四十四章
視界に並ぶのは身の丈を越える盾、盾、盾。それは上歩道ももちろん壁下にも隙間なく並べられた
近づくにつれ壁上が
これでは中へ入れているわけがない。予想通り喧騒が聞こえるほうへとまわり込めば土埃を
「征西軍!」
「指揮はどうなっている。あの
「いまは
顎で示したほう、
「
「いくついる」
「三十いたが五減った」
「
若将は物言いに少し不服そうにしながらも蟻のように
文統は軍を割く。
「一師は俺と来い。残りはあの邪魔な木板を燃やすなり壊すなりして除け。まずここを開けねば関門攻略も無理だ」
御自ら前線へ、と
凹凸した
しかし彼らは弓の名手たちだ。足掛かりをつくったところに重点を置き凄まじい速さで敵兵が射落とされていく。
ついに梯子のひとつで動きがあった。激しく揺れるそれの上、前後を配下に守られながら瞬く間に登る目立つ姿は敵兵の
まるでその周りだけ波が凪いだようだ。敵兵は見えない壁があるかのように怖れて距離を取ろうと
「……なんだあの矢は……」
四本同時に発射した
さらに目を疑ったのはその飛距離だ。文統は心の中で同じ呟きを繰り返した。かつて、己の背に喰らったのはあんなものだっただろうか。白い
一点の染みもない純白無垢の
初撃を呆然と見送った敵兵たちは易々と仲間が失われて我に返り、一斉に異形の首魁を討ち取らんと穂先を突き出す。しかし標的はまったく慌てることはない。
文統は忌々しさ半分、認めたくないが驚嘆半分で梯子を登る。壁上を俯瞰し、目の端にかかった敵兵の一人を注視した。
「
伴っていた配下からひったくり、踏み板に足を掛けたまま体を捻って放つ。首魁の背後から狙いを定めていた弓兵が引き絞った弦から手を離す直前に仕留めた。さらに腕を振る。飛刀は斬りかかろうとした者の喉笛に吸い込まれ、毒剣を腕で受けた為に一瞬の遅れをとっていた角兵が驚いてこちらを向き、次矢を
壁を登りきった文統は剣を抜き、何梅は大弓を下げる。それなりに老けたはずが、当時と変わらない、赤い口角だけを上げた不気味な白い
「――よく育った、
文統はふん、と鼻を鳴らしその後ろに立つ。
「ここまで踏み込んで勝機はあるんだろうな、楊何梅」
背越しの問いに微笑んだまま、
「南門を落とさねば郷にも入れぬでしょう。とはいえ思ったより数が多い。
「舐められたものだ。俺があんたを襲わない保証などないというのに」
「息子たちが世話になった。仇なすなら今までいくらでも出来たはず」
相変わらずの余裕ぶりだ、と毒づきながら打ちかかってきた一人を薙ぐ。
「俺ひとりの憂さを晴らしても問題ないならとっくにあんたを殺してる。いいからさっさと
言えばさらに笑った気配。
「禁軍右将軍殿に勅命されれば断る
「祭りじゃないんだぞ。なんだその浮かれた格好は」
文統が苦言を呈せば何を言う、と手を掲げる。五指全てに嵌めた
「よもや戦化粧も分からぬ無粋な男に育ったのですか小猪子よ。石を投げ
耳を澄ませば聞こえてくる敵兵の怨語は一様に「
「どうやら私の
「門内にはまだ民が取り残されておるのだ。いたずらに暴れるなよ」
「民にとっては毒を使うあやつらのほうが極悪です。我々は解放者。そなたにはここを攻略次第角族の功績を触れ回ってもらわねば困る。我々の名を高め淮州民の反発を抑えよ」
「勝手を。うぬらのしでかしを俺に尻拭いしろと言っているのが分からんのか」
「そなたこそよく考えろ。我らなくば泉宮奪還も泉主救出も不可能です。私のことが気に入らないのは知っていますが今は叛逆者を共に討ち滅ぼすことに集中しましょう」
舌打ちして文統は力任せにさらに三人ほどを叩き斬り、何梅は了承ととって笑みを絶やさず弓を構えた。
愛弓は通常の弓にあらず、弓弦は繭玉から糸を取るごとく
しかし
遠目に黒煙をたなびかせる朴東の陰影が見え、満嵐は促す。彼の指先を見た瑜順もまた、着いたか、と頷き返した。
「……南門は開いているようだな」
昨年一度訪れたきりの郡郷はまったく様相を変え、城壁はところどころ
「声が聞こえる。関門でもう戦ってるな」
満嵐が豺の上で伸びあがった。他の騎馬と歩調を合わせつつ先頭を行く二頭の上からは黒い粒が北に集まっているのが見える。
「満嵐、俺たちは壁を登って行こう。他は開放された門から入れ。まだ中に取り残されている民がいればそちらを優先に」
剣を抜く。「二州軍はまだ到着していない。姿が見え次第包囲し投降を呼び掛ける」
街道を外れて来たのが功を奏し先回りに成功した。
「剛州軍を朴東から離れさせないよう見張れ。このまま関門を開くぞ!」
勢いそのまま二頭の大蜥蜴は壁に張りつく。尾を揺らしながら駆け上がった上歩道は死体だらけ、敵も味方も。仲間の多くは首に何本も剣を差し込まれ絶命している異様な屍だった。毒に当たれば中樊が試したように回復するのにわずかに時がかかるから、そこを連携した伍隊で刺されると痛い。
壁内をさらに見渡して満嵐が息を飲んだ。剛州から注ぎ込む川はどす黒く染まっている。事切れて浮かぶ塊もある。いくら主泉に
「ありゃなんだ?鴆鳥毒を流してんのかな?」
「おそらくはな。下流の俺たちへの揺さぶりだ」
「水は大丈夫なのか?」
分からない、と首を振る。「どのみち死体のせいで飲むことはできない」
広大な朴東の壁を北進する。喧騒は徐々に大きくなり熱気を孕んだ
「豺は出ているか?」
「いや。……見えない。もともと召喚したのも四十程度だったし、
召喚に応じる数が少ないのは付近にいないということ。殺戮を好む気性の睚眦は人にとっては害とされ
「このまま行くか?乗り換える?」
瑜順はこのまま、と鱗を撫ぜた。「俺たちが囮になってその間に昇降機を上げてもらわねば」
「箭楼の前には鉄の盾と
「なんとか突破するしかない。何梅さまの姿は見えるか」
満嵐は手で目を囲って見回す。ややあって一点を指した。「あそこだ!
関門から少し離れた広場に目立つ色の影をみとめて二人はそちらへと方向転換した。
下から呼び掛ければ母は
「よく来た。すでに
是、と拝承した二人の前に何梅は
入っているのは矢羽も
「
お前たちに残しておいた。受け取る間際、ふっくりとした指にあるはずがないわずかな裂傷の
「
「もちろんです」
見ている、と背を向ける。ここで二人が死ぬわけがないと確信し、そんな危惧すら思いの内にはないのだ。
それで二人は再び壁を登って箭楼付近に飛び出す。
「満嵐、お前は東から攻めろ。俺は西から行く」
「先に箭楼に入ったほうが何梅さまの
何梅は戦が終われば自身の戦装束を貢献した勇士に
「そんなに欲しいのか」
「
そうか、と瑜順は口角を上げて道を逸れた。
満嵐は勢い込んで混戦のただなかに舞い降りた。前方で敵兵が壁から吹き散らされたのを見て怪訝に弓を構える。狙いを定めた先で白い長槍が弧を描く。まさか、と瞠目したが、槍の使い手は一周振り回すとよろめいた。その隙に敵が近づく。させるか、と背後から連矢を放ち、白槍の主に憎まれ口を叩いた。
「お前にゃその武器は早い」
苦々しげに言ったつもりが喜びで弾んだ。
「笑わせるぜ。片腕で
そちらも微笑む。
「――言ってて。もう百は散らしたから」
「ふらふらのくせに」
背を預けあい群がる敵を見据える。片割れの温もりが確かに伝わる。
「留赭に贈り物をするのはぼくが先だからね」
「バカ言え、今まで膝の上でぴいぴい泣いてたんだろうが!嫌われないだけマシだと思うんだな!」
「
「確かにな。――――けど!」
ぐうるんと
「ぼくたちに
「あれほど罪な女もいない!」
壁の側面を駆ける。重力に反した姿はそれだけで敵に畏怖を植えつける。横から毒水が降ってきてすんでのところで避け、敵味方が
毒による死者は少ないが損耗は軽微とは言いがたい。またひとり、叫びながら下へと叩きつけられた。この高さからでは助かるかどうかは五分くらいだ。
関の側は西より混乱がひどい。水門から突破しようとしたこちらの兵と阻もうと応戦した剛州兵で川の柵付近には
「――瑜順!」
こちらに手を挙げた見慣れた姿に呼応して駆け上がる。
「
言っている合間にもおおよそ矢とは思えない重い破砕音が響く。宣尾は申し訳なさそうに仲間の
「やれやれ。老体にはきつい。お前が来てくれて助かったよ」
「豺を出します」「大丈夫か?まだ毒があるが」
このままでは兵数が心配だ。瑜順は頷き指を食んだ。豺たちで箭楼前の障害物だけでも破壊しなければいつまで経っても中へ入り込めない。
しかし召喚する前に怒号が届く。前方から佟原が走ってきた。
「
箭楼から何かが放り投げられる。丸い袋が中空に浮き、火矢が貫く。瞬時に火炎が舞う。
「だがあれならば盾で防げる」
「だめだ!毒も来る!」
片眼で睨んだ佟原がかぶりを振る。言っているそばから黒い液体がそこかしこで飛び散った。
「まだこれほどにあるとは」
「奴ら、出し惜しみしなくなってきたぞ」
「ああ。いいぞ、
破裂した毒を浴びて痙攣する者多数の道上で三人はしばし黙す。この状態で箭楼まで辿り着けるか。さらに床弩の火矢が降る。瑜順は腹を括った。
「いつまでもこうしてはおれません。どこかを穿てばそこから箭楼へなだれ込める。力ずくで押すしかありますまい」
ここまで来ればもう
「私が出ます。お二人はここに」
「瑜順!しかし」
「豺を出すならば指揮が要る。私は何梅さまより権を預かりました。援護は任せます。
二人は一拍黙ったが、頷く。
「――承知した。後方から箭楼を牽制する。どこかひとつでいい。突破口を頼む」
「死ぬんじゃあないよ」
頷き交わし、転がっていた敵の盾を片手に走り出す。指笛を鳴らしてそのまま噛み切る。垂れたものを自身が乗ってきた豺の前に振り
豺は血を好む。体に入れればより獰猛に強くなる。しかし
『何梅との
理由は――詳しく知らずともなんとなくは分かる。
『契った
なぜなら、と舌舐めずりする音が聞こえるようだった。
『お前は彼らにとって
だからなのか、何梅の
血酔の高まりがなんとなく感じ取れるのも、『選定』を通過した者以外でそれが分かるのが自分だけなのも、そういうことだからなのだろうか。記憶や何梅はそう言うけれど。
あの少年――と、頭の隅で思い返した。氷の霧界で刃を交えた赤い瞳の黒衣の人。彼も同じ立場というのが真実なら、容易く豺を捕らえたのも武技以上の特質のゆえか。
(九泉主にもっと掘り下げて聞いておくべきだった)
あの意味深にもったいぶる泉主ならきっと正しい見解を知っているだろう。深く関わりたくはないが。そこまで思って嘆息し、頭上で敵を掻き裂いた大きな破裂音で現実に引き戻された。
小包を射る火矢と八方に散る炎煙、盾で頭を庇えば続けて降ってきたのは黒く染まった
毒に浸したものを投石しはじめた。当たったそばから盾が裂ける。木っ端が頬に赤い線をつくり、
箭楼の上から狙いを定めた大弩、極太の鋭利な矢は岩をも砕く巨大な鏃、それがこちらの着地を待って今にも発射されようとしていた。
まずい。豺の背を踏みしめた。空中で着地点を変えられはしない。となれば自分だけでも今飛び降りるしかない。
くそ、と歯を食いしばった――――。
ばつん、と視界が失せた。気がした。続いて我に返る暇もなくかっと光を放ち全ての輪郭が消える。
「…………?」
豺は脚の下で落ち着いて飄々としている。しかし、自分が今立っている場所は定めていた着地点とは異なる。もっと手前、今まで走ってきた歩道に後退していた。
なにが、と見回すも、先の歩道にそこかしこに転がっていたはずの死体も瓦礫も血痕さえない。本来の城壁の石畳が掃き清められたかのように広がる。
ようやく耳にざわめきが戻ってきた。呻き声にどよめき、少し崩れた箭楼と盾の並び。しかし西側の入口はぽっかりと何も無く綺麗とさえ思う様相、――――そしてその前に立つ後ろ姿。
その者ひとりを中心にして歩道は同心円に
「――――当主」
なぜか、名を呼ぶことを
「瑜順。無事か」
陽灼けした黒髪と健康そうな肌。白い歯を見せて破顔した。瑜順はその笑みを目にし、安堵というよりも脱力して息を吐いた。
「お前こそ……なぜ、ここへ」
「話してる暇はねえ。さっさと門を開けようぜ」
手を振って箭楼の中へ入って行く。瑜順は上を警戒しつつ従い、入口でぎくりと足を止める。しんと静まり返った箭楼の一階は、無人だった。
ばかな、と焦って首を巡らす。所々崩れてはいるものの、まるで争いなどはじめからなかったかのように静謐で、武器武具の類、屍すら、一切合切が消えた。
「どういうことだ……?」
呆気に取られて剣を構えたまま、瑜順は、おい、と呼ぶ声にびくりと肩を震わせた。
「どうした?手伝えよ」
「……何かがおかしいぞ。今まで戦っていた敵兵はどこに行った?仲間の死体もない」
言えば首を傾げた。「死体は壁の下に落としてただろ?」
「それでも箭楼の前にも重なっていたし、そもそもここががら空きだったなら今まで我々を阻んでいたのは誰だったんだとなる。なんだ…………?どういう事だ?」
状況に理解が追いつかない。可能性としては――――。
「これはお前がしたのか」
ずばり問えば主は再度口を開けて笑った。
「まあそんなとこだ。瑜順、佟原さんと宣尾さんと他の奴らも呼んで来い。二人じゃ門を揚げられない」
「…………そうか」
瑜順は悟る。彼は『狩り』に成功した。成功して、戻って来た。だからこれはそういうことだ。
胸に熱いものが込み上げた。震えた口端を気取られないよう顔を逸らし、剣を収める。
「すぐ、呼んでくる」
頼む、と返答が聞こえ、しかし「ああ待て」と止められる。
「先に豺を退らせろ。
言いながら袖をまくりあげた。右手の
「………………」
瑜順は沈黙した。ざり、と靴裏を
「なあ、ひとつ……訊いていいか」
「なんだ?」
「…………左手の
無表情に問う顔を見返し、彼はさらにきょとんとする。
「――ああ、聞いてないのか?那乃が毒矢に
聞いて向き直り、半歩だけ後退し、離したばかりの
「…………そんなはずはないな。那乃にはもう必要ないし、治ったなら必ず返してくるはずだ。それに、お前があれを人に貸したままにするはずもない」
奇妙な間が満ちた。瑜順は視線で射る。
「あと、賜器はどうした。いつも背負っているお前の剣だ」
問いにはなおも無言だった。微笑んだまま、
「なるほどな、気づくのが早い」
瑜順は抜剣した。「お前は何だ」
「判断も良い。だが、仮にも主の姿を斬れるのか」
「味方か、敵か。返答によっては殺す」
言いながらそんなことは無理だろうと本能が告げて得体の知れない
「水も飲まないのに汗は流れ、血は出るのか。おかしな奴だな」
剣を掴まれる。動揺した一瞬でそのまま身ごと引かれ、間近で主の姿のそれは瑜順の頬から滲んだものを舐めあげた。
「
思い出そうと傾げたその首筋に刃先を押し込もうとし、自分の体が硬直しているのに驚愕した。
「……な」
「動けねえよ」
平然と傷口を
「やめろ……‼」
「痛みはあるのか。
「お前は何だと聞いている‼」
ぱっ、と見えない拘束が解けた。すぐさま離れて荒い息を繰り返す。触れられたところが凍るように冷たく、忌々しく拭ったが相手は詫びもせず頓着なく肩を竦めた。
「何とは。お前は全て知ってるはずだろ瑜順」
まさか、と
「…………お前が…………?」
「そうだ」
呑気に
「俺があれと契りを交わした。けどな、お前に従いはしないぜ。いくらそんな匂いをさせていてもな」
なんということかと瑜順は凝視した。寸分違わぬ親しんだ気配。おそらく何梅でさえも気がつかないだろう。
それで、と主を
「事を荒立てたくなかったら
話し方さえも本人そのもの。瑜順はしばし眉間を揉んだ。
「……あの子は、無事なんだな?」
「動転しすぎだ。俺がこうしてるってことが証明だ」
「そうか……」
やっと少し緊張を解く。それでまた相手が笑う。どうやら気が済んだのか近づいては来ない。
「人を呼んでくる。――当主、として、振る舞ってくれ」
釘を刺せばぞんざいに手を振った。
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