求章 於 九泉国〈二〉



 ほどなく目を覚ました季娘の体調を鑑みそれから二日間とどまった後、朱痺隊と共に最後の山脈を越えた。


 九泉国は一泉国とは違い、国全体に壁を巡らせてはいないが、周囲は全て険しい山々で隔てられており関門以外から密入国者が越えられるような場所もなさそうな秘境の地である。その門のひとつ、東の大関門へ至る糸のように細い峡谷を瑜順は豺に跨って進む。前にはまだ体の辛そうな季娘を抱えていた。若藻は九泉の兵と共に慣れない獣に同乗している。


 谷の間に構えた白銀の牌楼はいろうくぐり、遂に巨大な四層の門楼を載せた同色の大扉の前で一行は足を止めた。

 掖門えきもんのない両開きの、縦に長い矩形くけいの門扉は内向きに重々しい音を立てて開いていく。瑜順は豺を下り、季娘を背負う。豺を泉地には入れられない。抱擁のつもりか、獣は一度こちらに鱗尾を巻きつけると音もなく崖を登って消えた。


「以後は中の案内に従うといい」

 外を鎮護する朱痺隊もここまでだ。隊長が言って騎上で軽く拱手きょうしゅし、瑜順も返した。

「駆けつけて頂き、命拾いしました」

 なんの、と相手はにこりともせず背を向けたが、

「我らの役目は外敵の排除。しかし貴殿が賊でなく助かったのはこちらのほうだ。縁があれば今度は手合わせを願う」

 裏腹の鷹揚さに少し戸惑いつつ、是非にと答え、それで彼らとは別れた。



 九泉の門前は静かだった。市廛みせや露店があるわけでもなく、丈の低い草原が左右いっぱいに広がり、舗装されていない道が続いている。遠くに郷里の城壁が見えた。

 驚くべきは気温だった。門扉の開いた瞬間からふんわりと暖かな風と花の匂いが漂い、寒さで固まった頬や口が心地良く弛緩していく。

「あったかい……」

「信じられない」

 三人は呆然とあたりを見回す。内にも門卒は左右に立っているけれども、こちらに何を言うでもない。進んでいいのか振る舞いに困って顔を見合わせていれば、丘の下から呼び声がした。


「申し訳ございません!」


 駆けてきた勢いそのままに頭を下げた文官姿の男は汗を散らしてもう一度深々と額づいた。

「ご入国のお知らせは聞き及んでいたのですが、なにぶん新年を迎えたばかりで皆浮き足立っておりまして、采配が滞っていたようでお迎えが遅れまことに申し訳ございません」

「いえ、このような時に押しかけてしまい、失礼をしているのはこちらです。……あなたは、ええと」

 男は頭を上げる。走ってきたものの冠に収めたまげはひきつめて乱れもない。顔は老け込んでいたが頑健そうだった。

せつめは太史令たいしれいの遣いでお迎えに上がりました」

 指示通り、葛斎の類戚の迎えだ。瑜順は頷いた。

「このような様で申し訳ございません。角楊瑜順と申します。この者たちは私の侍従です」

「下女さまはお具合が優れないようですね。下に輿こしを待たせてあります。どうぞ」

 ちらほらと花の咲く道を下れば幾人かの馬と従者が待っていた。

「まずは我が主の別邸にて骨を休めて頂ければと。舟を使います。それまでこちらにお乗り下さい」

 立派なあつらえの台に季娘を横たえ、若藻を抱え上げようとしたが彼女は首を振る。

「わたしは歩きます」

「どのくらいかかるか分からないよ」

「それほどかかりませんが、宜しければ馬にお乗りください」

 迎えの男が気を利かせ、従者のひとりが下りた。有難くそれに若藻を乗せ、手綱を取る。

「瑜順さま、逆では」

 いい、と頓着せず周囲を見る。「歩きたいんだ」

 彼の気持ちがよく分かる。風は心地良く肌を撫で、聞いたこともないような鳥の声がどこからかさえずり、朝も遅くなった午前の陽光がふわふわと一面を照らす。思わず散策でもしたくなるような天気だった。すう、と深く息を吸えば旅のあいだ体に溜まっていた冷たさと毒気が抜けていく気がした。今までずっと北の大地に生きてきた瑜順はなおさら物珍しいばかりなのだろう、景色に見とれつつ、すでに暑くなったのか褞袍わたいれを一枚脱いだ。


「一泉の夏より暖かい気がしてきた。本当にいまは正月だろうか」

「間違いなく正月二日でございます。我が国は一年を通してこのくらいの気候ですゆえ」

 迎えの男は微笑みながら一行を先導する。

「こんな時季に花が咲いているのも初めて見ました」

 若藻が言えばさらに笑む。「紅葉や降雪はありますがここでは四季というものがないのです。麦はもとより米も一年のうちに二回穫れます」

「こんなに暖かいのに雪が降るのですか」

「綿毛のように冷たくも熱くもないものが舞います。霧界や他国の雪とは違うかもしれません」


 まるで夢の中だ、と瑜順は微かに薄ら寒さを感じた。事前に聞いていた話や朱痺隊の雰囲気とはまるで異なる、うそぶきのような国だ。それに、この感じは――――。




 やがて幅の広い川の波止場に到着したが、そこでも信じられない光景に驚きを隠せない。少し土地の低くなったところを流れる泉川の両岸には流れが地平に見えなくなるまでずっと満開の紫雲木しうんぼくが続いていた。枝を張り伸ばしてどれも巨幹、舟に乗れば泬寥けつりょうの青空が見えないほどに左右の枝が絡み合う。まさに雲のようにけぶる花房の隧道すいどうだ。そして水面は頭上を映してか同じ色。


「瑜順さま、違いますわ」

 若藻が舟縁から身を乗り出して水を掬ってみせた。「川の色自体も薄い青紫のようです。それに、水に香りがついてます」

 形容しがたいが、どこか懐かしさを感じる匂い。花のように甘く、森のように清々しく、日向のように柔らかい。頭の芯が痺れて眠気を誘う安心感をもよおす匂い。舟の動きで水面に寄る皺は銀の光を帯び、近くで見つめると透過で水底の草原と泳ぐ小魚が見えた。

華胥国ゆめのくにみたい……」

 若藻が乏しい表情のなかにうっとりとした色を浮かべれば、遣いの男は頷いた。

「初めてこの国においでになる方は皆そう言います。草花は季節を無視して咲き続けますから、我ら九泉の民は逆に枯れ草だらけの時というものがなかなか想像つかないのです」

「あなたは、他の国に行ったことは?」

「恥ずかしながらございません。伝聞で知るのみです。しかし九泉ほど豊かで安全な国はないと自負しております。戸外で寝ていても凍え死ぬことなど有り得ませんし、飢饉旱魃ききんかんばつなども史書のうちには記録さえないのです。ここはまさにいずこかにあるという常世国とこよのくに蓬莱宮ほうらいのみやです」



 日暮れまで舟を滑らせ遡上し、瑜順たちは水門を越えて入郷した。これを、と手渡された棨伝てがたには国府の証印がある。

「これがあれば国中のどの門でもお通りになれますし、検閲は受けません。泉畿みやこの関も」

「有難いが、このように貴重なものを……」

 国賓級の扱いに戸惑えば彼はいたずらめいた。

「そうお下知がありましたゆえ」

 若藻でさえまさかと見返した。

「……よもや九泉主が私どものことをお知りになったわけでは、ございませんよね?」

 さあ、どうでしょう、と男はやしきに招きながら袖で口許を覆った。

「ともかくも拙のお役目はここまででございます。湯をお使いになり、まずは疲れを癒してください」


 門には葦索しめなわ、竹棹に五色の吹き流しが揺れ、辟邪へきじゃ楊柳やなぎ桃苻ももふだは飾ったまま、扇門とびらには立派な虎と二神の。おそらく使用人たちは今日まで假日やすみだったはずだろうに、皆気のいい者ばかりで嫌な顔ひとつせず客人を迎えた。湯殿で瑜順の汚れた服を脱がし腹の火傷痕を見て、まあ、と絶句したがそれよりも美貌美筋にかまびすしく騒ぎ立ち、清めて髪を結ってもらうまでに大層な時間がかかってしまった。湯冷めしそうだと内心げんなりしていれば結局、若い侍女はあらかた引き剥がされどんな客でも動じないとうの立った手練れの女たちにてきぱきと揃えられた。たまらず苦笑しながらやっとのことで花庁きゃくまに足を運べば、呆然として座る若藻がまばたきもせず硬直していた。

「どうした?」

 ぎしりと鳴るのではという動きで首を巡らせる。

「わたしは…瑜順さまの下女なのですが……」

 高価な衣装を着せられているのをみとめて、ああ、と首を傾げた。

「九泉では家僕でも絹を着るのだろう」

「まさか。城にお仕えする官女ではないのですよ?」

 見てください、と立ち上がった顔は嬉しさの欠片もなく困惑していた。

「軽すぎて居心地が悪うございます。やはりもう一度着替えを」

「なぜ?似合ってる」

 こともなげに言った主にはくはくと唇を動かしたが、しおれて椅子に沈んだ。

「……瑜順さまも……お似合いです……」

「本当にどうした?」

「あなたさまはもう少し自覚を持ってください」

 取り合わず庭院を眺める澄ました顔にさらに言い募ろうとしたところで、扉が開いた。


「お待たせ致しました。貴方が角族の?」

 邸の主人が現れて二人は礼拝あいさつする。それをとどめ、少し腰の曲がった細い体躯で鳩杖に縋りながら座った。

「遠路はるばるようこそお越しくださいました。一泉太后から話は聞いておりますよ。私は九泉国奉常府ほうじょうふで太史令を勤めております、崔遷さいせんと申します。――令媛おじょうさん。宜しければお菓子をどうぞ」

 花の形の正月菓子を勧め、崔遷は、それで、と瑜順の持ってきた文を手に取った

耳鼠じそと、焉酸えんさんですか……これはまた」

 言わんとするところが分からず瑜順は老人を見据える。

「もしかすると、やはり九泉にもこれらの妙薬はないのでしょうか」

 崔遷は長いひげを扱き、ゆるりと首を振った。

「この国は太古からあまり外界とは交わらずに来た国。発展も遅いが他国では幻とされる草花禽鳥は数多あまた存在します。それこそ神域と同じほどに」

「では、あるのですね」

 ともかくも二人で顔を見交わしたが、相手はさらに宙を睨んだ。

「あることには、あるでしょうが……そこらへんに棲み、生えている類のものではございませんな」

「探すのに膨大な時がかかるということでしょうか」

「瑜順どの。この国はこういった特殊で閉塞した環境ゆえに、常に諸泉国の好奇の的になり、噂話なども背ひれ尾ひれがついて、それを真に受け迫った理由なく入国を試みようとするやからが後を絶ちません。朱痺隊に助けられましたでしょう?大概はあの者たちが不届き者をとっちめますが、それでも中には門外から侵入に成功する者がいる。そうして薬草を踏み荒らし、数少ない珍獣をかすめ取る密猟者や盗賊から我が九泉の大事な資源を守る為に、現泉帝陛下は稀少な種苗や野禽を保護し富殖させる施策を講じております」

 つまり、と紙を折り畳んだ。「そこいらの野原に万能薬が咲いているわけではないのです」

「では……」

「ええ。泉畿に赴くしかないでしょう。泉主にお目通りし、耳鼠と焉酸を分けてもらうしか手に入れられる方法を思いつきませぬ」

 若藻が大きな目をさらに見開いて瑜順を見上げた。妙薬は存在した、だが王に会わねば手に入らないという。

「失礼ながら、九泉主に謁見したとて、薬が確実に手に入る保証はありましょうか」

 瑜順が問えばふむ、と崔遷は杖を握り直す。

「現一泉国の太后陛下の書付けを持参しているからして、門前払いなど無下な扱いはされないと思われますが、これを他国への援助と捉えられれば話は変わってしまいますな。九泉はどの国とも国交を開きはしませんから、朝廷は黙っていないでしょう」

 瑜順は考え込む。実質求めているのは一泉を救う手立てとなる鴆鳥毒ちんちょうどくの解毒薬だ。

「困りました。そのような事情があるとは露知らず、山林や平原などに自生し棲息しているものなのだとばかり」

「まあ、とはいえすでに泉主は貴方様がたのご来訪はご存知です」

 やはりそうなのか、と朱痺隊が迎えに来たことや貰った棨伝を思い返す。老爺は微笑んだ。

「告げ口したのはこの私です」

「なんと」

「ああ、お気を悪くしないで下さりませ。これはあの方がきっと気に入る話だろうと思ってお耳に入れたのです」

「気に入る?」

「九泉がなぜ他国と関わりたがらないのか、聞いたことは?」


 目を向けられて若藻が小首を傾げた。「他所者よそもの嫌いと聞きました」

 崔遷は頷いた。「間違いではありません。実際に九泉は物見遊山で訪れた旅人を易々と受け入れはしません。しかしそれ以上に我々が危惧するのは外から持ち込まれる病なのです。九泉人は角族と同じく毒や疫病に非常に弱く、同国民どうしでなければ子が出来にくい。人口が三十万しかいないのもその為です。天寿を全うするなら百ほどまで生きますが子一人孫一人持てたら重畳というくらいです」

「九泉の故事……逆さがね、ですか」

「瑜順さま、それはなんですか」

「若藻、なぜ人は同じはらから生まれた兄弟姉妹と婚姻しないと思う?」

 ぱちくりとした。なぜと言われても、自然ときょうだい間でのそれは生理的嫌悪をもよおすし、そう教えられて来たから、としか答えられない。

「そう。我々はごく普通に忌避すべきものとして認識する。そのようにできているから。しかし、九泉人は同国民……何をもって同国民とするのかはともかく、ここで生まれ育った者どうし以外では子が出来にくい。であれば、確実に子をのこすには、明らかに九泉人だと知っている者なら生まれるはずだね」

 若藻は眉根を寄せた。

「自分の妹をめとったり、兄に嫁いだりしたというのですか?」

「かつては、そういうことがほとんどだったのです」

 崔遷が言を継ぐ。「しかしほころびが。時代を経るごとに子孫の身体は脆弱になり殀死わかじにが増え、大したことのない病でぱたぱたと死ぬようになったのです。血が濃すぎれば腐り、己らの毒となると気づいた時には、すでにこのようなありさまになっていたそうです。それでやむなく国を開いたと聞き及びます。まあ、それでも今でも同家どうしの婚姻はよく見られます」

「法で禁じたりなどは?」

「そんなことをすれば、もし子が生まれなくなればどうでしょう。人がいなくなれば九泉は滅びてしまいますから。故郷が荒れすたれるのは誰も望みません」

「逆さ鐘というのは……」

「令媛さんは家譜や族譜というのをご存知かな?の枝葉のように一族に代々生まれた者たちを書き加える表ですが」

「はい」

「それがすえに降りるごとに先細りしていくことを揶揄やゆしたものです。まるで釣鐘を逆さにしたような形になる。つまり子孫が次代の子をさないままいなくなっていったということです」

 なるほど、と若藻が呟き、瑜順が、とはいえ、と静かに問う。


「王統は別ですね?」


 老爺は微笑んだ。

「よくお調べで。九泉の王族は今も昔も変わらずでしか継嗣けいしを残せない」

 聞いた若藻は不快に口を押さえた。

「なんということですか。それでよく血脈が途絶えなかったものです。血が濁りはしませんか?」

「不可思議なことに、九泉の王統は血が近ければ近いだけ御子が参られやすいのです。特に泉根の方々は。泉根とは広義には王統全体を指すものではございますが、正確には現泉主の血を直に分けられた御子たちすべて、最も新しい世代のことです」

「まるで神話の神々のようですね。我々泉外人の古い神話にも始祖の神は兄妹で子を生したという話があります」

「聖なる血を受け継ぐ方々でありますから、あながちそのような神祖のことわりなのやもしれませぬ。しかしもっと不可解なことには、九泉の王統は誰も彼もが同じ髪色と眼色であるのに、お互い誰とも似ていないのです」

「…………?」

「まるで胎だけ借りて別の者が皮殻からを被って生まれたかのよう。それで九泉民は王族のことを蛻雛ぜいすうと呼んだりします」

「それで、角族も毒に弱き者たちということで、泉主がお気に召されると?」

「あの誇り高い一泉を攻略しようとしている泉外人、それも耳鼠と焉酸などという珍しい薬を突き止め九泉を名指ししてここまで来た。しかも太后の後ろ盾があるとなっては、大いになりゆきに気がそそられるだろうと。泉主はそういう御方です」

「九泉主は、太后さまとはお知り合いで?」

「少なからず誼はございます。私は太后の再従叔父はとこおじ、お二人の橋渡しのようなものですから」

 崔遷は楽しげに笑う。瑜順はさらに尋ねた。

「私どものことを泉主から委ねられたということは、太史令ご自身も泉主とお近くいらっしゃるのですね?あなたはもともと九泉人ではないようにお見受けしますが」

 左様です、と茶を啜った。「崔家はもともと一泉の学者を輩出する文官の家系、しかも王統譜に常連の大名家です。太后も幼い頃から妃嬪ひひんになるよう教育された。私は分家の小倅こせがれで、天文を得意としておりまして、各国を巡るうちに九泉とのえにしが繋がりこちらに移住しておるのです」

 太史令の職掌は星読み、暦の制定に祭祀と歴史の編纂などがある。葛斎もおそらくこの男から色々なことを聞いたのだろうと思った。



 それで夜半、一人でもう一度花庁を訪れる。呼び出された崔遷は少し眠たげだったがやはり微笑んだ。

「お連れの具合はどうですかな」

「もうほとんど良いです。ありがとうございます」

「それはようございました」

 座って笑みを消さないまま灯火をしぼった。瑜順は目を合わせる。

「――あなたは、どこまで知っているのですか」

 前置きなく問えば、崔遷は驚くことなく静かに杖頭を撫ぜた。

「なんとなくは聞いております。瑜順どの、貴方様がここに訪泉したもうひとつの目的は、やはり椒図しょうず、ということですね?」

 青年の感情は読み取れない。

「太后に頼まれて?」

「……はい」

「やはり必要だと言われましたか」

「ええ」

 崔遷は頷く。「丁度よかった。であればどのみち泉主にお目通りは願わなくてはならなかったということです」

「……しかし、お貸し頂けるかどうかは」

「それは私にも分かりませんが」

 複雑な陰影をつくって瑜順は少し俯いた。

「あなたは、私のことも?」

「もちろんです。神世の大戦からこの地へと落ち延びた蚩尤シユウの末裔。ゆめゆめおろそかにするなと釘を刺されておりますゆえ、ご安心ください。しかし使用人の手前、食事はもてなさせて頂きますよ」

「……あなたは、信じているのですか」

「太后は悪い冗談を言うような方ではございません」

「なぜそれほどまで?」

 問えば微笑する。

「あの子は聡いのです。幼い頃から難しい書をそらんじ、自分を磨き、親の期待にも難なくこたえた。霧界を見聞し泉外人とも交流を持った。結果あの子に下った天運も天命もとてつもなく重い。それを余すことなく知っているから、私は素直に力になりたいし、これからどうしていくのかを見守り、必要ならばたすけたいのです」

「……たしかに、太后さまは傑物です。あの方が失われては滅びは一気に加速する」


 角族の滅びと、人寰じんかんの滅びと。それはつまり等価であり紙一重であり一蓮托生の最悪の結末。


「だからこそ私も受け入れました。にわかには信じがたい夢物語のような話でしたが、私が母と尊ぶ御方も同じく私を重んじ用いて下さろうとしておられるので」

 貢献したいのです、と言えば崔遷はほんの少し複雑そうにしたが、頷いた。

のことも聞き及んでおられるようで、それほどのお覚悟があるならば泉主もお許しになるでしょう。瑜順どの、私は所詮蚊帳の外、又聞きの部外者にすぎません。泉主は人世の理について、私よりもよくご存知であられます。積もるお話は直接なされてはいかがでしょうか。きっとお時間は取り分けてくださいます」

「……だと、いいのですが。申し訳ありません。ご無理をさせてしまい」

 いいえ、と崔遷は鬚を撫でる。

「この歳になると今の時分もう眠くて。そのくせ陽も昇らぬうちに起きてしまうのだからやれやれ、ままならない体です」

「休みましょう。お呼び立てしてまことに失礼致しました」

 老人は束の間黙り、つと瑜順を真っ向から見据えた。

「私は楓氏の境遇がいかほどのものかは測りかねますが。されど、貴方様とて我らと同じように考え、感じ、想う。もうその時点でほぼ人。己というものがあるのならば、貴方様は貴方様のことだけを考えて生きても誰も文句は言えますまい」

 彼はしばらく口をつぐんでいたが、ようやく発した声は存外明るかった。

「私は角族の『いわい』なのです。『のろい』にはなりたくないし、繁栄をもたらしたい。私自身と一族の幸福もまた等しく同列。私の使命はみずの大地を手に入れて、救済へのなわてひらくこと」

 爽やかに笑う。

「その為なら犠牲は惜しみません」

「…………不躾に侮言ぶげんを並べたこと、お詫び致します。この老耄おいぼれ、大望の成就を僅少ながら手伝わせて頂きます」

 言えばただ黙って頭を下げた。礼をわきまえ、誠実で優しく、人よりも――人らしい。もしも彼が自らの命運を拒否していたのなら、と崔遷はゆっくりと走廊ろうかを進みながら嘆息した。

 今はただ、あの赤誠がむくわれてほしいと願うのみ。





 それから二日ほど滞在し、一行は崔遷と共に泉畿に向かうことになった。

 微熱が下がらなかった季娘も元来丈夫な鋼兼ハガネの体のおかげもあってすっかり元気である。

「すごい……!なんて綺麗な水色なの!」

「季娘さま。お駆けまわりになると危ないです」

 初めての舟に酔うこともなくはしゃぐ娘と隣で澄ました少女を見て瑜順も微かに笑む。まったく、どっちが年上なのだか。

 季娘は手を水面に滑らせて振り返る。「空気はこんなに暖かいのに、川はほどよく冷たいまま。それにどこまでも穏やかで。心まで和らぎます」

 たしかに、これほど燦々とした陽の下で互いの顔をはっきりと間近で見るのは珍しいかもしれない。領地は夏でさえ風は冷たいから、大抵防風の為に頭や首回りは布で覆っており、つられて表情も乏しくなる。気持ちが柔らかくなるのは事実だ。

 しかし、そうなるというのはもろくなるということ。だからだろうか、季娘の笑顔を見ていると脳裏に別の影がちらつく。


「瑜順さま?」

 隣で若藻が不思議そうに見上げてきた。愛惜をおくびにも出さず、ただ小さな頭を撫でる。

「主のことが気掛かりなのですか」

 彼女はまったく別の至極当然であるべきことを思ったらしい。それには笑う。

「いいや。あいつは心配せずともきっと上手くやるだろう」

「けれどわたしたちの帰りを待っているはずです。期限は夏至まで。それまでに」

「ああ。けれど崔遷どのも九泉主は分かってくださると言っていた。心配はない」

 とはいえたとえ薬の入手が失敗しても必ず期限までには英霜えいそうに帰り着かなければならない。過ぎれば、中樊チュウハンたちが罰を受ける。


 当の九泉の案内人は舳先へさきに出てきてこちらに微笑んだ。葛斎の親類だと聞いていたから同じように冷たい面の持ち主を想像していたが、この男はまるでここの空気のように温和だ。武官とは違い鍛えていない筋骨と予想し、舟旅は大丈夫なのかと問えば、馬や安車くるまよりも揺れが緩やかで楽なのだという。

 崔遷は正月の常假きゅうかで別邸にいたわけだが、そもそも官吏の退官年齢とはたいてい七十、このくらいの歳になれば新年の朝賀は正旦のみで許されるものなのかもしれない。とすると彼は筋斗とんぼ返りで泉畿に戻っていることになる。


「やはり大変な骨折りを」

 謝れば手を振られた。「いいんです。それに私のような者、いてもいなくても仕事は回りますから。泉主にはもう何度も骸骨を乞うておるのですがねえ。なかなか手放して下さらなくて」

「それほどに寵愛されておいでなのですね」

「泉主は少しばかりこだわりの強い御方です。妃に限らず諸官に対しても選り好みが激しいのです。しかし逆に一度気に入られてしまうとそれも大変で。こちらが姿を見せないとご心配になり大事になりますのです」

「九泉主はお寂しがり屋なのですか」

 きょとんとして問うた若藻に大人おとな三人は噴き出した。

「あながち間違いではございませんが、少し違うかと。――令媛さん。たとえば綺麗な石を手に入れたとします」

 崔遷は荷包きんちゃくから大粒の蓮子はすのみを取り出した。

「それを見えるところに飾っておき、眺めて楽しむ。ところが、ふと見るとその中のひとつがなくなっているとすれば、慌てますでしょう?どこに行ったのかと探し始め、途端に惜しくなるわけです」

 舟板に並べられた粒が揺れで転がらないよう手で阻みながら、若藻はじっとその並びを見つめた。

「……一度気に入れば、飽きることはないのでしょうか。飽きて、お捨てになってしまわれることは?もし小石が自分で転がって行ってしまったのならどうでしょう。可愛げのない奴よとお諦めになるか、せっかく拾ってやったのに恩知らず、と砕こうとしてお探しになるのでは?」

 崔遷はその返しに驚いたようで束の間黙った。が、再び目を細めた。

「大丈夫です。泉主は一度お気に入りあそばされたものは大切になさる御方。石がしぜんと劣化して砕けるまでお側に置いてくださいます。まあ、しかし私のような老醜は愛でられることにもとても気力が要りますので、そろそろご勘弁して頂きたいところですな」


 瑜順は舟縁に片腕を預け頬杖をついた。蒐集しゅうしゅう家の泉主。珍草珍獣を保護しているのもそういった性格だからこそだろうか、と思い、何気なく崔遷を見遣るとどことなく胡乱な視線が一瞬ともつかない後に逸らされた。それにわずかばかりの違和感をおぼえ、不審に眉をひそませた。




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