透いた石
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透いた石
土曜日。カーテンからこぼれでた薄い光で私は目を覚ます。
数ヶ月も前の私なら迷うことなく二度寝を決め込んでいたと思う。
いや、事実大抵の人は月曜日から金曜日の朝から晩まで労働をする。
これを毎週毎週五連続で繰り返すのだから二度寝をしてもなお疲れなど取れるわけもない。
だが、今朝のというか最近の私は平日とあまり変わらない時間に起床をしコーヒーをいれ朝食を済ます。
そして顔を洗い、歯を磨き、身支度もそこそこに家を出る。
七月とはいえ梅雨あけもしておらず湿気が残るこの空気は少しひんやりしており夏の訪れを未だ拒んでいるようにも受け取れる。
私は夏が嫌いだ。学生の頃から嫌いではあったが社会にでてこの感情に拍車がかかったように思う。
湿気で呼吸はしづらいし、汗で服は蒸れるし、なにより暑い。
営業にとってこの暑さは命に関わるものだと強く感じる。
この時期もこの時期で雨の中を歩くというのは不快という表現で表すほかない。
傘をさしていても肩であったり、靴であったり必ず濡れてしまう。
雨の音や情景に心動かされる人もいるそうだが私は違う。
私には芸術はわからない。
あまりに抽象的で独善的なものだと少し小ばかにしている節さえある。
ましてや雨など不快を体現したようなあの現象に芸術性を見出すなど私には到底不可能である。
なにはともあれ今日は仕事でもなければ雨でもない。こうして目的の場所へと歩を進める私を阻むものがないのだから心が軽い。
ここ数ヶ月、私は毎週のようにこうして土曜の朝にある場所へと向かっている。
これは日課いや、週課とでもいうのだろうか。
一週間分の気怠さと陰鬱さが未だに面影を残すこの体に鞭をうち、極上の二度寝を差し置いてでも”そこ”へ行く価値は確かにあった。
”そこ”と言っても家を出て川沿いを少し歩いて橋を渡ったところにある少し大きめの普通の公園なのだが。
ただ、土曜のこの時間だけはその公園も私にとっては特別な場所になる。
ある付加価値がその時間だけ存在するのだ。
私は物欲があるわけでもなければ、趣味も目標も夢もない。
だから本当にただ生きるためだけに働いて、無価値で非生産的で傍からみたらひどくつまらない人生だと我ながら思う。
そんな私に一週間の中で唯一心から楽しみにしているのがその時間である。
橋を渡るとその公園は見えてくる。
それと同時にこの湿気に溢れた空気とは対称的な澄んだ音色が私の耳に微かに響いていた。
公園の中に入るとその音は次第に明瞭さをまし、耳を伝って私の心を揺れ動かす。
私はいつものようにその音の主とおよそ数メートル程離れたベンチへと腰を掛ける。読みもしない一冊の小説を開いて。
まるでおとぎ話にでてくる人魚のようだなと初めて彼女を見た時に思った。
四月。この公園の一面に植えられていた桜はまるで彼女を隠すかのように咲き乱れていた。私に芸術はわからないが、桜と太陽が彼女に味方をし本当にステージの上で歌を歌っているかのような錯覚に陥った。
制服を着用していることを見るにどうやら高校生のようだった。
最初は遠くから眺めていたのだが、彼女に導かれるように近くのベンチへ移動した。
あぁ、もしかしたらこれが『美しい』というものなのだろうか。
いままでどんな歌を聴いても、戯曲を観ても、風景を感じてもこの感情が生成されることはなかった。といっても自らそういうものに触れにいったわけではなくかつての恋人や友人たちに半ば無理やり連れていかれたのだ。
彼らに連れられそういう場に赴いたとしても、私の心が揺れることはなかった。
どうだったかと問われれば毎回同じように「芸術はわからない」と返した。
そうすると彼らも諦めたのか次第に私を誘わなくなった。
ひどくつまらない人間だと自他ともに認めていた。
そんな私が初めて心を揺れ動かしあまつさえ感動を見出したのが彼女だった。
歳は私の一回り下の未だあどけなさと危うさが感じられるたかが高校生に、私は魅入られてしまったのだ。
彼女が歌うジャンルは様々だ。おそらく最近のJPOPやKPOP、はたまた洋楽であったり私の年代の曲まで歌うものだからそれだけでも彼女は歌が好きなのだろうとわかる。
彼女の声はとても透き通っていて曇りがない。
話したことは一度もないがおそらく彼女の性格から来るものなのだろうと思う。
きっと学校でも周りの生徒に嘘偽りなく接し、裏表のなくまっすぐな生活を送るそんな情景が彼女の声から容易に推測できた。
これがいわゆる解釈というやつなのだろうか。
芸術にも解釈を求められる場面が多い。
例えば、映画をみてあそこのシーンはどう感じた?だとか、この歌のあなたにどう聞こえる?など。
どう感じたと言われても自分とは違うなと思ったとか、世の中にありふれた音だなとかそういう身も蓋もないような感想しか出てこないのでやはり芸術はわからない。となってしまうのだ。
ただ、いまになって、彼女の歌声をきいてからならああたしかに私とは違うが彼の目線に立って想像してみるとなるほど感動的にうつるかもしれない。ありふれていると感じるあのフレーズだって他とは違う工夫を凝らしてて面白いかもしれないと感じるようになった。
ただ、それらが私の感動に至るのにはまだ時間が掛かりそうなものある。
もしかしたらいずれ私が雨という天候に情緒を感じられる日が来るのかもしれない。
そう、彼女の声は私の二十余年で曇り切った心をそのおよそ正反対の透明色で染め上げていったのだ。
これが心を識るということなのだろうか。まるで卵の殻を割り外にでてゆきこれから世界を観る雛のような気分だ。
それを高校生に気づかされるというのも何とも私らしくて滑稽だ。
私も彼女のようになにかに一生懸命になれれば違ったのだろうか。
二十年以上自分に才能がないと諦め、何事もほどほどで済ませ努力らしい努力をしてこず平々凡々な今。
彼女はきっと素敵な大人になるだろう。当たり前だこんな何もない、感動さえも持ちえない私みたいな大人を無自覚で救っているのだから。
これからも私みたいに彼女に救われる人が大勢現れるのだろう。
もしかしたら将来はシンガーとして大成しているかもしれない、いやきっとするだろう。これからも成長して行くに違いない。高校の頃から一つも成長できなかった私と違って。
それにしても今日も彼女の歌声は綺麗だ。
ふとすれば眠りに落ちてしまいそうな心地よさかと思えば、ある時は心躍りこちらの体も自然と揺れ動いてしまいそうな高ぶりを感じることもある。
小手先だけの器用さだけで歌っているのでなはく、彼女の芯となるものがちゃんと据えてあるからどんな表現をしても違和感なく、むしろ心魅かれるのだろうと思う。
初めて彼女の歌声を聴いた時よりも一層磨きがかっており、力強さがましていると感じる。このたかが数ヶ月で成長が目に見えてわかるのだから先ほどの私の考えはやはり正しいのだろうと思う。
ふいにふと、音がやむ。
彼女はいつも一時間と少しの時間を、ほぼ休憩なしで歌い続ける。
まるで今日歌う曲をあらかじめ決めていてライブで披露するかのように。
そんな彼女が数分間無言で立ったままなのだ。
どうしたのだろうとほどんど呼んでいない小説ごしに彼女の様子を窺う。
その瞬間、心臓が跳ねドキッと音を立てた。
先ほどまで背を向けていたはずの彼女がなんとこちらを見ていたのだ。
私はあわてて小説に目を戻した。
鼓動がとてつもなく早いのを感じる。
小説のページをめくるペースも次第に早くなる。
まずい、なにかしてしまっただろうか。彼女の邪魔になるようななにかを。
もしかして盗撮や痴漢など疑われているのではないだろうか。
そうだとしたら最悪だ。
もう彼女はここへは来なくなるだろう。せっかく私にできた唯一の至福の時間がなくなってしまうのだ。いや、それだけならましなのかもしれない。もっと恐ろしいのはこのまま警察を呼ばれてしまったり叫ばれたりすることなのではないだろうか。そうなればいよいよ人生が終わってしまう。大した人生ではなかったが、これよりも惨めな生活を送るとなると話は別だ。
ひんやりとした空気と汗、それらとはまるで対称的な熱く火照った体。
このまま何事もなかったかのように立ち去ればもしかしたら許してもらえるだろうか、いやそんなことをしたらますます怪しい。
どうするものかと思案していると声が聞こえた。
「あ、あの..。」
彼女は少しだけ私との距離を縮めながら声をかけてきた。
いつも聴いている歌声とは少し違い新鮮な話声。
だがそんな声を聞く余裕はなく、これは確実に私に向けられたものだと感じながらも小説をめくり続けていた。
「あの・・・それ、読んでませんよね?」
「な、なんのことですか?」
しまった。
うっかり返事をしてしまった。
「ほら、やっぱり」
彼女は怪しげな顔つきから少し笑った表情へと変化した。
まずいまずい。私の鼓動はますます早くなる。
「どうしてそう思うんだい?」
「だって明らかにさっきまでとページをめくるスピードが違うんですもん。さっきはほとんどめくっていなかったのにいまはものすごい勢いでページをめくっていくまるで速読している人みたいに」
ごもっともな意見だ。だが本を読んでいないのがバレるとさらに私の立場が危うい。なにか言い訳をしなくては。
「さ、さっきのところはお気に入りのシーンなんだ!物語には山場があるだろう?その山場が過ぎ去ってつまらなくなったから流し読みしたのさ。」
我ながら苦しい言い訳だと思う。
彼女はさらにに私に近づく。
「嘘ばっかり。だっておじさんいっつもその本持ってきてますよね?何ヶ月も同じ本読んでるのも変だし、そんなおかしな読み方するのはもっと変。」
意外ではあるが彼女は私を認識していた。当たり前といえば当たり前かもしれない。
だがそんなところまで見られていたのなるとさらにあとが無くなる。
「僕はそういう物好きなんだよ。ほっといてくれ。」
「そんなにその本が好きならどうしてわざわざ私が歌っているここで読むんですか?もっと静かで落ち着いているところほかにもあると思うんですけど。」
「.........。」
「本当は私の歌、聴きにきてくれてるんですよね?」
すべてお見通しだ。いつも同じ本を持ってきていることも、それを全く読んでいないことも、ここに来ている本当の目的もなにもかも。
「.........。」
なにも答えられずにいると更にこう加えてきた。
「どう・・・でした?」
「え?」
予想外だった。なんと彼女は私の感想を求めてきた。
「だから・・・私の歌、どうでした?」
こういうことが昔にもあった気がする。かつて私に友人だとか恋人だとかいた頃
彼らと何かを見聞きした際、似たような質問をしてきたことがあった。
だが、私は決まってこういうのであった。
「芸術は、わからない」
「なんですか、それ....」
不満げに口を開いた彼女だったがそれをさえぎるように私の口は自然とこう続けていた。
「わからない。だけど君の歌はたしかに美しいと感じた。初めて音色を耳にした時からまた聴きたい、また聴きたいと毎週おもうようになっていた。君の歌は僕の世界に色をつけてくれた。とても綺麗で透明だ。」
稚拙だ。今までろくに芸術に触れてこなかったせいもあるだろうが、初めて彼女と会話した高揚からかまるで稚拙で、ともすれば告白とも受け取れてしまいそうな発言である。
「なんですかそれ(笑)」
先ほどと同じ言葉。だが、その表情は先ほどとは打って変わって明らかに嬉しそうで少しはにかんでいる。
その表情を見て私はハッとした。
私は一回りも下の女の子になんてことを言ったんだろう。
未成年の女子に恋慕を抱く特殊性癖持ちだとでも思われたらたまったもんじゃない。
いまからでも否定しようか、いやそれはそれでみっともない気がする。やはりさっさと帰るべきだっただろうか。
私は気まずさから顔をあげられず、この場をどう切り抜けるべきか考えていた。
「私、うれしいです。そんな風に言ってくれる人おじさんが初めてなので」
「え...?」
私はふと顔をあげると満面の笑みでこちらを見ている彼女と目が合う。
あぁ...やはりこの子は私がいつも聴いていたあの声の持ち主だ。
初めて目をあわせてみて真っ直ぐで力強い意思を感じる。
しかし、あんな気恥ずかしいことを言った直後だ。思わず顔をあげてしまったがやはり気まずい。
そんな空気に耐えかねて私はこう切り出した。
「君はどうして、いつもここへ?」
すると彼女はわたしに背をむけこう言う。
「私の、私なりの抵抗です」
「抵抗?」
「高校生の私が言うのもなんですけど、世の中って理不尽なことが多いじゃないですか、そういう理不尽だったり、不条理に抵抗するためにここにいます」
よくわからない。やはり彼女みたいな人でも理不尽に苛まれ、思うことがあるのだろうか。
「それが、歌?」
「その通りです!私にとって歌は私を守ってくれる盾みたいなものなんです」
盾、か。いい表現だと思った。事実、この私も彼女の歌に守ってもらってるようなものなのだから。いまの時代、自分が傷つけられたらその代わりにほかのだれかを傷つけたり攻撃したりができてしまう世の中なだけに彼女のやり方はほかのだれかを幸福にながらできる最上の自己防衛なのではないかと思った。
「君は、やっぱり優しいんだね」
「優しい....ですか?」
「あぁ。君の歌は君を守ると同時に他者を守ることもできる。だからそんなことができる君はきっと優しいんだと思うよ」
「そう....ですね。そうだといいなぁ。」
心なしか彼女の声がうるんで聞こえた気がした。
いま彼女はどんな顔をしているのだろう。
短い間ではあるものの私は彼女の叫びに触れ続けてきた。だがイメージの中の彼女と現実の彼女はやはり異なるのだ。彼女も人生の中で苦難と闘い、葛藤の中を生き続けているのだ。私のようになににも関心を持たず、ただのうのうと人生を過ごしてきたやつとは違って、迷って悩んで抵抗を続けているのだろう。
そんな彼女をわかった気になろうなど甚だおかしい話なのだ。
だが、こんな私でも少しでも彼女を励ませたら....
「きっとそうだよ。僕は君を応援しているよ」
思わず口をついて出た。
そういうと彼女は歩き出し、少し離れた位置で立ち止まり
「ありがとう」
と、俯きながらとても小さく聞こえるか聞こえないくらいの声量でポロっと吐き出した。
そして、何かを決意したかのように顔を上げ
そのままこちらに振り返りつい先ほどとは逆に声を張り上げ
「私、ここに来るのもう最後なの!」
と告白してきた。その顔は私の疑問を吹き飛ばすかのようなまばゆい笑顔だった。
私は動揺し思わず彼女に負けないくらいの声で尋ねた
「え?どうして!?」
「遠くへ行くことになって。だからもうなにかに抵抗する必要もなくなったの!」
あぁ。そういうことか。合点がいった。なぜ今日唐突に私に話しかけてきたのかも、なぜ歌の感想を聴いてきたのかも、少し寂し気なその声色も。
そのすべてが彼女の言葉に集約されていた。
とても寂しい気持ちに襲われたが、その気持ちを押し殺し
「そっか....それは残念だね。けど、君がどこへ行こうともやっぱり僕は君を応援しているからね」
そう彼女に伝えたのであった。
「ただ、僕は君のファンだから歌は、続けてほしいかな」
私の気持ちを察したのか
「きっとまたどこかで聴かせてあげる!多分そう遠くないうちに!」
と私の心配を拭ってくれるような優しい声をかけてくれた。
「うん。少し寂しいけど、それならいいかな」
「うん、今度はもっとあなたや、いろんな人に届くように歌ってみせるね!」
「それはとても楽しみだな」
よかった。もう二度と彼女の音楽に触れることなく一生を過ごすのかと不安が過ったがどうやら杞憂のようだった。
それならばもう私にできることはただ心の中で彼女のことを応援し続けるしかない。もしかしたら私と同じような境遇の人をこれから救う可能性を秘めているのだから。私には到底できないようなことを彼女はするかもしれないのだから。
「じゃあ...そろそろ、いくね?」
最初で最後の彼女との交流はあっという間に終わってしまった。
別れの時も彼女は笑顔だった。少し寂しげな影を感じる気もするが、それはさすがにうぬぼれであろう。
「うん。この数ヶ月ほんとうにありがとう。きみのおかげで見られなかった世界をみれた。君のおかげで少し勇気を持てた。短い間だったけど君に救われたことは決して忘れないよ。君は一人の人間を確かに救い出した。そのことに自信をもってこれからもどこへいってもがんばってほしい。さようなら」
ここまで本心で人にものを伝えたのはおそらく人生において初めてだろう。
それだけのことを彼女は私にしてくれたのだ。これは嘘偽りない私の透明色の想いだった。
「こちらこそ。そんな風にいってもらえるなんて思ってもみなかった。どうかどうかこれからも幸せに過ごしてね。さようなら。」
そういうと彼女はそのまま振り返り歩き出していった。
少し遠いのでよくみえなかったが彼女の瞳はうるんでみえた。私の言葉が届いたのだろうか。初めてのまっすぐな感情が彼女に伝わってくれただろうか。
もうすこしまともなことを言えなかったのかと少し後悔もしたが、もし届いているのならそれはそれでいいとも思った。
この数ヶ月のここでの思い出を彼女の背中を見ながら思い出していた。
ほんとうに真っ白で何の価値も見出せなかった私の世界に色をくれた人。
そんな小さな少女の背中は頼もしく雄大に見えた。
どうか幸せに。そんな彼女の言葉を反芻し、そして彼女に返すように彼女へはなむけの視線を送り続けた。
七月だというのに今日はまだ少し寒かった。
公園での出来事から一週間。私は私にできることはなにかと考えていた。
小さな少女にあれだけの物を貰ったのだから今度は私が誰かに何かを託していきたい、そう考えるようになった。
生まれてからなにもしてこなかった私に託せるものなんてそう数多くはないが、それでも誰かに、何かを伝えることの素晴らしさをほかのだれかにも共有したい。そう思うのだった。
そうだな、私に芸術はわからないからアーティストは向いてないだろう。いや、わからないといって最初から諦めていては伝えられるものも伝えられない。
できる限り無理だと諦めずに自分の可能性を考えていこう。
アーティストとなるとどの分野がいいのだろう。彼女と同じように音楽で人の心を動かしてみたい気持ちはある。ただ、人生においてほとんど歌ったことのない素人が歌っているのを誰がみるのだろうか。
いやしかし誰もが発信者として声を上げることのできる現代においてならもしかしたら誰かの目につくこともあるのかもしれない。
ただ、それはあまり現実的ではないだろう。
現実味があり、かつ多くの人に何かを伝えられること..
そうしてああでもないこうでもないと頭をひねらせていた。
.いっそアーティストではなく教鞭をとるというのはどうだろうか。
教員になるのが簡単だとは思わないが、さっき私が考えた案よりかは幾分か現実的だろう。
私が教え導くことで彼女のような誰かを助けられるような人になるかもしれない。
そうだ、それがいい。この考えにもう少し早く気づいていればよかったが今更そんなことは言ってられない。
そうと決まればさっそく教材を買いに外に出よう。今日は土曜日だ。仕事もない。
先週までであれば既に家を出てあの公園へついている頃だろう。
だがあそこへはもう彼女はいない。本当にいないのか確かめにいってもいいがそれはあまりにもみっともないし、寂しい気持ちを思い出すだけなので行かない。
なので今日は早起きはしたもののどうしたものかといつもよりもゆっくりと朝食をとっていたところだったのだ。
だが今さっき今日の目的、そして人生の目標を見つけたのだ。
こんなにあっさりと人生の目標を決めていいのかと思われるかもしれないが
白紙の人生に初めてまともに筆がのったのだからもう勢いは止められない。
まるで先週までと同じように手短に朝食を済まし、以前までとなんら変わらないルーティーンを行ったのであった。
これからもこの土曜のルーティーンは続けていこう。それが私に残った彼女を証明する行為だと思うから。
勤労で疲労が蓄積されたこの体であるが、なにか目的をみつけてしまえば案外軽々と動いてくれるものだ。それもこの数ヶ月のうちに学んだことの一つなのかもしれない。
身支度を済ませ家を出る。
先週とは打って変わって夏の訪れを感じさせる熱気が私を襲った。
時間が先週より少し遅いのもあるのだろうがそれにしても一週間でここまで気温が上がるとは思わなかった。
後で知ったことなのだが今日から関東は本格的に梅雨明けの到来だそうだった。
これから大変だ。また嫌いな夏がくる。だが、今年の夏は違ったことをしてみよう。一人でどこか旅にでるのもいいかもしれない。
教員の勉強が忙しくてそれどころじゃないかもしれないが今年の夏はなんだか期待が持てる気がした。
私は先週までとは逆の方角へと足を運んだのであった。
教員になると目標を決めたはいいもののなにから始めるべきなのか、どういう勉強をしたらいいのか。なにも調べず家を出た私は無計画にもほどがあった。私は確かに何かに打ち込んだりしたことがなかったがここまで自分が浅はかだとは思いもよらなかった。
家の近くの少し大きめの本屋でいろいろな書籍を悩みながら物色したおかげでクタクタにあって家に着くころにはもう日が暮れてしまっていた。
.今更ながら現代にはスマートフォンという優れたテクノロジーがあるのだからまずそれで下調べをしそれから買い物に向かうべきであったことに気が付いた。
まあしかし、こういう失敗もなにかを成そうとする過程で必ず起こりうるものなのだろう。そういう経験を一切してこなかった自分が全面的に悪い。
おそらく私の考えでは教員になるためには大学へ通う必要があるはずだ。なのでいまからでも大学の入試を受ける準備が必要になる。
そこで昔高校時代やっていたような受験生のための問題集などの教材を買いあさった。
そういえばまだどこの大学を受けるかも決めてなかった。
なんだか進路相談を受ける前日の高校生の気分だった。
当時の私は適当に努力して適当な大学いけばいい、そんな考えだったから学部や大学など大して悩みもしなかったが、今になってあの頃教育学部へ進学を考えておけばよかったと半ば無理な後悔をした。
そういえば、あの子は何年生だったのだろう。二年生であれば進路を意識しだす時期だろうし三年生ならば受験シーズン真っ只中であろう。
しかし引っ越しをするといっていたからおそらく三年生ではないのではないだろうか。この受験シーズンにわざわざ環境を変えることもないだろうから。
実際のところ彼女の家庭環境も学校での生活も何一つ知らないのだから全て憶測の範疇にすぎないのだが、いずれにせよ彼女には私のようにこんな二度手間のような無駄なことをしなくても済むように歩んでほしいものである。
時間は有限であるとこの身をもって知った。だから今できる最大限のことをして誰かにそのことを教えたいとただいまはその思いが強かった。
彼女だけでなくいろんな子供に私のようになるなと文字通り反面教師としてこの身をささげていきたい。
そして彼女に今度は堂々と向き合えるようなそんな人間になってゆこう。
そうだ、今度こそ自分が行きたい大学を真剣に選ぼう。時間に余裕はないが夢の実現のために一番の近道となりうる場所があるかもしれない。
今度こそインターネットで自身がいくべき大学を調べようとスマートフォンをとりだし、検索アプリを開いた。
だが、そこでとあるニュースが私の意識を引っ張った。
一目ついただけなのに身に覚えのない違和感となんともいえばい居心地の悪さ、そしてとても嫌な予感がした。
いや、思い過ごしだろう。だが考えれば考えるほどそのニュースへと意識が持っていかれる。そんなはずは絶対にないのだがどうしてだかそのニュースの内容が気になってしょうがない。
しかし見てしまったら取り返しのつかないことがおこりそうでとても怖かった。
家の中は冷房がついているはずなのに額から脂汗がとまらなかった。
意を決し私はそのニュースの中身をみることにした。
震える手を制御しそのニュースの表題をタップした。
私の予感は的中することとなる。
表題はこうである、
「都内の女子学生が飛び降り自殺。その模様をSNSで配信ー」
そこには見慣れた制服の一人の少女に関する記事が載っていたのだ。
内容はこうである。
昨日夜、都内に住む女子学生が廃ビルにて配信サイトを通じ自身の飛び降りの模様を公開したという。
そんな・・・信じられない。
いやもしかしたら同じ制服の学生だという可能性もある。
私は記事にある”自殺配信”を探した。
昨今のインターネットは本当に不気味なもので、人が死んだ動画だというのにあっという間に該当の動画が見つかった。
どうかしてるとも思ったがいまはそんなことよりも動画の彼女が本当につい先週会話をしたあの少女なのか、確かめざるをえなかった。
動画を開くとどこかの屋上のような場所に制服姿の女子学生の後ろ姿が目に入った。
後ろ姿だけではよくわからない、どうしたものかと悩んでいたところ...
声が聞こえた。
それは言葉ではなくハミングのようだった。まるで楽器のチューニングをするかのように少女は自身の声色を整えていた。
そして少しの間を置いて彼女は歌い出した。
嘘であって欲しいと願う私の気持ちとは裏腹にそれはまぎれもなく先週までの数ヶ月私が耳にしていた少女の歌声であった。
私の想定していた最悪が訪れたのであった。
瞬間、彼女の言葉を思い出した。
「私、ここに来るのもう最後なの!」
「遠くへ行くことになって。」
あれはそういうことなのだろう。
あの日の時点で彼女はこうすることを決めていた。
だからもう私と会うことはないのだと。
どうして、どうして、どうして...。
「どうして」という言葉が私の頭を巡った。
どうして彼女はこんなことをしたのだろう。
どうして私は気づけなかったのか。
何もかもがわからない私は自身を落ち着かせる為にも動画の続きをみることにした。
その声はいつもと変わらない、可憐で力強く、透明感のある声だった。
ただ動画内ではいつもよりも何かに訴えかけるかのようなそんな気がした。
心なしか歌詞も「負けないで」「がんばれ」というような誰かを鼓舞するようなものが目立った。
私は涙が止まらなかった。これから死のうという人間がこうも力強く自分ではなく誰かを案じるようなそんな歌が歌えるのだろうか。
私の「どうして」は募るばかりであった。
ふいに彼女は歌うのをやめ語り出した。
「今これを見ている人の中で、つらい境遇、過去、環境。様々な悩みを抱えてる人がいたら私はあなたに届けたい。
あなたは一人じゃないよ。例え悩みを打ち明けられる友達や恋人、家族や先生がいなくても、私はあなたの味方だから!
私は今からしようとしていることは世間的には許されることでもないし私はあなたには絶対同じことをしてほしくないと思ってる。
何のためにこんなことをするのか、いじめや家庭環境、そういうのが辛くてしてるんじゃない。私はそういった世の中の理不尽や不条理、そういう私たちの幸せを邪魔してくるばかばかしい全てに『抵抗』する。さっきまでの歌もそう。私の歌が、この行動があなたを救うきっかけになることを説に願います。」
彼女の言う抵抗が当時は理解ができていなかった。
高校生なのだから交友関係、部活や受験でストレスに見舞われることが多いのだろうくらいにしか考えが及ばなかった。
だが今ならわかる。
彼女はただ、幸せに暮らしたかったのだろう。普通に友達と遊び、好きなことをして生きていく。
望んだものは生きている人間にとって至極真っ当なものだったのであろう。
だが彼女の周りのヒトは、環境は、世界はそれを許さなかった。だからそれらに戦い、抵抗をした。私は何も間違っていないのだと。
彼女は強い人間だ。現に覚悟を決め行動を起こすと決心していたあの日も、もうその行動を起こすこの直前でさえも、こうして彼女は『抵抗』を続けあまつさえ誰かを助けようとまでしているのだから。
しかし彼女は同時に弱い人間でもあった。
繰り返される日々の過剰なストレスに彼女の心はだんだんと『衰退し』やがて小さなともしびしか残らなかった。
だから最終的にこんな最悪な形で抵抗をすることを決意してしまったのだ。
どうしてあの日彼女の機微な異変に私は気づくことができなかったのだろう。
サインはいくつもあったはずだ。話したこともない私にあんな話をしたのも、そもそも毎週土曜日に制服を着てあの時間の公園にいたことも、「抵抗する必要がなくなった」という彼女の発言も、気づく余地はいくらでもあったはずなのに・・・
動画内で彼女はこう続けた。
「辛かったら逃げてもいいんだよ。悲しかったら泣いてもいいんだよ。周りの誰もがあなたを否定してもいつかきっとあなたのことを理解してくれる人が現れるから。私にもそういう人が、いました。何にも守れず弱かった私の歌を良いって、救われたって言ってくれる人が。もしも、あなたがこれをみていたら一つだけ言っておきます。
救われたのは私のほうでした。いつも私の歌を聴いてくれて、応援してくれてありがとう!」
いままで力強く語りかけていた彼女の声が潤んだ。
複雑な感情が私を渦巻いていた。
私は君になにもしてやれなかった。君の抱えている闇も、君が起こそうとしているバカな行動もなにも・・・何も気づけなかったのに。
私がこうして負い目を感じないように彼女は言ったのだ。
一体どこまで他人想いの人なのだろうか。
「最後に一曲だけ歌います。あなたが今抱えてるつらさ、問題、悩み。面倒くさいこと全部私が持っていくから、だから、今後あなたの人生に幸多からんことを。」
彼女が最後に歌った曲は『アメイジンググレイス』だった。
彼女は強く優しく、祈るように歌った。
彼女の歌に合わせて僕も祈った。
どうかこれが嘘であってほしい。また元気な姿でみんなに幸せを届けてほしい。
しかし現実は非情だ。
彼女は最後の曲を歌い上げるとそのまま網フェンスを上り、一呼吸置いて、
一歩足を踏み出してしまったのであった。
動画はそこで終わっていた。
彼女は最後の最後まで自分よりも画面のむこうの誰かを想い続けていた。
撮影地も人がめったに来ない廃ビルであったらしく救急車がきたのはあの出来事の数時間後であったとのことだ。
あまりにも人が良く人が良すぎた為自らが犠牲になることしか考えられなかった彼女。
彼女の心は、意志は、弱ってしまってはいたものの優しく強く穢れを知らない綺麗なとても綺麗な透明色であった。
とても凄惨で残酷でひどく悲しい出来事なのだが、なぜだろうか。
あの数ヶ月の、どの彼女の歌声よりも最期彼女が残した言葉や歌が一番美しく、愛おしく感じるのであった。
本当につくづく芸術はわからない。
いや、彼女の十数年の全てを、あの場で披露し、彼女の自身の死すらも受け入れられてしまう最後の嘆きをあの場で出し切ったのだ。それが美しくないわけがない。
彼女の起こしたこの行動を肯定するつもりも賞賛するつもりも毛頭ない。
自ら命を断つだなんてバカげている。できることであれば彼女にはこれからも多くの人に影響をあたえる素晴らしい彼女のままで居てほしかった。
しかしそれが叶うことなどないのだ。
だからこそ、彼女が最期に残した願い、祈り、今まさに彼女と似たような境遇にいて苦しんでいる人達。彼女の意思を汲んでどうかどうか幸せに生きてほしい。
彼女が動画の最後でしたように私も世界に向けて祈りを捧げた。
どうか、彼女の想いがたくさんの人に伝わりますように。
どうか、彼女のこの行動が無駄になりませんように。
あぁどうか、もしも生まれ変わったのなら今度は、今度こそは誰よりも幸せな生活があなたに待っていますように。
どうか・・・どうか・・・・。
そうして泣きながら祈っていたらいつの間にか眠りに落ちていた。
夢の中で彼女に会った。
気が付くと私はいつもの公園のベンチに座っていて、隣には彼女が座っていた。
私は彼女に謝罪をしようと口を開いた。
しかし私の口からは言葉がでなかった。
代わりに彼女からこう告げられた。
「ごめんね。巻き込んじゃって。救われたっていうのは本当だよ!本当にありがとうございました。あ、そうそう自分のせいで死んだなんて思わないでよね。私は私の意志でこうすることにしたんだから。絶対に負い目なんか感じないでよね!
あとは・・・そうだな。前にも言ったけどおじさんもできる限り幸せに生きてね。応援してるから。それじゃ。」
追いかけようとするも私の体は動かない。
途端、あたり一面がまぶしく光り、目を開けたら朝になっていてそこはいつものアパートだった。
彼女の言葉を再びきけたのは夢だったが、彼女の死はまぎれもない現実であった。
もう叶うことのない彼女との会話、夢の中の彼女の言葉を反芻しどうしようもないやるせなさと消失感に私は再び涙した。
夢の中で彼女の意志でこの行動を起こしたと言っていたが果たして本当に止めることなどできなかったのだろうか。
私がもっと過敏で繊細に彼女の気持ちを読み取ることができ、そのうえで彼女に代替案を提示することが出来ていたら止められたのではないのか。
もう過ぎ去ってしまった、起こってしまったことに後悔をしてもしょうがない。頭でわかっているのだが気が付いたら自責の念に駆られている自分がいた。
もしかしたら救えたのではないかという後悔と私ごときが赤の他人を救おうなんてうぬぼれているという自己嫌悪の相対する負の感情で押しつぶされそうな中、彼女の負い目を感じないでほしいという願いが私の胸のなかで渦巻いた。
立ち直らなきゃ、彼女の為にも・・・しかし・・・そう簡単に・・・。
このままではだめだと思った私は気分転換に外に出かけることにした。
外に出ると多少気分が落ち着いた。本当だったら誰かに今の胸の内を明かして楽になりたいのだが、残念ながら私に心境を吐き出せる間柄の友人などはいない。
なのでこうして外に出てきたわけだが、どうしてか意識をしていないのに私の足はあの公園へとたどり着いてしまったのだ。
あの日々を思い出してしまいまた辛くなるだけであろうと思い踵を返そうとしたのだが昨日の夢のこともあり少しだけあのベンチで休むことにした。
「あなたもできる限り幸せに生きてね。」
ずるい話だ。自分はこの世からいなくなり私や他人には幸せに生きてほしいだなんて虫が良すぎる。世界に抵抗をして君が誰かを救えたとしても君が死んだんじゃ本末転倒だ。こんなの・・・あんまりだ。
ふと彼女の最後に歌っていた曲「アメイジンググレイス」について思い出した。
たしか懺悔と祈りの賛美歌であったはずだ。
どうか幸せに。そんな彼女の願いが込められた歌を私は無意識に口ずさんでいた。
すると横から
「綺麗な歌声ですね。」と女性の声がした。
見上げると私の一回りくらい上の女性が私の前に立っていた。
「あ、いや、これは・・・大変聞き苦しいものをすみません。」
人が近くにいると気づかなかった私は赤面をした。感傷的になっていたとはいえ油断した。
「そんなむやみに謙遜をするものじゃありませんよ。誰かを想って歌ったのでしょう?それならばそれはとても尊く素敵なことです。」
「恐縮です。」
「隣、いいですか?」
「どうぞ。」
そういうと彼女は私の隣へと腰かけた。
「ここへはよく来るんですか?」
彼女は続けて問いかける。
「えぇ。家が近いもので。それと・・・僕の恩人との、思い出の場所なんです。」
私は彼女がいつも立っていた場所を見据えて答えた。
「そう・・・素敵な人だったんですね。お顔をみたらわかります。」
「はい。とても素敵な人でした。何も知らない私に、世界のいろんな色をみせてくれた。そんな・・・人でした。でも、つい最近その人ちょっと遠くへ行ってしまって。それでいろいろ悩んで、気づいたらここに来てました。」
とても穏やかで柔らかい雰囲気の彼女に誰かに胸中を明かしたいという今の心情も相まってつらつらと口が動いていた。
「さっきの歌もその人の受け売りで。その人が歌っていたのを思い出して歌っていました。」
「『アメイジンググレイス』いい曲ですよね。実は私の娘もその曲が好きだったんです。」
「好きだった?」
「えぇ。一年ほど前に、高校生だった娘は、自殺したわ。」
『高校生』『自殺』という単語に私はひどく胸を痛めた。それは昨日の出来事を想起させるのに十分な言葉だったからだ。
「それは・・・心中お察し致します。」
「表向きは事故だったってことになってるんです。でも、娘の唯一の友達が教えてくれたんです。娘は事故で死んだんじゃない。あいつらに殺されたんだって。」
彼女の口から出てきた物騒な言葉に思わずこう返した。
「あいつら?」
「娘はクラスでイジメられていたんだそうです。私もあの子から聞いて初めて知りました。家での娘は明るくて、そんな、まさかイジメられてるだなんて。どうして気づいてあげられなかったんだろうって今でも思います。」
彼女は誰かに言い訳をするように自らの後悔を語った。まるで、昨晩の私のように。
「その子は何度も教師に助けを求めたのですが、教師は見てみぬふり。何度か私に直接相談しようとしていたそうなのですがそれも娘に止められていたみたいで。果てには娘を庇ったせいでその子もいじめの標的にされて、それを見た娘は限界を迎
えて自ら車道に足を踏み込み命を絶ったのだと。聞かされました。」
「....。」
言葉が詰まった。
どうしてこの世にはこんなにも身近にこんな残酷な現実があるのだろう。どうして罪のない人間が理不尽に蹂躙されなければならないのだろう。
「彼女は私たちに必死に謝りました。『助けてあげられなくてごめんなさい』って。謝るのは私達のほうなのにね・・・。私が、娘の異変に気づいていたら、その子も辛い目に合わなくてすんだのに。」
「とても勇気のある女の子だったんですね。」
「えぇ。娘が死んだあともずっと一人で戦っていたんだと思います。私達が娘の死に立ち直れず悩んでいた間も一人で・・・。それに気づいたのが先日のことでした。彼女は私には到底真似できないような方法で娘と似た境遇の子を救い出そうとし、世の中の理不尽に『抵抗』を示しました。」
抵抗その一言で衝撃が走った。
もしかしてこの女性の言う娘の友達とは彼女のことではないか。
『何にも守れず弱かった私』
彼女は確かにそういっていた。
生前に彼女は友人を救い出そうとし、失敗しそれでも抵抗を続け一人で戦い続け結果、あの出来事に至ったのだと推測した。
そしてその推測は確信へと至った。
「娘とその子は中学からの友達だったらしくてよくこの公園にきては二人で歌を歌っていたらしいんです。よく歌を教えてもらっては家で歌ってました。」
「そのうちのひとつが、『アメイジンググレイス』ですか?」
私は視線をいつも彼女が立っていた位置へ戻し、そこへ二つの影を想起させ問いかけた。
「そうです。一番お気に入りだったようで、難しいけど一緒に歌えるようになりたいって一時期ずっと練習してました。」
「それはとてもほほえましいですね。」
先ほど思い浮かべた影に色が付く。その影はやがて二人の女の子になり、楽しそうに笑いながら歌っていた。
かつてあったのであろう光景、もう叶うことのない情景。
ただ、二人で楽しく歌って居られたらどれだけ幸せだったのだろう。
その幸せの片翼をもがれた彼女はどれほど辛かったのだろう。
私の瞳から自然と涙が零れ落ちた。
女性はそれに気づいたのだろう。
「ごめんなさい。こんな話を、あって間もない人にしてしまって。」
「いいえ。こちらこそみっともない姿をおみせしてすみません。」
「そしてありがとう。あなたは優しいのね。」
『君は、やっぱり優しいんだね。』
かつて私が彼女に送った言葉を思い出した。
あぁ、そうか・・・これは
「これは、この優しさは僕の恩人から貰ったものです。」
私は謙遜せずに言った。
「そう。いいものを貰いましたね。」
「はい。とても良いものをたくさん貰いました。だから今度は、僕が誰かにこれを託したいと考えてます。」
「それはとてもいいことですね。あなたならきっとうまくいくと思います。」
「はい。必ず成し遂げます。そしてあなたの娘さんや、ご友人のように何かに抵抗をしないといけない人達を少しでも多く、守って見せます。」
それは決意の涙だった。
彼女から継いだ透明の意志をあらわすかのように透き通っていて不純のない決意の表れであった。
「あなたにこの話をしてよかった。私も戦うから、一緒にがんばりましょうね。」
「はい!」
お互い涙でおかしな顔になっていたが、同じ人に勇気を貰った物同士心が通じ合った気がした。
その瞬間頭にポツリと一粒の雫が落ちた。
「あら、雨みたいですね。」
上を見上げると空には雲一つかかっておらずおよそ晴天といって過言でない空模様なのにも関わらずポツリ、ポツリと雨が降っていた。
「私、そろそろ帰りますね。お話聞いてくださりありがとうございました。」
この雨を皮切りに彼女がベンチを立った。
「こちらこそ。立ち直るきっかけを与えてくださりありがとうございました。」
それから一呼吸おいて
「どうかお幸せをお祈りしてます。」
と添えその場をあとにした。
最後まで笑って一人で戦って、誰かを救おうとした彼女に私の決意がとどいたのであろうか。
梅雨明けしたばかりのこの満天の青空から降り注ぐ雨は彼女の安堵の涙をあらわしているようでそれはとても美しい雨だった。
透いた石 @ame_natu_ou
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