ヒグマ
@chased_dogs
会話するクマ
人間は言うまでもなく言語を持った動物である。社会性を持つ生物一般が取るコミュニケーションについて、それを彼らの言語と称するなら、言語は生物が持ち得る普遍的な機能の一つと言える。
ここで、人間の言語と他の生物の言語の差異は何であろうか、という疑問が生じる。
人間の持つ言語の特殊性を挙げることは確かに可能である。多様な音声、文字、あるいはジェスチャなどによって表現する能力は、他の生物に比べて優れているように思われる。というのも、人間に競合する文明を築いた他の生物は現存しないし、現存する生物で文字のような体系だった記号の集合を発明したものは人間以外に確認されていないからだ。
しかしそのような実際のコミュニケーションに表れる行為は、言語の媒体に過ぎない。音声や文字などは情報を符号化したものと捉えられるが、どちらかと言えば情報を符号化し復元する規則そのものこそ、言語と呼ぶに相応しいだろう。
その意味で、音声や文字などを生み出し解釈する能力は、人間という種族の身体性に起因するものであり、ちょうど魚が水中で呼吸し、我々がそうでないことと全く同じことであると言える。それは、抽象的な言語――あらゆる言語の原形となるもの――の機能を実現するための便利な手段でしかない。
抽象言語をそのまま理解することは恐らくできないが、現実に存在する言語を分析し比較・対照することで、いささか人間寄りのバイアスがかかっている気はするが、それらの基礎となるものは何かを探ることができるだろう。
我々は、使用する音声や文字の集合、文法の異なる複数の言語を持っている。複数の言語を理解できる人間は稀ではなく、したがってそれぞれの言語が対象とする範疇は、言語によって大きく異なってはいないものと考えられる。
言うまでもなく、我々の知る言語は強烈な履歴現象の上に成り立っている。
たとえば故事成語が意味を持つのは、その故事と言葉の意味が繰り返し何世代にも渡り伝えられてきたからである。仮に故事が忘却されれば、「故事成語」とは認識されずにただ「不格好な言葉」と認識されるだろう。文法や正書法による圧力を考えれば、早晩そのような「不格好な言葉」は規範的であろうとする人々の努力によって葬られ、忘却されるだろう(あるいは幸運にも、別の解釈ないし偽の起源を与えられ、生き延びるかも知れないが)。
履歴現象の源泉は口承によって直接的に、あるいは記録媒体を通して間接的により若い世代へ伝播する情報である。
特に記録媒体の影響は支配的であると考えられる。それは個々の人間の記憶能力には限界があり、口承に頼る限り、その言語集団が保持できる語彙や文法は生きている話者の数と彼らの交流の多さに依存しているためである。また、保持される語彙は会話に頻出するものに偏り、ごく少数の集団で使われる語彙、たとえば一種の符牒のようなものは、短期間で使い捨てられる可能性が高い。
では記録媒体、特に文字媒体による伝達は口承による伝達の不足を完全に補えるだろうか? 媒体の物理的な強度や複製の容易さによって、少なくとも語彙や文法の長期的な保存といったことは可能になるだろう。
ただし、文字だけでは音声を保存することはできず、文字による記述は音声と常に乖離する。
乖離を埋める努力として、自らの持つ音声に近い綴りを選ぶことになるが、個々人の発音は必ずしも一致しないし、音声と綴りの対応においても個人差が生じる。
一定の努力のもと、そのようにして生まれた「異音同義語」を解釈することは可能だが、情報交換の上では常に不便が生じることになる。
そこで有力な候補を一つ選定して、複数の音声に対して単一の綴りを割り当てることが考えられる(割り当てる、というと非対称性があるが、音声と綴りの対応に明確な主従があることを意図しない)。そのようにして、実際にどのような音声で実現されたとしても、文書上は一つの表現に留めることができる。情報伝達の観点では、正書法は合理的な発想だし、言語集団が拡大するにつれ自然発生的に要求されたとしても不思議はない。
まとめよう。人間らしい言語は集団の持つ長期的な記憶能力に立脚し、その形式は大集団ほど規格化される傾向にあると考えられる。
これを他の動植物に当てはめてみよう。彼らが今日の人間水準の言語を備えていないように見えるのは、まとまった言語集団が成立し得るほど大きな社会を形成していないからである。
非常に大雑把に見れば、それは捕食者・被捕食者の関係が固定化され、準安定的に繁栄と衰退を繰り返しているためであると考えられられる。したがって、天敵の不在と安定的な食料供給が実現することで、核となる社会が形成されるはずだ――。
「……セイ! センセイ!」
――耳元で甲高い声がし、思考(もとい現実逃避)を中断する。
「なに、
声の主、左坂井の方へ首を回す。
「え? 呼んだ?」
ほぼ同時に
「あ、先生じゃなくって、こっちのセンセイです」
左坂井が僕を指差しながら弁明する。
「あっはい」
答えを聞き、教授はくたびれた野良猫のように去っていった。
「……で、左坂井さん?」
椅子ごと向き直り左坂井を見る。
「うん。あー、このまえ学会で京都行って来てて。はい、これお土産。丸餅」
出店で買ったままのようなプラスチック容器を手渡される。
「たぶん大丈夫だと思うけど、賞味期限今日までだからよろしく」
そう言いながら踵を返し、研究室を出ていき……かけてまた戻ってきた。
「忘れてた。センセイ、生き物興味あるよね? 隣の
圃井研? クマ? お世辞にも自分は世故長けている方ではないが、それにしたって圃井研がクマを飼ってるなどとは初耳だ。クマはおろか生体を扱う研究室ではなかったはずだが……。
「クマと会話って、リアルクマ? メールクライアント的なやつとかではなく?」
「そう。論理クマじゃなくてリアルクマ」
「オーガニック?」
「もちろん。で、行くよね?」
◆◆◆◆
「こんにちは。コーヒー持ってきますね」
胸元にさげられたプレートから流麗な合成音声が再生される。プレートには「アルスル」とカタカナで乱雑に書かれていた。「アルスル」がコーヒーメーカーを操作し、紙コップにコーヒーを注いで持ってくる。
「どうぞ。お熱いのでお気をつけください」
合成音声に促され、紙コップを受け取る。
「あ、写真撮っていいですか?」
左坂井が気の抜けた声でアルスルに聞いた。
「フラッシュ撮影はご遠慮ください。眩しいので」
アルスルが答え、キグルミめいて陽気なポーズを取る。
「センセイ、これお願い」
左坂井にインスタントカメラを手渡され、カメラを構える。アルスルと左坂井が横に並びカメラを見る。身長差があって構図が難しい。しばらく悪戦苦闘しながらシャッターボタンを押す。
「はい、撮ったよ」
左坂井にカメラを渡す。気になるのか、アルスルも横から写真を覗きに来た。天井スレスレの位置から覗き込まれると、否が応でも緊張してしまう。机の上のコーヒーを胃袋に回収しつつ、徐々に緊張をほぐしていく。
「それで、中の人とかいないんだよね?」
横目でクマ――アルスル――を見ながら左坂井に訊ねる。
「知らん?」
カメラをしまいながら、左坂井が首を振った。
「中の人などいませんよ」
アルスルの合成音声が会話に割り込む。
アルスルを初めて見たとき、非現実さに目眩がした。たしかに動物にもコミュニケーション能力はあるが、そう考えているが、しかし人間とクマがそのまま会話できるなんていくら何でも安直過ぎる!
僕達が訪れたとき、たまたま圃井研は留守にしており、部外者二人とアルスルだけがそこにいた。だから、このクマが実際なんであるか、誰にも分からなかった。
さて、どうすべきか……。迷っていると、圃井さんが日焼けした笑みを浮かべながら戻ってきた。
「おっす。どう? 調子は」
圃井さんがアルスルの背中を叩きながら聞いた。
「私は大丈夫です。ハチミツください」
アルスルが答える。その様子を圃井さんがじっと観察する。そして僕達に向き直り言った。
「うん。シンセサイザは機能してるね」
「シンセサイザですか?」
左坂井が首を傾げながら訊ねた。
「あー、便宜的な名前だよ。アルスルが付けてる、この機械。格好いいでしょ。他にも候補があったんだけど――」
ネーミングセンスをとやかく言うつもりはないが、とにかくあのプレートが「シンセサイザ」らしい。
「どういう仕組みなんです? あの、なんとかリンガル的な、翻訳機能が付いているんですか?」
左坂井が質問を続ける。
「――いや、そういうのじゃないよ。なんていうのかな、翻訳機はパッシブな機械だけど、つまり相手の言葉を100%入力として受け取って、翻訳された結果を出力してるわけだけど、シンセサイザはもっとアクティブに、言葉だったら言葉で、相手の出力を制御する、もうちょっとマシな言い方すれば、アシストする機械なんだよ」
概念的に異なるのは理解できる。できるけど――
「それ、何ていうかマズくないんですか? たとえば倫理的に」
「ん? 一応、大学の倫理委員会の承認は得てるし、研究は合法だよ」
倫理委員会の承認を得ているから問題ない。完璧な論理だけど釈然としない。
「ねえ。ハチミツをください」
アルスルが圃井さんの肩に手を置く。圃井さんは、はいはい、と言いながら鞄から瓶詰めのハチミツを取り出し、アルスルに差し出した。
「ありがとうございます。ハチミツ。ハチミツが好き」
アルスルは瓶を両手で持ち去っていった。アルスルを見送ってから、圃井さんは話を続けた。
「で、シンセサイザだけど。いくつかの層に分かれてて、まず神経伝達でアルスルとの入出力する部分。次に冗長化された入力の冗長化を解いたり、出力の場合は逆に冗長化を掛ける部分。最後に人間っぽい振る舞いのエミュレータと、あと横に補助出力として日本語の音声合成モジュールが付いてる」
あの小さなプレートにそんな機能があったのか。僕が与えられた情報を咀嚼している間に、左坂井が口を挟んだ。
「人間のエミュレータってことは、あの子は人間なんですか? ええと、つまり、遺伝的な意味ではなく――」
「主観として? そうだね。彼がいる手前では喋りづらいんだけど――」
圃井さんは短く言葉を切って、それから声をひそめて言った。
「――彼はそう思ってるだろうね。僕らのことは同じか、近縁だと。実は何度かテストしてるんだ」
「結果は得られたんですか?」
左坂井が聞き返す。
「そうね。まあ色々あるんだけど、人間じゃないと言ったら怒られたよ」
自分のことを人間だと思ってるクマに怒られる様子は、想像するとちょっと滑稽だが、ホラーに片足踏み込んでいる気がする。
「変な言い方ですけど、よく無事でしたね」
「無事じゃなかったよ。……機材壊れたし、病院にも行ったし」
圃井さんがしみじみ言う。
「そう言えば院生の先輩が講義なくなったとか言ってましたね!」
「いやさ左坂井さんはなんで嬉しそうなの? ヒグ厶、あ、アルスルが怒ったら怪我どころじゃ済まなかったでしょうよ、常識的に考えて」
「そうなの? 圃井さん、どうなんです?」
「まあ、手加減してくれたんだろうね。君等も殴り合いの喧嘩になったとき全力は出さないでしょ。そのへん含めてシンセサイザの動作は良好ってことで、結果オーライ結果オーライ」
はは、と笑いながら圃井さんが話す。釣られて左酒井も笑う。
ピピッ、どこからかビープ音が鳴り、圃井さんが時計を見る。
「じゃ、僕はこれから会議だから」
そう言って足早に去っていった。そしてまた僕達だけになる。
「紅茶はいかがですか。美味しいですよ」
振り向けばアルスルが立っていた。その口元にはハチミツがべったり付着していた。
◆◆◆◆
それから、アルスルを撫でていくという左坂井をおいて僕は研究室へ戻った。何しろ当時の僕は追い詰められていたからだ。レポートの締切は迫っていたし、来週のゼミの原稿も白紙だったし、学位論文はテーマすら決まっていなかったのだ。
結局、当時の僕の意志に反して、独力では何も進展せず、主に左坂井の助けを得て課題を消化したのだった。なんなら学位論文の原稿も半分以上は彼女が書いたようなものだ(実際、彼女を共著者に入れたせいで学内の手続きに奔走することにもなった)。おかげで就職もでき、こうして日銭を稼ぎ健康に暮らしている。
それから、こんど五年ぶりに同窓会的な集まりがあるらしい。左坂井も来るみたいだ。場所はキャムラン・クマ自然動物公園。彼もまた就職できたらしい。
ヒグマ @chased_dogs
★で称える
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