求章 於 九泉国〈三〉



 九泉の泉畿みやこ瀝晶れきしょうといった。土地は国まわりを囲う雪の峭絶とは反対におおよそ激しい起伏のない見渡すかぎりの平野で、障害物がなく整然とした圃場たはたには、都城内から引いてきた疏水が均等にくぎられ水車が等間隔に回っており、一見してそれは整列した兵の軍隊を連想させた。人はいない。


「きっとみんな昼休憩で出払っているのでしょう。なにせ泉畿といっても住んでいる民はせいぜい一万ほどですから」

「それは京師兵けいしへいを入れず、ですね?」

「もちろんです。しかし、兵の数も他国と比べればそれは小さな規模です。禁軍左右中と首都州軍あわせて五万ほど、ちなみに国境守備軍は地方軍ではなく金吾きんご府直属の管轄です」


 舟は水門を越える。同時に瑜順たちを包んだのは熱気。肌を撫でる人々のかしましい喧騒と往来の賑わい、そして溢れかえる色とりどりの花々。赤に、黄に、青に。街を縦断する川縁かわべりの両側から次々と投げ入れられる。若藻が放り込まれた花冠を不思議そうに拾い上げた。

「これは?」

「ああ、瀝晶の正月はいつもこんな感じですよ。新年を迎えてしばらくは入郷する舟に花を散らすのです。年を改めれば泉水も新しくなり、初水に浮かべる舟は沈むことがなくなるとわれ、縁起良いとされているのです。水を泉主と天帝に感謝する習わしです」

 季娘が若藻に花冠を被せ、自身も被って両岸の人々に手を振る。街はいまだ盛大に祭り騒ぎであり、どこからか楽の音も聞こえた。

「こんなに花を摘んでは無くなりませんか」

「このためだけに花卉かきを育てる商売も成り立っておるくらいですから、心配は要りませんよ」

 崔遷の舟はしばらくそうして歓迎を受けつつ進み、やがてひらけた碇泊ていはく場に到着した。手続きを終え、地上に戻る。ここからの移動は軒車くるまになる。


 てっきり崔遷の本邸に行くのだとばかり思っていた三人は外の景色がみるみるうちにおごそかな街並みになっていくのに虚を突かれた。整備された大途おおどおりは石畳も滑らかで北に向かうにつれてさらに塵一つなく清められており、両側と下には幾条もの環泉かわが通って道は浮橋のようだった。祝賀のふさをひらめかせた長槍を持つ騎馬隊が華やかに横切る。市中を巡回する金吾府の衛兵たちだ。崔遷の軒車をみとめてみちを横断する列を途切れさせ、高位官の御車と認識し礼を取って譲った。通り過ぎ、ひたすら真っ直ぐ続く向こうに居丈高な牌楼を見つけた。


「……まさかとは思うけど、泉宮に直接行ったりしないよね?」

 こそりと季娘が口を寄せたが、そのまさかだな、と瑜順は目を細める。牌楼の向こうまで一本道、そして両端できらきらと輝くのはおそらく主泉。


 さらに地平にそびえるは白亜の城。横に間延びし上に向かってやや狭まる城壁と、その線から頭を覗かせる高い塔楼。遠目でもかなり巨大なのだと分かる。一泉の宮城は黒くて厳粛で重々しい印象の巨殿だが、九泉宮は泉の色とも相まって美麗荘厳の神殿といっても過言ではなさそうだった。今、それは驚くべきことに一行の目には泉の稜線の上に浮いて見えた。


「……どういうこと?」

 唖然として問えば崔遷が愉快そうに笑む。

「あれは蜃楼まぼろしです。このように天気の良い日は稀に出るのです。あの後ろには実際に城がありますから、ご案じなさいますな」

 泉に面して街並みは途切れ、やはり水に浮いているのではと錯覚する長い橋の大路を結構な時をかけて渡る。下は拱門きょうもんになっており左右の水は隔てられてはいないようだ。

 窓にかじりついて泉を眺めていた若藻がふと案内人を仰いだ。


「九泉の泉のかたちは変わっているのですね」

「どう見えるの?」

 季娘も小さな窓から乗り出す。手前には大きすぎて近づいているのかも分からない宮城、東西の水平線は遠くで途切れ、幾筋かの水の流れがみとめられた。


「渦……?」


 九泉の泉は宮城を基点として泉川が螺旋状に広がっているようだ。崔遷が頷く。

「泉の形はこの瀝晶の主泉から独立した九条の川が環泉と同じく波紋のように広がっているのです」

「気づきませんでした。まるで颱風たいふうの目だ」

「ということは、ここは位置的には国の中心ということになるのですか」

 左様です、と崔遷は風にひげをそよがせた。「たいていの泉国の泉畿は北にありますが、九泉は違います。九条の幹川を軸に枝川しせんや疏水を引き、郷里は幹川かんせんを挟んで建てられているか、その脇に構えられます」

 若藻は窓から離れて座り直した。宙を見る。

「ということは、丸い泉はここだけ、ということなのですか?」

小邑しょうそんなどは疏水から延ばした小泉がごさいます。九泉国は、九つの幹川から成るために泉畿から遠い場所で水質が変わるというようなことはございません。他国では北の主泉が最も澄明であり南に行くにつれて質が劣るものですが、ここの泉は国中心から湧き出し、東南西北どの国端でも水は瀝晶と同じ透き加減。裏を返せば、九泉に主泉と呼べるものはなく、言うなれば国中の全ての泉が主泉なのです。それゆえ都水台もそれほど人員が必要でない。瀝晶の水質を気にかけておれば良いだけですから」

 もっとも、とさらに微笑む。軒車が止まった。

「ここは大泉地開闢かいびゃく以来いちばん強く、濃く始祖の血を保ってきた豊饒ほうじょうの国です。泉が濁ることは、天地が割れないかぎりありえない絵空事なのです。――さ、皆さま。着きました」





 話は通っていたようで、迎えた侍臣に従い身を清め、謁見にふさわしい衣装を纏い、四人は国府主殿近くの小殿に招かれた。


 小殿といえど呆れるほど広い拝謁の間、大柱は黒瑪瑙めのうの複雑で繊細な波紋様、青い綾帯あやおびで縁取られた藻井てんがいまるく高く大きく、白玉の台座に薄丁香うすちょうじ宝幡たれまくが壮麗だった。しかしやはり人の姿は少なく、静謐な空間で瑜順はこそりと崔遷に耳打ちする。


「泉主がご存知とはいえ、我々は国賓ではなく、あくまで崔遷さまを頼って個人で入国したに過ぎません。そのような我々と泉主がお会いになると?」

 崔遷はただ首を振った。「泉主はお気まぐれな方。それは私にも分かりませんが、瀝晶に着いた後は参殿せよとのお下知です。ならば本日お会いしてくださる可能性は高い」

 そう言われたが、一向になんの気配もない。正面には白いたっぷりとした紗羅簾うすまくが短いきざはしにまで垂れている。朧に透けて見えるその向こうの御座には何者の姿もなく、四人はただ無言で座り込む。


 やがていくらもしないうちに季娘が飽いた雰囲気を醸し出しはじめ、おもむろにこそこそと呼び掛ける。

「崔遷さま。よくよく考えれば、自分は瑜順兄さまの下僕にすぎず、泉主にまみえるなどおこがましいかぎりです。つきましては拝謁を終えるまで、宮城の薬房などを見学させて頂くことはできませんか。興味があるのです」

「あ、わたしもそう思います。泉賤どれいが王様のお顔を見るなど目が潰れます」

 若藻も乗っかる。もっともらしい理由を考えたな、と瑜順と崔遷は顔を見合わせた。

「まあ、そう言われればそうだが。……崔遷さま、どうでしょう」

「案内をお願いしてきます」

 鷹揚な老官は苦笑して一度立ち上がり、広間の外に控えた衛兵を通して侍官を呼んだ。あちらもこのような状況にはかなり慣れているとみてすんなりと許諾される。娘二人は顔を輝かせて逸る気持ちを抑えゆっくりと立ち上がった。


「……我儘ばかり申し訳ない」

 粗相のないように、と特に季娘に言い渡し、二人を見送って詫びた。

「なんの。客人に失礼をしているのはこちらなのですから」

 崔遷も飽いたのか、囁き声に少し音を乗せはじめ、いきなり貴人が現れても失礼のないほどに寛いで話し始めた。

「お気まぐれと申しましたが、泉主は決して悪気や侮りがあってそうしているのではないのです。あの方は常に様々なことに思いを巡らしており、そのせいで約束や予定などを失念しておしまいになるのです」

「下官からご諫言かんげんなどは?」

「もちろん役目の官はおりますし言いますが、泉主はおおよそときにとらわれない自由な方でして。まあ、要するに気分屋なところがおありになる」

 それは悪意がないとは言いきれないではないか、と瑜順は内心溜息をついた。



「とはいえ、このままでは日が暮れてしまいそうです」

 すでにいつかのひん州の時と同じほど待たされて訴えれば、さすがに崔遷も疲れたのだろう、肩を叩いた。

「瑜順どの、足を崩して頂いて構いませんよ」

「もはや感覚も遠いです。崔遷さまこそ、ご無理なさっていませんか?」

「私は慣れっこです。とはいえ、これほどお姿が見えないとあっては本日のお出ましはないようです。一度出直したほうが宜しいかもしれませんね」

 言ったのに頷こうとし、そうしてふと、軽やかに駆ける音を聞いた。ようやく来たのかと壇上へ向かって期待しつつ頭を下げた。


 紗羅簾の向こうに落ちる影はふわふわと漂うように現れ、そして手を差し込んで真中の切れ目からするりと滑り出た。おや、と崔遷が呟いたのが聞こえた。


 床を見つめた瑜順の視界に銀箔の大花を彩った小さなくつが見える。

 前に立つ人影は無言で見下ろしている。発言を許されるまでこちらはどうすることも出来ない。ただ黙ってさらに額を床に近づけると、影はふわりとしゃがみ、すい、と顎をとらえられた。

 冷たく青白い手、小指には白金の指甲套つけづめ。そのままこうべを上げさせた貴人の顔は――見えなかった。


 霞のような月白色の紗蓋頭おおいを頭から被った面立ちも、息遣いさえ分からなかった。真珠の玉連かざりを揺らし、見えない瞳で凝視し、抱き込んだ片腕で傾げるように頬杖をつく。指甲套でさらに瑜順の頬をなぞる。離し、なにやら自身の衣をまさぐって細い手首が見えるほどに腕を突き出した。


「…………」


 たおやかな二つの拳を前に困惑しちらりと崔遷を見る。助けを求められたほうは笑いをこらえるような顔をしていた。このままでは埒があかないと悟ってか、恭しく叩頭する。

湶后せんごう陛下。そのようになされてはこの者が困ってしまいます」

 正妃と知り再び頭を下げようとしたが、両拳に阻まれる。

「あの……これは」

 顔を横向けて問うと崔遷は袖で口を隠してついに笑った。

蔵鈎ぞうこうでございます。どちらか一方の中には玉鈎たまかぎが入っております。それを当てる遊戯です」


 当てて何とするんだ、と問いそうになって飲み込む。なぜ今ここで場違いなたわむれをしなければならないのか皆目理由が分からなかったが、もしやなにか試されているのでは、と思い直し、おとなしく遠慮がちに目の前の白い人を見る。固めた拳は翡翠ひすい玉鐲うでわを揺らして急かすようにゆるりと振られた。

 おずおずと嵌めているほうを手の平で示せば、すう、と開かれる。皺の少ない小さな手の中に握られていたのはみどり勾玉まがたまだった。


「お見事です、瑜順どの」

 崔遷に、ほほ、と笑われたが内心なんなのだ、と呆れ返る。湶后はその小さな石を瑜順のてのひらに落とした。


「――――陛下が賭けたのは『うろ』でしたわ」


 細い声が囁いた。「見事に外しましたわ、あの方」

 そうしてくすくすと笑う。木の葉のささめきのような声だ。

「あたくしも。けっこう得意なのに」

「見破られておしまいになりましたねえ」

 湶后は立ち上がった。

「太史令。きょうは陛下はいらっしゃられません」

「そうですか、お忙しいのですね」

「ええ。あの方はいつだって。……でも、きっとお会いになるわ」

 瑜順が見上げると女も見返す。

「勝ったから」

 そう言うとしゃらりと鈴の音を響かせて出て行ってしまった。まるで幻か風のように披帛かたかけをひらめかせて去る後ろ姿を見送り、腰を上げた。


「なんというか……あの方が、本当に湶后陛下なのですか?」

「もちろん。我が九泉の国母です」

「随分お若いように思いましたが」

 見目は、と言いつつ崔遷は殿の階を降りる。射した西陽に目を細めた。

蛻雛ぜいすうの方々は皆様よわいのわからぬ容貌をしておいでです」

「あのような遊びで引見するかしないかをお決めになる方なのですか、九泉主は」

 明らかにこちらをもてあそぶ扱いに少し棘を含んで言えば玄人くろうとは平然とまた笑った。

「泉主はお戯れに乗ぜられただけです。おそらく本日客人と会うかどうかを正妃さまにおまかせになっただけでしょう。ご案じなさいますな。ああおっしゃりあそばされた以上、いずれお姿を見せてくださいます」





 崔遷はどこまでも楽観的にそういなしたが、瑜順たちはそれからひと月あまり九泉主に拝謁を許されることはなかった。滞在するようあてがわれたのは小殿のひとつで泉宮の中、追い払う様子もないのにただ留め置かれ、無駄に時が過ぎていった。



 飛び交わす文によれば一泉の様子はいまだなんの動きもなく、文統ぶんとう壱魴いつほうらはそう州軍と小規模な争いを繰り広げていたが泉畿を解放する機会は得られないでいたし、八馗はっきもこちらの結果が分からないかぎり動くことはできない。そして、韃拓は『選定』へ旅立ったまま戻っていなかった。







 この国は気温の高低が少なく季節が移ろっているという感覚が乏しい。とはいえ確実にさらに暖かくなっていた。ほどなく二月中気を迎える時分、庭院なかにわでは白や薄紅の桃花が咲き乱れ、それをゆっくりと眺めて茶をすすいとまのある客分ではあったが、どこでどう過ごそうと、若藻の日々の仕事はそれほど変化しない。主の食事をはじめ身辺の指図をするのは英霜えいそうでと同じく続けて受け持ち、今も朝に使った水を暗渠げすいに流そうと客殿の裏まで桶を抱えて来たところだった。


 まだ冬物の襖子うわぎだが少し立ち回っていれば暑く感じる。瑜順はそこまで働いては逆に九泉の下官に失礼にあたると言っていたが、若藻だって室内の掃除や洗濯や、彼の洗沐ゆあみに着替えはあちらに任せているのだ。少しくらいは出しゃばりのうちには入らないだろう。


 季娘は九泉宮の広大な薬房がかなり気に入ったらしく許可を取って入り浸っている。こっそり耳鼠と焉酸を見つけてやる、などと軽口を叩いて、医官らと医術についても情報交換を行っているようだ。もしかすれば、鴆鳥毒に対応出来る新たな薬も見つかるかもしれない。


「……しまったわ」

 はたと自分を見下ろした。裾をどこかに引っ掛けたのか、少し破れている。だから絹は嫌なんだ、とげんなりした。軽くて落ち着かないしこうしてすぐにほつれるしで動き回るのに向いてない。やはり綿の裳裙もくんに変えてもらおう、と思いつつたすきを解いた。とはいえ借り物、このまま捨てるのももったいなく、かといって破けたままではみっともない。

 裁縫箱はあったろうかと探し回ったが客殿にはないようだ。外に出る。ここは外殿の西、衛兵にことわって許しをもらい歩き始めた。

 瑜順は朝からなにやら書房しょさいに籠って難しい顔をしていたから、邪魔しては悪いと声は掛けなかった。すぐに戻れるだろうとひとり頷き、白い石畳を進む。道々でお針子のいる織室しょくしつを尋ねながら、そうしてふと殿たてものの合間にこぼれ出る色合いに目を取られ足を止めた。


 近寄ってみると内宮近くの園林にわのようだった。おずおずと見渡しても人はおらず、空も見えなかった。紫の巨大な花が大量に、上から吊るされるように咲いていたからだ。


「すごい……」


 見たこともない景色に唖然として見回す。太い幹は全方に枝を張り伸ばし、円錐を逆さにした形で蔓延はびこる花々、葉は少ない。若藻の背では届かない位置から繊細な花弁を満開にして垂れていた。それが園林一面に。見下ろせば芝の地面には九泉特有の透過の紫水が細い小路を流れる。その流れが奥まで続いているのになんとはなしにつられて足を踏み出した。


 花の帷帳とばりで前方は見えない。むっとする甘い香りのなかを掻き分けて進めば、水はやがて集まり小泉をなしていた。ほとりにこじんまりと涼亭あずまや水榭みずどのが見える。

 官吏の休憩の場所だろうかと見回し、無人なのをこれ幸いに岸辺へ腰を下ろした。


 静かだ、とぼんやりと緩い風に肌をさらす。ぬくくて穏やかで、一泉の殺伐とした寒々しい景色とは大違いだった。もっと開放感を味わいたくなり、きょろきょろともう一度誰もいないのを念入りに確認し、くつ襪子くつしたを脱いで裸足になった。そっと泉に差し入れれば心地よい水が足先をほどよく冷やして、心地良さにさらに気が大きくなりそのまま芝生に寝転がる。泉の上は花枝が開け、雲ひとつない薄い青空が覗いていた。しばらくぼうっと和んでいるとうつらうつらと睡魔が襲ってきて、辛抱する間もなく知らないうちに陽だまりの闇に目を閉じていた。





 むくりと起き上がる。どのくらい寝ていたかしれないがひるは過ぎてしまっているようだった。唸ってぼんやりとしていれば微かに水音がする。目を向けて眉を上げた。するりと立ち上がり涼亭から出、裸足で芝を踏みしめて近づく。


「――――よしなさい」


 細かな水音を立てていたものに声を掛けると途端に離れていく。やれやれと座り込み、今にも食われそうだったほうに視線を投げた。どこぞの家童みならいか、と顔を見て、途端息が詰まった。



「――――これは……なんという」



 感嘆の呟きとともに信じられない思いで観察した。


 目の前で眠る少女は足先を水に浸したまま、すうすうと気持ち良さげに寝息を立てていて、近づいても目を覚まさない。脚には赤い斑点が所々に。少し血を吸われたか、しかしここには小さいものしかいないから大事は無かったようだ。


 それにしても、とそっと頬に触れる。風にそよぐうねり髪、銅色の肌、――――眼は?


 気になって仕方がなく、起きないのをいいことに瞼の皮を押し広げた。綺麗な白目に虹彩まで黒深い眼睛ひとみ


 背筋から歓びがつたって思わずその頬を包み、惚れ惚れと顔を眺める。と、うっすらと自力で開いた。焦点の合わない視線は頭上から覗き込むのに出い、慌てて見開かれ、短く悲鳴を上げて飛び退く。


「な……な……⁉」


 若藻は尻餅をつき、ばくばくと鳴る胸を押さえた。こちらの頭を抱えて見下ろしていた人物はまるで驚かず、ただ小首を傾げている。裹頭ずきんで頭も口も見えない。目元のわずかな隙間からただこちらを見ていた。


「ど……どちらさま……」

 へたり込んでやっと問うと相手は長い衣の片膝に頬を乗せる。

「はて――――なれは?見ないかんばせだ」

「わ、わたくしは主に付きしたがい、九泉を訪れた者です」

 人物はなおも不思議そうにする。

上霖苑しょうりんえんへの允可きょかを?」

「え?」

「ここは禁苑だ」

 そんな、と若藻は慌てて周囲を見渡した。「でも……塀も壁もなく、しかもわたくしは外殿から」

泉宮みやは外宮と内宮を壁で分けてはいない。ここも禁苑の飛び地、しかしそれは皆るところ」


 若藻は青褪めた。他国の、しかも禁苑に許可なく立ち入ったとあっては斬刑でもおかしくない。

「もっ……申し訳、ありません‼用事の最中についここの花が気になり、禁苑とは露知らず易々と踏み込んでしまいました。お許しください!」

 裹頭の人は芝生にへばりついた少女をしばし見、次いで顔を上向けた。

藤蘿ふじという。この時季から咲くのは九泉ここだけらしい」

「あの……」

 若藻はまるで自分のことを気にしてなさげな相手に困惑する。今すぐここを離れたほうが良いと判断し立ち上がった。罰を与えないつもりなら、なおさら。主に累が及ぶのだけは避けたい。

「――本当に、申し訳ありませんでした。すぐ出ますから」

「どこへ?」

 きょとんとされて困惑する。

「あの…ここは禁苑なのですよね?」

「いかにも」

「わたくしは勝手に来て寝こけていた不法侵入者なのですけれど」

「問題ない」

「……あなたさまは、ここのり人でしょうか。そんなに寛容でよろしいのですか」

 問うても泉を眺めたまま動かない。

「あの……」

「我が国への来訪者と言った。どこから?」

 逆に尋ねられる。

「主と共に一泉国よりまかり越しました」

 言えば、ああ、となにかを思い出したようにした。


「ああ――――。そうか……」


 まるですっかり忘れていたと言わんばかりに頷いて胡座をかいた。まじまじと見てくる視線に若藻は怯える。

「な、なんでしょう」

「汝は、泉賤?」

「左様です」

 そう、と呟き、どことなく落ち着かなげにする。

「どうかされたので?」

「……脚は、痛まないか?」

 ふと見下ろした裸足には蚊に刺されたようなあとが無数にできていた。どうしたことかと首を傾げる。とはいえ痛くもかゆくもない。

「いえ……」

「泉宮の泉に不用意に入らないほうが良い」

 忠告で言ったつもりが叱責ととったのか少女は俯いてまた謝った。否定の為に首を振ったものの、鈍い疼痛に思わず眉間に皺を寄せた。――陽を、浴びすぎた。


 ふらりと立ち上がる。去り際に少女の豊かな髪を撫でれば、予想通り羽毛のような感触がした。

「出口は分かる?」

「はい」

「そう。では、お戻り」

 あの、と背後で呼び止められる。

「あなたさまは、泉主をご存知で?」

「――――だとすれば?」

 少女は必死な様子で声を絞り出した。

「わたくしの主はどうしても、どうしても九泉主にお目通りしなくてはならない大変な理由があるのですが、ここを訪れてもうひと月も拝謁が許されておりません。泉主はご健在なのでしょうか。それかなにか、我々に含むところがおありで、会って下さらないのでしょうか。それがわからず途方に暮れております。どう思われますか」


 淡藍たんらんの長衣の背は思案するように立ち止まっていたが、肩越しに白い頭が振り返る。

「時が来ればいずれ」

 それだけ言うと風に裾をなびかせ紫苑の向こうへ消えた。







「陛下あ」

 禁苑の飛び地の奥にはそこそこに広い湯殿ゆどのがある。乳白色のぬるま湯にあかい花弁を浮かべ、同じ色に頬を上気させた女は身を乗り出した。

「どこにいらっしゃっていたの?」

 湯着を白い肌に張り付かせた、寒気をもよおすほどなまめかしい女はそのまま浴槽から上がり、裸足で歩いてきた男に抱きついた。彼は全く嫌がらず、女の肩を抱いてとう長靠椅ながいすに共に腰掛ける。かざされた傘の日陰のなか、侍官の送る羽扇の風にそよがれぼんやりと空を見つめた。


「陛下?」

 夫の目元のふちを白い指で下げた。「どうかなさって?」

 ううん、と生返事をし、水気で衣が濡れるのも構わずただ茫洋とする。はい、と口許に近づけられた茘枝れいしの粒をされるがままに含む。

「今晩はあたくしのところに来て下さるの?」

 ひそめいて囁いてきたのに嚥下えんげしながら微笑んだ。

なれが望むなら」

「まあ、誰にでも言っているのでしょ」

「そんなことはない」

「信じないわ」

酔妃すいひ

「それに口約束であたくしが喜ぶと思って?あなたはほんとうに、昔から節操がないもの」

 酔妃はその場で湯着を脱ぎ、侍官たちに己の裸身を拭かせて衫衣ひとえを羽織らせた。面白くなさそうに、それでも再びくっつく。

「また宝物を見つけたの?」

 予想しての問いにはただ瞬くのみだが、この反応には慣れている。

「ま。やはりそうなのね。あたくしというものがありながら、次から次へと」

「……それは否定出来ない」

「馬鹿正直ね」

「ひどいな、姉上は」

「それで、手に入れられそうなの?」

 自ら膝に抱かれに来た姉である嫡妻つまをあやすようにしながらまた空を見据え、呟いた。

「――――どうだったか……忘れてしまった」

 腕の中の妃は笑い声を上げた。




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