第28話 『可愛谷ナオ先生 サイン会』
新宿の紀伊國屋書店では、毎年日付に間隔を置いて人気作家のサイン会が行われる。世界でも有名な児童文学作家や、学者。
そして、漫画家も例外ではなかった。
本棚が並んでいる場所まで、老若男女の行列が出来ている。皆の手には、「可愛谷ナオ」の単行本コミックスがあった。
薄いピンクに黒の活字で「アニメ化決定! 可愛谷ナオ先生 サイン会」と書かれた立て看板が、書店の中に設置されたサイン会会場の前に大きく置かれ、入る者はそれを確認している。
向日葵のフラワーアレンジメントが飾られた机。そのパイプ椅子に座りながら上半身を屈めた「可愛谷ナオ」の姿があった。
それは30歳になった、奈帆斗であった。
彼が連載を始めてから5年の歳月が流れていた。その間、何度も打ち切りの危機を迎えたことがあったが、太田との綿密な打ち合わせを重ね、伏線やプロットを練りに練って話をより面白く変化させていった。
太田は奈帆斗が描こうとしているものを引き出し、読者にとっての違和感があれば方向修正を考える。
彼も奈帆斗とタッグを組んだことで、編集者として成長していった。奈帆斗の画力も、始めは荒かったものが、徐々に線にいい塩梅で強弱が付き、繊細さを見せ始め、キャラクターたちの表情も感情豊かになっていった。
発行部数も最初はまちまちであったが、クチコミで鰻登りとなっていった。
奈帆斗はそれを太田からはしゃいで聞かされても、ただ黙々と漫画を描き続けた。
そして去年の秋、14巻を出版したところで、アニメ化が決定したのである。
連載作品のアニメ化は、月刊ミルキーウェイでは10年ぶりのことであった。しかも制作会社は、国内でも屈指のクリエイターが揃う「ユニオンズ」である。「ユニオンズ」は、普段アクションシーンの激しい少年漫画のアニメ化を主に担当しているが、少女漫画のアニメ化は異例だった。
あの「ユニオンズ」でアニメ化、ということで、黒海社の少女漫画編集部ではお祭り騒ぎとなり、土方と太田は涙を流しながら握手をした。
今回のアニメ化を記念して、月刊ミルキーウェイ編集部を上げて、サイン会を行うことになったのだ。
奈帆斗はそれを聞いても、若い頃のように飛び上がって喜んだりはせず、ただ一言「嬉しい……」と噛み締めるようにつぶやいた。そしてまたペンを取り、黙々と漫画を描き始めた。
漫画を描くことが、彼の使命だったからだ。
読者が事前に購入した単行本を受け取る。
開くと何も描かれていない真っ白な表紙の裏のページに、本人から知らされた読者の名前と、一番好きなキャラクター、そして「可愛谷ナオ」のサインを黒のマーカーで書いていく。丁寧だが早い筆致は、列になって待っている読者への配慮でもあった。
読者はそれを見ながら、緊張した様子で奈帆斗に話しかけ、奈帆斗はそれに笑顔で優しく応える。
太田は奈帆斗のかたわらに立って、両手を背で組みながら、胸がいっぱいになっていた。彼の黒い瞳は潤んでいたが、読者と奈帆斗に気づかれないよう、何気なく首をそっと後ろに逸らす。刈り上げた後頭部が、照明に照らされ、銀鼠色に煌めいた。
初老の女性読者が口元に笑窪を浮かべて去っていく。
次に現れたのは、中高生くらいの年齢かと思われる、10代の若い少女であった。月刊ミルキーウェイを一番読んでいる年齢層だ。黒くつややかな長髪を、結わずに背に流している。白い肌に、桃色に染まった頬。奈帆斗を見る目は、震えていた。憧れの漫画家の先生に会えた喜びと緊張が、そこには現れていた。
奈帆斗は少女を見上げて柔らかく微笑むと、そっと片手を彼女に差し出し、彼女が両腕に抱いていた単行本を受け取った。
少女は奈帆斗のその優しい笑顔を見て、安心したのか、こわばっていた全身の力を抜く。目尻を下げ、口元に笑みを浮かべた。彼女の淡い桜色の唇の表面が、鈍い白の光を宿し、揺れる。
「可愛谷先生が男性だったなんて、今日のサイン会でお会いするまで、知らなかったです。びっくりしました」
「前のサイン会でも言われました。男の少女漫画家って珍しいですからね」
奈帆斗は、少女の単行本にサインを書きながら応える。
「でも、漫画に性別とか関係ないんだなって思いました。春影の漫画、本当に面白かったです。15巻読みました。春影が慧次郎(としじろう)と結ばれて。ずっと応援してたので、感動して号泣しちゃいました」
奈帆斗はサインを書き終り、少女に向かって顔を上げた。
「ありがとうございます。あの2人の恋愛は、私も丁寧に描こうと心がけてたので、そう言っていただけて嬉しいです」
奈帆斗は単行本の表紙を上に向け、少女から見て違和感のない位置に戻すと、両手で渡した。
少女は少し頭を下げると、奈帆斗に三越で購入したパステルカラーのマカロンのセットと、ファンレターを太田に渡す。サイン会で受け取ったプレゼントは、後に編集部が奈帆斗にまとめて送るため、太田が預かることになっていた。
奈帆斗はそれを見て、再び「ありがとう」と言った。
少女は満足そうな顔で、両腕に単行本を抱きしめるようにし、黒髪を扇のように広げて去っていった。キラキラとした朝の海の水面のような光が、彼女の線の細い髪に浮かんでいるのを、彼らは見送る。
次の読者にサイン本を渡すまで、先ほどよりも間隔が空いたことを確認すると、太田は真面目な営業スマイルをほぐし、背に回していた腕を胸の位置で組む。そして、ニヤニヤしながら奈帆斗を見下ろした。彼のよく磨かれた白い歯がいやらしく光る。
「慧次郎の口説き文句読んだ時びっくらこいたわ。あの若さでどんな人生経験積んだら、あんなセリフ言えるんやと思うくらいよかったで」
奈帆斗も先ほど浮かべていた微笑みとは打って変わって、顔を赤め、眉を寄せて太田を睨みあげる。
普段人前に出ないで家でずっと漫画と向き合っている彼も、実は緊張していたのだということが、その素直な反応から太田は読み取れた。
「言うな! 俺も自分で描いてて恥ずかしかったんやから!」
「嫁さんにもあんなん言うて落としたんか?」
「言うか!」
奈帆斗の頬が、かすかに染まる。
太田は目元を細めて微笑むと、少し真面目な顔に戻った。編集者の顔だ。
「夢野カナエ先生、今すごいよな。アニメ映画化も決まった、『君のヒーローヒストリア』、少年ジャンプの看板作品やで。大人気作家や」
奈帆斗の顔が少し和らいだのを、太田は横目で確認する。
「でも、夢野先生が聾者(ろうしゃ)やってことは、関係者以外知らん」
太田は胸を逸らし、口の端を上げた。
「あと、本名が、河谷歌奏絵てこともな?」
「……お前な」
奈帆斗は上唇を下唇で湿らせると、太田から視線を逸らした。照れているのだろう。そして、しばらく考える素振りを見せると、再び微笑んだ。その笑顔は、幸せに満ち溢れている男のものであった。
「漫画の世界に年齢も性別も何も関係ないて教えてくれたのは、妻や。……そして太田。お前が俺を信じてくれなかったら、今この場にはいない。妻とお前に会わんかったら、あのまま夢諦めてた。ほんまに、おおきにな」
ゆっくりと噛み締めるように奈帆斗は言った。
「ほんまに夢みたいなことやな。ガキの頃に目指してたこと、諦めへんかったら叶うなんて」
いつになく儚げな笑顔を浮かべる太田を物珍しそうに見ていた奈帆斗であったが、やがて瞳に決意の色を浮かべる。そのくっきりとした光は、どこか懐かしいものを見つめているようであった。打ち明けようか躊躇う素振りを見せ、首を一度縦に振ると、太田を真剣な顔で見上げた。
「……こん前、勘当されてた親から、ファンレターが送られてきた」
「へえ?」
太田は眉を上げる。彼の瞳が、つややかに光る。
奈帆斗は太田から自然に目を逸らすと、前方をじっと見つめた。
そこには、これからサインをもらいにやってくる読者がまだ沢山いる。
だが、奈帆斗の瞳は、どこか遠いところを見ていた。そこに切なさはなかった。彼の両端の口角が上がっていたからだ。
瞳を揺らすと、彼は穏やかな過去を振り返る。
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