ともに生きる

森山 満穂

ともに生きる

 暗闇の中、つとむは腕に顔をうずめてじっとしていた。体育座りで小さく縮こまった体は、まるで嵐が止むのを待つ人のように不安げに見える。どすどすどす。家中を行き交う足音が近付く度、見つからないかとどぎまぎする。伝はぐっと目をつぶって、懸命に息を殺した。足音の向こうにある海の音に耳を澄ませて、自分の中をその穏やかな音でいっぱいにする。そうすると気配が溶けて闇と一体化したような気になり、伝は自然と心地よさを感じた。まるですべての悪いことから守られているような、ここにいれば大丈夫だよと語りかけてくれるような静寂が、伝は好きだった。


 バンッと勢いよく戸が開かれ、陽射しの中に仁王立ちする母の姿が浮かび上がる。その表情は明らかに怒っていた。


「ツトム! 来なさい!」


 手首を掴まれ、明るい世界に引っ張り出される。そのまま畳の部屋を出て廊下を進み、リビングに連行された。座りなさい、となお怒っている口調で椅子を指差す。大人しく座ると、母は向かいの席に腰掛けた。そしてテーブルに肘を置くと、真っ直ぐと伝を見て問いかける。


「その怪我はどうしたの?」


 問い詰めるような言い方に、伝は黙って俯く。眼鏡の奥の目尻には赤い痣が出来ていて、口の端には絆創膏が貼られていた。腫れた頬の赤さが色白の肌に痛々しく浮かび上がっている。


「言わなきゃわからないでしょ?」


 母の口調はいっそう苛つき始めていた。微動だにしない伝に、深くため息を吐く。すると、祖母がリビングに入ってきて、二人を見るやいなや言う。


「どこにおった?」

「押し入れです」


 母の答えに祖母は快活に笑い声を上げる。


「やっぱり海老沢えびさわの血じゃのう」


 朗らかに言う祖母に、二人は揃って不思議そうな顔をした。


「海老は人生の大半を暗闇の中で暮らしとる。伝も暗闇におると落ち着くんじゃな」


 豪快に笑う祖母とは対照的に伝の俯きは深くなり、テーブルの下の両手を握る力が強くなる。その表情はだんだんと曇っていく。


 海老はーー。


 その言葉に心がざらついていく。


 海老、えび、エビ……エビはー。


 ついに我慢できずに、伝は椅子から勢いよく立ち上がった。


「もうえびの話なんて聞きたくない!」


 そう言い捨てると、伝はその場から逃げ出した。制止する母の声を無視して玄関を飛び出し、住宅街を抜け、海沿いの道をがむしゃらに駆け抜ける。きらめく海面が目に染みて、視界が滲む。思わずぎゅっと目を瞑ると、ちらちらと涙が溢れる。けれどもそれは速度に押されてすぐに潮風に流されていった。すると次の瞬間、足に何かが当たって、ふいに地面にすっ転んだ。驚いて目を開けると、足元には缶が転がっていた。


「あーごめん、ごめん」


 気の抜けた声と共に男が駆け寄ってきて、伝を助け起こす。


「大丈夫か?」


 伝が起き上がる間も男は服に付いた土を払ってくれて、心配そうに様子を窺っていた。人見知りの伝は黙って頷く。


「あ、擦りむいちゃってるな」


 確かに膝には血が滲んでいて、少しヒリヒリとする。すると、男は鞄からペットボトルの水を取り出し、傷を洗い流してくれた。さらに伝が出したハンカチを「やってやるよ。貸してみ」と受け取って、手際よくそれを膝に巻いてくれる。


「えび好きなの?」

「え?」

「えび柄のハンカチなんて珍しいから」


 膝に巻かれたハンカチは赤、青、緑とポップな色の小えびが何匹も散りばめられた柄だった。何げなく訊いただけだとわかっているのに、伝は苛立ちを抑えられず不機嫌につぶやく。


「持たされてるだけ」

「あ、そうなの」


 伝がハンカチを睨むように見ていると、ふと小えびがぼやけていることに気付いた。意識するとそれは形を失ってただの色のかたまりに見える。はっとして視線を上げると、目の前の男の顔もぼんやりとしか見えず、目を細めてみても気休め程度にしか鮮明にならなかった。男の背後に続く道はなおさら不明瞭になっていく。急いで耳の後ろに触れるとやはり眼鏡の感触がなく、周りを見回してみてもよくわからない。


「ん? どうした?」


 男の問いかけに自分の周辺の地面を手探りしながら答える。


「メガネが……」

「メガネ?」

「うん。転んだ時に外れたみたい」


 え~? と言いながら、男は辺りを探し回る。伝は動くことができず、同じところを何度も手探りするしかなかった。やがて戻ってきた男が悩ましげにつぶやく。


「ないなぁ。もしかしたら海に落ちたかもしれない」

「えっ! どうしよう……」


 眼鏡がない状態では暗くなっていく道を歩くことも難しい。伝が困った様子でいると、男が言った。


「家まで送ってやるよ」

「え、でも……」

「メガネなくしちゃったの俺の責任だしな。それにこの辺で住宅地はあそこしかないから大丈夫だろ。名前は?」

「……ツトム」

「いや、そうじゃなくて名字、上の名前の方」


 名字の意味はわかっている。けれど、今はそれを口にしたくはなかった。


「……嫌いだから言いたくない」

「なんだそりゃ。言わないと家わかんないだろ」


 それでも黙っている伝に、男は困った様子で頭を掻く。やがて何かを思い付いたらしく、男は伝に目線を合わせて語りかけた。


「わかった! 俺の名前も教えるから、ツトムも教えてくれよ。これでおあいこだろ?」


 ためらいつつもこれ以上困らせるのは悪い気がして、伝はしぶしぶ頷いた。すると男は微笑んで頭を撫でてくれる。


「俺は羽石はぜき真琴まこと。俺もツトムと同じで自分の名前好きじゃないんだよな。名字の方は羽根の羽に石って書くんだけど、これがどうにも正しく読まれない。名前の方も漢字が女の子みたいだーってからかわれたことあるし」


 からかわれた。その言葉に伝は思わず顔を上げる。ばっちりと目が合って、羽石は微笑んでくれている気がした。


「さっ、ツトムの番だ」


 軽く肩を叩かれ、しぶしぶ口にする。


「……え、海老、沢……」

「海老沢? 普通じゃねぇか。なんで嫌いなんだ?」


 すると、伝のお腹が盛大に音を立てた。一瞬の沈黙の後、羽石は吹き出して笑う。


「途中でお菓子買ってやるよ。歩きながら話そう」


 そう言って自然に手を握ってくれる。伝はその手を握り返して、ゆっくりと歩き出した。




   *




 手を繋いで二人は、海沿いの道をゆっくりと歩いていた。伝が羽石を見上げると、それに気付いて大丈夫か? と声をかけてくれる。伝は黙って頷くと、頭に大きな手のひらが乗っかってぽんぽんと撫でられた。こんなに身長差があるのに早足にならないのは、羽石が伝に合わせてくれているからだとわかっていた。優しいおじさんだなと思う。そして、この人になら自分の気持ちを話してもいいんじゃないかとも思った。


 潮鳴りがして、風の匂いが鼻を掠める。


「僕の家は、えびが神様なんだ」


 話し出した伝に気付いて、羽石は視線を向け、小さく相づちを打った。


「だから、えびの物を持ってると神様が幸せをくれて平和に暮らせるんだって。けど、逆にえびを食べたりすると罰が当たるって言われてて……」





 ◇ ◇ ◇




 二時間前、伝は学校の帰り際、クラスメイトの田高たこうに呼び止められて教室にいた。田高とその取り巻き達がにたにたした表情で伝を囲んでいる。

 田高は日頃から伝に意地悪を言ったり、何かと突っ掛かってくる奴だった。今日も悪口を言われたり、突き飛ばされたり、散々な思いをしていた。


「な、何?」


 伝は身構えながらも問い掛ける。すると、田高は背中に隠していたものを伝に見せつけた。


「これ、お前のだろ?」


 その手にあるものは、えび柄のハンカチだった。伝がはっとした表情を浮かべると、田高は手を高く掲げてそれを旗のように振り回す。


「またエビだよ。これ以上エビ菌を振りまかないでもらえますかぁ~?」


 ひらひらと舞うハンカチの中でえびは翻弄されて歪んだ形になる。伝はハンカチを奪い取ろうと手を伸ばした。だが、背が高い田高に敵わず、手のひらは空を切る。


「返してよ!」


 飛び上がって取ろうとしてもはぐらかされ、そんな姿を見て教室にいるクラスメイトはみんな笑っている。伝は情けなくなって、泣いてしまいたくなっていた。さらに追い打ちをかけるように机に置いていたランドセルとひっくり返される。伝の荷物が床に散らばって、えびのペンケース、えびのノート、様々なえび柄の小物が曝された。


「うえっ、エビばっか! 気持ち悪ぃ!」


 田高はその山にハンカチを投げつけ、嫌そうな顔を見せつける。伝は慌てて荷物をかき集めて、鞄の中に戻した。その背中に、また田高が悪口を吐く。


「どうせ食べられる生き物なのに、アガめてるなんてバカじゃねぇの?」


 それに反応してみんなの笑い声が響く。伝は黙って俯くしかできなかった。そんなこと、わかってるよ。心の中だけで悔しい想いを吐き出す。すると、ぐいっと肩を引かれ、目の前に何かを突きつけられる。


「食べろよ。お前のために残しといたんだぞ」


 伝の顔の前をエビフライがぶらつく。伝は激しく首を横に振ると、田高はみんなに向かって声を張り上げた。


「海老沢の共食い見たい人~?」


 は~いとみんな手を上げ笑っている。異様な空気に怯えていると、後ろからクラスメイトたちに羽交い締めにされた。前から田高がエビフライを掲げて詰め寄ってくる。逃げ場を失って伝は口を固く結んだ。それでも口を抉じ開けようと、田高は伝の頬を思いっきり殴った。倒れて床に離された隙をついて、伝は急いでランドセルをひったくって教室から飛び出した。帰り道、涙が止まらなかった。




 ◇ ◇ ◇






「なるほどな。だから、それ」


 羽石は言いながら、膝に巻かれたえび柄のハンカチを見る。伝は黙って頷き、また俯いた。海はもう夕焼け色に染まりつつあって、二人の頬にその色を穏やかに映す。


「帰ったらお母さんに怪我が見つかって怒鳴られるし、もう嫌だ」


 また涙が出てきそうになって、伝は空いている手でごしごしと目元を擦った。


「うーん。それはお母さんに正直に話した方がいいと思うけどな」

「でも、家のことをバカにされたって知ったら、お母さん悲しむよ」


 そう言う伝に微笑んで、羽石はぽんぽんと頭を撫でる。


「ツトムは優しいな」


 見上げると、夕暮れを背に羽石は優しい眼差しで伝を迎えてくれた。その視線が、手の温もりが、なぜだか安心感を呼ぶ。伝はきゅっと握る力を強めて、ぽつりとつぶやいた。


「本当は僕だって、えび柄以外のものがほしいし、エビフライも食べてみたいよ」


 ざざぁと音がして、海面が揺れる。


「じゃあ、食べてみるか?」


 驚いて顔を上げた伝の瞳に、夕焼けの色が瞬く。いたずらっ子のように笑った羽石の視線の先には、ファミレスの看板があった。




   *




 二人はファミレスのテーブル席に向かい合って座っていた。テーブルにはキャベツとともにエビフライが盛り付けられた皿が乗っている。からっと揚げられたきつね色の衣に、食欲をそそる匂い。それから見える赤色の尻尾に罪悪感を覚えつつも、空きっ腹は刺激され続けていた。


「さぁ、たーんと食べろ」


 皿を伝の方に寄せて、羽石は笑顔で言う。しかし、伝は暗い顔をして俯いたままだった。


「どうした?」


 羽石が訊いても、伝は俯いたまま口を開こうとしない。


「ツトム、お前はもう少しワガママでもいいと思うぞ。ある程度の年になったらな、そうワガママ言えなくなる」


 そう言った羽石の目はどこか遠くを見ていた。懐かしい日々を思い起こすような、憂いを含んだ眼差しで。伝は口ごもりつつも、たどたどしくつぶやく。


「でも、罰が当たるの、怖い」


 エビフライを考案した人はなぜ尻尾を残したのだろう。これがなければこんな風に怖じ気付くことはなかったのに。伝はぎゅっと膝の上で両手を握る。


「なら、ツトムにばちが当たらないように守ってやるよ」

「本当?」

「ああ」


 なぜだろう、と伝は思っていた。不思議とこの人なら本当に守ってくれるのではないかと思ってしまう。後押しされて決断しようとしたその時。


「海老沢じゃん」


 聞き覚えのある声に思わずビクつく。声のする方を見ると、田高が立っていた。近づいてきたかと思うと、テーブルの上の皿を指さす。


「それ、食べるの? 無理だよな? 海老沢はエビみたいに弱虫だから共食いもできないもんな?」


 何も言えずに俯くと、羽石の穏やかな声がそれを諭した。


「まぁ、そう言うなよ。えびは多くの人が生きていくために命を与えてくれてる立派な生き物なんだぞ」


 その言葉に伝はハッとした。えびは小さくて弱い生物。暗闇の中で怯えて生きている。それが全てだと思っていた。けれど。暗闇の中に一筋の光が射して、手を差し伸べられたような感覚が伝の心を温かくする。


「弱いことには変わりないじゃん。海老沢も弱くて根性なしだ」


 田高が冷たく一蹴しても、もう伝は怖じ気付いたりしなかった。フォークを手に取り、エビフライにかぶりつく。田高は心底驚いた様子であんぐりとしていた。咀嚼しながらそちらを見ると、田高は逃げるように去っていった。


「どうだ? おいしいか?」


 羽石の言葉に、伝はもう一度味わうようにゆっくりと咀嚼を繰り返す。一噛みするごとに、口の中でさくっと衣が弾けて、プリッとエビが跳ねる。嬉しさとおいしさが増していく。「うん!」と元気よく答えると、「よかったな」と優しく微笑み返しながら頭を撫でてくれた。伝は幸せな気分だった。




   *




 ようやく住宅街にたどり着いた時には、空が暗くなりかけていた。その中を、二人は手を繋いでゆっくりと歩いている。羽石は家々の表札を一つひとつ確認しながら右へ左へ首を動かし、伝は小さく咳をした。ふいに見上げた羽石の顔は暗さのせいか、もうあまりよく見えない。


「おじさん、ありがとう」


 伝の言葉に羽石は視線を動かしたまま、見えてないんだから当たり前だろ、と答える。


「そうじゃなくて、えびは立派な生き物だって言ってくれたこと」

「ああ、あれか」


 また咳をした後、伝はぽつぽつとつぶやく。


「僕、えびは小さくて弱いだけだと思ってた。だからいつも何も言い返せなくて……でも、おじさんが言ってくれたことでそれだけじゃないってわかったから。今度はちゃんと言い返せる、と思う」


 語尾が小さくなっていくところに苦笑しながら、羽石はまたぽんと伝の頭を撫でる。


「まぁ、焦らずガンバレ」


 伝は応えるように力強く頷いた。再び視線を表札に戻した羽石があっと小さく声を上げる。


「あったぞ。ツトムん家」


 もうお別れなのか。そう思うと、伝は急に胸が苦しくなってきた。呼吸も辛くなってきて、咳が止まらない。苦しさに目眩がして立っていることもできずにその場にくずおれる。


「ツトム!」


 羽石の呼び掛ける声が聞こえる。その声は途端に萎んでいって、海面に上がっていく気泡みたいに遠く、遠くにいってしまう。暗い海にたゆたうように伝は意識を失った。




■■■■■




 気がつくと、伝は自分の部屋のベッドで眠っていた。母と祖母の心配そうな顔に迎えられて、目を覚ます。


「ツトム、大丈夫? 気分は悪くない?」


 母の言葉に状況が飲み込めず目をぱちくりさせていると、祖母が言う。


「海老、食べたんじゃろ?」


 その言葉で倒れる前のことを思い出す。ハッとして、伝は勢いよく起き上がった。


「海老沢の男児は代々海老アレルギーになると言われておって、伝もそうだったんじゃ。幸い処置が早くて助かったが、一歩間違えれば大変なことになっとった。もっとちゃんと話しとればよかったな。ごめんな」


 伝の手を擦りながら申し訳なさそうに言う祖母に、思わず愕然とする。罰が当たるって言うのはそういうことだったのかと。すると、母が神妙な面持ちで伝を呼ぶ。


「ツトム、全部聞いたわ。怪我のこと」


 なんで? と思いつつも、羽石が話したとしか考えられなかった。伝はきまりが悪そうに俯く。怒鳴られるんだろうなと覚悟して身を固くしていると、肩に母の手が触れた。


「ごめんね。気付いてあげられなくて。お休みの日に一緒に買い物に行きましょう。あなたの好きなものを選ばせてあげる」


 予想外の優しい言葉に、驚いて顔を上げる。笑顔で迎えてくれた母に嬉しくて何度も頷いた。だが、次の一言でその嬉しさも一蹴される。


「ただし、あの羽石とかいう男に会うのはもうやめなさい」

「綾子さん。あの人がすぐに気付いてくれたから伝は助かったんだで……」

「お義母さんは黙っていて下さい!」


 言い争う二人を呆然と眺めながら、伝は頭の中で今日一日の記憶を辿っていた。大きな手のぬくもり、優しい声。おじさんともう会えないなんて。


「い、嫌だ!」

「あなたはあの男のせいで死にかけたのよ!」

「おじさんは悪い人じゃないよ!それにえびを……」

「とにかくもうあの男に会うことは許しません!」


 母の金切り声が部屋中に響き、何も言えなくなる。伝は泣きそうなのを堪えて、膝の上でぐっと両手を握った。




   *




 翌日、部屋一面に水槽が並ぶ地下室で、伝は飼育えびに餌をやっていた。餌を振り撒き、終わったらしっかりと蓋を閉める。それから水槽の中を泳ぐえび達をじっと見つめては、時折ちょんちょんとつついてみたりする。照明の具合で薄暗い中に青く浮かび上がる水面は、底に沈むにつれて深く静かな色を湛えていた。そこに伝の顔が映って、ゆらゆらと歪む。


 あの後、母は伝がどんなに弁解しようとしても取り合ってくれず、諦める以外の選択肢はなかった。


 別にまた会えるかもわかんないし。そう思いながら、もやもやした気持ちを抱えて水槽をつつく。餌を食べるえびにちょっかいをかけるように執拗に水槽をつつき続けた。


「伝」


 突然、背後から声がしてビクッとする。振り向くと、そこには祖母が立っていた。


「なんだ、おばあちゃんか」


 伝は安堵し、息を吐いた。だが、祖母は変わらぬ表情のまま、おもむろに語り出す。


はぜという魚を知っとるか?」


 祖母の問いかけに、伝は不思議そうに首を横に振る。


「海老は住処から出てくる時、ほとんど目が見えとらんのじゃ。そんな時、えびには外敵から身を守ってくれる強い味方がおる。それが鯊という魚じゃ」


 伝はハッとする。それはまるで、昨日眼鏡をなくして目の見えなくなってしまった自分を導いて守ってくれた、羽石と同じじゃないかと。 


「海老は一匹では生きていけん。人も、一人では生きていけん」


 朗らかな顔にさらに笑みを浮かべて、祖母は言う。


「会いたかったら行きなさい」


 柔らかな声に後押しされるように伝は頷き、地下室を出て光の中に飛び出した。







 玄関を飛び出し、住宅街を抜け、海沿いの道に出る。伝にはきらきらと輝く海面の光が自分と一緒に走ってくれているように感じた。潮風も今は心地いい。すると、伝は何かに気付いてふと立ち止まった。ガードレールに乗り出して、海面をじっと見つめる。光が瞬き、ざざぁと音が響く。途端、水飛沫を上げて海の中から誰かが顔を出した。ぷはぁと息を吐いて、顔に張り付いた髪を掻き上げる。その人はまぎれもなく、羽石だった。羽石は視線に気付くと、伝の方を見てあからさまに気まずそうな顔をした。逡巡するような間が空いた後、伝の方に向かってくる。その歩みの遅さに、伝は気付いてしまう。羽石はもう自分に会う気などなかったのだと。ようやく伝の目の前に来た羽石は、最初に「体は大丈夫か?」と訊いた。伝は黙って頷く。そして頭を掻きながら、申し訳なさそうに切り出す。


「実は、お母さんからお前にもう会うなって言われててさ。だから」


 もう会えない。そんな言葉が続くのが怖くて、伝は目を瞑る。だが。


「お母さんには内緒な」


 驚いて目を開けると、羽石は唇の前で指を立てて、いたずらっ子の笑顔で笑っていた。そして、反対側の手に持っていたものを差し出す。それは、ずぶ濡れのままの伝の眼鏡だった。奇跡的にどこにも傷はなく、その様子に二人は思わず顔を見合わせて笑う。それを受け取って、空に輝く太陽みたいに伝はさらに明るく笑った。

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