五十三章
山羊皮で幾重にも覆った広い
泉地風の真紅の花嫁衣裳は金糸で龍と鳳凰と
「
「窮屈でしょう。顔を出してもよろしいですぞ。なにせ皆酔っていますから見てもすぐ忘れます」
真っ赤な顔をして笑うのは
従僕もとい下官がすぐさま離れるように叱ってくれてほっと胸を撫で下ろす。空いたままの隣の席を見た。
「まだかしら……」
肝心要の
「
穏やかに声を掛けてきたのは隻腕の少年でたしか
「あ、ありがとう。でも大丈夫よ」
「阿呆、お前ではなにも出来んだろ」
横からすかさず皿を奪ったもう一人はたしか
「可敦、酒はいけるのか?」
「酔うほど飲んだことはないわ」
満嵐はそうか、と瓶を
「しっかし、痩せっぽちだな。そんなんで子が産めるのか?」
「満嵐!失礼なこと言わない!」
「もうちょい
那乃がその頭をはたいて、ごめんなさい、と謝る。
「それより、あの人はまだ?」
「待ちぼうけさせてすみません。もう来ると思うんですけど」
「とっても賑やかね」
まるで祭そのものだ。那乃はにこやかに笑う。
「こんな宴は本当に久しぶりでみんな舞い上がってるんです。下卑た連中よと呆れられてしまいますね」
「いいえ、祝ってくれるのは嬉しいもの」
とはいえ料理と男たちの熱にたまらずぱたぱたと手扇で風を送る。はしたないが、誰も気にしないだろう。
おお、とどよめきが起きた。開け放した入口の外、近づいてくる人影にみな礼をとり道を開けた。
「な……な……」
「どうした?」
隣に回り込んでゆったりと
「なんで、韃拓……髪が、なくなったわ!」
反応に那乃と満嵐が爆笑して膝を叩いた。韃拓も笑い含み自らの頭を撫で回す。
「婚姻する男は
編んでいた
「寒そうね……」
「じゃあ、あとであっためてくれ」
すかさず手を取り口付けてみせると新婦は固まった。大きく開いた胸元の吸いつくような肌が衣装と対比してさらに白い。上気して淡く彩雲のごとく染めあがり、酔いのまわる色香を
肩を揺すられてふっと目覚めた。赤い紗布越し、あたりは静かで、時々誰かの寝息と
「姜恋さま。大丈夫ですか」
起こしたのは瑜順、差し出された水を受け取り何をしていたのか思い出そうとする。
「随分お酔いになられています。本日はもうお休みになっては?」
「宴は……?」
「あらかた騒いで皆そのまま寝ています。いつもこれなのでご心配なく」
そう、と器に口をつけ、隣を見た。「……あの人は?」
「
「たいへん、わたくしも行くべきだった?」
大丈夫です、と瑜順が目の見えない顔で笑み、従僕が
「韃拓はもうすぐ帰ってきますが、先に
手を借りて立ち上がったが、ふらつく。もちろん休みたいが、とおそるおそる見上げた。
「ねえ、あの……。着替えたらその、あの人を待っていなくてはならないのではなくて?」
問われた瑜順は従僕の女と顔を見合わせ、しばらく思案するように考えていたが、そうこうしているうちに軽い足取りで本人が戻ってきてしまった。
「腹はくちくなったか?もう寝るか」
瑜順に掴まった手を鷹揚に取り上げられて
「あの…韃拓」
「ん?」
横に助けを求めたが互いに布越しで美青年の表情は分からなかった。助け舟はない。強い酒で焼けた喉が干上がって言葉が出ない。
そんな窈世の怯えを察したか、韃拓は軽く笑う。
「今日はもう遅いし疲れたろ。送ってやる」
意外な言葉に瞬き、気遣われたのが分かって俯いた。
「……ごめんなさい」
「なんで謝るんだ?」
不思議そうに訊かれて口を
やっとはっきりと見えた当主の顔は優しく笑んでいる。こんな笑い方をする人だっただろうか、と呆気に取られていると皮の厚い指で頬に触れられ、思わずたじろげば目を細めてみせる。酒の匂いを漂わせた、育ちきった男の威厳が溢れていた。
「
「……はい」
瑜順と従僕が頭を下げて先に行ってしまう。今ここで起きているのが二人だけになった。しばらく窈世を見下ろしていた韃拓は頷き、小さな手を引き歩き出す。互いに無言のままだったが、機会を捉えたと思い、窈世は酔いに任せてもうひとつの懸念を吐き出した。
「やっぱり、わたくしがこのまま国へ戻るのは良くないと思うわ」
「なんでだ?」
うまく言えない。太后と先代当主が初めに結んだ同盟は、そこに至るまでにいったいどれほどの犠牲を出しただろう。おそらく想像もつかないような苦難があったに違いなく、そして今再び、二十数年越しに更新された今回すら
角族側が自らに課したのは広大な霧界で採れる
互いに妥協点を見つけて交わした
しかし、――もしかすればこのことは韃拓にとってはもっと単純な理由なのか、と疑念が頭をもたげた。
「ひとつ、訊いていいかしら」
問いを問いで返した窈世に韃拓は振り向いた。
「あなたは……わたくしのことをどう思っているの」
布越しで良かった。視線が定まらず変な汗が出た。立ち止まった彼は二、三度瞬き、
「好きだが?」
なんでもないふうに言った。それで恥ずかしさでいたたまれなくなりつつも眉根を寄せる。
「それでも、わたくしを離すの?」
「そりゃあ毎日一緒にいたい」
「じゃあ、そうすればいいじゃないの」
「そのせいでお前が早死にするほうが嫌だ」
「まだそんなこと、決まったわけではないわ。現に下女や下男は
韃拓は手を離して腕を組んだ。「たしかに、長生きする奴は俺たちと同じほど生きる。けど、お前はふつうの泉人じゃない」
黒虎の毛皮を頭から被った顔は月に照らされていたものの複雑に影を落とし表情は分からない。
「お前は
言を切って、大きく一呼吸した。
「……俺は、お前を守りきれるか分からない」
「あなたにしては自信のない言葉だわ」
「悟った」
横顔がはっきりと憂う。
「敵が現れたなら、殺せばいいだけだと思ってた。仇なす者がいるなら消しちまったほうが後腐れがない。敵か、味方か、俺たちに刃を向けてくるのかそうでないのか、どちらかだと。だがそれだけじゃないと思い知った。敵を一人倒せば思いもよらない形でそれが他に影響した。たとえ俺の行動が正しかったとしても、仲間を死なせた。俺は俺自身の判断で殺すか殺さないかを決めるが、俺にとっての味方が誰かにとっては敵かもしれない。そのせいでもしお前や瑜順にもっと悪いことが起こったら。……そう考えると、お前を絶対に守ってやると言える自信がない。それに俺は
つまりは、と切なく見る。
「お前を泉地に残したいのは俺の我儘だ」
「……なによ、それ。本当に勝手だわ」
「望んで嫁いだわけでもない。俺がお前を選んだせいで全てを手放してこんなところへ来たのに、このうえ苦しんで死んで欲しくない」
言った彼は今にもなにかが溢れそうだった。窈世は頬を膨らます。
「だからなぜ死んじゃう前提なのよ、失礼ね。わたくしのことが好きなら一生守るくらい言いなさいよ」
「嘘をつくと怒るだろ」
「気概の問題よ!」
「泉地にいたほうが少なくとも
「分からないなら、暮らしてみるしかないじゃない。それを最初から苦しむだの死ぬだの、あなた実はわたくしにそうなって欲しいわけ?」
そんなわけないだろ、と訴えたのにこちらも腕を組んだ。
「それにわたくしはもうあなたの妻なのよ?角族の夫婦は同じ屋根の下で寝起きすると聞いたわ。それなのに別々に暮らすの?」
「でも、お前は俺のことが嫌だろう」
いじけたように呟く姿は小童にかえったようだ。そのさまに気を逆撫でされ、ついにがばりと冠を脱いだ。
「ええ、
ままよと叫んで恥ずかしさに耐えきれず座り込んだ。肩で息を弾ませ額を膝に埋める。
「このわたしの決意を馬鹿にしてるのがどうして分からないの……」
いきなり肩を掴まれた。そのまま包み込まれ、きつく抱き締められる。
「ごめん」
韃拓は耳許で囁き、頬を擦り寄せてさらに力強く両腕におさめる。
「俺はこんなに誰かを好きになったことがない。だからどうしたら泣かせずに済むか分からねえんだよ。危なっかしくて吹いたら消えちまいそうなお前をどうやったら幸せに出来るのか分からねえ」
「逃げるんじゃないわよ。分からないならどうして本人に訊かないの。なんで全部ひとりで決めちゃうのよ。あなたとわたしの幸せは今は違うわ。でもこれから一緒に歩んでいくなら、知らないうちに重なる部分も絶対に生まれるはずよ」
そうでしょ、と憤然とする。
「わたしはそれが少しでも増えたらいいと思うわ。韃拓も同じ気持ちではないの?」
「窈世は本当にそれでいいのか?」
しつこい、と胸の中で訴えると鼻先を突き合わせてきた。互いに黒い瞳で瞬きなく見つめ合い、それから韃拓は唇を求める。
触れただけですぐ離れ、息のかかるままに問うた。
「――やっぱり、朝まで一緒にいてもいいか?」
「…………ええっと、それって、前みたいに?」
「真面目に訊いてる」
「…………」
窮した返事を答えと判じ、韃拓は
「……あのね、怒ってる?」
「それはお前のほうじゃねえのか」
「怒ってないわ。ただ、……とっても眠いの」
今はそれを言い訳にさせて欲しいと暗に訴える。実際に大きな感情の波が去り、酒と慣れない宴の疲労で再びひどい睡魔が襲ってきた。
韃拓はそうか、と相槌をうち「寝ていいぞ」と額にもう一つ口付けを落とした。
「こういうの、嫌か?」
「分から……ない。けれど、恥ずかしいわ……」
安堵して答えているうちに瞼が落ちてくる。
窈世を従僕に預け天幕を出た韃拓は深い溜息をつく。癖で前髪を掻き上げようとした手が空を切った虚しさにもう一度嘆息していると背後から声がした。
「少しでも
「そう見えたか?」
「もちろん」
そうかよ、と肩越しに軽く睨むと瑜順は
「一緒にいなくて平気なのか?」
「もう今ごろ夢の中だぜ」
「お前が、だよ」
うるせ、と肘で押せばなおも笑う。
「まさかここまでとはな。正直驚いたが嬉しいよ。お前にも恋い慕う
「うぶ毛くらいやわっこいし、
何か言えば泣かしてしまう、と言うのに瑜順はさらに微笑み、横に並んだ。
「そのままでいいのさ、お前は」
「そうかあ?」
「姜恋さまは受け入れて下さるよ。あの方は何よりもまず自分が公主であることをよく分かっているから」
「……俺はそれを振りかざして無理強いしたくはない」
「お前の気持ちも分かっている。だが、いつまでも手を出さずにいるなら逆にあの方自身を
瑜順もまた息をつく。「不自由だな、俺たちは。ただ誰かを想うことがこれほど難しいなんて」
「ああ。まったくだ」
いつの間にか家畜の囲いまで辿り着き、二人は遠くの集落の明かりを見つめながら
「そういや、
「明日から北へ移動する
もともとは春夏の居住地は熊と草の地だ。婚儀の為に淮州に近い冬営地にとどまっていたが、早々に移動して家畜を肥やさねばならない。
「お前も行くのか?」
「こちらは問題ないようだし、男手が足りないからな」
「そういや、
見送った水守りによれば薬草を取りに出掛けたが、怪我をした
「まだ一応、探してはいるが……」
どこかの崖から落ちたならもう生きている見込みはない。彼は
「
「賽風坊は
そうだな、と呟いて春の夜空を見上げる。
「なんだか、随分とこんなふうにゆっくりしてなかったな」
瑜順も覆いを取り、目に星を浮かべて頷く。
「二年前のあの日、お前は泉地はどんなところだろうと言っていた」
「とんでもなかった」
「はは。そうだな、大変だった」
「初っ端から襲われたり、殺されそうになったり、散々だった」
「もうこりごりか?」
「そうも言ってられない。
「――ようやく、ここまで来た…………」
懐古に
「本当に、お前はよくやったよ」
「何言ってる。お前がいなけりゃ俺はもっと役立たずだったぜ」
「心にもないことを」「本当だって」
瑜順は睫毛を伏せたままもう一度笑い、それから言った。
「韃拓……ひとつ、俺に誓いをくれないか?」
「誓い?」
「どんなことがあっても、一族を導き、守ると」
なんだそんなの、と呆れる。
「
すると瑜順は
「たとえこの先どんなに辛い道が続こうとも、決して諦めない、と。俺に誓ってくれ」
真剣な眼差しに目を見開き、向きなおる。同じ動作を返した後に二本の指で瑜順の額に触れ、始祖
額には見えない
「誓う。何があっても角一族を守り導く」
「きっとだぞ」
瑜順はいつになく迫った面持ちで念を押した。赤く変じた瞳も夜目には黒い。
「ああ。俺に任せておけ」
「――――安心した」
ほっとして言われてなんだか照れくさくなり、肩を竦めて戻ろうぜ、と背を向けた。
「けどな、お前がいるなら俺の仕事なんて大したことはねえぞ。俺はお前ほど頭が良くない。分かってるだろ?」
わずかに沈黙し、しかし待てども返事は発されなかった。怪訝に振り返る。背後には誰も見当たらない。どこへ、と見渡し、足許に目を落とす。
倒れ込んだ塊は微動だにせず、月影の降る草原に死色の肌を晒していた。
「――――瑜順‼」
どうして。酒は飲ませなかったはずだ。
「瑜順!おい、瑜順‼」
慌てて抱き起こせば衣越しでも冷たい。半ば錯乱しながら頬を叩くと吐息程度に呻いた。それに頭の隅で塵一つぶん安堵しながら、羽織っていた毛皮で
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