四十四章



 視界に並ぶのは身の丈を越える盾、盾、盾。それは上歩道ももちろん壁下にも隙間なく並べられた羊馬垣かきねだった。刺さったままの折れ矢、黒い染みと焦げた跡。そしておびただしく地に伏した死体の地毯じゅうたんを遠目にみとめ、文統は顔をしかめた。

 近づくにつれ壁上がにわかに騒ぎ立ち、次々と矢を射掛けてくる。避けつつ、騎馬の流れをひとまずは壁から離れさせた。


 これでは中へ入れているわけがない。予想通り喧騒が聞こえるほうへとまわり込めば土埃をき立たせての乱戦になっていた。文統たちが横からやってきたのを見て返り血まみれの角族兵らは新手かと殺意の雄叫おたけびを上げたが、掲げた旗にどよめいた。


「征西軍!」


 麋鹿おおじかに跨った若い将が寄ってくる。「薬を飲んでいるとはいえ、前へ出すぎるな」

「指揮はどうなっている。あの大蜥蜴おおとかげはどうした」

「いまは退げている」

 顎で示したほう、しかばねのなかに事切れた異形の獣が数体横たわる。

サイとて毒を受けて平気ではいられない。ある程度壁上の敵を蹴散らさねば越えられぬ。貴重だからこれ以上数を減らしたくはない」

「いくついる」

「三十いたが五減った」

楊何梅ヨウカバイはなにをしている」

 若将は物言いに少し不服そうにしながらも蟻のようにうごめく人の群れを指した。「先代は最前線におわす。一部はすでに上に登れているのだ。だが、毒を気にせずよくなったとはいえ、多く当たれば回復している隙を数人がかりで滅多刺しにされる。攻防は一進一退だ」

 文統は軍を割く。

「一師は俺と来い。残りはあの邪魔な木板を燃やすなり壊すなりして除け。まずここを開けねば関門攻略も無理だ」

 御自ら前線へ、と狼狽うろたえた臣下を無視し、文統は馬の腹を蹴る。門前の黒い塊に向かってまっすぐ突っ込んだ。


 凹凸した雉堞じょしょうの間に架けた梯子は上の兵士にこぞって蹴落とされる。燃える火擂木たいまつが降りかかってくる壁下で群がっていた角兵が散った。


 しかし彼らは弓の名手たちだ。足掛かりをつくったところに重点を置き凄まじい速さで敵兵が射落とされていく。


 ついに梯子のひとつで動きがあった。激しく揺れるそれの上、前後を配下に守られながら瞬く間に登る目立つ姿は敵兵の戈戟かげきをすらりとかわし、ついに上歩道へと降り立った。歓声が沸く。

 まるでその周りだけ波が凪いだようだ。敵兵は見えない壁があるかのように怖れて距離を取ろうと後退あとじさる。中心人物は敵のおののきにはなんの感慨もないのか、すい、と構えたあかい大弓を悠々と構えて放った。


「……なんだあの矢は……」


 四本同時に発射した素矰いぐるみきらめく軌跡は繋がった細い糸のせい、飛んだという認識も生半なまなかなまま信じられない豪速で敵楼に立つ頭四つを精確に貫いた。そのまま引く。銀糸はぴんと張り詰め掛かった獲物を楼下へと転がし落とした。


 さらに目を疑ったのはその飛距離だ。文統は心の中で同じ呟きを繰り返した。かつて、己の背に喰らったのはあんなものだっただろうか。白いやがらやじりも同じく白い。そして――射手もまた。


 一点の染みもない純白無垢の狐白裘がいとうがふわりとなびく。反して、返り血がにじみきったのかと錯覚する深胭脂ふかえんじ領袍いしょうと黒い靴。


 初撃を呆然と見送った敵兵たちは易々と仲間が失われて我に返り、一斉に異形の首魁を討ち取らんと穂先を突き出す。しかし標的はまったく慌てることはない。麾下てしたたちが左右前後でそれを蹴散らすのを眺め、一歩も動くことなくゆったりと次の白矢群を構えた。


 文統は忌々しさ半分、認めたくないが驚嘆半分で梯子を登る。壁上を俯瞰し、目の端にかかった敵兵の一人を注視した。


いしゆみを貸せ!」


 伴っていた配下からひったくり、踏み板に足を掛けたまま体を捻って放つ。首魁の背後から狙いを定めていた弓兵が引き絞った弦から手を離す直前に仕留めた。さらに腕を振る。飛刀は斬りかかろうとした者の喉笛に吸い込まれ、毒剣を腕で受けた為に一瞬の遅れをとっていた角兵が驚いてこちらを向き、次矢をち終えた女もまた無感動な眼を向ける。


 壁を登りきった文統は剣を抜き、何梅は大弓を下げる。それなりに老けたはずが、当時と変わらない、赤い口角だけを上げた不気味な白いかおかしげた。


「――よく育った、小猪子いのこ。見違えました」


 文統はふん、と鼻を鳴らしその後ろに立つ。

「ここまで踏み込んで勝機はあるんだろうな、楊何梅」

 背越しの問いに微笑んだまま、

「南門を落とさねば郷にも入れぬでしょう。とはいえ思ったより数が多い。鴆鳥毒ちんちょうどくもある程度除かねば豺が出られません。後ろを任せても?」

「舐められたものだ。俺があんたを襲わない保証などないというのに」

「息子たちが世話になった。仇なすなら今までいくらでも出来たはず」

 相変わらずの余裕ぶりだ、と毒づきながら打ちかかってきた一人を薙ぐ。

「俺ひとりの憂さを晴らしても問題ないならとっくにあんたを殺してる。いいからさっさと箭楼やぐらの守備兵を掃討しろ」

 言えばさらに笑った気配。

「禁軍右将軍殿に勅命されれば断るよしなどありませんね。――皆、あちらの守りを崩し箭楼を包囲する。上の蟻を潰せ。わたくしころもを一粒でも汚してくれるなよ」

「祭りじゃないんだぞ。なんだその浮かれた格好は」

 文統が苦言を呈せば何を言う、と手を掲げる。五指全てに嵌めた扳指ゆがけが光る。

「よもや戦化粧も分からぬ無粋な男に育ったのですか小猪子よ。石を投げうているのに祭りでなくて何なのです?……それに」

 耳を澄ませば聞こえてくる敵兵の怨語は一様に「梅瘣たたりが来た!」とこちらを指す。まるでがくたのしんでいるかのように目を細めた。

「どうやら私の鬼首くびは値千金のよう。注意を引けば壁下したがやり易くなる。門外の敵を一匹残らずたおせばあとは箭楼に集中できる」

「門内にはまだ民が取り残されておるのだ。いたずらに暴れるなよ」

「民にとっては毒を使うあやつらのほうが極悪です。我々は解放者。そなたにはここを攻略次第角族の功績を触れ回ってもらわねば困る。我々の名を高め淮州民の反発を抑えよ」

「勝手を。うぬらのしでかしを俺に尻拭いしろと言っているのが分からんのか」

「そなたこそよく考えろ。我らなくば泉宮奪還も泉主救出も不可能です。私のことが気に入らないのは知っていますが今は叛逆者を共に討ち滅ぼすことに集中しましょう」

 舌打ちして文統は力任せにさらに三人ほどを叩き斬り、何梅は了承ととって笑みを絶やさず弓を構えた。


 愛弓は通常の弓にあらず、弓弦は繭玉から糸を取るごとく弓幹ゆがらからつまみ出し、そのまま矢束を掛け十分に引けばはずで止まりきちんと張り詰める。これが何梅の天祐賜器てんゆうしき灼鉄しゃくてつ大彤弓だいとうきゅうである。どういう仕組みの神器かは使う本人すら知らないが、鋼糸はがねいとの弦で放つ矢はふつうの弓の倍を速さの落ちないまま飛ぶ。


 しかしなまったものだ、と今度は自嘲で笑んだ。体はもはや以前と比べて俊敏に動くことはかなわない。潮時は過ぎているな、と雲ひとつないそらを見上げ、後ろで大立ち回りを演じる文統を振り返った。時代が移るとはこういうことなのだ。戦っているとありありと感じる、周囲に置いていかれるような少し寂しい思い、けれど追い越す者がいるという安心感でたされた誇り。自分の出る幕はもうなくていいのだ。この矢をちきるまではたせるが、あとは次世代の男たちと愛する八馗むすこたちにすべて任せよう。そう思い、狙いを定めた。







 遠目に黒煙をたなびかせる朴東の陰影が見え、満嵐は促す。彼の指先を見た瑜順もまた、着いたか、と頷き返した。


「……南門は開いているようだな」

 昨年一度訪れたきりの郡郷はまったく様相を変え、城壁はところどころ穿うがたれ崩れ黒ずんでいる。焦げ臭い風がこちらにまで吹いてきた。

「声が聞こえる。関門でもう戦ってるな」

 満嵐が豺の上で伸びあがった。他の騎馬と歩調を合わせつつ先頭を行く二頭の上からは黒い粒が北に集まっているのが見える。

「満嵐、俺たちは壁を登って行こう。他は開放された門から入れ。まだ中に取り残されている民がいればそちらを優先に」

 剣を抜く。「二州軍はまだ到着していない。姿が見え次第包囲し投降を呼び掛ける」

 街道を外れて来たのが功を奏し先回りに成功した。

「剛州軍を朴東から離れさせないよう見張れ。このまま関門を開くぞ!」


 勢いそのまま二頭の大蜥蜴は壁に張りつく。尾を揺らしながら駆け上がった上歩道は死体だらけ、敵も味方も。仲間の多くは首に何本も剣を差し込まれ絶命している異様な屍だった。毒に当たれば中樊が試したように回復するのにわずかに時がかかるから、そこを連携した伍隊で刺されると痛い。


 壁内をさらに見渡して満嵐が息を飲んだ。剛州から注ぎ込む川はどす黒く染まっている。事切れて浮かぶ塊もある。いくら主泉に犀角さいかくを沈めていて無害とはいえこれでは。

「ありゃなんだ?鴆鳥毒を流してんのかな?」

「おそらくはな。下流の俺たちへの揺さぶりだ」

「水は大丈夫なのか?」

 分からない、と首を振る。「どのみち死体のせいで飲むことはできない」

 広大な朴東の壁を北進する。喧騒は徐々に大きくなり熱気を孕んだせ返るにおいが漂ってくる。

「豺は出ているか?」

「いや。……見えない。もともと召喚したのも四十程度だったし、渠長きょちょうのほうにも割いた。何梅さまは温存してるんだろ?」

 召喚に応じる数が少ないのは付近にいないということ。殺戮を好む気性の睚眦は人にとっては害とされながい歴史の中で狩られ尽くした。十を超えて集まっただけでも驚きだ。それだけ貴重なのだ。


「このまま行くか?乗り換える?」

 瑜順はこのまま、と鱗を撫ぜた。「俺たちが囮になってその間に昇降機を上げてもらわねば」

「箭楼の前には鉄の盾と蒺蔾とげを巡らしてやがるぞ。生木だから燃えないんだ」

「なんとか突破するしかない。何梅さまの姿は見えるか」

 満嵐は手で目を囲って見回す。ややあって一点を指した。「あそこだ!牌楼はいろうの上!」

 関門から少し離れた広場に目立つ色の影をみとめて二人はそちらへと方向転換した。


 下から呼び掛ければ母は躊躇ためらいもなく落ちた。こちらも難なく腕のなかにおさめ、地に降り立たせて頭を垂れる。


「よく来た。すでに台足たいそく側でも戦っている。お前たちは豺を率いて箭楼をりなさい。もう毒もそれほど残ってはいないはず」

 是、と拝承した二人の前に何梅は箭囊えびらを差し出す。

 入っているのは矢羽もやがらもすべて白い長い矢だった。

夙条しゅくじょうという木で作らせた。鏃は四不像しふぞうの角。ふつうの弓でもよく飛び頑丈ゆえ役に立つ。あとは射手の腕如何」

 お前たちに残しておいた。受け取る間際、ふっくりとした指にあるはずがないわずかな裂傷のあとを目ざとく見つけ、瑜順は動揺する。何梅は笑んだ。

わたくしは南門に構えた本陣から指示を出す。瑜順、豺の血酔ちえいには十分に気をつけながら関門を解放し、お前はそのま泉畿に走りなさい。我々の最終目的は泉宮と泉主だ。分かっていますね?」

「もちろんです」

 見ている、と背を向ける。ここで二人が死ぬわけがないと確信し、そんな危惧すら思いの内にはないのだ。



 それで二人は再び壁を登って箭楼付近に飛び出す。

「満嵐、お前は東から攻めろ。俺は西から行く」

「先に箭楼に入ったほうが何梅さまのころもをもらうんだからな⁉」

 何梅は戦が終われば自身の戦装束を貢献した勇士に下賜かしする。

「そんなに欲しいのか」

留赭ルシャにやるんだよ!」

 そうか、と瑜順は口角を上げて道を逸れた。傪俳サンパイの嫁となればことのほかほまれを拝すのが習わしとはいえ、妻に土産みやげを持ち帰りたいなどと、そんな考えが浮かぶくらいには成長したということだ。


 満嵐は勢い込んで混戦のただなかに舞い降りた。前方で敵兵が壁から吹き散らされたのを見て怪訝に弓を構える。狙いを定めた先で白い長槍が弧を描く。まさか、と瞠目したが、槍の使い手は一周振り回すとよろめいた。その隙に敵が近づく。させるか、と背後から連矢を放ち、白槍の主に憎まれ口を叩いた。


「お前にゃその武器は早い」

 苦々しげに言ったつもりが喜びで弾んだ。

「笑わせるぜ。片腕で森悦哥哥シンエツアニキの神槍がものになると思ってんのか」

 そちらも微笑む。

「――言ってて。もう百は散らしたから」

「ふらふらのくせに」


 背を預けあい群がる敵を見据える。片割れの温もりが確かに伝わる。那乃ナナイは左腕で槍を掲げた。

「留赭に贈り物をするのはぼくが先だからね」

「バカ言え、今まで膝の上でぴいぴい泣いてたんだろうが!嫌われないだけマシだと思うんだな!」

羽仙女てんしはぼくを見捨てたりしない」

「確かにな。――――けど!」


 ぐうるんとしなった穂先で次々と敵が薙ぎ倒される。無駄射ちのない矢が標的に次々と小気味よく刺さる。血の粉塵をまとい、二人して大笑した。


「ぼくたちにみつがせるなんて!」

「あれほど罪な女もいない!」







 壁の側面を駆ける。重力に反した姿はそれだけで敵に畏怖を植えつける。横から毒水が降ってきてすんでのところで避け、敵味方がつぶてのように落ちてくるのを斬り裂き、または受け止めて関門の扁額へんがく付近を越えた。その上は鉄盾が張り出して箭楼への侵入を拒む。小さく舌打ちした。盾を越えるのは容易いが頭を上に出せば狙い撃ちされるのは目に見えている。


 毒による死者は少ないが損耗は軽微とは言いがたい。またひとり、叫びながら下へと叩きつけられた。この高さからでは助かるかどうかは五分くらいだ。鋼兼ハガネの身体は衝撃にも強いとはいえ限界はある。


 関の側は西より混乱がひどい。水門から突破しようとしたこちらの兵と阻もうと応戦した剛州兵で川の柵付近には花筏はないかだのように屍が折り重なり、流れを堰き止めている。目を壁上に移すと朴東と剛州の壁の接続部分はもはや乱脈を極め尽くしており見るに堪えない。それでもまだ攻防は続いている。双方死体を蹴落とし道を空けようとしているのが見えた。


「――瑜順!」


 こちらに手を挙げた見慣れた姿に呼応して駆け上がる。

鑲藍じょうらん俟斤しきん。西は正黄軍が良い感じで攻めています。こちらは」

 宣尾センビは弓を下げた。「毒を塗った刀車とうしゃと箭楼の上からの床弩しょうどに苦戦している。佟原トーゲンの兵が応戦してるが盾を突き破って刺さるからかなわんのだ」

 言っている合間にもおおよそ矢とは思えない重い破砕音が響く。宣尾は申し訳なさそうに仲間のむくろを引き摺って落とした。

「やれやれ。老体にはきつい。お前が来てくれて助かったよ」

「豺を出します」「大丈夫か?まだ毒があるが」

 このままでは兵数が心配だ。瑜順は頷き指を食んだ。豺たちで箭楼前の障害物だけでも破壊しなければいつまで経っても中へ入り込めない。

 しかし召喚する前に怒号が届く。前方から佟原が走ってきた。


退さがれ‼」


 箭楼から何かが放り投げられる。丸い袋が中空に浮き、火矢が貫く。瞬時に火炎が舞う。沸油あぶらを詰めたものを投げているのだ。あの下にいればたまらない。現に絶叫が聞こえた。

「だがあれならば盾で防げる」

「だめだ!毒も来る!」

 片眼で睨んだ佟原がかぶりを振る。言っているそばから黒い液体がそこかしこで飛び散った。

「まだこれほどにあるとは」

「奴ら、出し惜しみしなくなってきたぞ」

「ああ。いいぞ、自棄やけになっている。このまま押したいところだが」

 破裂した毒を浴びて痙攣する者多数の道上で三人はしばし黙す。この状態で箭楼まで辿り着けるか。さらに床弩の火矢が降る。瑜順は腹を括った。

「いつまでもこうしてはおれません。どこかを穿てばそこから箭楼へなだれ込める。力ずくで押すしかありますまい」

 ここまで来ればもう搏戦くみうちと同然だ。距離をとる戦法に意味はなくまわりくどい策で撹乱している暇もない。その間に前線の味方がどんどん減る。

「私が出ます。お二人はここに」

「瑜順!しかし」

「豺を出すならば指揮が要る。私は何梅さまより権を預かりました。援護は任せます。鑲白じょうはく俟斤と鑲藍俟斤はここで立て直しを」

 二人は一拍黙ったが、頷く。

「――承知した。後方から箭楼を牽制する。どこかひとつでいい。突破口を頼む」

「死ぬんじゃあないよ」


 頷き交わし、転がっていた敵の盾を片手に走り出す。指笛を鳴らしてそのまま噛み切る。垂れたものを自身が乗ってきた豺の前に振りけばぬらりと長い舌で飛沫が舐め取られた。このくらいならば影響はない。

 豺は血を好む。体に入れればより獰猛に強くなる。しかしの血は他者のそれとは異なる味なのだ、と、遠い記憶の言葉がよみがえった。



『何梅とのちぎりは何人なんぴとも絶てはしないが統制するだけならお前の血は役に立つ』


 理由は――詳しく知らずともなんとなくは分かる。


『契ったかしらに従う群れのなかには彼らの間で定めた序列がある。お前はそのうちでならば頂点に立てる』


 なぜなら、と舌舐めずりする音が聞こえるようだった。


『お前は彼らにとって饌玉ごちそうだからだ』



 だからなのか、何梅のもとで豺を統御するのに苦労したおぼえがまるでない。それは主である彼女がその権限を上手く許してくれているのだとばかり思ってきたが、この攻撃的な獣は物心つく前から尾で撃ったり咬みついてきたりしなかった。他人が不覚に近づいただけで殺すようなこの獣が、自分にだけは。ハクとてそうだ。あれははじめから人懐こいから気にしてなかったけれども、きちんと許しを得て触れたというよりはあちらから寄ってきていたような、そんな気さえする。


 血酔の高まりがなんとなく感じ取れるのも、『選定』を通過した者以外でそれが分かるのが自分だけなのも、そういうことだからなのだろうか。記憶や何梅はそう言うけれど。


 あの少年――と、頭の隅で思い返した。氷の霧界で刃を交えた赤い瞳の黒衣の人。彼も同じ立場というのが真実なら、容易く豺を捕らえたのも武技以上の特質のゆえか。


(九泉主にもっと掘り下げて聞いておくべきだった)


 あの意味深にもったいぶる泉主ならきっと正しい見解を知っているだろう。深く関わりたくはないが。そこまで思って嘆息し、頭上で敵を掻き裂いた大きな破裂音で現実に引き戻された。



 小包を射る火矢と八方に散る炎煙、盾で頭を庇えば続けて降ってきたのは黒く染まった石礫いしつぶて


 毒に浸したものを投石しはじめた。当たったそばから盾が裂ける。木っ端が頬に赤い線をつくり、わずらわしい、と豺に飛び乗った。一気に駆けて破ればいいだけのこと。しかし敵はこちらの意図に気がついたのか、一斉に射出された矢は瑜順ただ一人を狙った。飛び避けかわし豺は大きく跳躍した。下降する間際、瑜順ははっと目を見開く。


 箭楼の上から狙いを定めた大弩、極太の鋭利な矢は岩をも砕く巨大な鏃、それがこちらの着地を待って今にも発射されようとしていた。

 まずい。豺の背を踏みしめた。空中で着地点を変えられはしない。となれば自分だけでも今飛び降りるしかない。

 くそ、と歯を食いしばった――――。



 ばつん、と視界が失せた。気がした。続いて我に返る暇もなくかっと光を放ち全ての輪郭が消える。霆撃かみなりか、と咄嗟に腕を顔前で掲げ、耳に音が戻らないうちに瞼を慎重に上げた。


「…………?」


 豺は脚の下で落ち着いて飄々としている。しかし、自分が今立っている場所は定めていた着地点とは異なる。もっと手前、今まで走ってきた歩道に後退していた。

 なにが、と見回すも、先の歩道にそこかしこに転がっていたはずの死体も瓦礫も血痕さえない。本来の城壁の石畳が掃き清められたかのように広がる。


 ようやく耳にざわめきが戻ってきた。呻き声にどよめき、少し崩れた箭楼と盾の並び。しかし西側の入口はぽっかりと何も無く綺麗とさえ思う様相、――――そしてその前に立つ後ろ姿。


 その者ひとりを中心にして歩道は同心円に坼裂たくれつ城堞ひめがきは崩れていた。弓を持っているが弦は張っておらず、衣も靴も汚れていない。辮結みつあみを首に巻きつけ、毛先を風にそよがせ悠々と箭楼を見上げている。瑜順は豺から下りると唾を飲み込みつつ近づいた。長らく無沙汰していた懐かしい背だ。



「――――当主」



 なぜか、名を呼ぶことをおそれた。しかし自分が思うより小さく発してしまった呼び掛けはそれでも届いた。人影はゆっくりと振り返る。



「瑜順。無事か」



 陽灼けした黒髪と健康そうな肌。白い歯を見せて破顔した。瑜順はその笑みを目にし、安堵というよりも脱力して息を吐いた。

「お前こそ……なぜ、ここへ」

「話してる暇はねえ。さっさと門を開けようぜ」

 手を振って箭楼の中へ入って行く。瑜順は上を警戒しつつ従い、入口でぎくりと足を止める。しんと静まり返った箭楼の一階は、無人だった。


 ばかな、と焦って首を巡らす。所々崩れてはいるものの、まるで争いなどはじめからなかったかのように静謐で、武器武具の類、屍すら、一切合切が消えた。


「どういうことだ……?」


 呆気に取られて剣を構えたまま、瑜順は、おい、と呼ぶ声にびくりと肩を震わせた。

「どうした?手伝えよ」

「……何かがおかしいぞ。今まで戦っていた敵兵はどこに行った?仲間の死体もない」

 言えば首を傾げた。「死体は壁の下に落としてただろ?」

「それでも箭楼の前にも重なっていたし、そもそもここががら空きだったなら今まで我々を阻んでいたのは誰だったんだとなる。なんだ…………?どういう事だ?」

 状況に理解が追いつかない。可能性としては――――。


「これはお前がしたのか」


 ずばり問えば主は再度口を開けて笑った。

「まあそんなとこだ。瑜順、佟原さんと宣尾さんと他の奴らも呼んで来い。二人じゃ門を揚げられない」

「…………そうか」


 瑜順は悟る。彼は『狩り』に成功した。成功して、戻って来た。だからこれはそういうことだ。

 胸に熱いものが込み上げた。震えた口端を気取られないよう顔を逸らし、剣を収める。

「すぐ、呼んでくる」

 頼む、と返答が聞こえ、しかし「ああ待て」と止められる。

「先に豺を退らせろ。媽媽おふくろに関門は攻略したと伝令を出せ」

 言いながら袖をまくりあげた。右手の指環ゆびわが光り、反対の手もいつもと同じく――――。



「………………」



 瑜順は沈黙した。ざり、と靴裏をる音だけが響く。


「なあ、ひとつ……訊いていいか」

「なんだ?」

「…………左手の扳指ゆがけをどこへやった」


 無表情に問う顔を見返し、彼はさらにきょとんとする。

「――ああ、聞いてないのか?那乃が毒矢にかすったときに、口に含ませた。あれは犀角だったろ?それからあいつが持ったままだ」

 聞いて向き直り、半歩だけ後退し、離したばかりの剣柄たかびを握る。

「…………そんなはずはないな。那乃にはもう必要ないし、治ったなら必ず返してくるはずだ。それに、お前があれを人に貸したままにするはずもない」

 奇妙な間が満ちた。瑜順は視線で射る。

「あと、賜器はどうした。いつも背負っているお前の剣だ」


 問いにはなおも無言だった。微笑んだまま、炯々けいけいと輝く瞳だけがこちらを観察するように動く。やがて、息を詰めて見つめあったときを先に破ったのは彼のほうだった。



「なるほどな、気づくのが早い」



 瑜順は抜剣した。「お前は何だ」

「判断も良い。だが、仮にも主の姿を斬れるのか」

 鋒先きっさきを首筋に突きつけられても動じることはなく、『彼』は彼と同じ嘲笑を浮かべる。

「味方か、敵か。返答によっては殺す」

 言いながらそんなことは無理だろうと本能が告げて得体の知れない震恐おそれ蟀谷こめかみから汗が垂れた。見知っているはずの青年はしげしげとそれを眺める。

「水も飲まないのに汗は流れ、血は出るのか。おかしな奴だな」

 剣を掴まれる。動揺した一瞬でそのまま身ごと引かれ、間近で主の姿のそれは瑜順の頬から滲んだものを舐めあげた。

美味うまい。いつか遠い昔に食べたことのある味だ」

 思い出そうと傾げたその首筋に刃先を押し込もうとし、自分の体が硬直しているのに驚愕した。

「……な」

「動けねえよ」

 平然と傷口をかれる。水音を立てて指を差し込まれた。

「やめろ……‼」

「痛みはあるのか。人偶にんぎょうにしてはよくできた代物だな」

「お前は何だと聞いている‼」


 ぱっ、と見えない拘束が解けた。すぐさま離れて荒い息を繰り返す。触れられたところが凍るように冷たく、忌々しく拭ったが相手は詫びもせず頓着なく肩を竦めた。


「何とは。お前は全て知ってるはずだろ瑜順」


 まさか、と怖気おぞけで肌が粟立つ。


「…………お前が…………?」

「そうだ」


 呑気に胡座あぐらをかく。

「俺があれと契りを交わした。けどな、お前に従いはしないぜ。いくらそんな匂いをさせていてもな」

 なんということかと瑜順は凝視した。寸分違わぬ親しんだ気配。おそらく何梅でさえも気がつかないだろう。


 それで、と主をかたどった者は顎をしゃくる。

「事を荒立てたくなかったら大人おとなしく門を揚げるべきだと思わねえか。頭のいいお前なら分かるだろ?」

 話し方さえも本人そのもの。瑜順はしばし眉間を揉んだ。

「……あの子は、無事なんだな?」

「動転しすぎだ。俺がこうしてるってことが証明だ」

「そうか……」

 やっと少し緊張を解く。それでまた相手が笑う。どうやら気が済んだのか近づいては来ない。

「人を呼んでくる。――当主、として、振る舞ってくれ」

 釘を刺せばぞんざいに手を振った。




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