求章 於 九泉国〈三〉
九泉の
「きっとみんな昼休憩で出払っているのでしょう。なにせ泉畿といっても住んでいる民はせいぜい一万ほどですから」
「それは
「もちろんです。しかし、兵の数も他国と比べればそれは小さな規模です。禁軍左右中と首都州軍
舟は水門を越える。同時に瑜順たちを包んだのは熱気。肌を撫でる人々のかしましい喧騒と往来の賑わい、そして溢れかえる色とりどりの花々。赤に、黄に、青に。街を縦断する
「これは?」
「ああ、瀝晶の正月はいつもこんな感じですよ。新年を迎えてしばらくは入郷する舟に花を散らすのです。年を改めれば泉水も新しくなり、初水に浮かべる舟は沈むことがなくなると
季娘が若藻に花冠を被せ、自身も被って両岸の人々に手を振る。街はいまだ盛大に祭り騒ぎであり、どこからか楽の音も聞こえた。
「こんなに花を摘んでは無くなりませんか」
「このためだけに
崔遷の舟はしばらくそうして歓迎を受けつつ進み、やがてひらけた
てっきり崔遷の本邸に行くのだとばかり思っていた三人は外の景色がみるみるうちに
「……まさかとは思うけど、泉宮に直接行ったりしないよね?」
こそりと季娘が口を寄せたが、そのまさかだな、と瑜順は目を細める。牌楼の向こうまで一本道、そして両端できらきらと輝くのはおそらく主泉。
さらに地平に
「……どういうこと?」
唖然として問えば崔遷が愉快そうに笑む。
「あれは
泉に面して街並みは途切れ、やはり水に浮いているのではと錯覚する長い橋の大路を結構な時をかけて渡る。下は
窓にかじりついて泉を眺めていた若藻がふと案内人を仰いだ。
「九泉の泉のかたちは変わっているのですね」
「どう見えるの?」
季娘も小さな窓から乗り出す。手前には大きすぎて近づいているのかも分からない宮城、東西の水平線は遠くで途切れ、幾筋かの水の流れがみとめられた。
「渦……?」
九泉の泉は宮城を基点として泉川が螺旋状に広がっているようだ。崔遷が頷く。
「泉の形はこの瀝晶の主泉から独立した九条の川が環泉と同じく波紋のように広がっているのです」
「気づきませんでした。まるで
「ということは、ここは位置的には国の中心ということになるのですか」
左様です、と崔遷は風に
若藻は窓から離れて座り直した。宙を見る。
「ということは、丸い泉はここだけ、ということなのですか?」
「
もっとも、とさらに微笑む。軒車が止まった。
「ここは大泉地
話は通っていたようで、迎えた侍臣に従い身を清め、謁見にふさわしい衣装を纏い、四人は国府主殿近くの小殿に招かれた。
小殿といえど呆れるほど広い拝謁の間、大柱は黒
「泉主がご存知とはいえ、我々は国賓ではなく、あくまで崔遷さまを頼って個人で入国したに過ぎません。そのような我々と泉主がお会いになると?」
崔遷はただ首を振った。「泉主はお気まぐれな方。それは私にも分かりませんが、瀝晶に着いた後は参殿せよとのお下知です。ならば本日お会いしてくださる可能性は高い」
そう言われたが、一向になんの気配もない。正面には白いたっぷりとした
やがていくらもしないうちに季娘が飽いた雰囲気を醸し出しはじめ、おもむろにこそこそと呼び掛ける。
「崔遷さま。よくよく考えれば、自分は瑜順兄さまの下僕にすぎず、泉主にまみえるなどおこがましいかぎりです。つきましては拝謁を終えるまで、宮城の薬房などを見学させて頂くことはできませんか。興味があるのです」
「あ、わたしもそう思います。
若藻も乗っかる。もっともらしい理由を考えたな、と瑜順と崔遷は顔を見合わせた。
「まあ、そう言われればそうだが。……崔遷さま、どうでしょう」
「案内をお願いしてきます」
鷹揚な老官は苦笑して一度立ち上がり、広間の外に控えた衛兵を通して侍官を呼んだ。あちらもこのような状況にはかなり慣れているとみてすんなりと許諾される。娘二人は顔を輝かせて逸る気持ちを抑えゆっくりと立ち上がった。
「……我儘ばかり申し訳ない」
粗相のないように、と特に季娘に言い渡し、二人を見送って詫びた。
「なんの。客人に失礼をしているのはこちらなのですから」
崔遷も飽いたのか、囁き声に少し音を乗せはじめ、いきなり貴人が現れても失礼のないほどに寛いで話し始めた。
「お気まぐれと申しましたが、泉主は決して悪気や侮りがあってそうしているのではないのです。あの方は常に様々なことに思いを巡らしており、そのせいで約束や予定などを失念しておしまいになるのです」
「下官からご
「もちろん役目の官はおりますし言いますが、泉主はおおよそ
それは悪意がないとは言いきれないではないか、と瑜順は内心溜息をついた。
「とはいえ、このままでは日が暮れてしまいそうです」
すでにいつかの
「瑜順どの、足を崩して頂いて構いませんよ」
「もはや感覚も遠いです。崔遷さまこそ、ご無理なさっていませんか?」
「私は慣れっこです。とはいえ、これほどお姿が見えないとあっては本日のお出ましはないようです。一度出直したほうが宜しいかもしれませんね」
言ったのに頷こうとし、そうしてふと、軽やかに駆ける音を聞いた。ようやく来たのかと壇上へ向かって期待しつつ頭を下げた。
紗羅簾の向こうに落ちる影はふわふわと漂うように現れ、そして手を差し込んで真中の切れ目からするりと滑り出た。おや、と崔遷が呟いたのが聞こえた。
床を見つめた瑜順の視界に銀箔の大花を彩った小さな
前に立つ人影は無言で見下ろしている。発言を許されるまでこちらはどうすることも出来ない。ただ黙ってさらに額を床に近づけると、影はふわりとしゃがみ、すい、と顎をとらえられた。
冷たく青白い手、小指には白金の
霞のような月白色の
「…………」
「
正妃と知り再び頭を下げようとしたが、両拳に阻まれる。
「あの……これは」
顔を横向けて問うと崔遷は袖で口を隠してついに笑った。
「
当てて何とするんだ、と問いそうになって飲み込む。なぜ今ここで場違いな
おずおずと嵌めているほうを手の平で示せば、すう、と開かれる。皺の少ない小さな手の中に握られていたのは
「お見事です、瑜順どの」
崔遷に、ほほ、と笑われたが内心なんなのだ、と呆れ返る。湶后はその小さな石を瑜順の
「――――陛下が賭けたのは『
細い声が囁いた。「見事に外しましたわ、あの方」
そうしてくすくすと笑う。木の葉のささめきのような声だ。
「あたくしも。けっこう得意なのに」
「見破られておしまいになりましたねえ」
湶后は立ち上がった。
「太史令。きょうは陛下はいらっしゃられません」
「そうですか、お忙しいのですね」
「ええ。あの方はいつだって。……でも、きっとお会いになるわ」
瑜順が見上げると女も見返す。
「勝ったから」
そう言うとしゃらりと鈴の音を響かせて出て行ってしまった。まるで幻か風のように
「なんというか……あの方が、本当に湶后陛下なのですか?」
「もちろん。我が九泉の国母です」
「随分お若いように思いましたが」
見目は、と言いつつ崔遷は殿の階を降りる。射した西陽に目を細めた。
「
「あのような遊びで引見するかしないかをお決めになる方なのですか、九泉主は」
明らかにこちらを
「泉主はお戯れに乗ぜられただけです。おそらく本日客人と会うかどうかを正妃さまにおまかせになっただけでしょう。ご案じなさいますな。ああ
崔遷はどこまでも楽観的にそういなしたが、瑜順たちはそれからひと月あまり九泉主に拝謁を許されることはなかった。滞在するようあてがわれたのは小殿のひとつで泉宮の中、追い払う様子もないのにただ留め置かれ、無駄に時が過ぎていった。
飛び交わす文によれば一泉の様子はいまだなんの動きもなく、
この国は気温の高低が少なく季節が移ろっているという感覚が乏しい。とはいえ確実にさらに暖かくなっていた。ほどなく二月中気を迎える時分、
まだ冬物の
季娘は九泉宮の広大な薬房がかなり気に入ったらしく許可を取って入り浸っている。こっそり耳鼠と焉酸を見つけてやる、などと軽口を叩いて、医官らと医術についても情報交換を行っているようだ。もしかすれば、鴆鳥毒に対応出来る新たな薬も見つかるかもしれない。
「……しまったわ」
はたと自分を見下ろした。裾をどこかに引っ掛けたのか、少し破れている。だから絹は嫌なんだ、とげんなりした。軽くて落ち着かないしこうしてすぐにほつれるしで動き回るのに向いてない。やはり綿の
裁縫箱はあったろうかと探し回ったが客殿にはないようだ。外に出る。ここは外殿の西、衛兵にことわって許しをもらい歩き始めた。
瑜順は朝からなにやら
近寄ってみると内宮近くの
「すごい……」
見たこともない景色に唖然として見回す。太い幹は全方に枝を張り伸ばし、円錐を逆さにした形で
花の
官吏の休憩の場所だろうかと見回し、無人なのをこれ幸いに岸辺へ腰を下ろした。
静かだ、とぼんやりと緩い風に肌をさらす。
むくりと起き上がる。どのくらい寝ていたかしれないが
「――――よしなさい」
細かな水音を立てていたものに声を掛けると途端に離れていく。やれやれと座り込み、今にも食われそうだったほうに視線を投げた。どこぞの
「――――これは……なんという」
感嘆の呟きとともに信じられない思いで観察した。
目の前で眠る少女は足先を水に浸したまま、すうすうと気持ち良さげに寝息を立てていて、近づいても目を覚まさない。脚には赤い斑点が所々に。少し血を吸われたか、しかしここには小さいものしかいないから大事は無かったようだ。
それにしても、とそっと頬に触れる。風にそよぐうねり髪、銅色の肌、――――眼は?
気になって仕方がなく、起きないのをいいことに瞼の皮を押し広げた。綺麗な白目に虹彩まで黒深い
背筋から歓びがつたって思わずその頬を包み、惚れ惚れと顔を眺める。と、うっすらと自力で開いた。焦点の合わない視線は頭上から覗き込むのに出
「な……な……⁉」
若藻は尻餅をつき、ばくばくと鳴る胸を押さえた。こちらの頭を抱えて見下ろしていた人物はまるで驚かず、ただ小首を傾げている。
「ど……どちらさま……」
へたり込んでやっと問うと相手は長い衣の片膝に頬を乗せる。
「はて――――
「わ、わたくしは主に付き
人物はなおも不思議そうにする。
「
「え?」
「ここは禁苑だ」
そんな、と若藻は慌てて周囲を見渡した。「でも……塀も壁もなく、しかもわたくしは外殿から」
「
若藻は青褪めた。他国の、しかも禁苑に許可なく立ち入ったとあっては斬刑でもおかしくない。
「もっ……申し訳、ありません‼用事の最中についここの花が気になり、禁苑とは露知らず易々と踏み込んでしまいました。お許しください!」
裹頭の人は芝生にへばりついた少女をしばし見、次いで顔を上向けた。
「
「あの……」
若藻はまるで自分のことを気にしてなさげな相手に困惑する。今すぐここを離れたほうが良いと判断し立ち上がった。罰を与えないつもりなら、なおさら。主に累が及ぶのだけは避けたい。
「――本当に、申し訳ありませんでした。すぐ出ますから」
「どこへ?」
きょとんとされて困惑する。
「あの…ここは禁苑なのですよね?」
「いかにも」
「わたくしは勝手に来て寝こけていた不法侵入者なのですけれど」
「問題ない」
「……あなたさまは、ここの
問うても泉を眺めたまま動かない。
「あの……」
「我が国への来訪者と言った。どこから?」
逆に尋ねられる。
「主と共に一泉国よりまかり越しました」
言えば、ああ、となにかを思い出したようにした。
「ああ――――。そうか……」
まるですっかり忘れていたと言わんばかりに頷いて胡座をかいた。まじまじと見てくる視線に若藻は怯える。
「な、なんでしょう」
「汝は、泉賤?」
「左様です」
そう、と呟き、どことなく落ち着かなげにする。
「どうかされたので?」
「……脚は、痛まないか?」
ふと見下ろした裸足には蚊に刺されたような
「いえ……」
「泉宮の泉に不用意に入らないほうが良い」
忠告で言ったつもりが叱責ととったのか少女は俯いてまた謝った。否定の為に首を振ったものの、鈍い疼痛に思わず眉間に皺を寄せた。――陽を、浴びすぎた。
ふらりと立ち上がる。去り際に少女の豊かな髪を撫でれば、予想通り羽毛のような感触がした。
「出口は分かる?」
「はい」
「そう。では、お戻り」
あの、と背後で呼び止められる。
「あなたさまは、泉主をご存知で?」
「――――だとすれば?」
少女は必死な様子で声を絞り出した。
「わたくしの主はどうしても、どうしても九泉主にお目通りしなくてはならない大変な理由があるのですが、ここを訪れてもうひと月も拝謁が許されておりません。泉主はご健在なのでしょうか。それかなにか、我々に含むところがおありで、会って下さらないのでしょうか。それがわからず途方に暮れております。どう思われますか」
「時が来ればいずれ」
それだけ言うと風に裾をなびかせ紫苑の向こうへ消えた。
「陛下あ」
禁苑の飛び地の奥にはそこそこに広い
「どこにいらっしゃっていたの?」
湯着を白い肌に張り付かせた、寒気をもよおすほど
「陛下?」
夫の目元の
ううん、と生返事をし、水気で衣が濡れるのも構わずただ茫洋とする。はい、と口許に近づけられた
「今晩はあたくしのところに来て下さるの?」
ひそめいて囁いてきたのに
「
「まあ、誰にでも言っているのでしょ」
「そんなことはない」
「信じないわ」
「
「それに口約束であたくしが喜ぶと思って?あなたはほんとうに、昔から節操がないもの」
酔妃はその場で湯着を脱ぎ、侍官たちに己の裸身を拭かせて
「また宝物を見つけたの?」
予想しての問いにはただ瞬くのみだが、この反応には慣れている。
「ま。やはりそうなのね。あたくしというものがありながら、次から次へと」
「……それは否定出来ない」
「馬鹿正直ね」
「ひどいな、姉上は」
「それで、手に入れられそうなの?」
自ら膝に抱かれに来た姉である
「――――どうだったか……忘れてしまった」
腕の中の妃は笑い声を上げた。
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