四十五章



 小さな白い手はずっと冷たいまま、春が来て、夏が過ぎても温まらず、ついに風はまた涼しくなってしまった。このままでは冬の刺すような寒気に耐えられるのかが不安で、握る力をほんの少し強める。爪を磨き、伸びれば整え、指が逆剥ければ膏薬くすりを塗り、そうして大切に守ってきたつもりだ。しかし主は以前のように笑うことも怒ることもない。灰色の日々のなか、ほんの少しだけこちらの呼び掛けに気がつくようになったくらいだ。


「殿下、お足許にお気をつけくださいましね」


 無理のない程度には歩き回れるようにもなった。しかし、やはり裏庭には行きたがらない。目線を下げれば水渠みぞが幾筋も流れているから、そのせせらぎさえきらうように頭を上向け、ぼんやりと空を見ていた。歩はゆっくりとしか進まない。あれほど愛でていた花々にも頓着せず、手を引かれるままに自宮の園林を行って戻って、一言も発せず眠る。


 食はいつまでも細い。白桃の頬はけてしまい、彼女にきっちり合わせて仕立てたはずの衣は所々もたついて余っている。大きな黒い瞳だけが以前と変わらずうるんで輝くだけだ。でも、こうして陽を浴びられるようになっただけましだ。そう自分を元気づけ、少しでも楽しい話をしようと聞こえているのかも定かでない主に微笑みかける。薄い体を支えながら門窗げんかんまで戻って来ると、男がひとり待っていた。


「……秉策へいさく様」


 暴室丞ぼうしつじょうは頭を下げた。


「公主殿下におかれましてはご快調麗しく。本日は良い天気で」


 下官に硬く頷かれたのに内心嘆息し、秉策はひとまず勝手に宮へ入ったのを詫びた。この一年でこのくらいは許容されるようになったとはいえ、宮主の正式な許しを得たわけではないから非礼にはちがいない。


 心神喪失したままの公主は微かに秉策の手許あたりに視線を彷徨さまよわせたが、やはりだんまりで臥室しんしつへ連れられていった。しばらくして寝かしつけた下官が戻ってくる。

「お加減は変わりないようだ」

「あなた様の目は節穴ですか。やっとえていた脚がしっかりしてきたところです」

 相変わらず厳しい公主付きに睥睨へいげいされて苦笑した。

「それは失礼を。最近とみに冷えてきたのでご不便はないかと参った次第だ」

「特にはございませんが、殿下は枯れ木のようにお細いままです。なにか、もっと精のつくものを召し上がって頂きたくて」

 言いながら宮の表側にある涼亭あずまやに移動する。手入れが行き届いておらずすっかり雑草が伸び放題になっていた。秉策が気まずげにするのを承知で石榻こしかけの埃をこれみよがしに払う。

「これくらいはなんてことありませんわ。あなた様が悪いわけではございませんもの」

「……采配が不十分で肩身が狭い。申し訳ない」

 溜息がこぼれた。

「……いったいいつまで、続くんでしょうか」

 それには秉策とて答えられない。

「あなたはよくやってくれている。殿下も落ち着いているようだし、今はご快復をただ願うばかりだ」


 上辺だけの慰めしか口に出来ないが、それは相手も分かっていることだ。後宮はいまやどこもかしこも殺伐としており重苦しく沈黙したまま、二度目の極寒期を迎えようとしている。


 下官は引き結んだ唇を震わせて顔を覆った。

「殿下がお可哀想でなりません。いまも時おり悪夢にうなされておいでで」

 あの時、せめて自分が側にいれば、と後悔を繰り返す。秉策は、やはり何も言えない。ただ運が悪かったと思うしかない。

「……右手は、まだお開きにならないか」

「まるで指が全てくっついてしまったみたいに固くて、無理にすると折れてしまいそうですし、あまりするとお泣きになられて……」

 思い出してはなすする。

「まあ、ご不便を感じればおのずと開くだろう。そう悲観なさいますな」

「…………もし」

 小さく呟いたのに耳を寄せた。顔を上げた女はなにかをおそれるように怯えている。

「もし、このまま謀叛人たちが天下をり、泉主がすげ替わって殿下が……もし不要とされたら」

「そんなことは有り得ない」

「でも!殿下のお血筋は、いまや朝敵とみなされている太后陛下のご直系なのですよ⁉」

「どこで誰が聴いているか分からない。滅多なことは言うものではない」

 秉策は思わず彼女の肩を掴み声を押し殺した。

 顔がさらに歪んだ。「どうしましょう……もし、もしも突然に許されざる決が下ったら、私は……」

「落ち着いて。そんなことは起こるはずがない」

 分からないではないですか、と下官は首を振った。

越位えついがあってお血筋の流れが変わった。とはいえ将来、殿下にお生まれになる御子みこ降勅こうちょくする可能性だって大いにある。そう考えれば、たとえ謀叛側に政権が移ろうと太后陛下が復権出来る機会は消えていない。私でさえ考えられることを奴らが全く危惧していないと?」

 だから芽を摘まれる危険があるではないか。そう訴えたのに秉策は息を飲み、しかしやはり否定した。

「公主殿下は角族に降嫁するご予定であらせられる。王籍からは外れ王統系譜からは名が除かれる。その時点で殿下に御子がお生まれになっても昇黎しょうれい資格さえ無い」

「ですが!王家の血自体は変えようがないではありませんか!王統系譜なぞ所詮、国府が管理しているだけの碑文。わずかばかりでも残る憂いを敵がみすみす見逃すとでも?角族に降嫁するならなおさら危険視するはずです。一泉の、水をきよめる血が北狄ほくてきに流れるとあっては今度は彼らがこの国を乗っ取るいい口実となります。そうでございましょう⁉」

 秉策は反駁はんばくできずに黙る。下官はさらに泣き出した。

「殿下に今より最悪なことが起きて、もし……もしものことがあったら、私は亡き恵妃けいひ様にも、淮侯わいこうにも申し訳が立ちません……」

 よそう、と肩を叩いた。

「万一を憂えるのは不毛でしかない。戦局がどうなるかは我らには分からないことだ。ただそんなことをはばかりもなく言っていれば本当に綺君きくんに咎めが向くかもしれない。自ら不幸を招いてどうします。あなたは今まで通りお側にいてあげてください」


 さめざめと泣き続ける女をなんとかなだめ、秉策は辞去した。門前で立ち止まる。見事な一丈紅たちあおいを咲かせていた並木はもはや面影もなく、いらかは苔むして淑女の居宮にしてはかなしくわびしい。

 さらに陰鬱さに拍車をかけるように、こんな昼日中にどこからか虎鶫とらつぐみの不気味な鳴き声がした。花木の多いここを住処すみかとしたか、それほど遠くではない声量に耳を覆いたくなる。


 しかし、切り替えようと頭を振り足を踏み出したとき、思考をすべて掻き消すほど大きく響いた物音に秉策は慄然りつぜんと体を強ばらせた。驚きと共にずしりと鳩尾みぞおちに沈む、目眩めまいをもよおす揺れ。思わずふらついて軒に寄りかかれば、さらに、ずん、と確かに地面が脈打った。


「……異邪じしん……?」


 いや、違う。瞬時に悟って衛士の制止を振り切り駆け出した。南に立ち昇ったのは黒色の、遠く離れたここ後宮からでも見て取れるほどの巨大な火煙。何かが爆発する音と微かに聞こえる悲鳴。


 体中の血が凍りそうなほど冷えたが、胸だけは激しく高鳴った。まさか、まさかだが、もしや――――。

 その先をじかに目撃しようと、息せききって緩い坂道を走り下った。







 一泉国の最も外側の郭壁、もとい泉畿巌嶽がんがくの北門が急襲されたのは夜が明けきり門から続く空中通路がはっきりと浮かび上がった頃だった。


 北の防備は厚くできない。外北門から内北門へはこの細い道のみしか接続しておらず、ここを塞げば兵の行き来は困難、かといって守備を退き城壁のみに固まらせても易々と外北門が占拠される。それはみすみす夷狄に国内への侵入を許すということだった。

 ために門卒は輪番の当直の際に襲撃を受けることがないようにと辟邪まよけの文言を口中で唱えつつ、恐々と怯えながら祈っていた。外北門が襲われれば自分たちは城壁防備のための時間稼ぎとして捨て駒にされるだけだと分かっていたからだ。


 無情にも祈りは誰かには届かず、運悪く今日に当たった衛兵たちは不意の征矢そやになすすべなく崖下へと消えていった。どうでもいい、と哈奈ハナかんぬきを引く。錆びた蝶番ちょうつがいを大仰に軋ませた大門をめいっぱい開け放った。北から攻め入る八馗はっき兵は長い一本道を駆ける。早鐘が鳴ってすぐに城から敵兵が向かってきた。

「怖がんなよ‼崖に蹴落としてやれ‼」

 仲間を喝破かっぱする。道幅はハクが二頭並べればいいくらいに狭い。

「何としても主泉をるぞ!」

 おお、と勇んだ声を聞きつつ、哈奈は期待を込めて巨大にそびえる宮城の反対側に思いを馳せた。

「頼むぜ、大哥たいか

 言いつつ弦を張った。





 国府の正門である南門は北門襲撃の報を受け急ぎ閉じられることになった。しかし国府は民が出入りを許されているごう州府を包含している。彼らには戦時でも関係なく圃場ほじょうを整え耕すという日々の仕事がある。収穫も大詰めのこの時節、必要とする煩雑な手続きや都水台と水に関する允許ゆるしなどを得るのに首都州府はいつもながら盛況だった。それが突然、正午もまだだというのに閉めるという。混乱した民をなだめるのは時を要したが、物々しい武官たちが厳しい顔で門外へ追い立て、やっと人がばらけて流れだした。


 全ての民を締め出し、静けさを取り戻しつつある南門を急いで閉めようとしていた衛兵たちは、突如として鼓膜を破るほどの爆発音に見舞われた。


「なんだ⁉爆竹か⁉」


 それしか思いつかなかった者が叫んだ。正月でもあるまいし莫迦な、と官吏たちは狼狽し互いに状況を聞きあったが錯綜している合間に再び次々と激しい音を立てて炎が燃えた。


「こんなの爆竹ではございません!」


 竹をいぶすだけでこれほど煙が上がるものかと怒号が飛び交う。「何が起こった⁉火事になっているのか⁉」

 そこかしこで発生する低いとどろきと絹を裂くような悲鳴。国府へと避難し始めた人々はさらに東と西でも煙が上がったのを目撃した。

「衛兵!一大事ぞ!何かわからぬが宮城の橋が燃えている‼」

 外朝はすぐに阿鼻叫喚になった。東西の橋が落とされて逃げ場を失い、人々がはじめに爆発した南門へと殺到する。正門橋は堅牢な石造りで渡れると踏んだからだ。


 なぜかまだ開け放たれたままの南の大門、けむたさにせながら官吏たちは辿り着き、そして一人が足を滑らせて尻餅をつく。雨も降っていないのに何かで濡れていた。

 床に着いた手を持ち上げてみて、ぽかんと口を開く。前方に倒れる塊に気がつき絶叫した。

 肝脳かんのう地にまみる。門前の石畳はいまやどす黒いしかばねと赤い血溜まりが広がっていた。

 吹き上がる煙が風で少し晴れてくる。影が――人が佇んでおり、凝視していれば何かを投げ棄てた。

 大柄な兵士が鈍い音を立てて柱にぶつかり、ずるずると崩れた。ぶん、と振った動きに合わせ水が飛び散り、顔にかかる。濃い鉄のにおい。

 水音を立てながら近づいてきた者に顎を落とした。



「おい、こっから後宮へはまっすぐ行ったらよかったか?」



 眼前に突きつけられた刃を見、悲鳴を喚くことも出来ず打ち上げられたうおのように口を開閉させる。

いてるんだが」

 平然と問うてきた青年は黒い長靴でこちらの足先を小突いてくる。渋がかった蒼黄きいろの不可思議な襖甲よろい姿はこの国のものではあり得ない。赤い飛沫のねた顔で首を傾げさらに催促してきた。

「お前たちは……」

 ようやっと震え声が出て、腰の抜けたまま後退あとじさる。いや、いまはおとなしく要求に答えなければ。歯の根を鳴らしつつ慌てて坂道を指した。

「まっすぐ、まっすぐ……」

 繰り返すと相手は「そうか」と、肩に剣を担いだまま悠然と歩いていく。後ろから次々にその臣下たちが続いた。



「仕掛けた俺たちでさえ肝が潰れた。呉刺史ごししどののじゅつは凄いな」

「隠してんだから名を出すなよ褒具ホーグ

 主の苦言に頓着せず笑う。「彼奴きゃつらも南から来るとは思ってなかったようだ。しかしまさか首都まで繋がるあんな地下道があったとは」

 ああ、と先行く主は背越しに頷く。初めてこの国へとやって来たとき朴東ぼくとうの関門で一悶着あり、からがら逃げた。その後、霧界の森で遭遇した親切な盲人に教えてもらった抜け道はまだ健在だった。

「使えて良かったぜ」


 別の一人が立ち止まった。

「それで俺たちはここで騒いで敵を引きつければいいんだな?」

「主泉に薬液をぶち込めばひとまず目的は果たせる。余裕があれば泉主をかっさらう。分が悪いようならその時点で退く。半数は後宮を押さえるぞ。――――おい」


 煙を吸い込んでくしゃみをしながら少年たちが駆けつける。慣れない血腥ちなまぐささに泣き出しそうになりながらも礼をとったのに笑って片膝をついた。

「流れを辿って主泉を探せ。見つけたら哈奈たちも案内しろよ」

 蹲踞つくばいの水をてのひらに取り、差し出す。

「宝探しだ。いちばんのところへ皆を連れてけ。いいな?」

「分かりました!」

 少年たちは意を決して頷いた。先ほどまで怖がっていた死体を頓着なく跨いでいく。

「よし」

水守みずもりを連れてきて正解、か」

「こう広くちゃあな。俺たちは水路を探してさかのぼってる余裕はねえ。敵の増援が来ないうちに早く行こう」

 薬液は北と南、どちらの隊も持った。万一どちらかが敵に滅されても半分は入れられるようにだ。全く溶かせず失敗するよりはましだからだ。

「大哥は途中で東へ?」

「ああ。その後のことは頼んだ」

 配下たちは片手で額を隠す軍礼をしてみせた。

「おまかせあれ」「搬運はんうんを」


 呼笛を甲高く鳴らした。黒ずんだ南門に現れた白い群れは血溜まりのなかをはしゃぐように跳躍する。その中で一頭だけ黒いのは己の半双かたわれ。背に飛び乗り、剣で煙を断つ。


「――――行くぞ」







 秉策は破れそうな胸を押さえ、後宮の大門の前でやっと立ち止まって前屈みに息継ぎした。門は閉じられ、衛兵が泡を食いつつもまだ守っている。全速力で走ったのは何年ぶりか。ひりつく喉に唾を送り込み、ともかくも出ようと門卒にじゅをかざした。

 しかし拒否される。「門を開けてはならぬとのお達しです」

「そんな。至急外朝へ行かねばならないのだ」

「許しが出ておりません」

 頑として聞いてくれない声音にそれ以上無理強いは言えず、門から離れてあたりを見回す。ここからは南の黒煙がさらによく見えた。しかも前方だけではないのが分かった。左右も煙と喧騒に満たされている。

 いまだ荒い呼吸を落ち着けようと深く息を吸いながら笑う膝を叩き、汗を拭っていれば宮を牛耳る武官たちの群れが見えて慌てて隠れた。


「――――敵襲とか」

「大門を絶対に開けてはならんぞ。目的は泉主だ」

「守備兵を城門前に集めよ。火災で人手が足りぬ」

「しかしそれでは中が」

「北門からも急襲とか?」

 なあに、と将兵のひとりがわらった。「越えられはしない。北は最小限を残しあとは外朝へ。迎え撃つ」

「王族の方々の避難は」

「四方を囲まれておるのにどこへ逃がすと?これまで通り宮へ押し込めておけ。そのほうがご安全だ。――ああ、だが」

 秉策は物陰で耳をそばだてる。

凜明宮りんめいきゅうにだけは兵を。仮にも淮侯のご息女、敵に奪われるくらいなら……分かっているな」

 思わず悲鳴をあげそうになり、両手で口を塞いだ。しかし、と取り巻きの渋い声がする。

玉雲綺君ぎょくうんきくんがおられないと分かれば侯が抵抗なさるのでは?侯が失われてはこちらの大義が失くなります」

「ふん、所詮は言いなり、名ばかりの封侯であらせられるぞ。娘が死んでいることなどいくらでも誤魔化せるわ。それに自力で動けもしないのが簡単に死ねるとも思えん」


 兵の一団が分かれ内朝を奥へと進む。秉策はどうしたものかとやきもきと無意味に首を巡らせた。凜明宮には下官と公主の二人のみ。しかし今から戻っても連れ出せるとも思えない。

 植木の影でうずくまり、震えはじめた肩を抱いた。しかし予想通り敵襲、つまり国軍が来たのは間違いない。待ちわびていた時がやっと来た。


 自分に出来ることは何だ、と焦りながら自問する。あの赤い門の外側には出られない。凜明宮に戻っても兵たちに叩きのめされる。泉主のもとへ参じるか?たが、正確な座所を知らない。

 ひょっとして、自分に出来ることはないままなのか、とはたと気がついて唇を噛んだ。この屈辱の一年は心を押し殺した日々だった。謀叛軍に苦言を呈した仲間は翌日消えていた。皆分からないと言った。知っていそうな者も報復を怖れて口を閉ざした。逃げ出そうとした者は見せしめに門に吊るされた。突然の左遷、とどこおる宮内の連繋、あやふやな組織体系でおざなりな俸禄ほうろく黜陟ちゅっちょく。不満は許されず、外部と全てを遮断された後宮で王族は皆疲弊した。鬱憤は世話をする自分へ向けられ、理不尽な暴言の数々を受けた。それでも己が職務を放棄し逃亡しなかったのは、ただ恐怖と保身の為だけだったのか。……いいや、そうではない。そうではないと証しする時が今なのだ。


 座り込んだまま時を待った。きっと、来る。緊張しすぎて逆に、こんな最中さなかなのに粘りつく睡魔が襲ってくる。枝をももに刺して眠りを遠ざけ、待つこと数刻。突如、屋根がけたたましく割れる音と共に異形の獣が姿を現した。

「――――なっ」

 予想外の登場に木の幹に縋りつく。後宮の壁が何丈あると思っているのか、とんでもない高さを越えて上がり込んできた白い巨虎たちは返り血でまだらに染まっていた。内へ飛び降り、その背に跨ったこれまた異様な格好の兵らが門卒とやり合って難なく大門を開いた。


 そこからすぐに入って来たいまひとりは黒い一騎。背に中腰で立ち上がっている人物を瞳に映した瞬間、秉策はつんのめりながらまろび出た。



「角族主‼」



 引きった大声で呼ばれたほうを向くと男が近づいて来る。警戒して前に出た配下を、いい、と制してハクから飛び降りた。

「よくぞ……‼」

 男は苦しげに顔を歪めて走り寄ってきたが盛大に転んだ。

「……あれ?あんた、たしか……」

 秉策は暢気のんきに指を差されたが名乗っている暇なぞないとかぶりを振ってみせた。

「どうか綺君を!お助け下さい‼」

 叫ぶと同時に胸ぐらを掴まれる。

「――――あいつがどうしたって」

 ひたりと見据えられ茫失しつつもなんとか冷静になろうと息を吸う。

「凜明宮は謀叛軍に囲まれようとしている。公主を角族に渡すくらいならしいたてまつるつもりのようだ。早く助けて差し上げてくれ」

 必死の説明を理解したのか目をすがめたが、やはり平然と、ふうん、と鼻を鳴らした。

「あいつがおとなしく殺されるタマか」

「殿下は御前でおぬしらの仲間が惨殺されてからお体が優れないのだ。走って逃げることもかなわない」

 なに、と周囲がいきり立った。族主は秉策を解放し、剣を肩に担ぐ。

「よく分かった。心配すんな、今から行くからな。ところで、あんたはあいつの世話係かなんかか」

「今はそんなところだ。しかし凜明宮は現在下官がひとりだけで公主をお守りしている。兵に押し入られてはすぐに」

「まかせろ。褒具、それから二十は俺と来い。残りは引き続き奥へ進め」

 手を振ると角兵は次々と獣に跨って走り出す。

 族主は見下ろして歯を見せた。

大哥あんちゃん、全部終わったら酒でも呑もうぜ。ここは危ねえから今のうちに避難しとけ。つっても、逃げ場はねえけどな!」

 大笑してあっという間に駆けて行った風にあおられ、秉策はよろめく。着衣はほつれて埃だらけ、冠は傾き髪は乱れ、放心したまま見送り、…………やがて、安堵でどっとくずおれた。







「殿下」

 意識に降ってきた声はひどく焦っていた。

「お起き下さい。お願い申します」

 なぜそんなに泣きそうなのだろうと内心首を傾げて細くまぶたを開く。薄暗いなか、物心つく前から見知った女が焦燥に染まった怖い顔をしている。

「宮の前に敵が集まっています。ひとまず出ましょう。奴らが押し入って来る前に隙をついて逃げるのです!」

 何を言っているのかはよく分からない。緩慢とした動きで身を起こしくつをはかされ、裏口から出る。


 白く明滅した光、飛び込んできた池の眺望にきんと頭が痛んだ。足が止まる。

「どうかご辛抱なさって」

 半ば引き摺られてほとりまで歩み、ふらふらと蹈鞴たたらを踏んだ。支えられ、なんとか水榭みずどのの橋のたもとまで来たところで下官は息を飲み短い悲鳴をあげた。そのまま白い橋へと引っ張られる。


 …………そっちは、……嫌だわ…………。


 がさつく視界、記憶に焼きついた残像が霞む。


 白い石に真っ赤な水が…………。


 いきなり、喉からり上がってきた嘔吐感に口を押さえた。いつもなら背をさすってくれる下官は今日ばかりはどうしたことか慰めてはくれず、左右をせわしなく警戒しながら水榭まで辿り着き、目の前で大の字に両手を広げる。それではじめて裏庭の左右から兵が群がってきたのが分かった。


 嫌だ、と心が恐怖でもみくちゃに潰れる。何もかも、あの時と同じ光景に全身が大きく震えた。


 主を庇い水榭の入口に立ちはだかったほうも同じく震えていたが、しかし気丈にも声を張った。

「許しもなく王族の宮へ踏み込むとは、礼節を重んずる一泉の宮兵として恥知らずもいいところ!自省する心が残っているならば武器を捨てなさい!」

 しかし兵士はやはりあの時と同じく無感動に近づいてくる。しらず、息が上がる。短く吸っても速く吐いてもだめだ。溺れる。言うことをきかない手でなんとか反対のこぶしを握り込んだ。



 ――――ああ。


 これが終わりなのか。


 ――――私はただ、ここから景色を眺めるだけで満足していたのに。


 こんなこと、いつ望んだろう。



 橋を渡って来た兵はためらいなく剣を振りかぶった。公主の唯一のしもべもまた己の終焉を悟り、顔だけを後ろに向ける。最期に、詫びようと。



 斬刀は女の体を半分に――――しようとした刹那、勢いを失い落ちる。水飛沫しぶき咆哮ほうこうと怒号と骨を砕く鈍い響きが同時に重なり、下官ははっと我に返る。ふわりと浮いた全身、膝下と背にはがっしりした丸太のような腕。



小姐ねえさん、怪我ないか」



 ぽかんとしたのがおかしかったのか、額に黒子ほくろのある男は笑う。「たいした啖呵たんかだったぞ。一泉の女子おなごも隅に置けないなあ」

 何が、と見回すと兵士らの怒声が聞こえた。

「北狄だ‼毒矢を放て‼」

 謀叛兵に相対したのはごく少数と思われる角族兵。急速に現実に引き戻され、慌てて半身をよじった。

「殿下‼」

 しかし振り返った背後、主人の姿はない。虚を突かれ男を叩いて地に降り立つと、慌てて水榭を走り回る。いない。どこに。


 ぽっかりと開けた池のふち、遠く眼下には雲の合間に広大な山々と一泉の粟粒のような街並みがのぞめる、それを背景に立つ別の男が抱えたものは、紛れもなく公主。



「――――姜恋きょうれん。久しぶりだな。髑髏しゃれこうべみたいになっちまってまあ」



 うつ伏せに肩に担がれ、姜恋は頭の後ろで掛けられた声に反応出来ず、眼前に広がる空を反芻した。

「…………え…………?」

「なんだお前、俺のこと忘れたのか?」

 ずるずると体の位置が下がり、間近に青年の笑顔が迫った。二、三度軽く頬をはたかれる。

「迎えに来た」

「…………よう、……だっ…た……く?」

「正解」

 ばしゃん、と水がねた。黒い毛並みの虎が二人を庇う。

「姜恋、こいつに乗れ。しっかり掴まってんだぞ」


 言いながら韃拓が腰を落とすのを夢現ゆめうつつで眺めた。上段に構えるのは掌を広げたほど幅の広い大剣、血槽みぞの赤一線が通る。はがねの刀身にはきらきらと光る花紋もようが浮かんでいた。まるでこの国の水と同じ、黒雲母くろうんものようだった。それは目にも止まらぬ速さで矢を弾き飛ばした。


 水面が彼を中心にさざめいて流れと逆行し泡立つ。池のなかで敵兵と睨み合い、ぎ倒し、雄叫おたけびを上げた。韃拓が飛沫を散らして走った跡に立て続けに矢が並ぶ。水底に刺さったやじりから、澄んだ水に黒い油のようなものがぬらりと漂った。


 あまりの俊敏さに水の上を歩いているのかと錯覚する。彼は姜恋が今まで見たどの姿よりも重装備だった。それなのに目で追いつけない。あっちに跳ねこっちに転がり、まるで、



 ――――霻霳いなずまみたい――――。



 空から大地までひとつに繋ぎ、貫く天の光矢。


 ぼんやりと無意識に呟いたが、敵は周囲を取り巻いて動きを止めようと次々に戈戟ほこを突き出す。

黄鼠狼いたちのようにちょこまかと……っ‼」

「逃げ場はない!諦め、」

 叫んだ兵士の首が舞う。透水が血と毒で禍々まがまがしく変色してきた。


 韃拓は止まらない。倒立し脚で敵の首を折り、回転して腰をつ。どこまでもしなやかでにくにくしい。それなのになぜこんなにも美しいのか。全身の筋をたわめ、無駄のない動きで確実に獲物を仕留める。きらめく若々しい肌、動くたびむちうつ豊かな髪。


 姜恋はずきりと痛んだ頭を抱えて呻き、黒い毛並みに額を押しつけた。右手も痛む。怪我をしていないのに痛む。握ったものがまるでとげみたいに刺してくる。


「――――姜恋‼」


 怒号がつんざいた。脚の下の獣が激しく動き、姜恋は舌を噛む勢いで振り落とされ、池に叩きつけられた。

 鼻と口から水が入って咳き込む。膝下くらいの水深しかないはずが混乱したまま身を起こせずにいれば、馬鹿、と腕を引かれた。

「掴まってろって言ったろ!」

 無理よ、と水と涙に滲みる瞳で見上げる。腰が抜けた。ずぶ濡れのままなおもぼうっとしていると韃拓は斬りかかってきた一人に応戦するべく振り返った。しかし、脇から別の兵がいしゆみを構える姿に姜恋は目をみはった。


 ――――私を、狙って?


 何をするにももう遅かった。射出された毒矢はまっすぐ眉間めがけて飛んできた。なぜかゆっくりと動いて見え、それから脳裡をぎったのは母の顔、曖昧な父の顔、下官の顔、そして、異人の男の笑顔。


 走馬灯が巡った時にはすでに心構えが出来ていた。不思議と恐怖はせ、心の波は大凪で、むしろ今までの辛い記憶から解放されることに喜びを感じた。


 ――――やっと、終わるのね。


 瞼を閉じる暇があって良かった。さすがに死ぬ瞬間は怖いもの。



 …………そう思ったが、いくら待てども衝撃は訪れず、不審に薄目になる。と、どん、とぶつかった柔らかな毛並みを感じてぱちりと開いた。背を向けて立つ青年もそのままこちらに倒れてきて――――。


「ちょっと、待ってっ……‼」


 波と共に押し出された身体からだ、池の水はそのままぽっかりといた壁の外へと流れ落ちている。咄嗟に押し戻そうとしたがそんな力はもちろんなく、ただ口を半開きにして一緒くたに宙に投げ出された。


 視界には虚空しかない。枠を全て取り払われた景色に一瞬見惚みとれ、直後には恐ろしい速さで遠のく。五体の重力は消失し、悲鳴をあげたという自覚もないうちに二人と一頭は闇の大口を開けた谷へと落下した。






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