最終話 紙上の銀河を泳ぐ者 

「来年両親に会うよ。歌奏絵も連れて。これでやっと、自分の仕事を胸を張って話すことができる」


 太田は、奈帆斗がこれまで出会った中で、一番晴れやかな顔をしていると感じた。

 心の中にずっと濁って澱んでいた、憑き物が落ちたようだ。

瞳は澄んでいる。彼の見る視界も、暑い残暑から抜け出した、雲一つない秋の空のように青く澄み渡っているだろう。

 奈帆斗の横顔を見ながら、太田は思う。

彼と初めて出会った小学生の頃。

そして彼と再会した25歳の書店の中での出来事。

彼が数年ぶりに再び描いて、編集者である自分に見せてきた読切漫画の、雑で決して読みやすいとは言えなかったアマチュアの原稿。

その後、漫画家として成長し、読みやすく洗練されていくプロの原稿。

そのすべてが走馬灯のように、彼のまるい脳裏を巡っていく。

 顔を上げた奈帆斗は、太田が泣き出しそうな笑顔になっていたのでかすかに瞠目した。瞳の表面が、紅茶色に鈍く揺れる。


「河谷。辛いことも仰山あったけど、漫画描き続けてて、ほんまによかったな」


「……ああ」


 2人は微笑みあった。この2人の間にしかわからない感情が、空気に漂っていた。ただの友達とも仕事仲間とも違う、独特の関係。

この関係を、なんと呼ぶのか。


(ああ、これを人は「相棒」というのか)


 互いに同じことを思った。


「河谷先生」


 誰かに頬を叩かれたような衝撃が、奈帆斗の頬に走った。

 一瞬目の前が赤と青に明滅する。

 奈帆斗は「可愛谷ナオ」の方ではない、「河谷」という本名の響きを、読者からかけられたことに気づく。

これは、奈帆斗本人にしかわからない、微妙なニュアンスの違いであった。

しかもその声は、初めて聞いたはずなのに、とても懐かしい響きをしていた。


(誰だ?)


 はっと前に意識を戻すと、そこに立っていた2人の少年を見て、さらに奈帆斗は瞳を見開いた。

 黒い高校の制服姿をした山本涼と吉沢蓮が、奈帆斗の単行本を片手に持ち、彼を見ながら、花が咲いたような笑顔で立っていた。

背が伸び、少年ではなく、青年に入りかけている雰囲気を宿していたが、彼らから、小学生の時の愛らしいおもかげは、消えていなかった。

 奈帆斗は思わず立ち上がった。


「山本か!?」


「先生、ずっと会いたかった」


 涼は声に涙の色を滲ませ、一歩奈帆斗に近寄った。


「先生の漫画、すげえ面白いよ! 俺の高校でも流行ってる!」


 気持ちいいくらいに全体を刈り上げた、坊主頭をした蓮が元気に言う。


「吉沢も……。お前ら、来てくれたのか」


「俺、夢諦めてないよ。この前、月刊ミルキーウェイの姉妹雑誌の賞で、奨励賞取ったんだ! ……一番下の賞だけどね」


 涼は照れ臭そうに頭をかいてそう言った。


「そうなのか! おめでとう」


 奈帆斗は気にせず、元教え子の活躍に、盛大に賛辞を送る。

 成長した涼は口角を上げて澄んだ瞳の膜に、涙を滲ませた。

汚れのない、暁の雲のようなその瞳に、あの時よりも少し歳をとった奈帆斗の笑顔が、凍った冬の湖の水面のようにはっきりと映って揺れていく。

 蓮は涼の肩に腕を回し、自分の首元へ彼の顔を引き寄せる。そして真夏の太陽のような満面の笑顔を浮かべた。

みがかれた白い歯は、口元の横の前歯が1つ抜けている。その隣には子供の頃からある八重歯が覗いていた。


「山本先生は、この調子でどんどん突き進んでいきますよ! 俺が編集者になるより早いかもね」


「吉沢くんはもうちょっと勉強頑張ってほしいかなー……」


 奈帆斗に向かって拳を突き出す蓮に、涼は苦笑いする。小学生の時から変わらず、涼のことを「先生」呼びする蓮に、奈帆斗は微笑んだ。2人の友情と関係性も、あの頃から途切れていないらしい。懐かしい教室の放課後の風が、サイン会会場に吹いた気がした。


「本気なんやったら、サイン会終わった時に、待っといてくれれば、俺が編集の仕事について教えたるで」


 太田は高い背を曲げ、涼と蓮の顔に目線を合わせると、ニカッと笑い、己の顔を親指でしめした。ぐっと力を込められた親指の第一関節は白くてらっている。


「え! いいんすか?」


 蓮は涼の肩から腕を離し、太田に食いつく。見開いた瞳は、真横から陽が差した琥珀のようにきらきらとしている。


「おお、ただし、夢だけやなく、入稿前の地獄の修羅場も、詳細に教えたるわ!」


 太田は腕を組み、上半身を仰け反らす。顔に影が出来て怖い印象に変わる。


「うへえ……。まじすか」


 先ほどと打って変わって蓮は瞳に影を宿し、太田から顔を離し、苦虫を噛み潰したような表情を見せる。


「でもありがたいっす!」


 瞳をギュッと閉じ、唇を噛むと、体をくの字にし、太田に頭を下げる。

 まるで運動部だ、と奈帆斗と涼は笑った。

 奈帆斗は涼に視線を向ける。涼も奈帆斗に気づき、視線を向けた。


「春影は、今最終章の北海道編のクライマックスまで描いてる。もうすぐこの物語は終わる。だけど、この物語が終わっても、俺は、これからも、何作も少女漫画を描き続ける。山本、お前も描き続けてくれ。止まるなよ」


 奈帆斗の瞳が、炎が宿ったように橙色にきらめく。

 涼はその光を見て、背を正した。


「はい! 俺、先生の背中、ずっと追い続けてきましたから」


「漫画を描くってのは、紙上の銀河を泳ぐってことだ」


「紙上の、銀河?」


「漫画って言うのは、先の見えない銀河の中を、己の物語の船に乗り、ペンっていう櫂だけで泳ぎ続けるんだ。俺たち漫画家はみんな、紙上の銀河を泳ぐ者だ」


 穏やかな口調でそう言う奈帆斗に、涼は、ゆっくりと瞳を見開き、輝かせる。涼の瞳に、宇宙が広がる。闇の中を無数に泳ぎ、震える小さいが力を持つ星々が。


「俺たちは……、紙上の銀河を泳ぐ者……」


 奈帆斗は、涼が手にしていた単行本を受け取ると、椅子に座り直した。

表紙を開く。表紙の裏の汚れない真っ白なページに、黒のサインペンで涼の名前と「可愛谷ナオ」のサインを入れる。その間にできた空間に、春影の横顔を繊細な絵で描いた。

 涼は、奈帆斗の手先の動き、そして描かれる絵だけを、まばたきもせずに見守っていた。鼻筋が通り、まつ毛の長い彼女の姿は、まるで生きているようだった。

 奈帆斗は、漫画で描くだけでなく、春影とどこかで実際に会ったこと、話したことがあるんじゃないだろうか? そんな不思議な気持ちにさせるほどのリアリティがあった。

 奈帆斗は、春影の絵を描き終わると、しばらくじっと見ていたが、やがて口角をうすく上げて微笑んだ。

その笑顔は、描かれた春影とそっくりだった。

 幻でも見たのではないか、と思い、涼は一度目を瞬いた。

 奈帆斗は単行本の表紙に薄い白の紙を挟み、涼側から見て表紙が真っ直ぐに見えるように丁寧に返す。

 涼は恐る恐る、だがしっかりとそれを受け取る。

 奈帆斗は涼の手と自分の手が、単行本越しに繋がっているのを感じると、顔を上げてこう言った。


「お前に託す」




【僕は、紙上の銀河を泳ぐ】(完)

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紙上の銀河を泳ぐ者 木谷日向子 @komobota705

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