五十二章



 昨年、巌嶽は二度焼けた。復興の兆しはあるもののいまだその爪痕は痛々しく残り、人々の記憶も癒えてはいない。だが国賊は処刑され戦も終結した今、彼らは否が応でも新しい風に乗り前に進むのである。めでたいと騒げることがあるのなら何でも大歓迎だった。辛い経験を乗り越えたなら、次は幸せな記憶を重ねていきたいという思いはちまたに溢れかえり、それは大途おおどおりをゆっくりと移動する鳳輦くるまと行列を見て次々に弾けた。


 六頭立ての豪奢な馬車、屋根には連玉と国旗はた、春風に揺られて優雅になびく。漆塗りの窗戸まどには若葉の緑をつやつやと美しく光らせた万年青おもとが飾られている。さらにその周囲を極彩色の異人たちが不思議な乗りものに跨って進む。


玉雲綺君ぎょくうんきくん、万歳!」

「公主殿下、万々歳!」


 外の喧騒を聞いて中で微笑む。向かいに座した下官を見た。

「本当に良かったの?わたくし、ひとりでも行くと覚悟を決めていたのに」

「ご冗談を。私は綺君がどこへ行こうとお側にいます」

 ありがとう、と首を傾げれば吊り下げられたすだれのような髪飾りが顔に打ちつけてげんなりと眉尻を下げた。

「ところでこれ、もう取ってもいいかしら」

「おやめ下さいまし、せっかくお綺麗ですのに、勿体ない」

 どうせ誰も見てないわ、とさらに言い募ったが首を振られる。「せめて泉畿を出るまでは、衆目が多うございますよ」

 ほら、と外から響く歓声を示した。

「開けてもいいかしら」

「すこおしだけですよ。みだりに民に見られては」

 なりません、という制止も届かないうちに姜恋がそっと指を掛けた戸板は勢いよく開く。ひょいと覗いた顔は喜色を浮かべており、その背後で道端に集った群衆がまさかの事態に雄叫びを上げた。

「ちょっと、韃拓」

「窈世、疲れてないか?もっと速く進もうか」

「平気。でも衣装が重くて。門を出たら着替えてもいいかしら」

「とっとと脱いじまえ、そんなもん」

 言いながら耳朶みみたぶに触れてきてくすぐったさに首を縮めたがそちらは頓着せず。「いつまでもこんなもの着けてたらちぎれるぞ」

 胸まで垂れる珥珠かざりすくって窈世もそうね、と頷いた。

おん族主、少しははばかってください」

 下官が板を狭める。それに苦笑して前方を見た。

「郊外に出るまでは我慢しな。俺のとこに乗ってもいいぞ」

「ほんとう?」

 族主、とさらにたしなめる声にからからと笑い、韃拓は手を振って離れた。



 姜恋公主奉送の一行は各郡、各県郷で熱烈な歓迎を受けた。角族の使節団は二年前の奉賀ではろくな旅など出来ず、すぐに内乱に発展したために一泉民と交流を深める余裕も機会も持てなかった。であるから初めて泉地に降りた者たちにとっては実質、これが本来の一泉滞在となった。


 剛州を出るまでは陸路、朴東からは川路になる。激しい攻防戦が繰り広げられた朴東関はいまだ修復工事の為の足組も途中で、城壁はあちこちえぐれて崩れていた。郊外の墓地まで足を運び犠牲となった大勢の者たちの冥福を祈り、悲喜こもごもの市民の声援を背に舟に乗り込んだ。



「……大丈夫かしら」

 盛大なえずき音に眉をひそめて問えば童女がくすくすと笑う。

「勇猛果敢な戦士も舟の揺れにはかなわないとみえます」

「主がああでも罔象もうしょうは平気なのね」

「もちろん。ちぎりで結ばれてはおりますが個々の体は別物です。離れていても生死は分かりますけれど」

「そうなのね。ああ、食べる?」

 差し出された果子かしを罔象は、いただきます、と受け取って食んだ。

「食べたものはどこへいくの?やっぱり無だから体に入るとなくなっちゃうの?味は分かるのかしら」

「知りたいですか?」

 訊けば幼い面立ちが急に得体の知れない謎めいた微笑になる。それにもういいわ、と溜息をついて舟縁から川を覗き込んだ。「綺麗ね……」

 呟いたのを一瞥し、童女はつまらなさそうに同じものを見た。しばらく無言で波の流れをぼんやりと眺めていたが、ふいに窈世は首を傾げた。

「ねえ、なんだか方向が変わってない?」

 北東へ進むはずの舟はなぜか西南にずれたような気がする。立ち上がり、うずくまる韃拓に近づいた。

「韃拓、この舟はどこへ行くの?」

 これには背をさすっていた瑜順がおや、と不思議そうにする。

「伝わっておりませんでしたか。寄り道してから、と」

 巻いた薄布で顔半分は見えず、しかし口許だけがあらわになっていてそれが逆に妖艶さを増長しているような気がする。

「そうなのね。……目はどう?」

 ものもらいだと聞いていたからひどくれたりしていないだろうかと心配すれば柔らかく笑んだので動揺して穴のあくほど見つめてしまった。

「ありがとう存じます。大丈夫です」

「そ、そう。それで、どこへ行くの?」

「……采舞さいぶだ」

 青い顔の韃拓が突き出していた頭を戻した。「胡市いちの整備はもう始まってる。それを見に行くんだ」

 具体的には、と瑜順がなおる。

「采舞の都城のひと区画を市場と角人の居留地として分割した形になります。泉民も我々も、自由に出入りは出来るようにしますが司法や暮らしの上での細かい慣例などをどのようにするかの擦り合わせはまだ途中ですから、それも詰めていかねばならないのです」

「そうよね。考えたくないけれど犯罪やいざこざが起きた時に困るし」

「毒の土は居住区はなんとか浄化し終わったが、采舞の民はまだほんの少ししか戻ってない。胡市の建立で完全に故郷を捨てた民もいるだろうな」


 窈世は黙った。血潮を流した戦い自体は終わったが、その後処理はこれからも長引く。言い換えればまた別の戦いがもう始まっているのだ。大変だ、と思うが他人事にしてはならないのだ。なにせ自分自身がやっと訪れた和平のいしずえの、目に見える証なのだから、あとは皆でよろしくやれと眺めているだけでは本当にただのお飾りになってしまう。


「わたくしにも、なにか出来ることはないのかしら」

「だからお前を連れて行くんだ」

 呟きに思いもよらない返事がきて顔を上げると、韃拓は縁に腕を預け何か複雑な色を滲ませてこちらを見ていた。

「どういうこと?」

「お前に頼みたいことがある。詳しい話は着いてからだ」

 そう言いおき伏して眠ってしまった。





 舟は大脈を行き、遠回りして泰林県浜陽関たいりんけんひんようかんにほど近い儀水ぎすいの舟着き場で一時係留した。そこから馬と車で少しばかり北へと戻る。


 見えたぞ、と言われ窈世は窗戸とびらから頭を出した。

「あそこ?」


 周囲は草がなく茶色い丘が剥き出しの、城壁が黒ずんだ郷には門前に郡兵が待っていて、こちらに気がつき礼をとった。

 閭門もんへ入り胡市の予定地で車を下りて見回す。「まだなんにもないのね……」


 最も民の被害が大きかった采舞の都城内は崩れた家々の瓦礫がいまだ片付け終わらないままで、焦土で黒く庭木も燃え落ちてぽっかりとがらんどう、見晴らしがいい。なんとも侘しい情景だったがそれでももともとここで暮らしていた住民で戻った者はいて、道の端で一行に叩頭こうとうしていた。そのなか、額を地につけた母親の服の裾を握り立ちつくす小童に近づいた。

「あなたは采舞のひと?」

 母親に問えば頭だけが動いた。

「顔を上げて。辛かったでしょう。よく戻って来てくれたわ」

小姐おねえちゃん、だあれ?」

 幼子が不思議そうに問うたのに微笑む。

「わたくしは角族のお嫁さんになるの」

「うめたよ」

「え?」

 指をしゃぶった子を母親が叱るが、窈世が問う視線を投げると再び平伏した。

「この子は……角族に助けてもらいました。あの時、采舞が包囲され、襲撃された日に」

 幼子は大真面目に頷いた。

「では、埋葬に協力を?」

 後ろから韃拓が寄ってきて、そうだ、と頷いた。

八馗はっきが壊滅したあと、戻ってむくろを弔ってくれたのはここいらの民だ。――――孩子ぼうず、ありがとな」

 頭を撫でられて子どもは笑い、懐から玉石の指環を取り出して自慢げにした。二人はそれを見て息を詰めたが、やがて韃拓はやはり頷いた。

「売って金にすればいい」

「いいえ。しません」

 硬く言う母親は無邪気にその扳指ゆがけいじる子を抱いた。「私は、本当はあなたたち角人は嫌いですし怖いです。でも、この子を守ってくれた。私たちを逃がしてくれた、その恩を忘れるつもりはありません」

「……ここには、胡市が建つの。あなたは嫌かもしれないけれど……」

「国の決めたことに私たちは逆らえはしません。けれど、玉雲綺君さま、あなたが間にいてくださるのなら私たちは信じられます」

 もうこれから二度と故郷を追われるようなことは起きない、と。痩せぎすで薄汚れた女は凛と見つめてきた。

 民が望むのは日々の暮らしを当たり前に安全に送ること、ただそれだけ。たった、それだけなのだ。

 窈世は涙ぐんだ。

「……ええ。大丈夫。わたくしがいる限りもう二度と焼け出されることなんてないわ」



 采舞郷正ごうせいに招かれて郷城へ向かった一行はやっとすすを払い終えたところという風体の花庁ひろまでしばし休憩を取った。すでにもう一人先客がおり、一行を迎えたのはもと華囲かい郡太守、現淮州州牧として任命された男だ。彼は『耳』で采舞に駐留した八馗に警告をもたらした当人であり、乱のさなか封侯の替身みがわりとして行軍した。危うくあと一歩で命を失うところだったが間に合った八馗に救われた。


 もてなしを受けたものの窈世の気は休まらない。想像以上に采舞の現状はひどいもので、本当にこんな場所に人が戻るのかと疑問と不安で暗くなる。しかし察したのか隣で韃拓が笑った。

「心配ない。戦が終わらなくて片付けが滞ってただけだ。付近の郷からも必要な支援は受けられる。もといた民もここに戻るなら今年からしばらくは賦役ぶえきと税は免除される。どころか、同盟の要衝になるんだ、家も畑地も全て国がまかなう」

「胡市は」

「こっちからは輪番で何人かを駐紮ちゅうさつさせる。ま、代表は欲しいところだな。――瑜順、どうだ?」

 冗談めかして指名したが、向かいの彼は微笑んだまま首を横に振る。

「あなたがここに残ってくれるなら安心だけど……」

 窈世も呟いたが、いいえ、とさらに固辞した。

「むしろ八馗と胡市との中継役をするほうが難儀だ。しばらくは韃拓も寒県のほうへ出ずっぱりだから、領地で補佐する者がいなければ」

「それもそうか」

 言ったところで淮州牧が下官に耳打ちされ、こちらに目配せした。韃拓は頷き、隣と膝を接する。驚いた窈世の片手をてのひらで包んだ。


「――窈世。お前はここに残す」

「…………え?」

「もちろん、婚儀は領地で挙げる。だがお前が住むのは采舞だ」


 ちょっと待って、と挟まれた手を引き抜いた。

「どういうこと?だって、わたくしはあなたの妻として……」

「胡市にな、塾舎じゅくしゃをつくるんだ」

 韃拓は瑜順と目を交わす。「孤児や体が不具になった奴らには現状、行き場がない。だから集めてみんなで住めるようにしたいんだ」

「それで、塾?」

「金を取って学問を教えるところじゃない。だが読み書きをはじめ、これから生きていけるように支えていくための最低限の援助を得られる場にする」

「それで、なぜわたくしをここへ?」

「領地ですと、多かれ少なかれ姜恋さまのお体に支障が出るのではないかと結論しました」

 瑜順が続けた。

「我々の暮らす土地は霧界のなか、泉地ほど霧が晴れておらず、一年の半分は寒く厳しい北の地です。初めてお迎えした大長公主さまが早くにお亡くなりになったのも、慣れない気候と暮らしでご体調を崩されたのが原因でしょう。正直に申し上げて、姜恋さまが二の舞になってしまっては困るのです」

「でもそれでは、婚儀の意義は?」

「俺がこっちに通うから問題ない。それに、窈世には采舞に民を戻すための吸引力になってもらいたいからな」

 公主が住むとなったら封領ほうりょうも同然、そも淮州はもともとが封領なのだからさらに生活を建て直すために厚遇や特権が受けられるとなると民には魅力的だろう。


 窈世はしばらく黙した。あまりにも無言なのでさすがに心配になり覗き込む。

「嫌か?まあ、泉宮とは比べ物にならないくらいひどいありさまだが、お前を住まわせる家はもう土台はつくってあって……」

「――――勝手に決めないでよっ‼」

 いきなり耳許で叫ばれて韃拓は顔をしかめた。

「なにそれ⁉わたくしがどれほど角族と霧界のことを勉強して、でも分からないことだらけで、どんなに不安だったかあなたに分かる⁉習慣や考え方も、理解できないものばかりでおぞましいと思いながら、それでも分かりたいと思ってきたわ。自分がこれから、公主として角族のみんなとどう向き合って、なにをしなければいけないのか、ずっと考えてやっと決心がついて。一泉とあなたたちの架け橋になると固く決めて宮から出て来たの。それなのにあなたたちは勝手に、人を伝鳥とりみたいにあっちこっちにやって、ちょっとはわたくしの気持ちも考えたらどうなの‼」

「窈世、分かった、分かったから」

「分かってないわよ!今までわたくしが悩んでたのがばかみたいじゃない!それならどうしてもっと早く言ってくれなかったの‼」

 泣き出すのではと恐々としている主に瑜順は口のほころびを隠す。それに気がついて止めろよ、と焦り、韃拓は打ちつけられるこぶしをとらえた。

「あのな、あの……聞けよ!」

「もうだまされないんだから!」

「言わなかったのはお前の気持ちが分からなかったからだ!」

「はあ?」

「こんな荒れ地を見せて、お前がなんて言うのかも分からなかったし、もしかしたら怖がって車さえ下りないかもと」

 何言ってるの、と窈世は呆れた。

「わたくしがそれほど臆病で薄情だと思っていたの。心外だわ。これは侮辱よ」

「もうひとつある。これは、お前が父親のことをどう思ってるのか確かめられたから決めたことだ」

 発言にぴたりと動きを止める。

「どういうこと…………?なんでいまさらお父さまの話が出てくるの?」

 韃拓は立ち上がって手を引いた。「来な」


 ゆるゆると不安が襲ってきて二人を見比べる。瑜順には立ち上がらず見送られ、連れられるまま奥の房間へやに進んだ。


「ずっと会ってなくて、忘れられたようになってたお前はもしかしたら父親のことを恨んでるんじゃねえか、いなくなってもそれほど気に病みもしないのかもなってな。だが、お前は姜謙きょうけんが処刑されると聞いて泣いた。再会したいって。だから」


 扉が開けられる。中は薄暗いが確かに人の気配があり、信じ難い予感に息を飲んだ。


 きしんだ音と共に足を一歩踏み出し、しかしそれ以上進めずに立ち尽くしてしまう。驚きで開いた口を閉じれない。

 前方に一人座った影もたじろいだが緊張したように動かない。窈世は震える足をなんとか直立させていた。


「……綺君?」


 小さな問いかけに肩を跳ねさせた。人影はゆっくりと頭の覆いを取る。気まずげな、複雑そうな面持ちで一度瞬く。


「おとう、さま…………?」


 いまだ信じられず韃拓の手を強く握って見上げる。

「どうして……お父さまは、叛乱軍の推戴すいたい者として、もう……」

「ああ、淮州封侯王姜謙はすでに処刑された。――歴史上はな。ここにいるのはただの采舞の民、塾長を勤めてくれることになった犍老師けんせんせいだ。泉民が取りまとめならみんなとっつきやすいだろ?」

 窈世はわなわなと唇を噛み韃拓を睨む。前方の人物からもう一度呼び掛けられ、化かされたように凝視した。

「どうか……こちらに」

 がくがくと頷いてゆっくりと近づく。椅子に掛けた男はまだ若そうだが皺の多い顔で感極まっている。窈世をためつすがめつするように眺め、深く息を吐いて腰を折った。

「……合わせる顔もないのは、分かっている。長年あなたを放置し、母を失わせ、苦しい思いをさせたことを詫び尽くしても足りないことは、許してもらおうとは思っていない。だが…………ずっと、会いたかった」

 喉を詰まらせた男に窈世は目をみはる。

「お父さま…………本当に、お父さま、なのですね」

「父と呼ばれるのももうそぐわないが、たしかに、あなたは恵妃けいひと私の愛すべきたったひとりの娘です。……窈世」

 あ、と呟いたが続く言葉は失われ、滂沱の雫が顎からどんどん溢れていく。

「お父さま……‼」

 ひざまずいて手を取る。「恨んだことは、数え切れません。けれどわたくしも、ずっと、ずっとお会いしたかった‼」

 膝に縋って泣きはじめた娘に姜謙も涙を落とし、頷く。

「族主のはからいで、市井の民としてここに住むことになった。もう王籍ではないし、侯の身分でもないただのあしなえの死に損ないだが」

 勢いよく首を振る。「そんなことはどうだっていいのです!まさか……こんなことが」

 後ろを振り返る。いつの間にか韃拓はいなかった。

「あなたには、母のことも私のことも詳しく知らせないまま、ずっと要らぬ恥辱に晒してしまい、本当に悪かったと思っている。恵妃のことも悔やんでも悔やみきれない。太后陛下から、あなたにはなにも?」

 頷いた娘に、そうか、と遠い目をする。

「まさかあなたがこんな天命をけるとは露ほども思わなかった。荊棘いばらの道を歩ませることになったのは元はと言えば全て私の越位えついが原因だ」

「お父さまが韃拓にわたくしの便宜を?」

「いいや、族主は最初から角領にあなたを住まわせる気はなかったようです。私ははじめ、自らの死を受け入れた。終わらせて欲しいと自分から願い出たのです。けれど胡市と市塾の話をされ、加えてあなたのこれからのことを明かされた。半信半疑だったが、まさか本当に会えるなんて……こんな姿でさぞ失望したでしょう。もともとあなたには軽蔑されこそすれ、敬意を払われるなど私には許されない。ただ……ただ一目、元気な姿を見られれば、と……」


 もう互いに口も利けないほどになり、それからひたすらに泣いた。まさかこんなことがと父親の筋張った手を握る。彼はこんな状態のまま、何年も罪悪感にさいなまれながらも叛乱軍だらけになった州城で出来る限りの抵抗を試みた。お陰で泉主は失われずに済み、自分はなんとか生きながらえた。遠い淮州の地で確かにこちらの身を案じ、愛してくれていたその思いは偽物なんかではなかった。それを知った今、過去に抱いた寂しさや恨めしさをどうしてひとりよがりにぶつけられるだろうか。


 ようやく最初の衝撃から立ち直り、窈世は大きく息を吐く。

「でも、今度はいきなりお父さまを塾長にだなんて」

「といってもまた名ばかりの代表者ですよ。つくづく私には因縁の深い役どころのようです」

 では、と首を傾ける。

「それじゃ、誰が講義を?」

「やれやれ、わしもとことんこき使われる命運のようですな」

 突然後ろから声がして振り返れば、老爺が喜色を浮かべて立っていた。こちらも長らく会っていなかった顔だ。

閔老師びんせんせい⁉」

「綺君、全て聞き及びました。よくお気張りになられましたな。お側におれず、ほんに申し訳なかった」

 額づいた閔昶に窈世はそんな、と手を伸べる。

「いいの、老師もさぞご苦労されたでしょう。でもどうしてここに?」

「もと侯王に頼まれれば是と頷くしかありませんでしょう」

 とは言ったが親しげに見交わす視線にさらに首を捻る。

「お父さまと閔老師はお知り合いなの?」

「左様、お父上は淮州の液雍院えきよういんでも名誉博士はくしでした」

「そうなのですか⁉」

璧雍へきようのなかに義塾ぎじゅく、ここで言う市塾と同じ、子供や学ぶ機会のなかった者たちに読み書きを教える場を設けようと提案したのもお父上です。やることは、今も昔も変わらないということですな」

 姜謙は再会してからやっと微笑んだ。寸暇、昔日の面影がぎり窈世はしばし食い入るように横顔を見つめる。

「やっぱり……本当の本当にお父さまだわ……」

 呟いて抱きつく。姜謙は慌てた。

「窈世、私が父親といえ仮にも淑女があられもなく」

笄礼せいじんの儀を終えたのはついこの間ですわ。子どもの頃に出来なかったことをしているだけです」

「いや、視線で射殺いころされそうですから、お控えを」

「視線?」

 振り向けば戻ってきて腕を組む韃拓が憮然と立っている。横には笑んだ瑜順。

「それで姜恋さま、ご納得はして頂けましたか」

 問うたが、窈世は迷って俯いた。

「お父さまと閔老師がおられるなら心強いけれど……まだ、決めきれないわ。いくら韃拓がこちらに通うと言ったって、やっぱり私が泉地に残れば角族の中には疑問を持つ人もいるだろうし、朝廷も困惑すると思うわ」

「朝廷に話は通してある」

「それでも中途半端な感じが拭えないわ。私が外地に行くからこそ同盟の重みが増して、交わした誓いの意義が成り立つのよ」

「お前は残りたくないのか」

 それは、と口ごもる。父が生きていて、公には出来ないが同じ地に住める。会いたい時にいつでも会える。喜ばないわけがない。だが、本当にそれでいいのか。

「すぐには……決められないわ……」

「綺君はご自分の立場をよく熟考してこられて大変ご立派です。時はあるのですから、よくお悩みになられるといい。韃拓どのも、そう決断をかずともよいのではなかろうか。まずはなによりは街の修復と再建、それに婚儀がござろう?」

 閔昶が取りなして手を叩いた。改めて揖礼ゆうれいする。

「何はともあれ、こうして再び平和を取り戻せたことは大変喜ばしい。角族おん族主には御代みよつつがなきやとお祈り申し上げる。玉雲綺君、一泉民は身を散らしても返せない大恩をあなた様に施して頂いた。どうか行く先、万丈千仭ばんじょうせんじんつる沃饒よくじょうとご多幸あれかしと」

「老師にはこれからもお世話になるつもりよ」

「それは恐悦です」

 窈世は改めて姜謙の手を取る。

「お父さま、わたくしの身はもうわたくしだけのものではなくなってしまいました。ですから、少し考える時を下さい」

「もちろんです。みな無理強いするつもりは毛頭ありません。落ち着いてお決めになればよいのです」





 采舞にはそれから五日ほど滞在し、もと来た経路を辿ってもうひとつの胡市建立予定地の寒県へと移動した。


 舟が接岸されて人々が遠巻きに窺うなか、真っ先に走り寄ってきた小童は残りの半歩を蹴って美青年に飛びついた。

「どうしたんだ、その目!」

 すぐさま驚いて見上げてくるのに布を巻いたままの瑜順は微笑む。

「少々怪我をね。それより小福しょうふく、進捗はどうだ」

「問題ないさ」

 四不像しふぞうの背に乗せられてきた窈世は不思議がる。小福は、わあ、と声を上げた後、慌てて膝を落とした。

「瑜順、その子は?」

「我々をいろいろと助けてくれた子です。今は胡市の建設に協力を」

 礼もそこそこに再び歓声を上げる。

「あんたが韃拓の可敦カトンか!白くてちっちゃくて鼯鼠ももんがみたいだな!」

「少しは控えろ」

 抱き降ろしながら韃拓が睨んだがふふんと笑って意に返さない。頭の後ろに手を置いた。

「随分惚れ込んだのな。鼻の下が伸びてら」

 それには窈世はぽかんと見返したが当人はどこ吹く風。

「そんで、どんな感じだ」

奈爾なじのあった土地を使ってもいいんじゃないかってさ」

 いいのか、と見れば小福は少しだけ寂しげに笑う。

「もう誰もいないし、帰る人もいない。おれももう少ししたらひん州へ戻る」

「なんだって?」

「ここで暮らそうかと言っていたじゃないか」

 うん、でも、と小福はくるくると回った。

従事じゅうじ……間違えた、刺史が正式におれを家童こしょうにしてくれるってさ。新しい棨伝てがたももらった」


 今回の一連の内乱で彬州は当初こそ朝廷に叛旗を挙げたが、その後の転向と国軍への協力による功績をかんがみられて彬州諸官への罷免弾劾は無しとされた。新たに州牧が任じられ、兵曹従事史へいそうじゅうじしだった河元かげんは朝廷との連繋がより重視される刺史へと昇格した。


 迎えた人々と挨拶を交わしながら行ってしまった韃拓と窈世の背を見守りつつ、小福は掴んだ袖の先を見上げる。

「おれさ、若藻じゃくそうにまた会いたいんだ」

 さらに笑んだ。「彬州にいれば、もしかしたらいつかあいつが帰って来た時にすぐ会えるかもしれないだろ?」

 瑜順は複雑そうに顔を逸らした。

「…………お前には、済まないことをした」

 それにはいいんだと手を振った。「勝手にあいつが抜け駆けしただけだ。それにおれは嬉しかった。帰って来なかったってことは、九泉くせんがここより居たいと思える場所だったってことだろ。あいつ、真面目なのに見てくれのせいで苦労してたからな。河元も今さら少し惜しいことをしたかも、なんて言ってたぜ。ざまあみろだ」

 おれは若藻ほど器用じゃないから泣きを見るぞ、と声を立てて笑う。瑜順はその頭を撫でた。

「……俺も、叶うならまた会いたい」

「あいつ瑜順に懐いてたもんな!来たら知らせるよ」

 頼んだ、と微笑み、むしろ懐いていたのは自分のほうだと自嘲した。九泉に置いてきた彼女は今頃どうしているだろうか。こちらのことを聞いたろうか。全ては君のお陰だよ、と伝えたくてもどかしいこの気持ちを察してくれているだろうか。


「あ!あと満嵐マンランに嫁は大事にしろって言っといてな。あんな馬鹿を見限らないなんて大人物だぞ」

「はは。――――ああ、ようく言っておく」

 瑜順は稀有に口を開けて笑い、白い歯を見せた。




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