりましたが、一方で、大切なものだからと日日鑑賞する者はなかったのです。

 もし、この大事が家の者に知れるとしたら、伯父が新しい人形を入手し、ふたたびショウケースのなかが並び替えられるときでした。そのときまでになんとか手を打たねばと思案いたしましたが、しだいに、その事実はわたくしの頭から忘れ去られてゆきました。

 槍のことを思いだしたのは、我が家に、数名の客人が招かれたときでした。

 客人のひとりが愛らしい着せ替え人形を持っていることを知っていましたので、わたくしは迂闊にも、その人形を見せてはもらえないかと頼みました。そして、それで遊んでいるうち、姉の花織はなにを思ってか、客人に、我が家にある硝子の人形を見ないかと提案したのです。

 ショウケースをまえにして、客人たち——やけに陰気なひとりを除いて——は硝子の人形に興味津々でした。そのうちのひとりは、あろうことか寫眞まで撮影しておりました。わたくしがべつの遊びを提案し、その場は難をのがれましたが、事がおおやけになるのは時間の問題と確信いたしました。

 事件はその夜、起きました。わたくしの祖母が、自室のベッドで息絶えていたのです。

 当然、家中の貴重品や、骨董品の被害の有無が確認されました。よって、槍が消失していることは、まもなく警察の知るところとなりました。

 さいわい、警察の疑いの眼がわたくしに向けられることはありませんでした。警察はこのまま、行方をくらました犯人により、槍は持ち去られてしまったのだと結論づけるのだろう。わたくしはそう信じておりました。

 不安が再燃したのは、事件の翌々日、客人と暢気に菓子作りなどしていたときのことでありました。

 警察が、ショウケースの指紋を調べている——。

 客人が、わたくしにそのようなことを語ったのです。

 はて、わたくしは。

 あのとき、ショウケースのとびらの、取っ手の部分を拭いたでしょうか。

 わたくしは必死の思いで記憶をたぐりました。そして、記憶のなかで、わたくしははっきりと、兵隊の人形を袖でぬぐい、とびらを閉めたあと、流れるように取っ手の部分を拭いていたのです。それは、もうひとりの姉である砂織が、時折、そのようにしてショウケースの外側を磨く様を見ていたことに由るものでした。

 ほっとしたのも束の間、客人はまた言いだしました。

 最新の科学捜査で、拭いても取れない指紋を検出する——。

 わたくしは愕然となりました。もしも、その科学捜査とやらで、ショウケースのどこかしらから、わたくしの指紋が見つかれば——。わたくしが兵隊の人形を壊したことが家の者に知れるどころか、祖母を殺害した容疑まで、わたくしに降りかかるやもしれません。

 わたくしは自宅の離れの、例の部屋へ走ってゆき、軸棒のなかから、硝子の槍を取りだしました。

 そして、洋間へ向かい、兵隊の手のなかに、無理くり槍を突き刺しておこうと考えました。事件が起きてからというもの、ショウケースのなかからは、様々な品物が消えたり現れたりしているのだと客人が語っておりましたので、この時分になって槍が現れても、いまさら誰も驚かないだろうと考えました。そして、仮にわたくしの指紋が見つかっても、こうして自発的に槍を元通りにしたのだから、少しは罪が軽くなるだろうと思ったのです。

 わたくしはショウケースのとびらを開くと、一旦、天板の空いたところに槍を寝かせておき、両手で兵隊を持ちあげました。

 こんなことになるのなら。

 よけいな情けなどかけなければよかったと、わたくしは兵隊を忌々しく握りしめ、自身のおこないを悔やみました。

 わたくしは片方の手で、槍を拾いあげました。しかしそのとき、もう片方の手が滑って——


「って感じ?」

 池脇は言った。

「って感じ」

 伊織は言った。

「反省してんのか?」

「してるって」

「最初から正直に話してれば、こんな大ごとにならなかったんだからな?」

「でも僕、あれが着せ替え人形だって知らなかった」

「だから、『知らなかった』は言い訳にならねーの」

 池脇は彗一から借りたTシャツに着替えていた。Tシャツの裾に、小さな白兎のマスコットがついている。

「まだやってんの?」

 襖が開き、隣の座敷から、本村が顔を出した。それから、両手を広げてみせた。「見て、燃えるペンギン。かわくない?」

 伊織は本村のTシャツに描かれたペンギンではなく、その後ろの、さらに奥の襖を見つめていた。部屋がしんと静まると、かすかに、遠くから何者かの話し声が聞こえた。

「犯人が分かったの?」

 遠くの襖を見つめたままで、伊織は言った。「おばあちゃんを殺した人」

「守秘義務っつーのがあってな」

 置かれた湯呑みに手を伸ばしながら、池脇は言った。「警察は、捜査情報を一般人にぺらぺら喋っちゃいけねーんだよ。だから俺らは知らねーの」

「ふうん」

「それにしても」

 本村は縁側の方へ歩み出た。「雨やまないね。絶対通り雨だと思ったのに」

「やまなくていいよ」

 伊織は座卓にあごをのせ、瞼を伏せた。「どこかちがう町が晴れてくれたら、それでいい」

 長い睫毛が、憂えたように垂れていた。

 本村はそれを見やりながら座卓に腰をおろし、急須を傾けた。「あら?」

 注ぎ口から、冷めた茶が申しわけ程度に数滴落ちた。

「僕、新しいのもらってくる」伊織は起き上がった。

「いいよ、自分でやるから」

「ぼ・く・が・や・る・う」

 伊織は駄々をこねるように言った。

「お前取調べから逃げたいだけだろ」池脇が言った。

「ちがうよ」

「じゃ、お願いします」

 本村は急須を差し出した。伊織はそれを盆にのせて立ち上がり、戸口へ向かった。

「あ、そうだ」

 伊織は振り返った。

 それから、満面の笑みで言った。

「で湯wうぇルthは゜ぁルルルァ機s」

 伊織は部屋を出ていった。

 本村と池脇は固まった。

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