晴日
淡島ほたる
晴日
彼女の忌日に、私は高台にある神社へ参拝をして、果てしなく長い石段をくだった。霖雨が明けたばかりの夜は蒸し暑く、出掛けに羽織った薄手の上着すら煩わしい。
「もっと涼しい時期に死ねばよかったんだ、緑里」
最後の一段を下りて振り返ると、灯りに照らされた鳥居が鮮やかに瞳の奥を刺した。
緑里はすぐに遠出をしたがる女だった。
「むつみん、いまから神社いかない? 」
彼女はそんなものに興味のある女ではなかった。
信心深くもなければ、流行り廃れにも関心を示さない。ただ、私ばかりに興味のある女だった。私と会う口実をつくるために、あらゆる手段を使って、何遍も連絡を寄越してくる。数撃てば当たると信じて疑わない彼女の姿勢に、私はあきれながらも感心したものだった。そんなことをしなくても、私は何にだって興味のない人間だったから、いくらでも付き合ったのだ。
ある夏の深夜、私は緑里からの連絡を受けて駅へ向かった。
私を見つけた彼女は小さく手を振って、「むつみん!」と呼んだ。ロータリーに停まっていたタクシーに乗り込むなり、私は彼女の眠たげな瞳をみつめて訊いた。
「どこ行くの」
「どこだっていいんだよ」
緑里は白い膝に載せたちいさな鞄をあけて、ワイヤレスイヤホンの片方をこちらに差し出した。
渡された銀色を左耳に挿し込むと、男の単調な声が流れた。ところにより、大雨が降るでしょう。
ただの天気予報じゃないかとにわかにぐったりする。隣にいる彼女はほんの少し口角を上げていた。緑里は嬉しそうな表情を隠すのが下手だ。この子の横顔を眺めていると、なぜか全部がどうでもよくなってしまう。晴れていても雨が降っていても戦争が起きても終末が訪れたとしても、それはそれでいいような気になってしまうのだ。タクシーにはわずかに煙草の匂いが薫っていた。見慣れた街並みは倦んで、海は滞りなく澱んでいて、ビニールカバーに覆われたシートに沈むようにしながら、私たちは何度この道を通っただろう。
「あたしはべつに、きれいな顔で生まれたかったわけじゃない」
アルコールの入った緑里は、煙を吐いてはよくそうやって管を巻いた。ため息まじりの言葉は、店の喧騒にまぎれてすぐに消えていく。
相槌を打っている途中で、電池切れのように眠りに落ちる彼女を見るのが常だった。
「……だれでもいいから、だれかひとりでも、信頼できるひとが欲しかった。でもそんなの存在しないんだよね。幻想なんだよ。むつみんは、わかる?」
子供みたいな声で、彼女はそうこぼした。
大丈夫だよ、私がいる。そう口にすればよかったのに、私はそうしなかった。
曇った空の下で、緑里の髪が柔らかくなびいている。闇夜には大きな月明かりがにじんで、彼女は翳りを帯びた光に染まっていた。
「孤独で、たまらなく孤独で、どうしようもなくなるときがあるの」
神社の鳥居の前で私にそう微笑んだ緑里は、なによりも綺麗だった。淡い幻のような記憶は確かな出来事として存在しているから、生憎うつくしくも神々しくもなかった。ただただ、思い出すたびに死にたくなるほど苦しいだけだ。
私の孤独とあの子の孤独はべつのもので、私が簡単に掬い取っていいものにはとても思えない。
私はまともな心を持ち合わせていなかったのに、彼女にだけは誠実でありたかった。おかしいと思う。過ちを犯したというのに、私は、彼女の横顔をもういちど見たいと望んでいる。
暗がりに迷いこんだ緑里の手を引いていたら、彼女はまだ、私の隣にいたのだろうか。
それすらもおこがましいと思う。大切だから引き留められなかった。言い訳めいている。言い訳めいているけれど、それが本心だった。私が緑里と共有したすべての過去は、現実のはずなのに、違うような気がした。
彼女のことをとても近くで見ていたようで、私はなにも知らなかった。自由を求めていた緑里は、ようやくひとりで、求めていた場所にたどり着いたのだろう。
真夜中に一人、風はやまず、私はただ朝を待っている。
晴日 淡島ほたる @yoimachi
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