四十五章
小さな白い手はずっと冷たいまま、春が来て、夏が過ぎても温まらず、ついに風はまた涼しくなってしまった。このままでは冬の刺すような寒気に耐えられるのかが不安で、握る力をほんの少し強める。爪を磨き、伸びれば整え、指が逆剥ければ
「殿下、お足許にお気をつけくださいましね」
無理のない程度には歩き回れるようにもなった。しかし、やはり裏庭には行きたがらない。目線を下げれば
食はいつまでも細い。白桃の頬は
「……
「公主殿下におかれましてはご快調麗しく。本日は良い天気で」
下官に硬く頷かれたのに内心嘆息し、秉策はひとまず勝手に宮へ入ったのを詫びた。この一年でこのくらいは許容されるようになったとはいえ、宮主の正式な許しを得たわけではないから非礼にはちがいない。
心神喪失したままの公主は微かに秉策の手許あたりに視線を
「お加減は変わりないようだ」
「あなた様の目は節穴ですか。やっと
相変わらず厳しい公主付きに
「それは失礼を。最近とみに冷えてきたのでご不便はないかと参った次第だ」
「特にはございませんが、殿下は枯れ木のようにお細いままです。なにか、もっと精のつくものを召し上がって頂きたくて」
言いながら宮の表側にある
「これくらいはなんてことありませんわ。あなた様が悪いわけではございませんもの」
「……采配が不十分で肩身が狭い。申し訳ない」
溜息がこぼれた。
「……いったいいつまで、続くんでしょうか」
それには秉策とて答えられない。
「あなたはよくやってくれている。殿下も落ち着いているようだし、今はご快復をただ願うばかりだ」
上辺だけの慰めしか口に出来ないが、それは相手も分かっていることだ。後宮はいまやどこもかしこも殺伐としており重苦しく沈黙したまま、二度目の極寒期を迎えようとしている。
下官は引き結んだ唇を震わせて顔を覆った。
「殿下がお可哀想でなりません。いまも時おり悪夢にうなされておいでで」
あの時、せめて自分が側にいれば、と後悔を繰り返す。秉策は、やはり何も言えない。ただ運が悪かったと思うしかない。
「……右手は、まだお開きにならないか」
「まるで指が全てくっついてしまったみたいに固くて、無理にすると折れてしまいそうですし、あまりするとお泣きになられて……」
思い出して
「まあ、ご不便を感じれば
「…………もし」
小さく呟いたのに耳を寄せた。顔を上げた女はなにかを
「もし、このまま謀叛人たちが天下を
「そんなことは有り得ない」
「でも!殿下のお血筋は、いまや朝敵とみなされている太后陛下のご直系なのですよ⁉」
「どこで誰が聴いているか分からない。滅多なことは言うものではない」
秉策は思わず彼女の肩を掴み声を押し殺した。
顔がさらに歪んだ。「どうしましょう……もし、もしも突然に許されざる決が下ったら、私は……」
「落ち着いて。そんなことは起こるはずがない」
分からないではないですか、と下官は首を振った。
「
だから芽を摘まれる危険があるではないか。そう訴えたのに秉策は息を飲み、しかしやはり否定した。
「公主殿下は角族に降嫁するご予定であらせられる。王籍からは外れ王統系譜からは名が除かれる。その時点で殿下に御子がお生まれになっても
「ですが!王家の血自体は変えようがないではありませんか!王統系譜なぞ所詮、国府が管理しているだけの碑文。わずかばかりでも残る憂いを敵がみすみす見逃すとでも?角族に降嫁するならなおさら危険視するはずです。一泉の、水を
秉策は
「殿下に今より最悪なことが起きて、もし……もしものことがあったら、私は亡き
よそう、と肩を叩いた。
「万一を憂えるのは不毛でしかない。戦局がどうなるかは我らには分からないことだ。ただそんなことを
さめざめと泣き続ける女をなんとか
さらに陰鬱さに拍車をかけるように、こんな昼日中にどこからか
しかし、切り替えようと頭を振り足を踏み出したとき、思考をすべて掻き消すほど大きく響いた物音に秉策は
「……
いや、違う。瞬時に悟って衛士の制止を振り切り駆け出した。南に立ち昇ったのは黒色の、遠く離れたここ後宮からでも見て取れるほどの巨大な火煙。何かが爆発する音と微かに聞こえる悲鳴。
体中の血が凍りそうなほど冷えたが、胸だけは激しく高鳴った。まさか、まさかだが、もしや――――。
その先を
一泉国の最も外側の郭壁、もとい泉畿
北の防備は厚くできない。外北門から内北門へはこの細い道のみしか接続しておらず、ここを塞げば兵の行き来は困難、かといって守備を退き城壁のみに固まらせても易々と外北門が占拠される。それはみすみす夷狄に国内への侵入を許すということだった。
ために門卒は輪番の当直の際に襲撃を受けることがないようにと
無情にも祈りは誰かには届かず、運悪く今日に当たった衛兵たちは不意の
「怖がんなよ‼崖に蹴落としてやれ‼」
仲間を
「何としても主泉を
おお、と勇んだ声を聞きつつ、哈奈は期待を込めて巨大に
「頼むぜ、
言いつつ弦を張った。
国府の正門である南門は北門襲撃の報を受け急ぎ閉じられることになった。しかし国府は民が出入りを許されている
全ての民を締め出し、静けさを取り戻しつつある南門を急いで閉めようとしていた衛兵たちは、突如として鼓膜を破るほどの爆発音に見舞われた。
「なんだ⁉爆竹か⁉」
それしか思いつかなかった者が叫んだ。正月でもあるまいし莫迦な、と官吏たちは狼狽し互いに状況を聞きあったが錯綜している合間に再び次々と激しい音を立てて炎が燃えた。
「こんなの爆竹ではございません!」
竹を
そこかしこで発生する低い
「衛兵!一大事ぞ!何かわからぬが宮城の橋が燃えている‼」
外朝はすぐに阿鼻叫喚になった。東西の橋が落とされて逃げ場を失い、人々がはじめに爆発した南門へと殺到する。正門橋は堅牢な石造りで渡れると踏んだからだ。
なぜかまだ開け放たれたままの南の大門、
床に着いた手を持ち上げてみて、ぽかんと口を開く。前方に倒れる塊に気がつき絶叫した。
吹き上がる煙が風で少し晴れてくる。影が――人が佇んでおり、凝視していれば何かを投げ棄てた。
大柄な兵士が鈍い音を立てて柱にぶつかり、ずるずると崩れた。ぶん、と振った動きに合わせ水が飛び散り、顔にかかる。濃い鉄のにおい。
水音を立てながら近づいてきた者に顎を落とした。
「おい、こっから後宮へはまっすぐ行ったらよかったか?」
眼前に突きつけられた刃を見、悲鳴を喚くことも出来ず打ち上げられた
「
平然と問うてきた青年は黒い長靴でこちらの足先を小突いてくる。渋がかった
「お前たちは……」
ようやっと震え声が出て、腰の抜けたまま
「まっすぐ、まっすぐ……」
繰り返すと相手は「そうか」と、肩に剣を担いだまま悠然と歩いていく。後ろから次々にその臣下たちが続いた。
「仕掛けた俺たちでさえ肝が潰れた。
「隠してんだから名を出すなよ
主の苦言に頓着せず笑う。「
ああ、と先行く主は背越しに頷く。初めてこの国へとやって来たとき
「使えて良かったぜ」
別の一人が立ち止まった。
「それで俺たちはここで騒いで敵を引きつければいいんだな?」
「主泉に薬液をぶち込めばひとまず目的は果たせる。余裕があれば泉主をかっ
煙を吸い込んでくしゃみをしながら少年たちが駆けつける。慣れない
「流れを辿って主泉を探せ。見つけたら哈奈たちも案内しろよ」
「宝探しだ。いちばんもとのところへ皆を連れてけ。いいな?」
「分かりました!」
少年たちは意を決して頷いた。先ほどまで怖がっていた死体を頓着なく跨いでいく。
「よし」
「
「こう広くちゃあな。俺たちは水路を探して
薬液は北と南、どちらの隊も持った。万一どちらかが敵に滅されても半分は入れられるようにだ。全く溶かせず失敗するよりはましだからだ。
「大哥は途中で東へ?」
「ああ。その後のことは頼んだ」
配下たちは片手で額を隠す軍礼をしてみせた。
「おまかせあれ」「
呼笛を甲高く鳴らした。黒ずんだ南門に現れた白い群れは血溜まりのなかをはしゃぐように跳躍する。その中で一頭だけ黒いのは己の
「――――行くぞ」
秉策は破れそうな胸を押さえ、後宮の大門の前でやっと立ち止まって前屈みに息継ぎした。門は閉じられ、衛兵が泡を食いつつもまだ守っている。全速力で走ったのは何年ぶりか。ひりつく喉に唾を送り込み、ともかくも出ようと門卒に
しかし拒否される。「門を開けてはならぬとのお達しです」
「そんな。至急外朝へ行かねばならないのだ」
「許しが出ておりません」
頑として聞いてくれない声音にそれ以上無理強いは言えず、門から離れてあたりを見回す。ここからは南の黒煙がさらによく見えた。しかも前方だけではないのが分かった。左右も煙と喧騒に満たされている。
いまだ荒い呼吸を落ち着けようと深く息を吸いながら笑う膝を叩き、汗を拭っていれば宮を牛耳る武官たちの群れが見えて慌てて隠れた。
「――――敵襲とか」
「大門を絶対に開けてはならんぞ。目的は泉主だ」
「守備兵を城門前に集めよ。火災で人手が足りぬ」
「しかしそれでは中が」
「北門からも急襲とか?」
なあに、と将兵のひとりが
「王族の方々の避難は」
「四方を囲まれておるのにどこへ逃がすと?これまで通り宮へ押し込めておけ。そのほうがご安全だ。――ああ、だが」
秉策は物陰で耳をそばだてる。
「
思わず悲鳴をあげそうになり、両手で口を塞いだ。しかし、と取り巻きの渋い声がする。
「
「ふん、所詮は言いなり、名ばかりの封侯であらせられるぞ。娘が死んでいることなどいくらでも誤魔化せるわ。それに自力で動けもしないのが簡単に死ねるとも思えん」
兵の一団が分かれ内朝を奥へと進む。秉策はどうしたものかとやきもきと無意味に首を巡らせた。凜明宮には下官と公主の二人のみ。しかし今から戻っても連れ出せるとも思えない。
植木の影で
自分に出来ることは何だ、と焦りながら自問する。あの赤い門の外側には出られない。凜明宮に戻っても兵たちに叩きのめされる。泉主のもとへ参じるか?たが、正確な座所を知らない。
ひょっとして、自分に出来ることはないままなのか、とはたと気がついて唇を噛んだ。この屈辱の一年は心を押し殺した日々だった。謀叛軍に苦言を呈した仲間は翌日消えていた。皆分からないと言った。知っていそうな者も報復を怖れて口を閉ざした。逃げ出そうとした者は見せしめに門に吊るされた。突然の左遷、
座り込んだまま時を待った。きっと、来る。緊張しすぎて逆に、こんな
「――――なっ」
予想外の登場に木の幹に縋りつく。後宮の壁が何丈あると思っているのか、とんでもない高さを越えて上がり込んできた白い巨虎たちは返り血で
そこからすぐに入って来たいまひとりは黒い一騎。背に中腰で立ち上がっている人物を瞳に映した瞬間、秉策はつんのめりながらまろび出た。
「角族主‼」
引き
「よくぞ……‼」
男は苦しげに顔を歪めて走り寄ってきたが盛大に転んだ。
「……あれ?あんた、たしか……」
秉策は
「どうか綺君を!お助け下さい‼」
叫ぶと同時に胸ぐらを掴まれる。
「――――あいつがどうしたって」
ひたりと見据えられ茫失しつつもなんとか冷静になろうと息を吸う。
「凜明宮は謀叛軍に囲まれようとしている。公主を角族に渡すくらいなら
必死の説明を理解したのか目を
「あいつがおとなしく殺されるタマか」
「殿下は御前でおぬしらの仲間が惨殺されてからお体が優れないのだ。走って逃げることもかなわない」
なに、と周囲がいきり立った。族主は秉策を解放し、剣を肩に担ぐ。
「よく分かった。心配すんな、今から行くからな。ところで、あんたはあいつの世話係かなんかか」
「今はそんなところだ。しかし凜明宮は現在下官がひとりだけで公主をお守りしている。兵に押し入られてはすぐに」
「まかせろ。褒具、それから二十は俺と来い。残りは引き続き奥へ進め」
手を振ると角兵は次々と獣に跨って走り出す。
族主は見下ろして歯を見せた。
「
大笑してあっという間に駆けて行った風に
「殿下」
意識に降ってきた声はひどく焦っていた。
「お起き下さい。お願い申します」
なぜそんなに泣きそうなのだろうと内心首を傾げて細く
「宮の前に敵が集まっています。ひとまず出ましょう。奴らが押し入って来る前に隙をついて逃げるのです!」
何を言っているのかはよく分からない。緩慢とした動きで身を起こし
白く明滅した光、飛び込んできた池の眺望にきんと頭が痛んだ。足が止まる。
「どうかご辛抱なさって」
半ば引き摺られて
…………そっちは、……嫌だわ…………。
がさつく視界、記憶に焼きついた残像が霞む。
白い石に真っ赤な水が…………。
いきなり、喉から
嫌だ、と心が恐怖でもみくちゃに潰れる。何もかも、あの時と同じ光景に全身が大きく震えた。
主を庇い水榭の入口に立ちはだかったほうも同じく震えていたが、しかし気丈にも声を張った。
「許しもなく王族の宮へ踏み込むとは、礼節を重んずる一泉の宮兵として恥知らずもいいところ!自省する心が残っているならば武器を捨てなさい!」
しかし兵士はやはりあの時と同じく無感動に近づいてくる。しらず、息が上がる。短く吸っても速く吐いてもだめだ。溺れる。言うことをきかない手でなんとか反対の
――――ああ。
これが終わりなのか。
――――私はただ、ここから景色を眺めるだけで満足していたのに。
こんなこと、いつ望んだろう。
橋を渡って来た兵はためらいなく剣を振りかぶった。公主の唯一の
斬刀は女の体を半分に――――しようとした刹那、勢いを失い落ちる。水
「
ぽかんとしたのがおかしかったのか、額に
何が、と見回すと兵士らの怒声が聞こえた。
「北狄だ‼毒矢を放て‼」
謀叛兵に相対したのはごく少数と思われる角族兵。急速に現実に引き戻され、慌てて半身を
「殿下‼」
しかし振り返った背後、主人の姿はない。虚を突かれ男を叩いて地に降り立つと、慌てて水榭を走り回る。いない。どこに。
ぽっかりと開けた池の
「――――
うつ伏せに肩に担がれ、姜恋は頭の後ろで掛けられた声に反応出来ず、眼前に広がる空を反芻した。
「…………え…………?」
「なんだお前、俺のこと忘れたのか?」
ずるずると体の位置が下がり、間近に青年の笑顔が迫った。二、三度軽く頬をはたかれる。
「迎えに来た」
「…………よう、……だっ…た……く?」
「正解」
ばしゃん、と水が
「姜恋、こいつに乗れ。しっかり掴まってんだぞ」
言いながら韃拓が腰を落とすのを
水面が彼を中心にさざめいて流れと逆行し泡立つ。池のなかで敵兵と睨み合い、
あまりの俊敏さに水の上を歩いているのかと錯覚する。彼は姜恋が今まで見たどの姿よりも重装備だった。それなのに目で追いつけない。あっちに跳ねこっちに転がり、まるで、
――――
空から大地までひとつに繋ぎ、貫く天の光矢。
ぼんやりと無意識に呟いたが、敵は周囲を取り巻いて動きを止めようと次々に
「
「逃げ場はない!諦め、」
叫んだ兵士の首が舞う。透水が血と毒で
韃拓は止まらない。倒立し脚で敵の首を折り、回転して腰を
姜恋はずきりと痛んだ頭を抱えて呻き、黒い毛並みに額を押しつけた。右手も痛む。怪我をしていないのに痛む。握ったものがまるで
「――――姜恋‼」
怒号が
鼻と口から水が入って咳き込む。膝下くらいの水深しかないはずが混乱したまま身を起こせずにいれば、馬鹿、と腕を引かれた。
「掴まってろって言ったろ!」
無理よ、と水と涙に滲みる瞳で見上げる。腰が抜けた。ずぶ濡れのままなおもぼうっとしていると韃拓は斬りかかってきた一人に応戦するべく振り返った。しかし、脇から別の兵が
――――私を、狙って?
何をするにももう遅かった。射出された毒矢はまっすぐ眉間めがけて飛んできた。なぜかゆっくりと動いて見え、それから脳裡を
走馬灯が巡った時にはすでに心構えが出来ていた。不思議と恐怖は
――――やっと、終わるのね。
瞼を閉じる暇があって良かった。さすがに死ぬ瞬間は怖いもの。
…………そう思ったが、いくら待てども衝撃は訪れず、不審に薄目になる。と、どん、とぶつかった柔らかな毛並みを感じてぱちりと開いた。背を向けて立つ青年もそのままこちらに倒れてきて――――。
「ちょっと、待ってっ……‼」
波と共に押し出された
視界には虚空しかない。枠を全て取り払われた景色に一瞬
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