五十三章



 山羊皮で幾重にも覆った広い大穹廬だいきゅうろ、見上げた高い天蓋はまるく切り取られ赤い夕暮れに星が瞬く。猥雑な色合いの祭壇に膨大な供物と香の煙、金縷梅きんるばい楊柳ようりゅうの花枝には五色の紙幣しべいを色とりどりに飾り付け、壁には八つの旌旛はたを貼りつける。それらを背後にしてしつらえた、びっしりと刺繍を施した広い地毯しきものに座らされ、眼前には大皿に湯気を立てる料理を山盛りに所狭しと並べ尽くされた。加えて人々のかまびすしい笑い声と碰杯かんぱいの音頭が入り交じり、熱気がこもって汗ばむくらいだ。


 泉地風の真紅の花嫁衣裳は金糸で龍と鳳凰ときじを踊らせ、金剛石と真珠と珊瑚玉を絡める。襟と広い袖振りには黒に吉祥紋をふち取った贅沢なものだった。


可敦カトン!酒は足りておいでですか!」

「窮屈でしょう。顔を出してもよろしいですぞ。なにせ皆酔っていますから見てもすぐ忘れます」


 真っ赤な顔をして笑うのは中樊チュウハン、その肩に寄りかかってすでに眠たげなのは褒具ホーグ。楽しげに手を打ち叩く男たちに窈世は純金の花鳥冠かんむりから垂れ下げた紅蓋頭おおいの内側で困り果てた。まだ婚儀は始まってもいないというのに、出来上がるのが早くはないか。

 従僕もとい下官がすぐさま離れるように叱ってくれてほっと胸を撫で下ろす。空いたままの隣の席を見た。

「まだかしら……」

 肝心要の婿むこはまだ姿を現さない。

レン可敦、ご不自由はございませんか?なにか取り分けましょうか。豚はお好き?」

 穏やかに声を掛けてきたのは隻腕の少年でたしか那乃ナナイ

「あ、ありがとう。でも大丈夫よ」

「阿呆、お前ではなにも出来んだろ」

 横からすかさず皿を奪ったもう一人はたしか満嵐マンランといった。

「可敦、酒はいけるのか?」

「酔うほど飲んだことはないわ」

 満嵐はそうか、と瓶をあおり喉を鳴らす。顔の見えない花嫁を品定めするように眺めた。

「しっかし、痩せっぽちだな。そんなんで子が産めるのか?」

「満嵐!失礼なこと言わない!」

「もうちょいしし置きのいいほうが哥哥アニキの好みだぞ」

 那乃がその頭をはたいて、ごめんなさい、と謝る。

「それより、あの人はまだ?」

「待ちぼうけさせてすみません。もう来ると思うんですけど」

「とっても賑やかね」

 まるで祭そのものだ。那乃はにこやかに笑う。

「こんな宴は本当に久しぶりでみんな舞い上がってるんです。下卑た連中よと呆れられてしまいますね」

「いいえ、祝ってくれるのは嬉しいもの」

 とはいえ料理と男たちの熱にたまらずぱたぱたと手扇で風を送る。はしたないが、誰も気にしないだろう。


 おお、とどよめきが起きた。開け放した入口の外、近づいてくる人影にみな礼をとり道を開けた。


 黄丹おうにと金の装い、黒い虎皮を羽織った威風堂々とした姿。赤い片襷かただすきに同じ布でつくった花飾りをあしらい、磨き上げた黒い長靴で宴席の真ん中を大股に進んでくる。後ろに控えるのはいつもと変わらず美しい瑜順、だが、窈世は今ばかりは目の前の人物だけを唖然として見上げた。


「な……な……」

「どうした?」


 隣に回り込んでゆったりと胡座あぐらをかいた新郎は不思議そうに問いかけてくる。布越しで見間違えたわけではない。つるりと光に反射する、青々しい……。


「なんで、韃拓……髪が、なくなったわ!」


 反応に那乃と満嵐が爆笑して膝を叩いた。韃拓も笑い含み自らの頭を撫で回す。

「婚姻する男は髠頭ぼうずにする決まりだ。以前の自分を捨てて新しくなる」

 編んでいた辮結みつあみは毛一本たりとも残っていなかった。窈世としてはなんだか痛々しい。

「寒そうね……」

「じゃあ、あとであっためてくれ」

 すかさず手を取り口付けてみせると新婦は固まった。大きく開いた胸元の吸いつくような肌が衣装と対比してさらに白い。上気して淡く彩雲のごとく染めあがり、酔いのまわる色香をかもしていた。微かに覗く控えめな膨らみの線に目が釘付けになったが本人はまったく気がついていない。一瞬のち我に返り、同じく見蕩みとれていたいくつかの視線をしっしっ、と手で払ったところで、進行役が式の開始を宣言した。







 肩を揺すられてふっと目覚めた。赤い紗布越し、あたりは静かで、時々誰かの寝息といびきが聞こえる。見回して、きんと痛む頭を押さえた。

「姜恋さま。大丈夫ですか」

 起こしたのは瑜順、差し出された水を受け取り何をしていたのか思い出そうとする。

「随分お酔いになられています。本日はもうお休みになっては?」

「宴は……?」

「あらかた騒いで皆そのまま寝ています。いつもこれなのでご心配なく」

 そう、と器に口をつけ、隣を見た。「……あの人は?」

大人たいじんたちのところへ挨拶に」

「たいへん、わたくしも行くべきだった?」

 大丈夫です、と瑜順が目の見えない顔で笑み、従僕が披風かぜよけを掛けてくれる。

「韃拓はもうすぐ帰ってきますが、先に私幕おへやへご案内します」

 手を借りて立ち上がったが、ふらつく。もちろん休みたいが、とおそるおそる見上げた。

「ねえ、あの……。着替えたらその、あの人を待っていなくてはならないのではなくて?」

 問われた瑜順は従僕の女と顔を見合わせ、しばらく思案するように考えていたが、そうこうしているうちに軽い足取りで本人が戻ってきてしまった。


「腹はくちくなったか?もう寝るか」

 瑜順に掴まった手を鷹揚に取り上げられて狼狽うろたえた。

「あの…韃拓」

「ん?」

 横に助けを求めたが互いに布越しで美青年の表情は分からなかった。助け舟はない。強い酒で焼けた喉が干上がって言葉が出ない。

 そんな窈世の怯えを察したか、韃拓は軽く笑う。

「今日はもう遅いし疲れたろ。送ってやる」

 意外な言葉に瞬き、気遣われたのが分かって俯いた。

「……ごめんなさい」

「なんで謝るんだ?」

 不思議そうに訊かれて口をつぐんだ。未知なるものが怖いという理由で果たすべき務めを先送りにしてはならないと頭では分かっているのに。今日が来るのはずっと前から決まっていたことで、心の準備もしてきたはずなのに。窈世は紅蓋頭おおいをそろりと上げた。

 やっとはっきりと見えた当主の顔は優しく笑んでいる。こんな笑い方をする人だっただろうか、と呆気に取られていると皮の厚い指で頬に触れられ、思わずたじろげば目を細めてみせる。酒の匂いを漂わせた、育ちきった男の威厳が溢れていた。

あせらなくていい。お前の嫌がることはしない。まあでも、限度はある。分かるな?」

「……はい」


 瑜順と従僕が頭を下げて先に行ってしまう。今ここで起きているのが二人だけになった。しばらく窈世を見下ろしていた韃拓は頷き、小さな手を引き歩き出す。互いに無言のままだったが、機会を捉えたと思い、窈世は酔いに任せてもうひとつの懸念を吐き出した。


「やっぱり、わたくしがこのまま国へ戻るのは良くないと思うわ」

「なんでだ?」


 うまく言えない。太后と先代当主が初めに結んだ同盟は、そこに至るまでにいったいどれほどの犠牲を出しただろう。おそらく想像もつかないような苦難があったに違いなく、そして今再び、二十数年越しに更新された今回すらうずたかい死者を出さずにはおれなかった。これはそれほどのことだ。水のない角族が生きていく為、掠奪によらず合法的に泉地をおかす手段、彼らの通行証として自分は捧げられた。その自分がこの土地で生きることが彼らの戦績の見返りには含まれているはずだ。それなのに、韃拓は一泉に住んでもいいと言う。

 角族側が自らに課したのは広大な霧界で採れる麦飯石ばくはんせきを一泉におろすこと。おそらく前回よりもっと具体的に年間の産出量は決められた。彼らが彼らで使う分と交易に見合う分を、水を得る代わりに提供しなくてはならない。もしかすれば狩猟や畑地を耕すよりも、土を掘るほうが多くなるかもしれないのだ。

 互いに妥協点を見つけて交わした盟約ちかいであり天秤は今の時点では水平なはず、それが、生贄である公主に対して定めた協定の枠から逸脱させるような待遇を与えては、それはもはや公平ではない。些細なことだと捉えるにはいささか自由が過ぎ、盟そのものが軽いもののように感じる。自分は、そう思う。


 しかし、――もしかすればこのことは韃拓にとってはもっと単純な理由なのか、と疑念が頭をもたげた。


「ひとつ、訊いていいかしら」

 問いを問いで返した窈世に韃拓は振り向いた。

「あなたは……わたくしのことをどう思っているの」

 布越しで良かった。視線が定まらず変な汗が出た。立ち止まった彼は二、三度瞬き、

「好きだが?」

 なんでもないふうに言った。それで恥ずかしさでいたたまれなくなりつつも眉根を寄せる。

「それでも、わたくしを離すの?」

「そりゃあ毎日一緒にいたい」

「じゃあ、そうすればいいじゃないの」

「そのせいでお前が早死にするほうが嫌だ」

「まだそんなこと、決まったわけではないわ。現に下女や下男は不能渡わたれずの泉民の血筋なのでしょう。長く生きている人もいるでしょ?」

 韃拓は手を離して腕を組んだ。「たしかに、長生きする奴は俺たちと同じほど生きる。けど、お前はふつうの泉人じゃない」

 黒虎の毛皮を頭から被った顔は月に照らされていたものの複雑に影を落とし表情は分からない。

「お前は泉根せんこんだ。みずを浄化する力を秘めた血を持つ。霧界の中に住んで平気なのかは未知だ。さきの大長公主だって俺が生まれる前に死んでる。一度目は、太后と媽媽おふくろの力が強かったからこそ、目に見える同盟の証がいなくなってもった。だが今回は違う。俺は」

 言を切って、大きく一呼吸した。

「……俺は、お前を守りきれるか分からない」

「あなたにしては自信のない言葉だわ」

「悟った」

 横顔がはっきりと憂う。

「敵が現れたなら、殺せばいいだけだと思ってた。仇なす者がいるなら消しちまったほうが後腐れがない。敵か、味方か、俺たちに刃を向けてくるのかそうでないのか、どちらかだと。だがそれだけじゃないと思い知った。敵を一人倒せば思いもよらない形でそれが他に影響した。たとえ俺の行動が正しかったとしても、仲間を死なせた。俺は俺自身の判断で殺すか殺さないかを決めるが、俺にとっての味方が誰かにとっては敵かもしれない。そのせいでもしお前や瑜順にもっと悪いことが起こったら。……そう考えると、お前を絶対に守ってやると言える自信がない。それに俺はやまいは殺せない」

 つまりは、と切なく見る。

「お前を泉地に残したいのは俺の我儘だ」

「……なによ、それ。本当に勝手だわ」

「望んで嫁いだわけでもない。俺がお前を選んだせいで全てを手放してこんなところへ来たのに、このうえ苦しんで死んで欲しくない」

 言った彼は今にもなにかが溢れそうだった。窈世は頬を膨らます。

「だからなぜ死んじゃう前提なのよ、失礼ね。わたくしのことが好きなら一生守るくらい言いなさいよ」

「嘘をつくと怒るだろ」

「気概の問題よ!」

「泉地にいたほうが少なくとも身体からだは守られる。お前にここの土が合うかどうかは分からない」

「分からないなら、暮らしてみるしかないじゃない。それを最初から苦しむだの死ぬだの、あなた実はわたくしにそうなって欲しいわけ?」

 そんなわけないだろ、と訴えたのにこちらも腕を組んだ。

「それにわたくしはもうあなたの妻なのよ?角族の夫婦は同じ屋根の下で寝起きすると聞いたわ。それなのに別々に暮らすの?」

「でも、お前は俺のことが嫌だろう」

 いじけたように呟く姿は小童にかえったようだ。そのさまに気を逆撫でされ、ついにがばりと冠を脱いだ。

「ええ、野卑やひなあなたなんか大嫌い。最初っから荒っぽくて下品で、どうして瑜順が族主じゃないのってなんべんも思ったわよ。…………でも、でもね、わたくしは、――わたしは!心の底から本気で嫌いな相手と一緒に、あんな、……あんな洞窟の地べたで、はしたなく裸で寝っ転がったりしないのよ‼」

 ままよと叫んで恥ずかしさに耐えきれず座り込んだ。肩で息を弾ませ額を膝に埋める。

「このわたしの決意を馬鹿にしてるのがどうして分からないの……」

 いきなり肩を掴まれた。そのまま包み込まれ、きつく抱き締められる。

「ごめん」

 韃拓は耳許で囁き、頬を擦り寄せてさらに力強く両腕におさめる。

「俺はこんなに誰かを好きになったことがない。だからどうしたら泣かせずに済むか分からねえんだよ。危なっかしくて吹いたら消えちまいそうなお前をどうやったら幸せに出来るのか分からねえ」

「逃げるんじゃないわよ。分からないならどうして本人に訊かないの。なんで全部ひとりで決めちゃうのよ。あなたとわたしの幸せは今は違うわ。でもこれから一緒に歩んでいくなら、知らないうちに重なる部分も絶対に生まれるはずよ」

 そうでしょ、と憤然とする。

「わたしはそれが少しでも増えたらいいと思うわ。韃拓も同じ気持ちではないの?」

「窈世は本当にそれでいいのか?」

 しつこい、と胸の中で訴えると鼻先を突き合わせてきた。互いに黒い瞳で瞬きなく見つめ合い、それから韃拓は唇を求める。


 触れただけですぐ離れ、息のかかるままに問うた。

「――やっぱり、朝まで一緒にいてもいいか?」

「…………ええっと、それって、前みたいに?」

「真面目に訊いてる」

「…………」


 窮した返事を答えと判じ、韃拓はたとえようのない顔で窈世の頭を肩口に押しつけ撫でた。やがて立ち上がり、横抱きにかかえて緩い風の吹くなかを無言で歩み出す。


「……あのね、怒ってる?」

「それはお前のほうじゃねえのか」

「怒ってないわ。ただ、……とっても眠いの」

 今はそれを言い訳にさせて欲しいと暗に訴える。実際に大きな感情の波が去り、酒と慣れない宴の疲労で再びひどい睡魔が襲ってきた。

 韃拓はそうか、と相槌をうち「寝ていいぞ」と額にもう一つ口付けを落とした。

「こういうの、嫌か?」

「分から……ない。けれど、恥ずかしいわ……」

 安堵して答えているうちに瞼が落ちてくる。もたれた夫の温かい胸の中、夜なのに陽だまりみたいな匂いがした。





 窈世を従僕に預け天幕を出た韃拓は深い溜息をつく。癖で前髪を掻き上げようとした手が空を切った虚しさにもう一度嘆息していると背後から声がした。

「少しでもむつまじくなったようで良かった」

「そう見えたか?」

「もちろん」

 そうかよ、と肩越しに軽く睨むと瑜順は可笑おかしそうにする。

「一緒にいなくて平気なのか?」

「もう今ごろ夢の中だぜ」

「お前が、だよ」

 うるせ、と肘で押せばなおも笑う。

「まさかここまでとはな。正直驚いたが嬉しいよ。お前にも恋い慕うひとが出来て」

「うぶ毛くらいやわっこいし、硝子がらす細工みたいにすぐ壊れそうでどう触ったらいいのか分からねえ。どうしたらいい?」

 何か言えば泣かしてしまう、と言うのに瑜順はさらに微笑み、横に並んだ。

「そのままでいいのさ、お前は」

「そうかあ?」

「姜恋さまは受け入れて下さるよ。あの方は何よりもまず自分が公主であることをよく分かっているから」

「……俺はそれを振りかざして無理強いしたくはない」

「お前の気持ちも分かっている。だが、いつまでも手を出さずにいるなら逆にあの方自身をおとしめる結果になる」

 瑜順もまた息をつく。「不自由だな、俺たちは。ただ誰かを想うことがこれほど難しいなんて」

「ああ。まったくだ」


 いつの間にか家畜の囲いまで辿り着き、二人は遠くの集落の明かりを見つめながらくいに凭れた。


「そういや、媽媽おふくろは?」

「明日から北へ移動する面子めんつと共に発つ」

 もともとは春夏の居住地は熊と草の地だ。婚儀の為に淮州に近い冬営地にとどまっていたが、早々に移動して家畜を肥やさねばならない。

「お前も行くのか?」

「こちらは問題ないようだし、男手が足りないからな」

「そういや、賽風坊さいふうぼうは居着いたままか。顕賢けんけんはまだ見つからないんだな」


 見送った水守りによれば薬草を取りに出掛けたが、怪我をした四不像しふぞうのみが戻ってきたという。


「まだ一応、探してはいるが……」

 どこかの崖から落ちたならもう生きている見込みはない。彼は不能渡わたれずだったし、昨年秋にいなくなってからすでに半年は経っていた。

季娘キジョウがひどく残念がってた。師事したいと言ってたくらいだったから。俺もひとつ確認しておきたいことがあったんだけどよ……」

「賽風坊は陸郁りくいくどのとも連絡が取れないと。小福も分からないと言っていた。俺も改めて礼がしたかったんだが、どこでどうしているのやら……。ともかく、そっちは落ち着いてから来るといい。姜恋さまもしばらくは骨を休めたいだろう」


 そうだな、と呟いて春の夜空を見上げる。


「なんだか、随分とこんなふうにゆっくりしてなかったな」

 瑜順も覆いを取り、目に星を浮かべて頷く。

「二年前のあの日、お前は泉地はどんなところだろうと言っていた」

「とんでもなかった」

「はは。そうだな、大変だった」

「初っ端から襲われたり、殺されそうになったり、散々だった」

「もうこりごりか?」

「そうも言ってられない。胡市いちのことなんてまだ滑り出しも始まってねえし」

「――ようやく、ここまで来た…………」

 懐古にふけるように呟き、頭を垂れた。

「本当に、お前はよくやったよ」

「何言ってる。お前がいなけりゃ俺はもっと役立たずだったぜ」

「心にもないことを」「本当だって」


 瑜順は睫毛を伏せたままもう一度笑い、それから言った。


「韃拓……ひとつ、俺に誓いをくれないか?」

「誓い?」

「どんなことがあっても、一族を導き、守ると」

 なんだそんなの、と呆れる。

戴冠たいかん式でも葬儀でも散々言ってきたぞ」


 すると瑜順はてのひらで額を隠す。そのまま一度上に挙げ、それからゆっくりと降ろしつつ丸めた。反対の手で包み込み、顔の前に掲げる。


「たとえこの先どんなに辛い道が続こうとも、決して諦めない、と。俺に誓ってくれ」


 真剣な眼差しに目を見開き、向きなおる。同じ動作を返した後に二本の指で瑜順の額に触れ、始祖佛朶フツダ八伝字はちでんじを描いた。

 額には見えないつの、生命の象徴があるとわれ、隠す動作は恭順と信奉を示す。臣下として受ける場合、その者の角は主の支配と庇護下に置かれるという儀礼だった。許諾するならば護字八文字を額に埋め込み封をする。


「誓う。何があっても角一族を守り導く」

「きっとだぞ」

 瑜順はいつになく迫った面持ちで念を押した。赤く変じた瞳も夜目には黒い。

「ああ。俺に任せておけ」

「――――安心した」

 ほっとして言われてなんだか照れくさくなり、肩を竦めて戻ろうぜ、と背を向けた。

「けどな、お前がいるなら俺の仕事なんて大したことはねえぞ。俺はお前ほど頭が良くない。分かってるだろ?」


 わずかに沈黙し、しかし待てども返事は発されなかった。怪訝に振り返る。背後には誰も見当たらない。どこへ、と見渡し、足許に目を落とす。

 倒れ込んだ塊は微動だにせず、月影の降る草原に死色の肌を晒していた。


「――――瑜順‼」


 どうして。酒は飲ませなかったはずだ。


「瑜順!おい、瑜順‼」


 慌てて抱き起こせば衣越しでも冷たい。半ば錯乱しながら頬を叩くと吐息程度に呻いた。それに頭の隅で塵一つぶん安堵しながら、羽織っていた毛皮でくるみ、負ぶって一目散に駆け出した。




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