求章 於 九泉国〈四〉



 もう待てません、と硬く言った異人の青年に老臣は感情の分からない視線を投げた。

「九泉主は何をしておられるのですか。崔遷さま、我らのことは話を通してくださっているのですよね」

 瑜順は座った膝の上にきっちりと両手を置き、崔遷を真っ向から見据えている。

「九泉に入国してすでに三月みつきです。さすがの私も限界です。もしや、なにかご病気なのですか」

「いいえ、すこぶるお元気ですよ」

「であればなぜ我々を放置なさるのです」

「瑜順どの。泉主は決してお忘れになっているわけではありません」

 しかし厳しい双眸ひとみは言い訳を許そうとはしない。

「私は仮にも太后陛下の遣いで来ているのです。そして夏至までには戻らねばならない。なんの手立てもなくむなし手で帰ったとあっては決して許されません。あなたもそれを十二分にお分かりではないのですか」

「もちろんです。落ち着いてくだされ」

 手で押しとどめるようにし、短く息を吐いた。この青年は穏やかなようでいて意外と短気だ。とはいえこちらもやはり待たせすぎなのも事実、もし他の者が使者だったならもっと騒ぎ立てて今頃さらに面倒なことになっていたかもしれない。


 しばらく思案し、崔遷は頷いた。

「なれば、もはや湶后陛下にお縋りするしかないでしょう」

「正妃さまに?」

 怪訝に言った瑜順は顎に手を当てる。「泉主のご寵愛を一心に受けておられるのは聞き及びますが。しかし一度お会いしてから音沙汰なく、もう一度上奏したとて聞き届けてもらえますか」

 初めて参殿した際、顔の見えない湶后は泉主はきっと会う、と言ったが、いまや信じられなくなってきている。

「湶后陛下はふだんはまつりごとに関わらず表にはおでになられない御方。しかしあのとき外殿にまで足をお運びくださったのはご興味を持たれたから。なれば正妃さまから泉主にお願いして下さるよう話を通したほうが早いかと」

 なにを悠長に、と額を押さえた。これが韃拓なら宮の奥まで乗り込んでいる。

「崔遷さまはたびたび泉主にお目通りしているのではないのですか」

 とんでもない、と手を挙げた。「毎回の朝議はございますが直接泉主にあなたさま方のことをお伝えするような機会もなく、そも勝手な発言は許されません。終われば泉主は内宮へお戻りになっておしまいになるのはどこの朝廷でも同じでございましょう?」

「なれど、あなたは気に入りでしょう」

 言えば首を振る。

「泉主はたしかにお気にかけなさる官には鷹揚で時たま歓談にお召しになりますが、そのような者は私ひとりではございません。それに、こちらから泉帝陛下を呼び出すなどという不敬はあってはならないことです」

 瑜順は唇を噛んだ。

「しかしこのままでは埒があきません」

 ですから、と崔遷は目元を和めた。

「角の立たぬよう湶后陛下から注進して頂こうという次第です」

「湶后さえ、捕まるかどうか」

「その点は心配ございません」

 自信のある言に瑜順は不審に見返す。彼は当初から穏やかに接するがそれが逆に厄介だ。葛斎以上に掴みどころなく、本心が見えない。

玉鈎たまかぎはまだお持ちで?」

書房しょさいにありますが」

詩歌うたたしなみなどは?」

「恥ずかしながらありません……正妃さまに?」

 崔遷は頷いた。

蛻雛ぜいすうの御方々は風流を好み、野暮ったいものをおいといになられます。幸い玉鈎をたまわりましたのでそれと共にお贈り申し上げましょう」

 なんとも、宮廷ならではのやり取りに溜息を吐く。

「崔遷さまにおまかせしても良いですか。残念ながら夷狄ばんぞくには理解できない領域です」

「おや、自分を卑下してはなりませんよ瑜順どの。湶后陛下がああして突然におたわむれになるのは珍しくありませんが、特定の誰かに何かをお譲りあそばすのは稀です。そのぶんお気に召されたということ。学んでみるのも一興では?」

 言えば、そんなことをしている暇はないとただ首を振った。無理もない、彼は戦場から来たのだから暢気に詩など学んではいられない。



 どうなることか、と崔遷は墨を磨る手を止め、格心まどの外、長閑のどか院子なかにわを眺める。

 まるでこの世になにも憂いなどないかのように卵色の昼光は降り注ぎ、若緑の木々に小鳥はさえずっている。馴れすぎてしまった自分には、もう外界は遠く記憶の彼方、炎と鉄錆てつさびのにおいなど忘れ果ててしまった。


 可愛らしい、と主は一泉の頂点に登った再従姪めいからの文を見て言った。彼にとってこの泉地せかいはおおよそ小さな水鉢の中、そこに住まう人々は狭い水中で飯事ままごとを営む小魚程度と認識しているのかもしれない。王はただその鉢を愛で、小魚たちが互いにいさかい、共食いするさまを困ったものよと遠く上から眺めている。彼からすれば全てのことは瑣末であり取るに足らない些事、だから何もかないし、焦りなどしない。ゆったりと帆舟で揺蕩たゆたうごとく、水の上で時おり戯れに餌をく。


 崔遷ほどの歳になればもはや急流を乗りこなす力さえなく、苛烈な波飛沫しぶきは逆に体を損なう。停滞したよどみで微睡まどろみ気まぐれに与えられるもので十分、だから主の緩慢さは心地良いが、餌をわねばならない魚にとっては辛いだろう。いつ与えられるのか今か今かと身を焦がし、心身をり減らしてしまう。


 過剰に手を差し伸べるべきではないとはいえ、不必要に主に対しての反感を抱かせるのはよろしくない。それになにより葛斎の頼みだ。彼女の成すことを、自分自身も見届けたいと思っているのだから出来る限りの力添えはするべきか、とひとり頷き、再び手を動かしはじめた。





 湶后からの召しがあったのはそれからほどなくだった。


「禁苑にお招きいただいた⁉」


 季娘は喜色を浮かべた。

「すごい!崔遷さまはやはり湶后陛下さえも無下に出来ないお相手なのですね」

「いやいや、違いますよ。ひとえに瑜順どのの徳です」

 娘はそれを聞いてははあ、と得心しニタリと笑む。

「兄さまのいつもの策ね」

「何もしていない。崔遷さま、この二人も連れて良いのですか」

 召文を折り畳みながら問えばもちろんです、と笑う。

「では、そうしよう。……若藻?どうした?」

 なぜか今日はいつもよりおとなしいしもべを見れば、少女は子犬のように頭を振った。内心、あの日禁苑に忍び込んだことがばれたらどうしようと気が気でない。

「あの…わたしはここでお待ち申し上げます」

「いいえ、あなたはご一緒したほうがよろしいでしょう」

 被せて崔遷が言った。

「そのほうが湶后陛下は喜びます」

「そうでしょうか……」

「若藻、せっかくのお招きだ。それに、この機を逃したくない」

 瑜順にまで言われ、渋々了承する。季娘は嬉々として手を打ち合わせる。

「きっと珍しい草花がたくさんあるね。観察くらいはさせてもらえるかな。もしかしたら焉酸えんさんも生えているかも!」

「たとえあっても勝手に摘むんじゃないよ」

 わかってる、と言いつつうきうきしている。ともかくも、やっと九泉主に最も近しい人物に会うことができる。待ちぼうけを食らった身としては絶対にこれを泉主本人へ拝謁する足掛かりにしたい。


 約束の期日に四人は後宮へと続く道に立った。九泉宮では本来ならば閉ざされた空間であるべき内廷が、柵をつくって区切られてはいたものの、どこからでも簡単に入れるだろうと思われるつくりになっていた。出入口だけが巨大で、その楼門の前に立つ。

 人が三人ほども必要な獣面の鋪首ほしゅと鋼鉄のかんが朱色の両開き門に取り付けられており、それが引かれて扉がゆっくりと開くのを見ながら崔遷が道の先に控えた下官らを示す。

「九泉では宦官も少のうございますよ」

 理由は言わずもがな、九泉の王統は他者と子をせないからだ。しかしだからと言って、無防備すぎはしないか。ともすれば淫蕩いんとうよこしまな官吏の増加を助長する腐敗の温床になりはしないのか。

「蛻雛の方々が正当な配偶の他に自由に愛妾あいしょうをお持ちになることは特に咎められてはいないのです。寵愛する者に重責と強い権力を与えることは禁忌ですが、めかけ男妾おとこめかけを囲うことは周知の事実です」

「しかし、要らぬ軋轢あつれきが生じませんか。それに開放的すぎる」

「もちろん無断で入ることは重罪ですが、侵入が容易いぶん、虎賁こほん羽林うりんの数が多いですし、そもそも外敵も滅多に侵入しない国。それに、泉主ご自身が気にしておりませんから」

「たとえ現在の九泉主がそうでも」

「いいえ、代々です」

 崔遷を見返す。「代々?代々全ての泉主が許していると?」

「時代を通じて後宮内での争いごとは少なくありませんが、それでも王が後宮の境界に壁を築こうなどという草案や勅令をお出しになった例は過去聞いたことがございませんね。記録にある限り、今までのすべての泉主と王統は当人どうしで血を繋ぐ傍ら、そうした後宮内の愛憎劇を率先して彩ってきました。腐敗させた王ももちろんおります」

「やはり不思議な国です。九泉というのは」

 外殿に王太后府を構えている一泉もかなり変だと思っていたが、九泉の比ではない。


 通された門前で取り次ぎを待っていれば衛兵が現れ、奇妙な輿を持ってきた。

 いつぞや見た、人と鳥の半身を持つ国境守備軍の騎獣だ。逞しい腕は人そのもの、台座を担いでこちらを見据えている。

「後宮は広うございますれば、こちらにお乗りください」

「私は出来ればそちらのに。人に運ばれているのは落ち着きません」

 瑜順の申し出を兵たちは聞き届けてくれ、輿には他三人が乗る。

朱痺しゅひがここにもいるとは」

 手綱は人の首に掛けられていた。羽毛の背に鞍を置いた、獣とも呼んでいいのか分からない妖に跨る。輿を断ったがこちらに乗っても同じことかもしれないと少し苦笑した。

「朱痺は胡乱な気配にさとく、鼻も利くので警邏には重宝しているのです。さすがに宮内での飛行は混乱が生じるので禁じられておりますが」

 衛兵の一人が瑜順の乗った朱痺の手綱をきながら朗らかに言った。他の九泉人と同様に人当たりの良い者たちに導かれ、一行は奥へと進んだ。



 九泉の禁苑である上霖しょうりん苑は宮内をはじめ泉畿のあちらこちらに分苑されているらしかった。そのうち後宮には三箇所、ひとつは外殿近くで二つは東の御苑だ。最も奥の園の入口で衛兵たちは輿を降ろした。引き継いだ宦官と女官たちが頭を下げる。


 御苑は色で溢れかえっていた。九泉では季節を問わず様々な草花が芽吹いている。梅、桃、蘭に水仙。大輪の花王ぼたん花相しゃくやくが左右にむらがる道の先、涼亭あずまやに人が集っている。中心の異様な人物が小首を傾げた。


 いつかに瑜順が会った湶后は今日も頭と顔を覆っていた。白い面紗ふくめん幅巾ずきんの女は瞳もその影に隠してわずかな隙間から客をみとめた。


「いらっしゃい」


 細い声はなよやかだったが弱々しいという感じはせず、どこか無邪気さを漂わせる。四人は一度額づいて許され、設けられた茶席に座した。

「太史令。すてきな贈り物だった。お前を宮廷詩人に迎えようという話もあったわよ」

「勿体ないお言葉です」

 ふふ、と白衣の貴婦人は笑い、瑜順に向き直る。

「名乗り遅れたわ。陛下のお嫁さんで酔といいます。玉鈎を大事に持っていてくれたのね」

 話し掛けられもう一度頭を下げる。「湶后陛下におかれましては、ご機嫌麗しく。頂いたものは保管しておりました。角楊瑜順と申します。この者たちは僕です」

 まあ、と酔妃は額飾りをしゃらりと揺らし手を合わせた。白い指の爪はどれも黒く、両の外側二本には今日も指甲套つけづめをしていた。

「堅いのはなしよ。それにしても綺麗なお顔ね。さっきから女官たちが浮き足立って仕方がないわ。客殿には不足なく下仕えがいるかしら」

「もったいのうございます。今のままで十分です」

「あらあ、夜の話よ」

 くすくすと笑ったのになんと返せば正答なのか分からなかったが、媚びて笑う気にもなれず憮然とする。するとはたりと声は止み、優雅な動きで下官に指図する。

千金おじょうさんのいるところで口にすることではなかったわ。はしたなくてごめんなさい」

 ふわりと甘い香りのする水色すいしょくの薄い茶を勧める。中には花の蕾が浮いていた。

玫瑰まいかい茶よ」

 若藻が心配そうに瑜順を見上げたが、目線で頷きほんの少しだけ口をつけた。

「おいしい!です!」

 季娘が驚いたのにまた、ふふ、と笑む。湶后は彼女の出で立ちに興味を持ったようだ。

「髪と首を飾っているのは、御銭おかね?」

「ああ、そうです。これは一族の姿なりで」

 春秋に遷住いどうする角族、特に女は財産である貨銭や貴石を身に帯びることが多い。保管する上で利便が良いのと厭勝まよけの意味もあった。

「素敵ね。貴女の評判は医官からよく聞いている。医術にたいそうお詳しいとか」

「いえ、そんな……」

 慌てて手を振ったが、酔妃はあれやこれやと季娘の生業について訊きはじめた。いつ本題に入るか瑜順はちらちらと崔遷を窺ったが、一向に切り出す雰囲気にはならない。

「あの」

 声を上げたのは若藻だった。后妃は言葉を切って不思議そうに顔を向ける。

「この国では珍しい動物や植物を盗賊に奪われない為に保護していると聞きました。それがこのお庭にあるのですか」

 はっきりと目的をぶつけたのに瑜順も季娘も目をみはる。酔妃は動じず、顎に指を当てて宙を見た。

「なにが珍しいのかあたくしには分からないけれど、陛下はそうしておられるわ」

「わたくしたちは、そのお智恵をお借りしたくて参っています」

「やめなさい」

「この三月のあいだ、泉主はどうされておられたのですか」

「若藻、失礼だ。謝りなさい」

 重ねて瑜順が言ったが、相手はまたも全く平然として頬杖をつく。

「陛下とあたくしたちでは、たぶん時の流れが違うんだわ。あの方はいつもいっぱいいっぱいで、だから反対にのんびりするおいとまが必要なの」

「けれど、わたくしたちがお正月に来ていたことは知っていたのでしょう。まるで我慢の限界を試すような」

 瑜順は彼女の前に手を差し出した。それ以上を禁ずる無言の冷たい視線が降って思わず険しくなる。自分は彼の為に言っているのに。

「可愛らしいわ」

 酔妃は一度息をつき、青年と少女を見比べた。

「陛下のご準備が出来るまで引き延ばそうかと思っていたのだけれど、はぐらかせないようね。いいわ」

 そうして下官たちに指示する。

「お二人をご案内して。ああ、太史令と薬師の貴女はあたくしに付き合ってちょうだい。暇で死んでしまいそうなの。もっとお話を聞かせて?」

 いいのか、というふうに季娘が見てきて、瑜順は頷いた。

「構わない。失礼を言っているのはこちらだ」

 そうして后妃の前にひざまずいた。

「無礼千万の口の利き方、どうぞお許しを。しかしながら僕の申すこともまた主である私の胸間の一部です。ことに我が一族の同盟国内は戦乱のさなか、こうして険しい道を越えて辿り着いたこの地には我らの希望がございます。今すぐにでも福音を携えて帰りたい我儘を抑えてお待ち申し上げておりました。泉主との謁見の機会を設けてくださった湶后陛下には、過分なご厚情に感謝を」

 言葉は途切れた。白い女は瑜順の口に指を押し当てて首を振る。

「長くて慇懃いんぎんなお世辞は嫌よ。他国の悲しくて辛くて凍えそうなお話も、聞くだけで泣いてしまうの。あたくしは九泉に仕えるただの弱い女。それに、お礼はいらないわ。言ったでしょう、ぼうや?」

 そのまま、またくすりと笑った。

「貴方は勝った、と」



 禁苑を出て北へ北へと向かった先、ひときわ大きな宮が現れて、ここか、と二人で顔を見交わした。といってもここも広大な敷地のなかの泉主の居宮のひとつだろう。案内されるままに中へと入ると薄暗い。左右の大小四柱には楹聯えいれん、書かれた崩し文字が見て取れるほどには明るい。しかし光源は宮の奥にあった。前面は珠簾たますだれが開けられてはいたが人はいまだ見えず、中央が一番高さのある豪奢な銀屏ぎんぺいを背にした壇上と数段の階は複雑に照りえる色石、いや、貝の光沢。よくよく見れば玉座も同色の貝殻を真半分に割って置いたようでふちまるくせり出し、広々として寝そべることができるほどだった。


 座の背後にはなんと壁が無かった。朧な光はそこから殿内を照らす。皓陽こうように葉を透かすひさぎの木々が張り出し、龍舌蘭りゅうぜつらんがその下を埋めていた。殿内部の側面には白い玉砂利を敷き詰め、瑜順と若藻が座り込む両側にも、墨流ぼくりゅう模様を描く深い緑の龍神木りゅうじんぼくが彫り物のようにそびえていた。


 暖かな色味の無い空間、しんとしてどこかひんやりと涼しく声を出すのもはばかられる。二人は無言で待った。妙な緊張があたりを包んでおり、瑜順はそれを己の予感と受け取った。待ち侘びた貴人が、今回ばかりは現れそうな気がした。


 突然、しゃらと繊細な音が立って珠簾が降りる。細雨の輝きの向こうで微かに動きがあり、二人は居住まいを正して平伏した。

 足台を踏むわずかな軋み、短く息を吐いて腰を降ろす、広袖を整える衣擦れを聞きながら、ただ発言を待った。

 静かだが、それでも控えの下官はいるのだろう、かさりと紙の音がした。



「ああ――――梓氏ししの」



 びくりと若藻は震えた。壇上の人影が何事かをひそりと下官と言い交わし、そうして再び口を開く。

「――――霧界そと匪賊おいはぎに狙われたとか」

 前置きなく、そう投げられた。

「……はい。泉帝陛下」

 瑜順は頭を上げた。背筋を伸ばして上向く。

「しかしながら、貴国の守備軍に命を救われました」

「……匪賊ではなく、刺客だったのでは?」

「私もそうだろうと愚察します」

わかっていてくびすめぐらさずに来たとは感心する。蚤夭わかじにすれば無駄骨だというのに。角一族は泉地を兼併けんぺいせんとするによほどしっしているとみえる」

 どこまでも静かな声だった。瑜順は感情のない相手の態度よりも話し方に寸暇息を詰めた。

「……我々はただ、かつて結んだ同盟をこれからも存続させたいと思っているだけでございます」

「その為におびやかし、ころし、ほろぼすか。摂理ことわり拗曲よじま安寧おだやぎ攪擾かきまわ挙措ふるまいはいただけぬ」

「……驚きました。九泉主がそのように我らのことをおもんぱかり、まして真に迫っておもって下さっていたとは、考えが足りなかったようです。一泉と我らの諍いを憂えて下さっているのなら尚更、戡定かんていの為にどうか我らに力添えをお貸し下さいませ。九泉主なくして事は収まりません」

孰計じゅくけいはかる技に長ずるようだが、此度ばかりはそうもいかないようだ……名は、なんといったか」

「ご挨拶たてまつります。角楊瑜順と申し上げます」

むすめは?」

 注意を向けられて本人は縮こまる。

「この者は私の僕です。お気になさらず」

 九泉主はしばし無言だったが、すいと挙がった腕の影が見えた。しずしずと下官らが現れて珠簾を左右に分けていく。


 ゆったりともたれた人影は広い玉座の上で脚を組んでいた。雲灰の面紗に白と夜緑色の長衣、まるで殿内の色に紛れようとでもするかのように。しかし、顔に垂れかかるものが同化することを許さなかった。結われずに胸元まで落ちた癖のない長髪は泉の色を映しとった紫水晶。照り返しで青金に透け、淡い色調のなかでそこだけが際立ち目を奪われるばかりだ。髪に隠れ、ちかり、と目許にもなにかの装飾が光り、眩しさも相まって瑜順と若藻は視線を下げて恭順した。


寡人かじんが、中天泉帝九泉国王九泉主ちゅうてんせんていくせんこくおうくせんしゅだ。……さて、なれの欲するはちんの毒消しであったか」


「左様です」

耳鼠じそと焉酸なるものはたしかに上霖苑においてあつめている」

「まことでございますか」

「とはいえどちらも稀少な獣に草花。鴆鳥毒がどれほど一泉に拡散したかは知らぬが、根こそぎ分け与えるわけにもゆかぬ」

「もちろん、失わせることは本望ではございません」

 九泉主はわずかに体を傾がせた。

「それに、寡人に無償でそれを寄越せと申すか」

 否、と瑜順はさらに頭を下げた。

「一泉国、王泉太后陛下崔梓様より内々に、貴国との親睦を深めたいとのお申し入れがございます。つきましては今回の件が無事に完了しましたあかつきには、取り急ぎ感謝のしるしをお贈りさせて頂く手筈でございます」

「不要。他泉地げかいの粗悪な瑕瑾きずの玉をみつがれてなにか嬉々するところがあろうか。ことに一泉は寒いばかりでなんの情趣おもむきも感ぜずくものがない」

「一泉には広大な麦飯石脈がございます」

 ふ、と笑った気配がした。

「九泉の水は濁らぬ」

 自信のある言に瑜順は黙した。返事のないのに泉主は息を吐き、ぼんやりとあらぬほうに目をる。

「……梓氏や汝を困惑させたいとのぞむわけではない。むしろつまず踟蹰たちもとおっているのなら手を差し伸べるは悋惜やぶさかではない。しかし」

 無感動な調子で続けた。

「他国へたすけを乞うほど窮しておるというのに、使者をただ遣わしたのみで寡人を説き伏せる為の策をなにも講じて来なかったのは正直、興醒めする。よほど焦っていたのか、はてしかし、あれはそれほど無粋な者だったろうか」

 最後は自問するように顎に指を当てる。爪はすべて黒く、瑜順は仕草に既視感をおぼえて無意識に気まずさが胸中に広がった。

「寡人の言葉の意図するところが及ぶか、北狄ほくてきの」

「……お願いがございます」

 ん、と泉主はさらにかしぐ。

「お人払いを」


 願いは聞き届けられた。手を振り、受けて下官たちが明かりを灯し出て行く。銀屏の背後は隔扇おりどだったのか、ゆっくりと左右から光が狭まり室内は密閉され、壇上を彩っていた緑は失せた。

 闇が濃くなったぶん、それぞれの姿もさらに曖昧になる。他人の気配は完全に消え、残されたのは三人のみで、泉主はひとり頷いた。

「どうか?」

 促され、瑜順は再び額を冷たい床に押し当てたのち、目を逸らさず王を見据えた。


「――私は、楓氏ふうしでございます」


 宣言に室内の全てが止まる。壇上の主は石になってしまったかのようにしばらく動かなかった。ただ壇下を凝視し、品定めの視線を外さない。


「…………それは、驚いたな」


 一気に語調が砕けた。「本当に?」

「……水も、肉も必要ではありません。私も、そう教えられて育っただけで真に証明せよと言われれば困りますが」

「梓氏と胡仙こせんがそう言った?」

「胡仙は、養母です。私を拾いました」

 そう、と泉主は腕を組んだ。先ほどとは違い、妙に生気を取り戻して人くさい仕草だった。

「神域で拾われたということか?」

「はい」

「……あの二人は汝がここまで育つまで寡人に隠匿していたか……そうか」

 何事かを納得したような、面白いものを見つけたような笑いで肩を揺らした。

「なるほど。悪くはない茶番だ」

 だが、と組足をいた。「汝が楓氏だというだけでは役不足。それにもうひとつ欲しいものがあるのだろう?一を差し出して三を得るには対価が足りない」

 瑜順はただ見つめて問う。

「何をご所望で?」

「そうさな。……ところでそこなむすめ、名は?」

 いきなり振られたほうは慌ててひれ伏す。瑜順も怪訝に見比べた。

こうべを上げよ。顔をよく見せて」

「わ、わたくしは……」

「自身を表す名があるか?」

 こくこくと無言で頷き、干上がった喉で掠れ声を上げた。

「若藻、と申し上げます」

「ほう。僕にしては雅な名だ」

「我が主から賜りました」

 泉主は目を細めた。「意外にや風流人だな。みずかかわる名はたっといゆえ、泉民は泉賤どれいには付けたがらない」

「……若藻が、どうかなさいましたか」

「その見目について汝はなにも思わなかったのか?若藻は少なくとも泉民ではない」

西戎せいじゅうから売られたと聞き及びますが」

「概して泉民も泉外人も話語は同じだ。しかし珍しき姿の者たちは、はじめは言葉が通じない、とすれば泉外人ではない。血がじっているのならその限りではないが。若藻、汝は純血か?」

「じゅんけつ……」

「泉外人の親から生まれたか、そうでないのか」

「わ、分かりません。物心ついたときには、すでに一泉に」

「そうか。まあ、そんなものはこの際どうでも良いこと」

 九泉主はひどく満悦そうだった。身を乗り出し、組んだ手の甲に顎を乗せた。

「泉主。不束ふつつかながら、お話が見えません」

 瑜順が眉をひそめ言えば、黒い爪で指される。

「汝は太史令から寡人のことを聞き及んだろう。寡人は――は、珍しいもの、貴重で見たこともないものを探してもとめるのが一等たのしく、それを命尽きるまで渇望せずにはいられないさがなのだ」


 青年の顔色が変わった。それをさも可笑しげに見て、状況の飲み込めていない少女に手を伸べた。


「汝が欲しい」




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