求章 於 九泉国〈四〉
もう待てません、と硬く言った異人の青年に老臣は感情の分からない視線を投げた。
「九泉主は何をしておられるのですか。崔遷さま、我らのことは話を通してくださっているのですよね」
瑜順は座った膝の上にきっちりと両手を置き、崔遷を真っ向から見据えている。
「九泉に入国してすでに
「いいえ、すこぶるお元気ですよ」
「であればなぜ我々を放置なさるのです」
「瑜順どの。泉主は決してお忘れになっているわけではありません」
しかし厳しい
「私は仮にも太后陛下の遣いで来ているのです。そして夏至までには戻らねばならない。なんの手立てもなく
「もちろんです。落ち着いてくだされ」
手で押しとどめるようにし、短く息を吐いた。この青年は穏やかなようでいて意外と短気だ。とはいえこちらもやはり待たせすぎなのも事実、もし他の者が使者だったならもっと騒ぎ立てて今頃さらに面倒なことになっていたかもしれない。
しばらく思案し、崔遷は頷いた。
「なれば、もはや湶后陛下にお縋りするしかないでしょう」
「正妃さまに?」
怪訝に言った瑜順は顎に手を当てる。「泉主のご寵愛を一心に受けておられるのは聞き及びますが。しかし一度お会いしてから音沙汰なく、もう一度上奏したとて聞き届けてもらえますか」
初めて参殿した際、顔の見えない湶后は泉主はきっと会う、と言ったが、いまや信じられなくなってきている。
「湶后陛下はふだんは
なにを悠長に、と額を押さえた。これが韃拓なら宮の奥まで乗り込んでいる。
「崔遷さまはたびたび泉主にお目通りしているのではないのですか」
とんでもない、と手を挙げた。「毎回の朝議はございますが直接泉主にあなたさま方のことをお伝えするような機会もなく、そも勝手な発言は許されません。終われば泉主は内宮へお戻りになっておしまいになるのはどこの朝廷でも同じでございましょう?」
「なれど、あなたは気に入りでしょう」
言えば首を振る。
「泉主はたしかにお気にかけなさる官には鷹揚で時たま歓談にお召しになりますが、そのような者は私ひとりではございません。それに、こちらから泉帝陛下を呼び出すなどという不敬はあってはならないことです」
瑜順は唇を噛んだ。
「しかしこのままでは埒があきません」
ですから、と崔遷は目元を和めた。
「角の立たぬよう湶后陛下から注進して頂こうという次第です」
「湶后さえ、捕まるかどうか」
「その点は心配ございません」
自信のある言に瑜順は不審に見返す。彼は当初から穏やかに接するがそれが逆に厄介だ。葛斎以上に掴みどころなく、本心が見えない。
「
「
「
「恥ずかしながらありません……正妃さまに?」
崔遷は頷いた。
「
なんとも、宮廷ならではのやり取りに溜息を吐く。
「崔遷さまにおまかせしても良いですか。残念ながら
「おや、自分を卑下してはなりませんよ瑜順どの。湶后陛下がああして突然にお
言えば、そんなことをしている暇はないとただ首を振った。無理もない、彼は戦場から来たのだから暢気に詩など学んではいられない。
どうなることか、と崔遷は墨を磨る手を止め、
まるでこの世になにも憂いなどないかのように卵色の昼光は降り注ぎ、若緑の木々に小鳥は
可愛らしい、と主は一泉の頂点に登った
崔遷ほどの歳になればもはや急流を乗りこなす力さえなく、苛烈な波
過剰に手を差し伸べるべきではないとはいえ、不必要に主に対しての反感を抱かせるのはよろしくない。それになにより葛斎の頼みだ。彼女の成すことを、自分自身も見届けたいと思っているのだから出来る限りの力添えはするべきか、とひとり頷き、再び手を動かしはじめた。
湶后からの召しがあったのはそれからほどなくだった。
「禁苑にお招きいただいた⁉」
季娘は喜色を浮かべた。
「すごい!崔遷さまはやはり湶后陛下さえも無下に出来ないお相手なのですね」
「いやいや、違いますよ。ひとえに瑜順どのの徳です」
娘はそれを聞いてははあ、と得心しニタリと笑む。
「兄さまのいつもの策ね」
「何もしていない。崔遷さま、この二人も連れて良いのですか」
召文を折り畳みながら問えばもちろんです、と笑う。
「では、そうしよう。……若藻?どうした?」
なぜか今日はいつもよりおとなしい
「あの…わたしはここでお待ち申し上げます」
「いいえ、あなたはご一緒したほうがよろしいでしょう」
被せて崔遷が言った。
「そのほうが湶后陛下は喜びます」
「そうでしょうか……」
「若藻、せっかくのお招きだ。それに、この機を逃したくない」
瑜順にまで言われ、渋々了承する。季娘は嬉々として手を打ち合わせる。
「きっと珍しい草花がたくさんあるね。観察くらいはさせてもらえるかな。もしかしたら
「たとえあっても勝手に摘むんじゃないよ」
わかってる、と言いつつうきうきしている。ともかくも、やっと九泉主に最も近しい人物に会うことができる。待ちぼうけを食らった身としては絶対にこれを泉主本人へ拝謁する足掛かりにしたい。
約束の期日に四人は後宮へと続く道に立った。九泉宮では本来ならば閉ざされた空間であるべき内廷が、柵をつくって区切られてはいたものの、どこからでも簡単に入れるだろうと思われるつくりになっていた。出入口だけが巨大で、その楼門の前に立つ。
人が三人ほども必要な獣面の
「九泉では宦官も少のうございますよ」
理由は言わずもがな、九泉の王統は他者と子を
「蛻雛の方々が正当な配偶の他に自由に
「しかし、要らぬ
「もちろん無断で入ることは重罪ですが、侵入が容易いぶん、
「たとえ現在の九泉主がそうでも」
「いいえ、代々です」
崔遷を見返す。「代々?代々全ての泉主が許していると?」
「時代を通じて後宮内での争いごとは少なくありませんが、それでも王が後宮の境界に壁を築こうなどという草案や勅令をお出しになった例は過去聞いたことがございませんね。記録にある限り、今までのすべての泉主と王統は当人どうしで血を繋ぐ傍ら、そうした後宮内の愛憎劇を率先して彩ってきました。腐敗させた王ももちろんおります」
「やはり不思議な国です。九泉というのは」
外殿に王太后府を構えている一泉もかなり変だと思っていたが、九泉の比ではない。
通された門前で取り次ぎを待っていれば衛兵が現れ、奇妙な輿を持ってきた。
いつぞや見た、人と鳥の半身を持つ国境守備軍の騎獣だ。逞しい腕は人そのもの、台座を担いでこちらを見据えている。
「後宮は広うございますれば、こちらにお乗りください」
「私は出来ればそちらのに。人に運ばれているのは落ち着きません」
瑜順の申し出を兵たちは聞き届けてくれ、輿には他三人が乗る。
「
手綱は人の首に掛けられていた。羽毛の背に鞍を置いた、獣とも呼んでいいのか分からない妖に跨る。輿を断ったがこちらに乗っても同じことかもしれないと少し苦笑した。
「朱痺は胡乱な気配に
衛兵の一人が瑜順の乗った朱痺の手綱を
九泉の禁苑である
御苑は色で溢れかえっていた。九泉では季節を問わず様々な草花が芽吹いている。梅、桃、蘭に水仙。大輪の
いつかに瑜順が会った湶后は今日も頭と顔を覆っていた。白い
「いらっしゃい」
細い声はなよやかだったが弱々しいという感じはせず、どこか無邪気さを漂わせる。四人は一度額づいて許され、設けられた茶席に座した。
「太史令。すてきな贈り物だった。お前を宮廷詩人に迎えようという話もあったわよ」
「勿体ないお言葉です」
ふふ、と白衣の貴婦人は笑い、瑜順に向き直る。
「名乗り遅れたわ。陛下のお嫁さんで酔といいます。玉鈎を大事に持っていてくれたのね」
話し掛けられもう一度頭を下げる。「湶后陛下におかれましては、ご機嫌麗しく。頂いたものは保管しておりました。角楊瑜順と申します。この者たちは僕です」
まあ、と酔妃は額飾りをしゃらりと揺らし手を合わせた。白い指の爪はどれも黒く、両の外側二本には今日も
「堅いのはなしよ。それにしても綺麗なお顔ね。さっきから女官たちが浮き足立って仕方がないわ。客殿には不足なく下仕えがいるかしら」
「もったいのうございます。今のままで十分です」
「あらあ、夜の話よ」
くすくすと笑ったのになんと返せば正答なのか分からなかったが、媚びて笑う気にもなれず憮然とする。するとはたりと声は止み、優雅な動きで下官に指図する。
「
ふわりと甘い香りのする
「
若藻が心配そうに瑜順を見上げたが、目線で頷きほんの少しだけ口をつけた。
「おいしい!です!」
季娘が驚いたのにまた、ふふ、と笑む。湶后は彼女の出で立ちに興味を持ったようだ。
「髪と首を飾っているのは、
「ああ、そうです。これは一族の
春秋に
「素敵ね。貴女の評判は医官からよく聞いている。医術にたいそうお詳しいとか」
「いえ、そんな……」
慌てて手を振ったが、酔妃はあれやこれやと季娘の生業について訊きはじめた。いつ本題に入るか瑜順はちらちらと崔遷を窺ったが、一向に切り出す雰囲気にはならない。
「あの」
声を上げたのは若藻だった。后妃は言葉を切って不思議そうに顔を向ける。
「この国では珍しい動物や植物を盗賊に奪われない為に保護していると聞きました。それがこのお庭にあるのですか」
はっきりと目的をぶつけたのに瑜順も季娘も目を
「なにが珍しいのかあたくしには分からないけれど、陛下はそうしておられるわ」
「わたくしたちは、そのお智恵をお借りしたくて参っています」
「やめなさい」
「この三月のあいだ、泉主はどうされておられたのですか」
「若藻、失礼だ。謝りなさい」
重ねて瑜順が言ったが、相手はまたも全く平然として頬杖をつく。
「陛下とあたくしたちでは、たぶん時の流れが違うんだわ。あの方はいつもいっぱいいっぱいで、だから反対にのんびりするお
「けれど、わたくしたちがお正月に来ていたことは知っていたのでしょう。まるで我慢の限界を試すような」
瑜順は彼女の前に手を差し出した。それ以上を禁ずる無言の冷たい視線が降って思わず険しくなる。自分は彼の為に言っているのに。
「可愛らしいわ」
酔妃は一度息をつき、青年と少女を見比べた。
「陛下のご準備が出来るまで引き延ばそうかと思っていたのだけれど、はぐらかせないようね。いいわ」
そうして下官たちに指示する。
「お二人をご案内して。ああ、太史令と薬師の貴女はあたくしに付き合ってちょうだい。暇で死んでしまいそうなの。もっとお話を聞かせて?」
いいのか、というふうに季娘が見てきて、瑜順は頷いた。
「構わない。失礼を言っているのはこちらだ」
そうして后妃の前に
「無礼千万の口の利き方、どうぞお許しを。しかしながら僕の申すこともまた主である私の胸間の一部です。ことに我が一族の同盟国内は戦乱のさなか、こうして険しい道を越えて辿り着いたこの地には我らの希望がございます。今すぐにでも福音を携えて帰りたい我儘を抑えてお待ち申し上げておりました。泉主との謁見の機会を設けてくださった湶后陛下には、過分なご厚情に感謝を」
言葉は途切れた。白い女は瑜順の口に指を押し当てて首を振る。
「長くて
そのまま、またくすりと笑った。
「貴方は勝った、と」
禁苑を出て北へ北へと向かった先、ひときわ大きな宮が現れて、ここか、と二人で顔を見交わした。といってもここも広大な敷地のなかの泉主の居宮のひとつだろう。案内されるままに中へと入ると薄暗い。左右の大小四柱には
座の背後にはなんと壁が無かった。朧な光はそこから殿内を照らす。
暖かな色味の無い空間、しんとしてどこかひんやりと涼しく声を出すのも
突然、しゃらと繊細な音が立って珠簾が降りる。細雨の輝きの向こうで微かに動きがあり、二人は居住まいを正して平伏した。
足台を踏むわずかな軋み、短く息を吐いて腰を降ろす、広袖を整える衣擦れを聞きながら、ただ発言を待った。
静かだが、それでも控えの下官はいるのだろう、かさりと紙の音がした。
「ああ――――
びくりと若藻は震えた。壇上の人影が何事かをひそりと下官と言い交わし、そうして再び口を開く。
「――――
前置きなく、そう投げられた。
「……はい。泉帝陛下」
瑜順は頭を上げた。背筋を伸ばして上向く。
「しかしながら、貴国の守備軍に命を救われました」
「……匪賊ではなく、刺客だったのでは?」
「私もそうだろうと愚察します」
「
どこまでも静かな声だった。瑜順は感情のない相手の態度よりも話し方に寸暇息を詰めた。
「……我々はただ、かつて結んだ同盟をこれからも存続させたいと思っているだけでございます」
「その為に
「……驚きました。九泉主がそのように我らのことを
「
「ご挨拶
「
注意を向けられて本人は縮こまる。
「この者は私の僕です。お気になさらず」
九泉主はしばし無言だったが、すいと挙がった腕の影が見えた。しずしずと下官らが現れて珠簾を左右に分けていく。
ゆったりと
「
「左様です」
「
「まことでございますか」
「とはいえどちらも稀少な獣に草花。鴆鳥毒がどれほど一泉に拡散したかは知らぬが、根こそぎ分け与えるわけにもゆかぬ」
「もちろん、失わせることは本望ではございません」
九泉主はわずかに体を傾がせた。
「それに、寡人に無償でそれを寄越せと申すか」
否、と瑜順はさらに頭を下げた。
「一泉国、王泉太后陛下崔梓様より内々に、貴国との親睦を深めたいとのお申し入れがございます。つきましては今回の件が無事に完了しましたあかつきには、取り急ぎ感謝のしるしをお贈りさせて頂く手筈でございます」
「不要。
「一泉には広大な麦飯石脈がございます」
ふ、と笑った気配がした。
「九泉の水は濁らぬ」
自信のある言に瑜順は黙した。返事のないのに泉主は息を吐き、ぼんやりとあらぬほうに目を
「……梓氏や汝を困惑させたいと
無感動な調子で続けた。
「他国へ
最後は自問するように顎に指を当てる。爪はすべて黒く、瑜順は仕草に既視感をおぼえて無意識に気まずさが胸中に広がった。
「寡人の言葉の意図するところが及ぶか、
「……お願いがございます」
ん、と泉主はさらに
「お人払いを」
願いは聞き届けられた。手を振り、受けて下官たちが明かりを灯し出て行く。銀屏の背後は
闇が濃くなったぶん、それぞれの姿もさらに曖昧になる。他人の気配は完全に消え、残されたのは三人のみで、泉主はひとり頷いた。
「どうか?」
促され、瑜順は再び額を冷たい床に押し当てたのち、目を逸らさず王を見据えた。
「――私は、
宣言に室内の全てが止まる。壇上の主は石になってしまったかのようにしばらく動かなかった。ただ壇下を凝視し、品定めの視線を外さない。
「…………それは、驚いたな」
一気に語調が砕けた。「本当に?」
「……水も、肉も必要ではありません。私も、そう教えられて育っただけで真に証明せよと言われれば困りますが」
「梓氏と
「胡仙は、養母です。私を拾いました」
そう、と泉主は腕を組んだ。先ほどとは違い、妙に生気を取り戻して人くさい仕草だった。
「神域で拾われたということか?」
「はい」
「……あの二人は汝がここまで育つまで寡人に隠匿していたか……そうか」
何事かを納得したような、面白いものを見つけたような笑いで肩を揺らした。
「なるほど。悪くはない茶番だ」
だが、と組足を
瑜順はただ見つめて問う。
「何をご所望で?」
「そうさな。……ところでそこな
いきなり振られたほうは慌ててひれ伏す。瑜順も怪訝に見比べた。
「
「わ、わたくしは……」
「自身を表す名があるか?」
こくこくと無言で頷き、干上がった喉で掠れ声を上げた。
「若藻、と申し上げます」
「ほう。僕にしては雅な名だ」
「我が主から賜りました」
泉主は目を細めた。「意外にや風流人だな。
「……若藻が、どうかなさいましたか」
「その見目について汝はなにも思わなかったのか?若藻は少なくとも泉民ではない」
「
「概して泉民も泉外人も話語は同じだ。しかし珍しき姿の者たちは、はじめは言葉が通じない、とすれば泉外人ではない。血が
「じゅんけつ……」
「泉外人の親から生まれたか、そうでないのか」
「わ、分かりません。物心ついたときには、すでに一泉に」
「そうか。まあ、そんなものはこの際どうでも良いこと」
九泉主はひどく満悦そうだった。身を乗り出し、組んだ手の甲に顎を乗せた。
「泉主。
瑜順が眉を
「汝は太史令から寡人のことを聞き及んだろう。寡人は――私は、珍しいもの、貴重で見たこともないものを探して
青年の顔色が変わった。それをさも可笑しげに見て、状況の飲み込めていない少女に手を伸べた。
「汝が欲しい」
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