四十六章
風鳴りと驚嘆に自我は飲み込まれ、恐怖をおぼえる前に全てが分からなくなった。それから
息が出来ず何度も咳き込む。鼻から水が入り込んだのだろう、ひどく痛んで動けないまましばらく
しかし明かりが針の先一粒もない。自分の顔も見えず片手でまとわりつく髪の毛を除けた。不安と絶望で、濡れ鼠なのをいいことに内心これもただの水滴だと弁明して涙を溢れさせた。
「ここはどこなの……」
生まれたての子鹿のように立ち上がる。裸足だった。頭を上げようとしてすぐにぶつかり驚きと痛みで叫ぶ。それほど広くはなかったのだ。震えながら
中腰ならぶつからないほどで、ごつごつとした壁をつたいながら慎重に歩を進める。
泣きながら、それでも大声で助けを呼ぶ勇気もなく、おぼつかない足取りで
必死に記憶を
ではここは谷底ということか。しかしなぜ頭上は土の屋根なのだ。自分が奈落にいることだけは把握したが他は全く理解できず、川下へと精一杯進むと、やがて正解だと言わんばかりに突然ぽっかりと空間がひらけた。
幼い頃に一度だけ目にした
大きな黒い塊はこちらが発した声にも反応しない。ただ
移動する合間もずっと見つめられている気がして、けれどその視線の出処は分からず、ゆっくりと塊と距離を狭めていき、同じ淵沿いまで来て初めて、ぐるる、とくぐもった咆哮を聞いた。一歩近づくたび唸り声は大きくなったが、塊との間が自分の背丈ほどになってようやく威嚇している主の金の双眸を発見できた。わずかな光を反射して二つの灯火がこちらを睨んでいる。谷の上ではその背に乗ったのを思い出した。
「あなた……」
思わず半歩、足先を出せば歯を剥き出された。しかし伏せたまま動かず、こちらに飛びかかるような仕草はない。迷い迷い、その場に座り込んだ。しばらくどうすべきかと窺っていれば、黒い獣は体躯を丸める。腹に鼻先を押し当てた。正確には、そこに横たわっている主に。
慌てて這う。獣が来るなという威嚇なのか短く
「――――楊韃拓‼」
濡れた髪を掻き分け、おそらく顔だろうという皮膚に触れる。耳に、鼻に、唇。発掘した瞼は閉じたまま、呼び掛けには
獣がまだこちらを警戒しながらも主を守るようにしていた長い尾を
「うそ……」
「角族は
簡単に倒れたりするはずはない。そう自分を元気づけたが、はっと自宮での襲撃が脳裏に
「毒矢……」
兵たちはたしかそう言っていた。では、もう。
「ああ、うそでしょう…………」
灯った希望が瞬時に消し
正直に言えば、彼のことは嫌いで苦手だった。初めからあまりにも
それでも一年半前、出兵するまでのあのひとときの交流の合間に、ほんの少しは見方が変わっていた。
意外と所作のいいこと。おおらかな文字を書くこと。いつもふざけているようで仲間たちとは真面目な話もする。信頼し合っていて、上辺だけの関係ではなく結びつきが強い。彼らなりに譲れない誇りがあって、
彼は族主として真っ先に戦うことを
私のところへ来た。――――助けるために。
ひとしきり
どれだけそうしていたか分からない。やがて、このままではあまりに不憫だから矢を抜いてやることにした。しかし使える片手で引っ張ってもびくともしない。骨と筋にがっちりと
「……矢を、抜いてあげたいの」
泣きすぎてしゃがれた声でぽつりとなんとはなしに話し掛ける。
「これでは、あまりに……見るに耐えないわ……」
獣はそっぽを向いて反応しない。まるで走った後みたいな荒い呼吸の仕方だ、とおずおずと立ち上がり、
「……あなた、どうしたの?苦しいの?」
舌はだらりと垂れたまま、睨んでいた金の両眼はいつの間にか半開きになっている。そっと触れても噛みつかれることもない。
「…………‼」
韃拓を抱いたほうと反対側に回り込んで息を飲んだ。この獣もまた
「大変!どうしよう」
慌てて毛を掻き分ける。顔を近づけるとむっと血のにおいがした。しかし、ぐい、と背後から襟首を掴まれ、勢い余って後ろに転んだ。
歯牙に掛けられて投げられたのだと分かって
「なに?……嫌、なのね?」
獣はゆっくりと主に口を寄せる。鼻をひくつかせ、それからこちらを見た。おもむろに折れた矢柄をひとつ咥える。傾げたせいで頸の傷から血が噴き出た。
「動いちゃだめ……!」
獣は、ずる、と刺さった矢を噛み抜き、手伝えと言うふうにもう一本を舐める。
「分かったわ」
獣は主の矢を抜くことさえ容易には出来ないほどに弱っているのだ。了解して力いっぱい引く。しばらく体重を後ろに預けたり踏みしめて体を
「……ちょっと待って……あなた、私の願いを聞き届けてくれたの?……でも」
先ほどまで威嚇していたのにそれは考えにくい、と思い、試しに目を閉じ、念を送るごとくぎゅっと青年の胸に耳を押しつけた。
…………何も、聞こえない。落胆して息を吐いた。血が出ないとはいえ、毒の塗られた鏃を刺したままにしていたのだ。生きていなくて当然だろう。そう悲しく納得し、顔を離そうとした。
「もうちょい、そのままでいい」
ふいに頭に触れたのは
「寒い」
今度こそはっきりと聞いた。再び盛り上がってきたもので視界が歪む。
「死んじゃったと思ったじゃない、ばか……‼」
彼はふっと鼻で笑う。
「……きょう、れん。
「なんのこと?」
「大丈夫なの?」
「ああ。まだあんま、体は動かねえけど。薬を飲んだ甲斐があったな……」
「あなたの
わずかに沈黙した。
「…そのままに、しておいてくれ」
「でも」
言い募ったが引き寄せられる。力は入っていなかったがそれでも倒れ込むには十分だった。
「風邪ひく。服を脱げ」
「着替えなんてないわ」
「俺の
逡巡したのを感じて笑う。「心配しなくても暗くて何も見えない」
「嘘つかないで」
「わかった、先に俺のを脱がせて目隠しにすればいいだろ。とにかく横に来てくれねえか、
「わたくしを
「おねがい」
稀有なしおらしい態度に渋々折れた。韃拓が死んだと思い衝撃で忘れていたが、確かに目覚めた時からひどく寒いことに思い至ったからだ。一晩泣き通しで冷え切り、手先足先の感覚もない。なかなか苦労して韃拓の襖甲を剥がし、自分も湿りっぱなしの衣を脱ぐ。泥まみれの
「外側を内向きにして着てな。まだ湿ってるが、何も無いよりはマシだろ」
寝顔のまま、韃拓はゆるゆると自身の
よく割れた腹筋の上、
韃拓は、ふう、と大仕事を終えたように一息つくと姜恋の手首を掴んだ。
「来い」
そのまま、獣に背を預ける。
襖甲を
「ちょっと、」
韃拓は姜恋の恥じらいを悟ったのかまた喉を鳴らした。
「悪さする元気はまだねえよ」
「信じられないわよ!」
しかし本当に回復していないのだろう、訴えには返すことなく、そのまますぐに寝息を立てはじめた。それでむくれつつも襖甲を引き上げた。
おかしな状況で緊張するし万一不埒を働かれたらとびくついていたが、自分もまた疲れがどっと押し寄せ、知らないうちに睡魔に身を委ねた。
姜恋が次に目を開けた時、被衾のなかは信じられないほど暖かくなっていた。しばらくぼんやりとぬくい空間で四肢を伸ばす。いつの間にか体の下には固く冷たい土の間になにか柔らかいものが敷かれていた。とろとろと
すぐ側には小さな火種を灯した
ひとりで寝かされていて引き続き生まれたままの姿だが、凍っていた末端はしっかり血が巡っていた。胸を押さえつつ見渡す。
「韃拓……?」
見回すが姿はない。どこに行ったのかとぶかぶかの重い襖甲を着て立ち上がった。あたりは無人、すぐに不安が立ち昇る。まさか、置いていかれた?
姜恋がやってきたところを含めて、洞は八方に大小の隧道が延びている。無闇に入れば戻って来られなくなりそうで怖い。しかし自分の他に誰もいない――と焦る心を
音はまだ続いており、洞に反響して不思議に響く。高低二つのそれは聞いていればそれぞれに音域を移動した。
「……歌……?」
耳を澄ませて鳴り続くほうへと引かれるように歩んで行くと、曲がった小路の最奥には光が射していた。
とはいえ物の輪郭が分かるくらい。蹲る獣の前で、その主は両腕を軽く開いて上向いていた。姜恋の気配に気がつき背に流れる黒髪が揺れた。
「起こしちまったか」
「なぜ歌っているの?」
そもそも歌なのかもよく分からない。普段の話し声とは全く違う聞いたことのない音だった。
韃拓は微笑んで獣の前で
「こいつはもう死ぬ」
姜恋は息を飲む。それ以上近づけず、立ち竦んで俯いた。
「……わたくしを、庇ったせいね」
そもそもあの時自分が背にちゃんと掴まっていればこの獣と韃拓は矢を受けずにすんだのだ。
「こいつが受けたのは矢じゃないな。
どちらにしてもすでにかすれた弱々しい息しかしておらず、姜恋でさえ巨虎の
「ごめんなさい…………」
小さく呟けば涙が一粒零れた。一度発露すればもうとめどなく、後から後から溢れ出してくる。
韃拓が呼び、手招いた。おとなしく寄れば腕を引かれ、脚の間にすっぽりと抱え込まれる。
「寒いだろ」
「……平気よ」
「俺が寒い」
韃拓はいまだ上身は何も纏わないまま。そういえば、服は焚き火の近くに干されていたのを思い出した。
「あの火はどうやって
木も生えていないのに、と尋ねると姜恋越しに獣を撫でながらああ、と頷く。
「洞窟のひとつに枯れ
「そう……」
「お前も触るか?」
「嫌がったりしない?」
もうそんなことはなにも分からないだろうと思ったが韃拓は再び頷いた。小さな手に自身のものを重ね、ふんわりとした広い額に置く。
「……
真黒い毛並みは淡い光に照らされ、見る角度を変えると艶は五彩の
「この子に名はないの?」
「狛だ。もとは白くて
姜恋は首を
「ない」
「ないの?どうして?」
今度は韃拓が傾いだ。「俺が
「でも、ずっと相棒だったのでしょ?」
「泉人は鹿や
「それはしないと思うけど……なんだか、可哀想だわ」
言えばよく分からない、というふうに首を振った。
「契りはどっちか一方が死ねば絶たれる。だからこいつが死ぬ前に集めた群れを泉地から出さなきゃならない」
「この子がいなくちゃ言うことを聞かないということ?」
「ああ。群れを
「どうやって?」
訊いてから気がつく。「さっきの歌?」
「
「不思議な音だった」
「こつがある」
朗々と歌い出す。まるで二者が高音と低音を出し合っているかのよう、姜恋は歌声に聴き入った。
「素敵だわ」
歌い手はふっと笑う。
「めでたい時や葬儀の席でも歌う。今は、こいつへの
姜恋はいまや完全に瞼を閉じた獣を見つめ、腕など到底回りきらない大きな首に顔を埋めた。
「ありがとう……」
助けてくれて。
しばらくして、韃拓の狛は息絶えた。
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