第29話 父からの手紙
ペンキをバケツから吐いたような紺碧の空。
夏の暑さは、この空の青いうつくしさを見るためにあるのではないかと思うような青が、原稿明けの奈帆斗の頭上に広がっていた。
太田に最新話の原稿をチェックしてもらい、OKを得た奈帆斗は、夢から覚めたように脱力して、職場から自宅マンションに帰宅した。
(脱稿後はいつもこうなんだよな。原稿描いてるときは、そのことにしか意識が向かねえから、全神経がそこに注がれるんだけど。脱稿した後は全身の力が抜けて廃人みてえになる。まぁ、また原稿描けば元に戻るんだけどな。その繰り返しだ)
途中のスーパーで、無糖の紅茶、鶏胸肉、にんじん、玉ねぎ、じゃがいも、カレールーと福神漬けを購入した。
今日は妻の歌奏絵も原稿を描くことに集中しているだろうから、彼女の好物を作ってあげようと考える。
歌奏絵も漫画に生命を注ぐ人なので、集中しているだろうから、夕飯は原稿明けの自分が作ると決めていた。原稿に向かって一心に力を注ぐ歌奏絵の疲れを休め、彼女が笑顔でカレーを頬張りながら、手話で自分に話しかけてくるいつもの夕方を思い出し、奈帆斗は自然と心が暖かくなった。
日焼け止めと虫刺されを買おうか悩んでいたが、自分たちがほぼ外に出ない仕事をしていることを考えてやめた。グレーの螺旋階段を上がる。
鉄製の重いドアを、少し力を込めて開ける。
すると、ドアからふわり、と何か軽いものが玄関に落ちる音がした。
「ん?」
なんだろう、と思って玄関に上がり、落ちたものを拾い上げる。
(ガス代の請求の封筒か? いや、もう今月分は払ったはずだが)
落ちたものは、生活費の請求の封筒よりも小さく、そして、うつくしいものだった。
「便箋……?」
アザーブルーの上等な便箋が、褐色(かちいろ)の玄関に落ちていた。
指先で触れると、絹のような手触りで、上等なものだとわかる。
金のシーリングスタンプが押されていた。
こんなに古風で上品な便箋を送ってくるような相手とやりとりをした覚えは、結婚前の歌奏絵としかなかった。
奈帆斗は急いでリビングに赴き、正座して便箋に再び向き直ると、封を丁寧にくすんだ銅色のペーパーナイフで切った。
ペーパーナイフは奈帆斗が学生の時にアジア旅行に行った際に購入した現地の土産で、小鳥の嘴が刃になっている洒落たデザインだった。
原稿に向かっていた歌奏絵が気づき、不思議そうに椅子の背を逸らして奈帆斗を見る。うなじでひとつに束ねた彼女の髪がすじを持って揺れる。
奈帆斗は彼女に向かって安心させるように笑顔を向け、手話で「大丈夫だから原稿やってて」と伝えると、歌奏絵は微笑んで頷き、再び原稿に絵を描き始めた。
便箋から折り畳まれた白い手紙を取り出し、パッと開く。
ブルーブラックの万年筆で書かれたその筆跡は、子供の頃から見覚えのあるものだった。
「親父!」
驚いて目を丸くし、便箋をひっくり返して、先ほどは勘違いで浮かれていて確認していなかった名前を見る。手紙と同じく厳格な文字で書かれていたのは、奈帆斗の父・河谷英男の名前であった。
何年ぶりに、この名前を目にしただろう。少女漫画家になる、と決意し、両親に連絡を取り、英男に怒られて勘当されてから、手紙どころかメールや電話すらしておらず、盆も正月も実家へと戻ることはなかった。
一度連絡しようと決意して実家の電話番号を押してみたが、途中で手が震え、諦めたことがあった。
戻ることは、できなかった。
(どうして……。なんで俺の仕事のことあんなに嫌ってた、親父が手紙なんか……)
頭が真っ白になる。
鼓動が、動揺で激しく脈打つのが耳にくっきりと聞こえる。
唾を飲み込み、こめかみから汗を流し、奈帆斗は瞳孔が開いた目で、最初の一文を読み始めた。
外で蝉が鳴く声がしていたが、彼の耳には一切の音が聴こなくなっていた。
そのかわり、英男の文字から、もう何年も聞いていない父の低い声が聞こえてきた。
「奈帆斗、元気か。
あの時は動揺して、酷いことを言ってすまなかった。もうあれから5年も経ってしまったが、お前の漫画は1巻発売当初から、母さんと一緒にずっと愛読している。普段映画でも泣いたことのない俺だったが、初めて物語を読んで、泣いた。
来年の正月は奥さんを連れてうちに帰ってきてほしい。お前の漫画の感想を、皆で語り合おう。
河谷英男より」
手紙を最後までまともに読むことは出来なかった。奈帆斗の瞳の膜が、涙で滲んだからだ。手紙を持つ両手が震える。まばたきをすると、涙が手紙の上にこぼれ落ち、ブルーブラックのインクを滲ませた。
結局カレーは歌奏絵が作った。
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