二十二

「伊織君が僕に、青はないのかって聞いたのは」

 車の後部座席で、本村は言った。「単純に、青い服のことを指していたわけじゃないんです。伊織君が言いたかったのは、〝僕たちがクリッシーに行ったとき〟、メイリスが着ていた青いドレスのことなんです」

「そらおかしいだろ」

 横から、池脇が言った。「俺たちがあの店に行ったのは、お前がAAでブルーハワイぶっかけられるよりも前のことだろ? なんで伊織が、その日にメイリスが着てた服の色なんて知ってんだよ」

「花織ちゃんと伊織君が僕らを見たのは、AAが初めてじゃないんだよ。まず、最初に、クリッシーで僕らを見た。それで、僕らをターゲットに決めて、あの金曜、AAで不注意を装って、接触を図った」

「なんのために?」

 険しい表情で前方を見据えながら、佐野は言った。

「僕らを、『謝罪』という名目で氷降家に招待するためです。氷降家と縁もゆかりもない人物なら、誰でもよかった。冷湖さんの死亡推定時刻に、〝一族の人間は全員広間にいた〟と断言してくれる証人が欲しかったんです。証人が、なんらかの理由で席を立つ可能性もありますし、あれだけの人数がいたら、たった一人で一族全員の動向を把握するなんて不可能です。だから、証人は複数人必要だった」

「なるほど」

 余裕のうかがえる表情でハンドルを握りながら、相原は言った。「その証人探しを担ったのが、早苗さん、結子さんと結太郎さん、そして花織さんというわけか」

「そうです。早苗さんは体調不良を装って青山さんを、結子さんたちはわざと財布を落として、柏谷さんたちを招待する口実を作った。そのために、普段は持たない財布まで用意して————」

「一族の人間が共謀し、なんらかのトリックを使って、氷降冷湖を殺害した?」佐野は言った。

「いえ」

 本村はまっすぐ前を向いていた。「冷湖さんは自殺です」

 佐野はしかめっ面で振り向いた。非難がましい口調で、池脇が言った。「あの日、あの時間に、冷湖さんが自殺すると知ってて、一族の人間は呑気に自分たちのアリバイの証人を準備したってことかよ」

 本村は頷いた。

「現場の状況がどう見ても自殺だったとしても、亡くなったのが資産家なら、その身内は疑いの目を向けられることになる。だから、完璧なアリバイが必要だった。三梅さんを雇ったのも、夕食時、八時以降の給仕を任せるため、それから、遺体の第一発見者となってもらうため。あの日の八時以降、一族の人間は、誰一人広間を出るわけにはいかなかった。結局、三梅さんは八時半に寝酒を運びに行くまで広間を出ることはなかったですし、死亡推定時刻も八時前後と判明したので、あの夜氷降家にいた人間、全員にアリバイが成立しましたけどね」

「待て待て。理由はどうあれ、冷湖さんが自殺だったと仮定するよ」険しく目を閉じ、佐野は言った。「枕元にあった、あの二枚の白紙はなんなの」

「そうだよ」池脇も言った。「身内に疑惑を向けられたくないなら、それこそ、遺書やら遺言書やら、きちんと用意しておくはずだろ?」

「あれは————」

 自らをすいと信じて疑わない堅氷の、ほんの僅かな不純物————

 車は、濃古見へ向かう林道へ入った。

「お」

 フロントガラスに落ちた水滴を見て、相原は小さく声を上げた。数日前、色鮮やかで清々しい空気に満ちていたはずの林道は、鬱蒼とした闇路へと変わっていた。

 相原は村の入り口の前で突然車を止めた。

「なんすか」池脇は言った。

「え、お参り」池脇の方を軽く振り返ってから、相原は、道路脇の林の方をあごで指した。「早くしないと。ひと雨くるよ」

「相原さん……」本村は言った。

「俺らだって時と場合は選びますよ」池脇は言った。

「ああそう」

 それは失礼、とでもいう風に、相原はなんでもない表情で、すみやかに車を発進させた。

 本村は、相原が指した林の方を横目で見ていた。胸の内に、消化不良のような、もやもやとした気持ちが残った。

 一同は氷降邸に到着した。玄関で相原が人を呼んだが、応答がなかった。雨脚が強まり始めた。池脇は頭上を見上げた。空は、いつの間にか黒雲に覆われていた。

 本村は走り出した。

 放射状に延びた、氷の結晶のような家屋の外周を、ぐるりと回った。

 雨戸の開いた縁側に、花織が腰をおろしていた。服が濡れることなど気にもしないようすで、しっとりと、凄烈な雨空を眺めていた。

 本村はずぶ濡れだった。今日の寝癖が、すっかり潰れて垂れていた。

 本村に気づくと、花織は微笑んで立ち上がった。

「タオル持ってくるね」

 池脇たちがかけつけた。一同は縁側から部屋へと上がった。最後に入った相原が、そっと雨戸を閉めた。

 さほど広くはない、家具もほとんど置かれていない質素な和室に、本村はタオルをかぶって正座した。部屋の中は、なお一層暗かった。

「家の人は?」

「みんな、理由をつけて出かけちゃった」

 花織は熱い茶を淹れながら言った。「ここ何日か、ずっとこもりきりだったしね。いつもは、みんな家にいたがるけど、さすがに気分転換したかったみたい」

「花織ちゃんは、出かけなかったの?」

 本村が言うと、花織は小さく笑って頷いた。

「一日中、ずっと?」

「事件は、解決してないし。おばあちゃんのことで誰かが訪ねてきたら、困るから」

「誰かって?」

 本村は聞いた。「それは警察じゃなく、僕や池脇君のこと?」

 とうとうと考えごとでもするように、花織は何気なく視線を伏せた。それから、非力な表情の中で、懸命に、持ち堪えるように、力強い瞳を本村へ向けた。

「伊織は……知らないの」

 花織は崩れ落ちそうになるのを、必死でこらえながらうったえた。「全部私たちがやったの……私たちだけで……」

「先々週の火曜に、何があったの?」

 本村はたずねた。

 花織は息を整えると、落ち着いて、はっきりと言った。

「リモート会議」

 相原は眉をひそめて佐野を見た。佐野はぴくりともせず、真剣な表情で耳を傾けていた。花織は話し始めた。

「朝の早いうちは、みんな何も分からなかった。結子ちゃんと結太郎君は、いつにも増して楽しそうに買い物に行って、彗一兄さんは菊田さんの家に行って、お母さんは用事があるからって町の方まで出かけていった。私も、伊織を連れて近くの川辺に遊びに行った。家に残った人たちは、それぞれ、自分たちの離れにいたって聞いた。十時に、なんの予告もなく、突然会議が始まって————。みんなそれぞれ、自分のスマホやパソコンで参加した。私も、川沿いでスマホを見てた。伊織が覗きたがったけど、理由をつけて、見せないようにした。会議の最初に、おばあちゃんがそう言ったから。会議の内容は、『新しい伝統を作る』ということだった」

 よどみなく、花織は語った。

「おばあちゃんが始めようとした伝統は、『一族の当主が心臓を一突きにして自害する』っていう、言葉にしてしまえば、とてもシンプルなものだった。私も最初は、おばあちゃんは高潔なことをしようとしてるんだと思ってた。伝統の作法として、当主は、その時、自身が一番美しいと思う衣裳を着て、枕元に直筆の遺書と遺言書を置き、心臓を一突きにしたあと、凶具を胸に抱いて、寝具の上で、眠るように死す、とおばあちゃんは提案した。誰も意見する人はいなかった。おばあちゃんの後継者は、二年前から透織兄さんに決まってた。伝統で、氷降家では十九歳になった者が、遺産のすべての相続権を得るの。透織兄さんの十九歳の誕生日のときも、彗一さんから相続権が移って、その日のうちに遺言書が書き換えられた。だから会議では、遺産や後継者のことについて話し合われることはなかった。おばあちゃんは、氷降家の将来を見据えた上で、新しい伝統は必要なことだと言った。そして、その価値を高めるため、重みを持たせるために、始めるなら早い方がいいと……」

「氷降家が作った伝統は、それだけじゃないよね?」

 本村は言った。「六離天流比売の伝説。あれも、昔の氷降家の誰かが創作したものだよね。巻物を作って、祠まで用意して。祠の前を通るとき、菊田さんは参拝をしなかった。六離天流比売の崇拝は、濃古見の住人じゃなく、氷降家の人たちだけに課せられた伝統だね?」

 花織は頷いた。

「ずっと前に、菊田さんが話してたことがあるの。いつもの長話の延長で、私たちを責めるつもりは、なかったと思う。ただ、自分が知っていることを披露したかっただけみたいで————。ずっと昔、おばあちゃんがまだ十代だった頃、氷降家の一族はこの村にやって来て————そして、村の入り口に、勝手にあの祠を建てたんだって。当時の氷降家の人たちは、村に莫大な寄付をしたり、村の自然を守るため、村人の生活を守るために奔走してくれたらしいの。だから、勝手に祠を建てられても、村の人たちは一族を責めるどころか、『村を邪気から守るためにしてくれた』と感謝してたくらいだったって。この事実は、村のほとんどの人が忘れてしまっていて、今は祠だけが残ってる。自分たちの先祖が人様の土地に勝手に建てた祠に、有り難がって手を合わせてたなんて滑稽でしょ? でも、なんのためにそんなことをするのかなんて、考えたこともなかった。そういうことをしていれば、私たちは、一族のプライドを保っていられたの」

 思い起こすように、花織はぼんやりとどこかを見つめていた。それから、すぐに我に返った。

「当日の流れは、たった十五分の円滑な会議で決まった。そこからは早かった。正枝伯母さんがお手伝いさんを手配して、結子ちゃんと結太郎君がブランド物の目立つ財布を買いに行って、お母さんは道端で体調不良を装って、晶彦兄さんが作った下書きを基に、おばあちゃんは遺書を書き上げた。凶器は、冷二伯父さんが用意するはずだった。骨董品店を回って、伝統に相応しいものを見つけてくるからって。でも、『自分の手に馴染むものがいいから』って、おばあちゃんはその日の夜、通常の業務をきちんと終えたあとで、凶器を探しに一人で出かけていった。私は、氷降家とはなんの接点もなさそう若者を、一人二人、探してくる役目を任された」

「それが俺たち?」

 静かに、池脇は言った。花織は何度も頷いていた。

「会議が終わったあと……だんだん、恐ろしくなってきた。おばあちゃんが死んでしまうこと、それを誰も止めないこと、それに————伝統が続けば、いつかは、透織兄さんも————。私はずっと、偶然見かけた高校生のことを考えてた。会議の前日、伊織と行ったクリッシーで見かけた、四人組の高校生。憂鬱で、不機嫌で、気楽で、風変わりで。下の世界で、できる限りの、それなりの自由を謳歌してる人たちに思えた」

「だから、証人役にぴったりだと思った?」

 本村は言った。

 花織は激しく首を振った。

「外の常識を、持ってきてほしかった。私たちを見て、〝ヤバイ〟とか、〝アリエナイ〟とか。下品な言葉で揶揄してくれることを、期待してた」

 花織は続けた。

「その日の夜、晶彦兄さんの書斎に、遺書の下書きを盗みに行った。晶彦兄さんは、不要な書類は週末にまとめて処分するって知ってたから、書斎には、下書きがまだ残ってることも分かってた。水曜の午後、おばあちゃんが満足そうに、凶器を持って帰ってきて————でも、『当日までのお楽しみ』だからって、おばあちゃんは凶器がどんなものなのか、私たちにも、晶彦兄さんにも見せてくれなかった。夜に、結子ちゃんたちが兎渡瓦の料亭へ行って、帰りにわざと財布を落として————。木曜のことは、よく覚えてない。金曜に、伊織を連れて、もう一度岩月市へ出かけた。学生が行きそうな、いろんな店をまわって————。本村君たちがAAに入って行くのを見つけたときは、奇跡だと思った。この人たち以外に、もう、〝頼める人〟はいないんだって確信した。もう気づいてると思うけど、謝罪の口実を作るために、つまずいたふりをして、ドリンクをわざとこぼした。本当にごめんなさい。それから勢いがついて、土曜に、鳴代伯母さんの部屋から書道の道具をこっそり借りて、彗一兄さんを相続人に指名した、偽の遺言書を作った。当日はずっとハラハラしてた。夕方、晶彦兄さんがおばあちゃんと最後の〝打ち合わせ〟を済ませてから、夕食が始まるまでの間に、おばあちゃんの部屋に忍び込んで、遺書と遺言書を白紙にすり替えるつもりでいたから。伊織は、昔は私にべったりだったけど、最近は気まぐれで、一人でふらっとどこかへ行ってしまうの。あの日の、夕食の前もそうだった。その隙に、私はおばあちゃんの部屋へ行った。おばあちゃんはまだ部屋にいて、インターネットで、『美しい自害の作法』の動画を繰り返し確認してた。しばらく待ってると、おばあちゃんは部屋を出ていって————私は急いで、小箪笥にしまってある封筒の中身を白紙にすり替えた。書道の道具を借りたとき、鳴代伯母さんの部屋から盗んだ和紙————。おばあちゃんが遺言書を六角の小箪笥にしまってあることは、一族の全員が知ってた。昔からそうだったし、相続人は伝統で決まっているから、わざわざ覗きに行く人も、いたずらする人もいなかった。私たちにとって、遺産がどうとか、後継者がどうとかは、争いの種にもならないことだったの。みんな、伝統を受け入れていた。だから、遺言書の管理は、それほど厳重じゃなかった。部屋を出たあと、三梅さんと鉢合わせになったときはびっくりした。分からないことがあったら聞いてください……とかなんとか、そんなことを言って、なんとかごまかして立ち去った」

「封筒の中身を白紙にすり替えたのは、冷湖さんに、自殺を思いとどまってもらうため?」本村は聞いた。

 花織は、堅い表情で首を振った。

「私は、もうあきらめてた。おばあちゃんは、やると言ったら絶対やるの。夕食の席で、私が泣いて頼んでも、死ぬ直前に、封筒の中身が白紙だと分かっても————。その日は中止になっても、おばあちゃんはいつか————いつかこの恐ろしい伝統を始めてしまう」

「じゃあ、なんのために遺言書を?」池脇は聞いた。

「残されたみんなに、もう一度考えてほしかった。決めたはずの作法は果たされなかった。伝統の始まりは失敗に終わった。じゃあ次は? これを続けるべきか、必要なことなのか、正しいことなのか————。全員が反対しなくても、後継者である透織兄さんが、一人でも伝統を廃止すると言ってくれたらいいと思ってた。みんなは、それに従うしかないから————」

「結局、冷湖さんは封筒の中を見ずに、伝統を決行した」本村は言った。

「死体が発見されたとき、あるはずの凶器が、見当たらないことに気づいた。厳格な作法に、何か手違いが起こったのかもしれない。みんな動揺して、特に、一族の中で一番伝統にこだわってた冷河伯母さんはひどく悲しんでた。でも、みんな落ち着いて考えることにした。一族の誰かが、伝統を汚すわけがない。寝酒を運びに行ったとき、きっと三梅さんが何かしたんだろう。そう信じきってた。警察が事件を自殺で処理しようと、他殺で処理しようと、私たちにとってはどうでもよかった。他人の邪魔はあったけど、〝伝統は無事遂行された〟と私たちだけが分かっていれば、それでよかったの。でも、遺書と遺言書が白紙と分かって————」

「みんなが、疑心暗鬼になった?」本村は言った。

「透織兄さんは寝込むほどショックを受けた。おばあちゃんが死んだからじゃなく、自分が後継者になることに、賛成していない人がいると思ったから。お母さんも、自分たちは氷降家に歓迎されていないんじゃないかと思い始めてた。次の日、なんでか分からないけど、ガラスドールのパーツが盗まれたり、おばあちゃんの寝酒がウォッシャー液に変わっていたってことを知った。私は少しほっとした。私とはちがう方法で、一族のみんなを混乱させようとしてる誰かがいるんじゃないかって思えたから。その時にはもう止まれなかった。ガラスドールのショーケースに、偽造した遺言書を入れて、次の日、遺書の下書きを入れた。彗一兄さんや、晶彦兄さんを陥れたいわけじゃなかった。遺言書が偽物とバレてもよかった。ただ、自分たちが責められる立場になれば、もうばかなことはやめようって、考えを変えてくれると思ったの。なのに、みんな————」

 花織は、膝に置いた両手を強く握りしめた。

「みんな、誰がやったとか、遺産がどうとか、そんなことばっかりで————。おばあちゃんの死に疑問を持つ人なんて、一人もいなかった」

 花織はうつむきながらふるえていた。話は、そこで途切れた。

「そこまで思いつめていて」

 佐野が口を開いた。「どうして警察に相談してくれなかったの」

「だって————」

 うつむいたまま、花織は話した。

「こんなことが世間に知れたら、氷降家のブランドは地に落ちます。私は、私は————」

 花織は叫んだ。

「一般人になりたくない!」

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