鯨よりも深く

尾八原ジュージ

鯨よりも深く

 人魚が絶滅した。少なくとも人類に捕捉されている分の人魚は、すべて死に絶えたのだそうだ。

 それを僕は朝のニュースで知った。一人暮らしのマンションの一室。朝飯を食うあいだ、何気なく点けてぼんやり眺めているテレビのほんの数分間。最後の人魚はアメリカのなんとかいう研究機関で大切に保護されていたが、寿命で亡くなったのだという。

 人魚と聞くと、僕は否応なしにヨミちゃんのことを思い出す。

 ヨミちゃんは人魚だった。だけど速く泳ぐための尾も、水中で長時間過ごすための呼吸器官も、何も持っていなかった。


 ヨミちゃんが母親と一緒にぼくの家に来たのは、彼女が十五歳、僕が八歳のときだった。

 ヨミちゃんはすんなりとした腕で車椅子を自ら動かし、長いスカートで尻尾を覆っていた。人魚は美人のイメージが強いけれど、ヨミちゃんは特に「美人」という感じではなかった。目がくりっと丸くて離れており、鼻は低く、口が大きい。ただ不思議なほど愛嬌があって、その顔に表情が乗っかるとたちまち人の目を惹きつけた。笑うときは本当に楽しそうで、泣くときはこちらの胸が痛くなるくらい悲しそうだった。

 実家の客間で初めて挨拶したとき、彼女が「初めまして! 中島ヨミコです!」と頭を下げ、緑色がかったおさげ髪がぴょんと揺れたことを、僕は昨日のことのように思い出す。ヨミちゃんは人魚で、そして普通に普通の人間の女の子で、たぶん僕の初恋だった。


 ヨミちゃんは「先祖返り」なのだという。彼女の両親は普通の人間だが、どうやらもっとずっと前の先祖に人魚がいたらしい。そして、何かしらのきっかけでその特徴が彼女の体に現れたのだ。そしてそれは不完全なものだった。

 ヨミちゃんの膝から下は左右の脚がくっつき、淡い銀色の鱗が生えており、先端には足でなく、尾びれがついていた。小さな尾びれだった。これでは本来の人魚のようには泳げないし、さりとて人間のように歩くことに適しているわけでもない。彼女はその移動をほとんど車椅子に頼っており、そのためか体格のわりに腕が太くて強かった。

 ヨミちゃんは母親と一緒に、敷地内にある小さな離れに住むことになった。僕の実家はそれなりに歴史のある家系の本家で、田舎ではあるが周辺の家に比べるとひときわ大きい。ヨミちゃんはうちの親戚ではあるものの、遠い親戚だった。血縁などほとんどないと言ってよかった。

 彼女たちがやってきた日、僕は夜中、両親と祖父母が話し合う声をこっそりと聞いた。祖母が「あの子ねぇ、まぁ、いたましいこと」と少し大きな声で言った。

「こっちへは来ないんじゃなかったの?」

 母の声だ。父が答える。「うちが本家だからな。それに、ヨミコちゃんが車椅子を使って移動できる家というのも、なかなかないだろうし」

「でも、うちからは海が見えるでしょうに」

「行かせなかったら大丈夫だろう。あの子、移動が不自由だから」

「ご主人が生きてらしたらねぇ」

 どうやらヨミちゃんたちはお父さんを亡くしたということ、そのためにうちに世話にならないといけなくなったということ、それから海に行かせてはいけないらしいということがわかった。実家は高台にあったが海は近く、歩いて十五分ほどで海岸に行くことができる。ただその間には段差や階段、狭い道があるので、車椅子のヨミちゃんが一人で向かうには難しい道のりだと思った。

 でも、どうして海に行かせてはいけないのか、それはまだわからなかった。


 ヨミちゃんは学校へは行かず、通信教育を受けていた。僕もまた持病の喘息のために学校を休むことが多かった。とはいえ、ずっと寝ていなければならないという程でもない。

「家でプラプラしてるんだったら、ヨミコちゃんに勉強見てもらいなさい」

 そう言ったのは母だった。ヨミちゃんはほとんど学校に通ったことがないそうだが、勉強は好きだと言っていた。少なくとも小学二年生に勉強を教えることは十分できた。

 人見知りの僕の心を、ヨミちゃんの愛嬌と豊かな表情はあっという間に溶かしてしまった。離れの玄関をノックしてドアを開けると、彼女は僕を見て「こうちゃん!」と嬉しそうに呼びかける。それが僕にとっても嬉しかった。

 僕もヨミちゃんも寂しがっていたのだ。当時、両親や祖父母は仕事や町内会の用事で忙しく、家を留守にすることが多かった。学校に行かず、あの広い家で一人じっとしていると、自分だけを残してほかの皆はもっと楽しい場所へ行ってしまったのだ、というような気持ちに襲われることがあった。

 でもヨミちゃんはいつも離れにいて、僕が訪ねていくと本当に嬉しそうな顔をしたのだ。板敷きの八畳間、木枠のはまった窓から陽の光が差し込み、ヨミちゃんの白い顔を照らす。彼女は外を見ていることが多かった。

 離れの窓からは、小さく海が見えたのだ。


 離れで勉強していると、時々母がおやつを持ってきた。ぼくたちは机の上からノートを片付け、ふたりで近所の和菓子屋の大福や、スーパーで売られているアイスを食べた。ヨミちゃんは何を食べても「おいしいねぇ」と言った。

 その日は夏の暑い日だった。ふたりでソフトクリームを食べながら、僕はふとヨミちゃんに尋ねてみた。

「ヨミちゃんの好きな食べ物って、なに?」

「何でも好きだよ」

「人魚だから、魚って言うかと思った」

 僕がそう言うと、ヨミちゃんは高い声を上げていかにも可笑しそうに笑い、「お魚も好きよぉ」と答えた。

「でも普通に好きなだけよ。わたし、海の中に住んでたわけじゃないもん」

「そっか」

 Tシャツに巻きスカート、車椅子に座ってソフトクリームを食べるヨミちゃんは、話に聞く人魚のような感じでは全然なかった。ごく普通の人間のお姉さんという感じだった。

 僕がまじまじと眺めているのに気づいたのだろう、ヨミちゃんは「なーに? こうちゃん」と言って、床に座布団を敷いて座っている僕を車椅子の上から見下ろした。

「ふっふふ。こうちゃん、ここんとこにアイスついてる」

 僕は急に恥ずかしくなって、顔を伏せた。思えばこのとき、もう僕はヨミちゃんのことを好きだったのだ。

「わたし、海には行けないの」

「なんで?」

 ヨミちゃんは窓の外を見つめて、「海に引っ張られちゃうからねぇ」と呟いた。

「わたし泳げないから、海に入ったら溺れちゃう」

「引っ張るって、何が?」

「うーん、人魚の血みたいなもんかな……おかしいよね。わたし、海でなんか暮らせないのに。肺呼吸だし」

 ヨミちゃんが寂しそうに見えたので、僕は

「鯨も肺呼吸だよ」と言ってみた。

「肺呼吸だけど海で暮らしてるし、千メートルくらい潜れるって。図鑑で見た」

「そっか! 頭いいねぇ、こうちゃん」

 ヨミちゃんは嬉しそうに言って、小さい子にするように僕の頭を撫でた。


 ヨミちゃんの母親は物静かなひとで、僕が訪ねていっても、いつの間にかスーッといなくなってしまう。ヨミちゃんによれば、隣の部屋で内職をしているのだそうだ。

「お母さん、ほんとは前住んでたとこに帰りたいんだ。海の近くにいると、わたしが引っ張られて危ないから」

 ヨミちゃんは言った。ヨミちゃんたちが以前住んでいた町は海から遠く、彼女はテレビや写真でしか海を見たことがなかったという。

「それでもわたし、海を見るとなんか、ザワザワするんだ……」

 そう言ってヨミちゃんは窓の外を、そこから見える海を見つめる。その瞳はいつものヨミちゃんではない、何か別の生き物のようで、ここから出て元の町に戻りたいというヨミちゃんのお母さんの気持ちがわかるような気がした。でも、そうなれば僕たちは離れ離れになって、滅多に会うこともなくなるだろう。いっそここから海がなくなってしまえばいいのに、と僕は思った。

「ヨミちゃん、もし海に行ったらどうなるの?」

「んー、わかんない。行ったことないから。でもきっと、入ってみたくなるんじゃないかな」

「服のまま入ったらダメだよ。すっごく重たくなるから」

「ふふっ、わかってるわかってる!」

 ヨミちゃんは笑った。この笑顔が僕から離れていくことを思うと、胸が空っぽになるようで怖かった。


 夏が終わる頃には、ヨミちゃんは窓辺に車椅子を停め、じっとしていることが多くなっていた。僕が訪ねていくと、「こうちゃん!」と呼びかけてくれるまでにワンテンポ余計にかかるようになった。

 ヨミちゃんの母親は、ヨミちゃんを置いて外に働きにいくことができなかった。相変わらず内職に精を出していたが、日に日に顔色が悪くなっていくように思えた。

 母は僕に、「あんた、ヨミちゃんを海に連れてったら駄目よ。ヨミちゃんが行きたいって言っても絶対ダメ」と何度も念を押した。僕はその都度「わかってるよ」と答えた。

 秋が過ぎ去っていっても、ヨミちゃんたちはまだ離れに住んでいた。

 ヨミちゃんの髪は少し緑色が濃くなった。潮風のせいだと母が教えてくれた。昔、人魚の髪は売れたそうだ。漆塗りの刷毛を作るのに適していたという。そんな歴史を知ったのは僕が大学に入ってからで、もうヨミちゃんが亡くなってから十年以上が経っていた。


 冬のまだ暗い早朝、近所の人が慌ただしくうちのチャイムを鳴らすまで、僕たちは誰もヨミちゃんがいなくなったことを知らなかった。

「この子、離れにいる子だろ。ここんとこまで海に入ってて」

 びしょ濡れで毛布を被せられたヨミちゃんは、顔見知りのおじさんに抱えられて、真っ白な顔でぶるぶる震えていた。車椅子が海に行く道の途中に落ちていたそうだ。ヨミちゃんは皆が深く眠っている隙に家を抜け出したのだった。

「だって海が呼ぶの。どうして行ったらだめなの? すぐそこにあるのに」

 ヨミちゃんの唇の端から、少し尖った白い歯が見えた。歯噛みをする彼女は、いつものヨミちゃんとはまるで違うもののように見えた。

 僕は初めてヨミちゃんを恐ろしいと思った。それは未知のものに対する恐怖だった。

「ヨミコちゃんたち、やっぱり内陸へ移った方がいいな」

 父が言った。父もあの顔を見て、今にも海に彼女の遺体が上がるんじゃないかと恐ろしくなったのだそうだ。ヨミちゃんの母親は泣いていた。

 ヨミちゃんがいなくなるなんて嫌だ、と思った。でもこのまま彼女をここに置いておいたら、また家を抜け出してしまうかもしれない。実際、ヨミちゃんが出ていったことを誰も気づかなかったのだから、それは十分にあり得ることだった。

 海辺で育った僕たちは、幼い頃から海の怖さを繰り返し大人に吹き込まれていた。ヨミちゃんはきっと海に入ったら死んでしまう。

(僕が余計なこと言ったからだ。鯨の話なんかしなきゃよかった)

 せめて、ヨミちゃんたちがこの家を去るのを喜ばなければならない、と思った。

 いよいよヨミちゃんたちが引っ越す日、僕は彼女に手紙を渡した。何度も書き直したものだったけれど、中身は「べんきょうを教えてくれてありがとう。元気でね」と書いてあるだけの、そっけない手紙だった。

「ありがとう。こうちゃんといると、弟ができたみたいで楽しかった。ありがとね」

 ヨミちゃんは最後に、僕の大好きな笑顔を見せてくれた。

 ヨミちゃんの母親が運転する軽自動車は、ふたりを乗せてみるみるうちに遠ざかって行った。母がほーっと深いため息をついた。

 ヨミちゃんたちの車が、峠道で起きた事故に巻き込まれたと知らせを受けたのは、その日の夜のことだ。車外に放り出されたヨミちゃんの体は、山の斜面の木に引っかかっていたという。その斜面をどんどん下っていけば、彼女の体はやがて海に届いたはずだった。だけど、そうはならなかった。


 あれから二十年近くが経ち、人魚の絶滅のニュースを聞きながら、彼らは本当に絶滅したのだろうかと考える。

 人間がたどり着けない海深く、鯨が潜るよりももっともっと深くに、人魚の暮らす場所があるんじゃないだろうか。ヨミちゃんを呼んでいたのは、彼らではなかっただろうか。

 およそ夢みたいな話かもしれないけれど、そんなことを考えると、僕は心が少しだけ軽くなる。そこでは死んだはずのヨミちゃんが、大きな銀色の尾びれをゆったりと動かしながら、僕の拙い手紙を読んでいる。そんな気がする。いい大人になって、現実にはそんなことはないとわかっている今でも。


 ヨミちゃんと彼女の母親の遺骨は、ヨミちゃんの父親と同じ寺に眠っている。

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