命の重さの量り方 ~トロッコ問題の向こう側~

神門忌月

命の重さの量り方

 遠くから聞こえてくる爆発音に船体が大きく振動した。


 船の外は真空の宇宙。音も衝撃波も伝わらない。

 つまり今の爆発は、この宇宙旅客船の内部で起きたものに間違いなかった。


「こりゃいかんな。長くはもたんぞ」


 深刻な内容とは裏腹に、余裕すら感じさせる口ぶりで老紳士がつぶやいた。


 そり返るほどに背筋が伸びた、ひょろりとした長身。

 とがった口ひげが、ただでさえ神経質そうな顔をさらに険しく見せている。

 彼の名はドクター・ガスレイブ。高名な情報力学の博士である。


「そのようだね。それにしても、客船の遭難なんて何年ぶりだろうなぁ」


 ガスレイブのつぶやきに、これまた他人事のように答える、もうひとりの老人。


 縦幅よりも横幅の方が広く感じるほど、ずんぐりとした体格。

 あごひげのおかげでどうにか年相応に見える童顔は、極端な猫背のせいで肩に埋まっている。

 彼もまた高名な時空物理学の博士である、ドクター・バライアンである。


 ふたりの老人は、人影の絶えた廊下を並んで歩いてゆく。


「完全に逃げ遅れたのう」


「走って逃げるには歳を食いすぎたよ」


 床を突くガスレイブのつえの音と、ときおり遠くから聞こえてくる爆発音だけが、長い廊下に響いている。


「に、しても、船員すら見当たらんとはどういう了見じゃ」


 大げさにしかめ面を作って毒づくガスレイブに、バライアンが苦笑いで答える。


「船員とて命はおしいさ」


「ふんっ! まあ、命を捨ててまで乗客を救えとは言わんさ。下手したら二重遭難じゃからな。それでも、客の安全に最大限の努力を費やすのは、船員の責務じゃろうに。年寄を背負って逃げるくらいの気概きがいはないのか。不甲斐ふがいない!」


「で? 『おじいさん、私の背中にどうぞ』と言われたら、君はなんと答える?」


「ばかにするな! 自分の足で歩けるわい!」


「そう言うと思った」


 くすくすと笑うバライアンから不満げに顔を背けたガスレイブは、視線の先に目指すものを見つけた。

 救命ポッドの乗り込み口を示す警告灯だ。


「どうやら着いたようじゃぞ。ポッドも残っているな。命拾いしたようじゃ」


 警告灯が点灯しているということは、救命ポッドが待機中であることを示している。

 ポッドの定員は二名。

 これで、ふたりとも脱出できる見込みが立ったことになる。


 乗り込み口へとつながる自動ドアをくぐるふたりの老人。

 だが、彼らはそこで眉をひそめる事態に遭遇する。

 大きな箱型の機器が通路をふさいでいたのだ。


「なんじゃこりゃ」


 ガスレイブが箱型の機器を上からのぞく。

 それを背後から静観していたバライアンは、すぐに箱の正体に気づいた。


「これは人工心肺装置つきの密閉型診療ベッドだね」


「そのようじゃな。中に子供が入っとる」


 診療ベッドの中には十歳くらいの少年が横たわっていた。

 その胸元は規則正しく上下に動いており、容態は安定しているようだ。


 さて、どうしたものかと、ふたりの老人は顔を見合わせる。

 その直後、ひときわ大きな爆発音がとどろいた。


 反射的に首をすくめたふたりの背後で、自動ドアが閉まる。


 しばしの沈黙。

 先に口を開いたのはガスレイブだった。


「どうやら、閉じ込められたの」


「廊下の気圧が下がって、安全装置が働いたんだろう。これは、もう後戻りはできないね」


 バライアンが即座に状況を分析した。

 その言葉に納得し、大きくため息をつきながら、ガスレイブは半目で診療ベッドをにらむ。


「さて、こっちはどう見る?」


 いま、ふたりの老人がいるのは、救命ポッドへとつながる連絡通路である。

 この先の気密扉をくぐれば、そこはもうポッドの内部だ。

 そんな場所に、人の入った診療ベッドが放置されている状況は不自然といえた。


 バライアンがあごをなでながら、仮説を組み立ててゆく。


「事故が起きた後、誰かがこの子を脱出させるためにベッドをここまで運んだ。そしてベッドが大きすぎて気密扉を通らないことに気づいた。あせったその誰かは、ベッドをここに放置して、自分だけ逃げた。と、そんなところかな」


 そう言いながら、バライアンはベッドの脇に備え付けられた機器類をポンポンと叩いた。

 その機器類を含めたベッドの幅は、気密扉の幅よりあきらかに広い。


 バライアンの説明に、ガスレイブがうなずく。


「なるほど。人工心肺装置なしでは生きられない難病か。遠距離通信のタイムラグは繊細せんさいな手術では命取りじゃからのう。リモート手術は不可能と判断され、医療体制の整った場所へ移送中か。じゃが、それにしても……」


 ガスレイブはあることに気づき、首をひねった。


「救命ポッドは、車椅子なら二台、診療ベッドなら一床が入る設計のはずじゃが? このベッドも統一規格じゃろ?」


「こういうことさ」


 バライアンがしゃがみ込み、ベッドの下へ手を伸ばした。


「この形式のベッドには見覚えがある。このレバーを引けば、ほら、これでいい」


 ガチッと音を立てて、ベッドと脇の機器類との間に隙間があく。

 ベッドの下から抜け出たバライアンが機器類を横にずらした。


「人工心肺装置の本体はベッドの下だ。脇にあるのはモニターと記録装置だけ。人工心肺の機能には必要ない」


「この子の付添つきそいはベッドの仕組みも理解しておらなかったのか!?」


 ひたいに手を当て、ガスレイブは天を仰いだ。


「それで、ベッドがポッドに入らないと勘違いしたあげく、ベッドを廊下に戻す手間も惜しんで、自分たちだけ逃げたと? あとでこのポッドを使う者への迷惑も考えずに? やれやれ、最悪じゃな」


 なげくガスレイブに、バライアンは無言で肩をすくめてみせた。


 ガスレイブは苦い顔のまま、診療ベッドをにらみつける。


「まあいい。問題は、そこじゃあない。選択肢は……ふたつにひとつか」


 限られた船内に最大数を収納するため、救命ポッドはあらゆる面で必要最小限に設計されている。

 内部空間も、船から距離を取るための燃料も、生命維持のための酸素と電力も、余分なものは何ひとつ備わってはいない。


 つまり、ひとつの救命ポッドに、診療ベッドとふたりの老人が一緒に入ることはできないのだ。


 他の救命ポッドを使おうにも、もはや後戻りはできない。

 旅客船の廊下はすでに気圧が低下し、人が動ける状況ではないだろう。


 残された選択肢は、ベッドをポッドに乗せてこの子供を助けるか、子供を見捨ててバライアンとガスレイブのふたりが生き残るか、そのどちらかだ。


「【トロッコ問題】だねぇ」


 バライアンが皮肉げに笑った。


【トロッコ問題】とは『暴走するトロッコの進路に五人の作業員がいる。あなたは分岐器ぶんききの近くにいて、トロッコの進路を切り替えれば五人を救える。しかし、切り替えた先の進路で一人が犠牲になる』というものだ。


 これは『五人を救うために一人を殺す』という行為の是非を問うている。

 トンチを効かせて全員を救う方法を答えても、それは問題文の不備を指摘する行為でしかなく、問題そのものの解決にはならない。


 そして、今まさにふたりが直面する状況に、全員が助かる余地はなかった。


「ふん。選択するのが儂ら自身、つまり犠牲となる当事者である時点で、【トロッコ問題】とは言わんわい。むしろ【冷たい方程式】かのう」


 ガスレイブが鼻で笑う。


「誰だって自分の命は惜しい。儂らが赤の他人であるこの子供を見殺しにしたとて、誰にそれを責める資格がある?」


 そう吐き捨てて、ガスレイブはとびきり意地悪な笑みを浮かべる。


「もし、儂らを非難する奴がいたら、『お前が死ねば臓器移植で複数の患者が助かるのに、お前はなぜのうのうと生きている?』とあざ笑ってやるさ」


「だよねぇ」


 バライアンは苦笑いでガスレイブに相づちを打った。


【トロッコ問題】に対し、『より多くを救える五人を選ぶべき』と回答する者は多い。

 だがそれは、『五人を救うために自らが犠牲になる』ことを他者に強要する行為である。


 仮に【トロッコ問題】の回答者が、犠牲となる一人の立場だとしたら。


 そのとき、嘘偽りなく『五人を救うために自らが犠牲になる』と回答できる者がどれほどいるだろうか。

 もしも自身では選択し得ない行為を他者に強要しているのだとしたら、それは理不尽である。


 一方で、『赤の他人である五人を見殺しにしてでも、自分ひとりが生き残る』という選択を批難することもできない。

 それを批難する資格を持つのは、自己犠牲を実践してみせた者だけ。

 つまり、誰かのために命を投げ出し、すでにこの世には存在していない者だけだろう。


 とどのつまり、口先だけなら何とでも言えるのだから。


「だが、儂らは科学者じゃ。ここはひとつ、第三者視点で功利主義を貫こうじゃないか。ようするに、この少年と儂らふたり、そのふたつが天秤てんびんに乗っておる。そのどちらが重いか、という問題じゃ」


 そう言いうと、ガスレイブは不敵な笑みを浮かべた。


 犠牲となる当事者である時点で、ふたりの老人に『他者に死を強要する』という倫理上の問題は存在しない。

 その上で、さらにガスレイブは当事者としての私的感情すら放棄すると宣言した。

 言うなれば、神の視点、あるいは公平な観察者として判断を下すと表明したのだ。


 そこにはすでに、倫理学上の【トロッコ問題】は存在しない。

 冷徹な科学的見地にもとづいた【命の重さの量り方】があるだけだ。


「同意する」


 ガスレイブの思惑を理解して、バライアンが短く答えた。


「そんなもん、数的にみても、質的にみても、儂らふたりのほうが重いに決まっとる。なんせ儂らは『人類の叡智』『現代科学の至宝』とまで言われた頭脳じゃからな」


 そうドヤ顔で宣言したガスレイブに、バライアンがあきれた様子で応じる。


「よくもまあ、恥ずかしげもなく自画自賛できるよね。まあ、世間一般の認識もそのとおりなんで、異論はないけど。けどね?」


「なんじゃ?」


「その少年が将来的に何を成すか、わからないじゃないか」


 功利主義にもとづいて物事を解決しようとするとき、そこには情報の欠落という落とし穴がつきまとう。


【トロッコ問題】の五人の作業員が、のちに多くの人命を奪う者たちであったなら?

 犠牲となる一人が、のちに偉大な発明で世界を救う人間であったなら?


 どちらが『より多くを救える』選択なのか、それは誰にもわからない。


「はんっ。この少年が儂ら以上の偉業を成すと? もしかしたら、正反対に世紀の大罪人になるやもしれんぞ?」


 そう反論するガスレイブの鋭い視線を、バライアンは肩をすくめて受け止める。


「それは、あれだ、神のみぞ知る、ってやつだねぇ」


「無神論者がよう言うわ」


 バライアンの言葉をガスレイブが即座に混ぜっ返かえした。


「だが、おまえさんの言いたいこともわかる。不確定な未来ならば、確率論的に判断すべきじゃろう」


「そうだね」


「確率からいえば、この少年が大罪人になる可能性は極めて低い。普通に考えれば、食料からクソを生み出すだけの存在になり下がる確率より、ささやかでも社会の役に立つ仕事につく可能性が高いじゃろうな」


「妥当な予測だね」


「だとしても、儂ら以上の偉業を成すのは、まあ、無理じゃがな」


 相変わらずドヤ顔をさらすガスレイブに、バライアンは静かにまぶたを閉じる。


「ねえ、ガスレイブ。僕たちが偉業をなしたのは過去の出来事だよ。今は未来の話をしよう」


「なんじゃと?」


「命には耐久年数があるんだよ」


「耐久年数?」


 一瞬だけ呆けた顔になったガスレイブだが、すぐに悟る。


「……そうか、耐久年数ときたか」


 ガスレイブはバライアンの顔をまじまじと見た。


 艶のある赤ら顔にシワは少ない。だが、間違いなく老人だ。

 いつ死んでもおかしくない年齢。

 あと十年も生きれば、十分すぎるほどの長寿と言われるだろう。

 事実、ふたりともすでに同世代の家族や友人をほとんど失っている。


「儂らに残された短い生と、この少年に残された長い生とで、比較すべきだと言うんじゃな」


 ガスレイブの言葉に、バライアンがニッコリと笑う。


「耐久年数をとうに過ぎ、いつ壊れてもおかしくない最高級の装置と、未知の性能を秘めた新品の装置。どちらかを捨てろと言われたら、君ならどうする?」


 ガスレイブは苦々しげに顔を歪める。


「確かに、もう儂らでは論文ひとつ仕上げるだけの時間も残されていないじゃろう。それでも、若い者に意見したり、助言したり、儂らにしかできないことはあるはずじゃ」


「本当に? ねえ、ガスレイブ。僕は僕自身をそこまで特別だと思っちゃいないんだ」


 自分を否定するような言葉を発しながらも、バライアンの笑顔は晴れやかに見えた。

 ガスレイブはそんなバライアンを憎々しげに見つめる。


「……『人類の叡智』と呼ばれたお前が?」


「もし僕が生まれていなければ、僕の次に賢い者がそう呼ばれていただけだよ。僕が書いた論文は、僕が書かなければ、数年後には別の誰かが似たようなものを書いていたに違いないよ」


「そんなことは……」


 否定する言葉は、なかば途切れた。

 理論的に考えれば、それは十分にあり得ることだと悟ったからだ。

 それに気づきながら偽りを口にすることは、ガスレイブの矜持きょうじが許さなかった。


 言葉を失ったガスレイブを見て、バライアンは満足げにほほえんだ。


「僕らが死んでも代わりはいる。もちろん、この少年が死んでも代わりはいるだろう。結局、人の死による損失なんて、社会全体からみれば微々たる差だよ」


「おまえがそれを言うか。世界を変えたとまで言われたお前が。……世界を、ほ……」


 歴史に名を残す偉大な科学者を前に、そのおまけだと評された老人が、消え入りそうな声でつぶやいた。


「個人が世界に与える影響なんて、長い歴史を俯瞰ふかんするなら、みな些末さまつなことでしかない。だからこそ、客観的な評価より、主観的な観点に立って、僕たちとこの少年、それぞれに残された人生の長さを重視すべきだと思う」


 バライアンの言葉に、ガスレイブは押し黙った。


 一度大きく息を吸ってから、バライアンはガスレイブに言い聞かせるように言葉をつむいだ。


「残されたわずかな僕らの生に、この少年が送るべき長い人生に匹敵する価値があるとは、僕にはとうてい思えない」


 そんなバライアンの顔を、ガスレイブはじっとのぞき込む。

 そこにゆるがぬ確信を見取ったガスレイブは、緊張を解き放つように、大きく息を吐いた。


「……なるほど、どうやら論理的に反証する余地はなさそうじゃ。いいじゃろう。お前に付き合ってやるさ」


 そっぽを向いてそう答えたガスレイブに、バライアンは満面の笑みを浮かべた。


「……悪いね」


「いまさらじゃな。何年来の付き合いじゃと思っとる。さて!」


 声を張り上げながら、ガスレイブは晴れやかな顔を見せる。


「この船もいつまでもつかわからん。とっととこの子供を宇宙空間へ放り出すとしよう。救命ポッドごとな」


 ガスレイブとバライアンはポッドの射出へ向けて行動を開始した。


 診療ベッドを乗り越えてポッド内部へと入ったバライアンが、備え付けの椅子をレバー操作で外して、ベッド越しにガスレイブに手渡す。

 ふたつの椅子を取り外し終えると、そこには診療ベッドがちょうど収まるだけの空間が生まれた。


 ベッドを乗り越え、再び通路側へと戻るガスレイブ。

 それからふたりで慎重にベッドを押すと、それは隙間なく救命ポッドに収まった。


 すべての手順が問題なく完了したのを指差し確認し、気密扉の前でふたりはうなずきあう。

 バライアンが壁の操作盤を使い、気密扉を閉じた。


「いくよ」


 ポッド外部からポッドを強制射出するためのスイッチに指を置き、最後の確認をするようにバライアンがガスレイブを見た。

 ガスレイブは気密扉に向かって声をかける。


「達者でな、名も知らぬボウズよ。人生楽しいことばかりじゃないぞ? せいぜい生きあがけ!」


 わずかな振動と射出音が響き、気密扉の向こう側で救命ポッドが打ち出されたことを、ふたりは確認した。


 ひと仕事を終え、大きく息をついたふたりは、通路の床に腰を下ろす。


「さて、この小部屋の空気がなくなるのが先か、船が爆発するのが先か」


 天を仰ぎながら、ガスレイブは他人事のようにつぶやいた。


 おだやかな表情でバライアンが言葉を返す。


「いずれにしろ、苦しまずに死ねるよ」


「やれやれ、死ぬときまでお前さんといっしょか。思えば長い付き合いだったな」


 昔を懐かしむように、ガスレイブが遠い目をバライアンに向けた。


「大学の頃からだからね」


「思い出すのう。ふたりでいろいろとやったな。結構なバカもした。にしても……」


 くくっとガスレイブが思い出し笑いをもらす。


「あの頃のお前さんはひどかったな。まるで人付き合いができん奴じゃったな」


 ガスレイブが嫌味ったらしい笑みをガスレイブに向けた。

 バライアンはすねたように口をとがらす。


「自分だって、いつも一人だったじゃないか」


「儂はいいのさ。自分から一人でいることを選んだんじゃから」


 そう言ってそっぽを向くガスレイブに、バライアンはあきれ顔を向ける。


「まったく。この人情家のへそ曲がり。ほんとうは人一倍お人好しで、人の気持ちを察することができるくせに。面と向かえば憎まれ口ばかりだ」


「はっ。だからさ。面倒くさいんじゃよ。博愛主義者が人付き合いを良くしていたら、身がもたんからな。我ながら、自分のお人好し加減を持て余すわい」


 苦笑いを浮かべながら、ガスレイブがおどけるように言った。


「そのくせ、僕には自分から近づいたのかい?」


「放っておけなかったからな。頭でっかちで、他人の心が何一つ理解できていない、あまりにも危なっかしくて、お粗末なお前さんをな。まあ、お前さん相手なら、気を使う必要もないと思えたのも大きいがな」


「否定はしないよ。今だって、他人の心情なんかチンプンカンプンだ」


 そう言って肩をすくめたバライアンを、ガスレイブは愉快そうに見つめている。


「そんなお前さんが、今じゃ学会一の人格者と言われちょる。いやはや、なんとも滑稽こっけいじゃわい」


「そういう君は、学会一の嫌われ者だけどね」


「ほっとけ。好きでやってる。それでも儂を好いてくれている者はおるからの。逆に、お前さんの本性を知って嫌っているものも多いぞ?」


「そうなのかい? 大体はうまくやってるつもりだったんだけど?」


「それにしても……」


 ガスレイブは急に真面目な顔になり、バライアンを見る。


「そんなお前さんが、自分の命を捨てて他人を救う選択をするとはな。おめでとう。今やお前さんは、立派な良識派サイコパスだ」


「サイコパスはひどいなぁ。まあ、事実だけど。でも、これで正解なんだろう? 君一人だったら、迷わず少年を救ったろうに。僕がいたから、あんな議論をふっかけたんだろう?」


 のぞき込むような視線を向けるバライアンに、ガスレイブはほほえみ返す。


「お前さんは、儂が正しいと思う選択をしたよ。儂が思う【たったひとつの冴えたやりたか】どおりにな」


 ガスレイブの言葉に、バライアンは安心したように息をつく。


「最初は……大学生の頃は、さっぱり理解できなかったよ。君が、僕の目から見てもとびきり優秀な頭脳を持つ君が、なんで他人を気にかけてばかりいるのかがね。いまだって、本当はさっぱりわからない」


「儂はただ、本能に従っているまでさ。寝る、食う、抱く、笑う。本能に従って行動すれば、それは心地良い。他人に親切にしてやるのも心地よいからさ」


 そう言ってから、ガスレイブはにやりと笑う。


「ただ、そればっかりでも疲れるから、人付き合いの範囲は絞っているがね。依存症やら飽食と同じで、本能の暴走は身を滅ぼす。何事も適度が一番じゃ。それにさえ気をつけていれば、あとは心の命ずるままよ」


「あの少年を救うことも? そのために自分の命を投げ出すことも?」


 バライアンの言葉に茶化す雰囲気はない。

 そこにあるのは、ただ純粋な疑問だ。


「不思議なもんじゃ。普段は、赤の他人なんぞどうでもええ、身内を守るだけで精一杯、そうやって生きているのにな。目の前に選択肢を置かれると、自己犠牲が頭をもたげる」


 不満を口にしながらも、ガスレイブの顔は満足げだ。


「【利己的な遺伝子】論で言えば、赤の他人より自分自身だと思うけど」


「知らんよ、本能ってやつの本質なんぞな。ただ、儂の魂がそうささやくんじゃよ。目の前の誰かさんに手を差し伸べよ、とな。それは本能の暴走ではない、と儂は信じたい」


「あいにく僕の本能は壊れているからね、まったく共感できないよ。僕のは全部、君の見様見真似だ。けれど、君がいてくれてよかった。君を見て学ばなければ、僕の人生は散々な結果になっていたと思う」


「サイコパスってのは、案外、人気者だったりするもんだが?」


 意地悪な笑みを浮かべるガスレイブに、バライアンはしかめ面で返す。


「だまし続けられるのは、よほどのバカか、普段から身近にいない人間だけだよ。身近をバカで固めるなんてゾッとする。事実、君から学んだつもりの僕でも、学会で嫌っている人がいるんだろう?」


 一部の人間に嫌われている事実が思いのほか堪えているのか、落胆らくたんした声色のバライアン。

 その様子に、ガスレイブは慌ててなぐさめの言葉を紡ぐ。


「まあ、あれだ、そう悲観するな。本能が悠久ゆうきゅうのときを経て淘汰された生存戦略の結果なら、お前さんのような異分子もまた、変化をうながす生存戦略の一部よ。そこまで嫌うものでもないわい」


 途中から、自分でもなぐさめになっているのか分からなくなり、ガスレイブは首をひねってしまう。

 恨めしそうな顔を向けたバライアンに、ガスレイブは思わず頬をゆるめた。


「だが、そんな異分子が、自分の命を捨てて赤の他人を救う、という選択肢をした。儂は嬉しく思うぞ。ようやく肩の荷が降りた気分じゃ」


「僕はただ、君と一緒にいられる方法を選んだだけさ。今も昔もね。あの少年を見捨てて生き残ったとして、たった一人の友人を失って過ごす晩年は、さぞつまらないだろう。そんな価値のないもののために、生き延びたいとは思わないね」


 そのとき遠くから、何かが爆発したような大きな振動が伝わってきた。


「そろそろか」


「そうだね」


「お前さんはさっき、自分は特別じゃないと言っていたがな」


「ああ」


「儂にとっては、お前さんは特別だったよ。間違いなく、他にかえがたい友人だった」


「……ありがとう」


「そして、あの少年もまた、きっと誰かの特別になる。世の中ってのは、そういうもんだ」


「そうだね。君がそう言うなら、そうなんだろうと信じられる」


「それにしても、命の耐久年数と来たか。気づいておったのか? 儂の体のことを……」


 真剣な顔で問いかけるガスレイブに、バライアンはイタズラっ子のような笑みを返す。


「なんだい? 持病の水虫でも悪化したのかい?」


 バライアンの言葉に、キョトンとするガスレイブ。

 そんなガスレイブを見て、バライアンはさらに笑みを深くした。


 してやられたとばかりに、ガスレイブは両手を上げる。


「……ああ、そんなところじゃ。あと一年と言われて、都合よく【死ぬには良い日】が訪れる。なんと幸運な人生か。だがそれでも、お前さんを付きわせる結果になったのは悔やまれるな」


「いいさ。僕も好きでやってる」


 顔を見合わせ、ふたりの老人は静かに笑った。


「酸素が薄くなってきおったな。もう意識がなくなりそうだ」


 すこし朦朧もうろうとした様子で、ガスレイブがつぶやいた。


「さらばだ、バライアン。我が友よ。もし死後の世界があるなら、再びまみえようぞ」


「死後の世界を信じているのかい?」


「知らんよ。わからんから、否定もしない。科学者だからな」


 そう言うと、ガスレイブは静かに目を閉じた。


「……そうだね。さようなら、ガスレイブ。友よ、おやすみ。また会おう」


 ほほえみながらバライアンはいつまでもガスレイブを見つめている。


「のぅ……儂は世界を救えたろうか……」


 そして、熱と閃光がふたりを包み込んだ。




 アスタル航宙四○三便遭難事故は、その後の航宙史に多大なる影響を及ぼした。


 ふたりの偉大な科学者が犠牲となったこの事故は、多方面からの関心を集め、原因究明を望む多くの声が寄せられた。

 それを受けて徹底した調査が行われた結果、宇宙船の事故対策に多くの不備が指摘され、安全基準の大幅な見直しが図られた。

 その成果は、後世の研究家をして、『こののち、航宙事故の死亡率は二桁近く減少した』と言わしめるほどであった。


 なお、この事故から生還した乗客の名簿は公表されておらず、その中に病床の少年が含まれていたかは定かではない。


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