求章 於 九泉国〈一〉



 量に比例せず大きくけぶった自分の吐息があっという間に消えて風に流されてゆくのを、凍った睫毛を震わせながら呆気にとられた眼で追った。一呼吸するたびに痛いとさえ感じる冷たさの空気が肺を刺す。少しばかりせ、外套からこぼれ出て霜つく髪を払い、陽を反射してまばゆいばかりの歪な雪原を見渡した。樹々が、もこもこと雲にまとわりつかれているように形を曖昧にし、はりぼて然と撓垂しなだれ、もしくは木の葉の形のまま色をられて彫像と化していた。


 窮陰凝閉きゅういんぎょうへい。大地はすべてを堅氷で覆われ、凜冽りんれつと冴えてただただ無音の景色、動くものは地表近くに沈んだ濃い紫色の霧だけ。それさえこの気温で凍りつつあるのか、漂うなかに砂粒の晶光ひかりをきらめかせる。生き物のように動くうねりから目を離し見上げれば、吸い込まれていきそうな蒼の切れ間を見た。


 獣の足音も鳥の鳴き声もない。ましてや人などおらず、聞こえるのは自分の吐息ときぬ擦れの音、耳をかすめる寒風に、腹の底にみるずしりと重いなにか。


「……地鳴り……?」


 上から圧迫するような、否、下から突き上げるような妙な気があたりを包み、森は不気味に白く沈黙していた。


 佇んだままの若藻は自分を呼ぶ声にはっと我に返る。近づいてきた女もまた頬を真っ赤に染めあげて白い息を盛大に吐き出した。

「平気?」

 頷けば微笑む。「戻ろう」



 峻峰の入り組んだ狭間のほらに戻ると暖かに火がおこされている。側に座り込む青年は鱗の獣に背を預け瞼を閉じていたが、帰ってきた二人に気がついて軽く頷いた。吹き込んだ落ち葉と枯れ枝を掻き集めた焚き火に固まった肌がかされてゆく。

「どうだった」

 外は、と訊かれて頷き返した。

「嵐はすっかり止みました。よく晴れていてこれなら進めます」



 彬州英霜を出立してから早六日が経とうとしていた。サイのおかげでそれほど苦労せずに九泉くせんへと続く山間やまあいを進んでいたが、昨日昼から雪嵐に見舞われ、運良く洞穴を見つけてここで足止めを食っていたのである。


 若藻はてきぱきと手を動かし朝餉の準備をする。こんな極寒の山中でも探せば食べられそうなきのこやら木の根はあるもので(自分は食べられないが)泉地と同じだと分かるものだけを集め、味気のない食事に少しでも彩りを添えて二人に仕える。そんなことくらいしか自分が付いてきた理由に意味を見い出せない。まるきり勝手の違う旅で若藻は完全に足手まといだったからだ。瑜順も季娘も霧界での野宿には慣れていて逆に気をかけてもらうばかり。これでは立場がない。


「体の具合はどう?まだ大丈夫?」

 おまけにこちらが不能渡わたれずだから余計に心配してくれる。

「季娘さま。わたしのことはお気になさらず。醸菫水もまだ余分があります」

 季娘はさま呼びされてくすぐったそうに首をすくめた。麦飯石を敷いた小さな鍋で湯を沸かしている瑜順に向き直る。

「兄さま、あとどのくらいだろう」

正旦しょうがつには着くだろう」


 実のところここにいる誰も九泉国への正しい道程を知らない。頼りは豺だけだ。ある程度なら人語を解す妖獣は主にも命ぜられているのか迷いなく一路西北へと進んでいる。はじめは本当に大丈夫なのだろうかと怪訝に思ったが、その憂いは蔭蝋関を出た初日に取り払われた。変わる景色を見れば目的地に確実に近づいていると分かったからだ。もう一頭の豺が季娘の背後に回り込んで伏せる。撫でられて満悦なのか鱗尾を波打たせた。


 何梅に貸し与えられた二頭の豺――睚眦がいさいは驚くべきことにこちらが話し掛ければ返事をするのだ。彼らは犬猫以上に明確な意思と感情をあらわき返す。瑜順はこれほど鷹揚な個体は珍しいという。睚眦というものは基本的に主にさえ媚びない獣で、このように人に擦り寄るのも稀有けうだとか。まあ、今は寒いからかもしれないが、と若藻は携行食をかじりながらじっと糸目の獣を観察した。


 結局のところ瑜順は若藻の同行についてそれほども怒ってはいないようだったが、かと言って諸手を振って賛成と言うわけでもないらしく、たまに難しい顔をしたまま黙々としている。英霜城にいた時よりなんだか話しかけにくい。それを察した季娘がなんのかのととりなしてくれ、どうにかここまでやってきた。


「どんなとこかなあ、九泉」

 再び出発した一行は目もくらむような峡谷を慎重に下る。崖上から流れ落ちる瀑布と沢が完全に凍りついていてときが止まったかのような見晴らしだった。季娘は若藻を抱き込み、豺に跨ったまま楽しげに左右に首を巡らせる。

「あたしはこのあいだちょっとだけ英霜に降りたくらいだから、実質初めての泉地なんだ」

「一泉よりはずっと暖かいと聞いています」

「九泉だって黎泉に一番近い北国なのに、どうしてなんだろうね」

 たしかに、ここは滝も凍るほどの気候なのにここからさらに分け入った国が温暖などとは到底思えない。

「その前に、無事に入れるでしょうか。九泉人は他所者よそもの嫌いと聞きますが」

「話は通してるはずだから、大丈夫だとは思うけれど」

 季娘は前方を先行する瑜順の背を見て頷く。「何より兄さまがいるから、なんとかなるよ」

「信頼がおあつい」

「当たり前だよ。すごい人なの。いつもは韃拓にいに手柄もなにもかも譲っておしまいになるけど、弓も剣も誰にも引けをとらないし、なによりお優しく賢い御方なんだ」

「……わずかですが、存じ上げております」

 本当に、彼は非の打ち所がない。

「それにあのお顔だから、一族の女はみぃんな懸想してると言っても間違いじゃない」

「季娘さまも?」

 問えば、あは、とほがらかに笑う。「そりゃ、子どもの頃は毎日嫁にして欲しいと言ってたけど、残念ながら本気でお相手してもらったことはないの。それに、兄さまには心に決めた人がもういるから」

 若藻は目を瞬かせた。

「……そうなのですか?」

「うん。あたしなんかじゃあずかり知らないけど、きっと一泉に行く前に結婚の約束をしたはずだ」

「……意外です」

 瑜順は何にも固執しなさそうだから、ましてや彼自身が想いを寄せる相手がいようとは考えもしていなかった。季娘は若藻の心中など知らずに鼻の下を伸ばす。

「お相手もとっても美人な御方なの。悔しがれないくらいお似合いだわ」

 そうして話していれば聞こえたのか、当人が振り返った。無言で手招きする。滑るように豺を近づけると顔の前に指を立てた。それで娘二人はたちまち緊張に身を固くする。


 瑜順は手振りで付き従うよう指示すると、ゆっくりと音を立てないよう豺を進ませる。無音の冬景色のなかをぴんと張りつめ、凍りきった川面に薄く足跡を残しながら向こう岸まで渡る。



 川幅の中間ほどに来て若藻はふと頭上を振り仰いだ。――――なにか、音がしなかったか。



 気のせいではない、背後で季娘が生唾を飲み込んだ。

 突如、恐ろしい速さで豺が跳んだ。体が置いてきぼりになりそうになったところ、季娘が踏ん張って若藻ごと張りつく。獣は再び激しい動きを繰り返す。針のように鱗が逆立ち、殺伐とした咆哮ほうこうが聞こえた。

 うつ伏せのまま驚愕に目を開くと、氷の水面にはびっしりととげの突き出た鉄錘てっすいが食い込んでいた。



「――季娘!谷を上がれ!逃げなさい!」



 叱咤の怒声、瑜順はすでに剣を抜いて何者かと撃ち合っていた。剣戟のどよみだけがあたりに震動する。

「兄さま!」

「後ろ‼」

 目の端を何かが掠めた。豺が指示を待たずに高く跳躍する。浮遊感に慌て、振り返り、視界に飛び込んできたのは一つ目の牛。豺とはまた異なる鱗尾の先には金の鉤針かぎばりがあった。それが鞭のようにしなって追い縋って来る。牛の上に乗った騎手が矢をつがえた。

「季娘さま!」

 注意を促すと季娘は飛矢に狼狽してさらに身を屈めたが、それは届く前に豺の長い尾に叩き落とされる。構わず崖を地面と垂直に登っていく。振り飛ばされないようしがみつきながら、遥か真下で四、五騎の敵に囲まれた瑜順をみとめた。

「瑜順兄さまっ……‼」

 季娘は叫んだが若藻は首を振った。

「今は逃げましょう」

「だって……でも!」

「瑜順さまはお強いのでしょう?私たちがいては逆に足を引っ張ります」

 焦りを抑えて言うと季娘は軽く息を飲み、辛そうに一度崖下を見下ろす。谷から上がりきり若藻はあらためて背後を振り返った。

「ともかくも豺に従って逃げましょう。ここから少しでも離れて――――」


 言いかけて横薙ぎの衝撃を受け、二人は悲鳴をあげて転げ落ちた。


 何が、と頭を振って起き上がる。隣で季娘が唸る。肩に当たった飛刀がねた。

 衝撃に悶えながら飛んできたほうを睨む。若藻もつられて見た先、逆毛立って威嚇する豺の向こう、白い森の黒い陰からするりと人影が現れた。


 闇からまろびでた黒い人は二人のことを無視して豺を見つめている。獣が一気に跳躍したのを受け、腕を構えるのが見えた。

 若藻は咄嗟に、だめ、と叫んだ。しかし獣はそのまま突進し、刹那、鉤爪も届かないうちに横倒しになる。ぱきりぱきりと鱗が鳴った。低く怖気おぞけのする呻き声が響き渡り、若藻と季娘は硬直したまま散瞳した。

 さらに追加の攻撃で豺は青い血を噴き出す。白い地面に弧を描いて飛沫が散る。唸れどもしかしその場から動くことなく、泡を垂らして攻撃者を睨み据えている。あしが、黒い鋭利なもので地面に縫いとめられている。


 身の毛もよだつ咆哮にはまるで頓着せず、人影はすぐ近くまで寄るとすいと飛び乗った。暴れる豺に前後に揺られながらくびまわりに手を差し伸べ、力をこめて一度、ぐっ、と押した。尾の先まで全身を硬直させた獣は、ばり、という音とともに鱗をさらに逆立て、それから徐々に力を失いおとがいを地面に落とす。地響きに二人が正気に戻れば、人はなにか、きらきらと光る鏡板のようなものを頭上にかざしつつ下りたところだった。

「豺に……何したの⁉」

 駆け寄ろうとする季娘を引き止め若藻は大声を上げる。初めてこちらに注意が向いた。全身黒かったが、口周りだけは白く、そして赤かった。小さく開いたその紅脣こうしんは弧を描く。叫んだ若藻を無視し、倒れた獣の前に立ち、再び手を伸ばした。


 呆気にとられて為すすべなく見つめる先で、白い腕がずるりと何かを引き出す。てのひらから零れ落ちそうなほど大きくまるい鬱金のたま


「――――やめて」

 季娘が震えた。

「やめて‼」


 金の球体に繋がる神経の筋をちぎり切って、両手を青く染めた人は惚れ惚れとそれを陽に掲げた。

 眼が、と季娘は涙を溢れさせた。「眼を――抜きやがった……‼」

 おまえ、と怒声を叫ぶ。人は血濡れの眼球を裾で包み小脇に携え、やっとこちらに向かって近づいてきた。

「ふざけるな――お前、何者だ!」

 季娘が肩を庇いながら立ち上がろうとしたが、即座に横面を脚で殴られ吹き飛ぶ。若藻は悲鳴をあげて腰を抜かした。相手は一蹴りで動かなくなった彼女に逆に驚いたのか動きを止めて固まったが、ゆるりと顔を戻す。


「ん……?」


 目の前でしゃがみ込まれて後退じさりたかった、が、恐怖で動けない。寒さと相まって歯の根が合わない。

 青い血糊で染まる細い指に顎をとらえられた。検分するように上向かせられ、唇を撫でられる。鼻から下しか見えない謎の人物、しかしそれよりも、その腕の中でいまだ湯気を立てて脈打つ金の眼球が衝撃すぎてそちらに目が釘づけになる。


「……驚いた。砂人さじんだ」


 ともすれば小童のような、歳若い声が呟いた。


「きみ、純血?」


 なにも答えられない若藻を離し、今度は自分の顎に手を当てて首を捻った。まあいいかと言うように立ち上がる。ふと見ると敵の仲間か、倒した豺を数人が囲んでいた。

 待って、とようよう掠れた声を絞り出したが、人はもうこちらには目もくれず一瞬にして消えた。立ち上がりつつ蹈鞴たたらを踏んだ豺は口輪とかせを嵌められかれていく。

 どうして。豺は角族の先代族主のものではないのか。頭が疑問で溢れかえったまま、若藻は一団が霧中へ姿を消すのをどうしようもなく見つめていることしかできなかった。



 玉虫色の鱗の体躯をきしませるほど両脚で強く挟んだまま、半身を捻って背後の敵を叩き斬る。敵は氷の水面を滑って転び、起き上がる暇を与えず接近し喉元にとどめを刺す。引き抜いた後の血潮を確認することなく反転、霧の垂れこめる崖肌を見上げた。軽く乱れた息を整えて見回せばすでに全ての敵は倒れ伏し、その中で唯一呻き声をあげる一人に近づく。


 見たことのない黒いよろいを纏った伏兵のかぶとを剣先ですくい上げる。下はさらに同色の蒙面布ふくめん、切っ先が少しばかり肌を撫でるのも構わずそれも裂き、片脚を庇って苦悶に汗を流す男を冴え冴えと見下ろした。

「どこの者だ?一泉の謀叛兵ではあるまい」

 相手は答えない。苦しみながらも嘲笑うように目を細めたので容赦なく肩を刺した。

「殺されたいのか?」

 絶叫した敵は這って逃げようとし、すかさずその背を踏みつける。

「今言えば止血してやる。言わねば指を落とす」

「…………化物が、ヒトぶって」

 憎々しげな呟きに眉を寄せ、ひとつ息を吐いた。

「誰の差し金か答えてもらう」

 剣先をあてがったが、瑜順が手を下す前に風切り音が響き男の蟀谷こめかみ匕首あいくちが突き立つ。跳び退って振り返ると氷の地面に黒い影が降り立った。

「――――この者たちの将か」

 答えはない。だが、咫尺しせきの間、姿を捉える隙もなく顔を寄せられていた。



「おまえが楓氏ふうしのユジュン?」



 ほぼ同時に回した脚に新手は掛からず、信じられない跳躍距離で岩の上に舞い降り、くつくつと肩を揺らす。

 接近されるまで受け身も取れなかったことに内心驚愕しながら、さらに中腰になる。

「お前は誰だ。なぜ俺を知っている」

「迎えに来たんです」

 若々しい声は埃を払う仕草をして立ち上がり、手を差し出した。


「ぼくと一緒に行きませんか?」


 眉をひそめるしかない申し出に剣を握る力を込める。

「名乗れ」

「まだ言えません。一緒に来てくれるなら」

「まるで会話にならない」

「……おまえ、だまされてるよ」

 さも可笑しげに口端を上げた。

妖女まじょたちにいいように使われているのは可哀想。ぼくと一緒に行きましょう。主もそれを望んでいる」

 主がいるのか、と目をすがめた。どういった身分の者なのかは皆目見当がつかないが、こちらのことを楓氏だと知っている。

「断る。いきなり現れて攻撃してくるような奴を信じられはしない」

 腕試しです、と影はまた座り込んだ。「どのくらい強いのかなって。……あと、これが欲しかったから」

 膨らんだ懐から血まみれの金の小毬を覗かせて笑う。瞬時、瑜順は腕を振った。


「――――びっくりした」


 てのひらに刺さって止まった飛刀を見てぽかんと口を開く。仲間のとどめを刺した己のものだった。あの一瞬で抜き取って投げたのか、と憎々しげに睨んでくる青年を凝視した。

 投げた瑜順は怒気を増す。豺の眼を抜かれた。季娘と若藻にも攻撃されたということだ。

 おそらく声と気配からして少年。彼は刃の貫通した手をそのままに立ち上がる。

「……どれほど剣技が優れていようと、ヒトとして育ったおまえは弱い。なぜなら自分が他とは違うということを本心で受け容れられないから」

「――――なにを」

「無理をして水を飲み、肉を食べれば毒となり体をむしばむ」

 なぜ、と問うた。

「なぜそれほど詳しい」

「やっぱり胡仙こせんさまから何も聞いていないのね、ユジュン。母と慕った女にいぬのように扱われる気分はどう?」

 どこまでもこちらを逆撫でするふてぶてしさにそれ以上意思を交わすことをやめ、一気に間合いを詰めて横に払った。しかし少年は軽薄な笑い声を響かせてまた跳躍し姿を消した。

「どうしてそれほどまで一族に忠誠を誓う?拾い子だとさげすまれ、憂さ晴らしに雑巾ぼろきれのごとく使われ、今度はにえとして捧げられようとしているというのに、どうしてそれほどまでに従順なの?」

 逃げてしまえばいいのに、と間近で囁く声。

「……お前たちにいたとて、来たるべき天命さだめは変わらない」

「どうかなあ。主はおまえの力を見込んでしばらくお手元に置くかもしれないよ」

戯言ざれごとは聞き飽きた。どんな主か知らないが、角族に仇なす輩なら容赦はしない」


 どこに行った。見回せばふいに背後で気配があり、振り向きざま剣を振る。虚しく空を切って舌打ちした。まるで掴めない。ふわふわと霧のように。


「ひどいなあ。同族のよしみで気にかけてあげたのに」

 不要、と耳の後ろに素手を伸ばす。指はかろうじて相手の面紗ふくめんに触れた。すぐさま離れる。


 直立したままの敵は髪をなびかせてゆるゆると頭を上げる。作り物のように微笑んだかお、剥ぎ取った布の下に隠していたのは血の両眼。異様な色に束の間息を詰めると、それはさらに細まった。

「聞き分けがないね」

「そちらこそ頭が悪い。俺に言うことを聞かせたいのなら人質でも取ればいい」

 かま掛けに少年はおどけた。

「おまえはそんな程度で乗っては来ないでしょう?――それが族主ならまだしも」

 思わず瞠目する。「韃拓に何をした‼」

「しぶといんだよねえ。変に運がいいというか。本当なら鴆鳥毒とりのどくで今頃いないはずだったんだけど」

 怒りで震えが収まらない。

「お前たちが仕込んだのか…………‼」

「誤解しないで。使うと言ったのは一泉の馬鹿共だよ」

 同じことだ、と吐き捨てて白刃を向けた。

「――――殺す」

「できる?」

 少年はくすりとわらい、どこからか新たな暗器を取り出した。間合いを取った両者は滑りやすい氷上もものともせずに駆ける。飛来した黒刀を弾き、剣先をすんでのところで避けて転回する。


「ぼくと遊んですぐに死なないやつは久しぶり‼」


 心底楽しそうに少年は笑う。何がそれほど愉快なのか理解出来かね、またその様子に得体の知れない気持ち悪さが増す。そうして徐々に移動しやっと川面からおかに上がり、小石を蹴って下から振り上げる。髪を散らしたが、浅い。

「来たあ」

 蛇が舌なめずりするごとくにやついた。瑜順は懐に入りすぎたか、とけ反った。眼前に鋭利な鋒先きっさきが迫る。刀身で撥ね返そうとしのぎ面を向けた刹那、上空から響いた風切り音にそのまま受け身を取って倒れた。


 両者半歩の距離に刺さったのは極太の矢。少年は出元を見上げ呟く。

「……九泉の朱痺しゅひ

 警戒しながら同じように見ると不可思議な影がちらつき、次々と飛び降りてきた。

「ユジュン。残念なことに時間切れ。ぼくと一緒に来なかったこと、おまえはきっと後悔する」

 興が削がれたのかいじけた調子でそう言うと、少年は残像も追えないほどあっという間に川下へと駆けて行ってしまった。それを見送り、今度は身軽に降り立ってきたものに警戒する。人の上身に鳥の姿が繋がった異形の妖獣は弓を背負っている。背に跨るのは本物の人。


「怪我は?」


 川下を見遣ってから向き直り、真顔で訊いてきた男は手を伸べた。瞬き、ともかくも借りて起き上がる。

「あなたは……」

「九泉国国境守備軍だ。角楊瑜順殿だな?遅ればせながら迎えに上がった。どこぞの匪賊おいはぎに襲われていたようだが大事ないか」

 ええ、とまだ緊張を解かないまま答えて見回す。「――――連れが、いるのですが」

「すでに保護させてもらった」

「豺……いえ、私どもの騎獣は」

「残念ながら貴殿の連れていた一頭のみを確認している」

 えぐり取られた金の眼球を思い出して顔をしかめた。男は乗るといい、と人面の鳥の一を示した。

「我らは朱痺隊。朱痺とはこの獣の名だ。山狩りを得手とする。人の顔をしているが口も利けなければ笑うこともないから気にするな」

 しかし手綱はつけておらず、制御には声をかけるようでその点は豺と同じだ。下肢の翼で飛び、難なく崖のほとりまで登りきった。



 しばらく白い森を進むとひらけ、天幕群が見えた。

「あなた方は、誰の指示で?」

 問えば隊長と思しき男は「下達があった」としか答えなかった。天幕のひとつに案内されると泣きべそをかいた少女が飛び込んでくる。

「瑜順さま!」

「若藻、怪我は」

 大きく首を振ったが、なおも泣きながら牀台ねだいを指す。

「季娘さまが……」

 娘の意識はない。

「殴打の痕があるが命に別条はない。貴殿も手当てを受けなさい。ひどい顔だ」

 はたと見下ろすとあちこち切り傷が浮いている。痛みはないくらいの浅いものだが、これほどの数が付いているとは。気がついていなかった。

 隊長に問いかける。

「国境守備軍、と言われましたね。しかしながら九泉国まではあと丸一日はかかる見通しだと思っていたのですが」

「運が良かった。あの由川ゆうせんよりこちら側は我らの巡回範囲だ。たまたま朱痺が貴殿らを見つけて知らせてきたから分かった。まだ関を越えてはいないが、ようこそ、九泉へ」

 どこまでも抑揚なく、さくさくと語ると出て行く。保護されたということはとりあえずは拒絶されず入国出来るということなのか。そう思って長く息を吐いた。若藻がまだ涙を零しながら薬を準備する。

「……若藻、すまない。上手く逃がしてやれなかった」

「わたしのことはいいのです。それより季娘さまと、豺が」

「豺はどこへ?」

 それが、と用意した湯桶に浸した布を絞った。瑜順の顔を拭きにかかる。

「あの賊らが痛めつけて連れて行ってしまいました」

「そうか……」

 借り受けた豺は何梅の従える群れの頭目に準ずる個体だ。自らの意思で命令を無視すると思えなかったが、抵抗出来ないほど痛めつけたのがあの黒衣の少年なら不本意だが納得はできた。

 手当てを受けながら先ほどの戦いを反芻する。決して弱兵ではなく、どこぞの軍兵かと思える連携の取れた動きだった。しかし少なくともその中のうちひとりと、あの少年は楓氏の存在を知っていた。


(同族の誼…………?)


 ふいに言葉がよみがえって、それは胃の腑に重く沈んでいった。


 は自分のことを『いわい』だと言った。一族を富ませる宝重だと。しかし、他にも楓氏がいるとも、いないとも聞いたことはない。自分と同じような者が何人もいる可能性について考えたことがなかった。

 では、と顔を上げる。あの不気味な瞳をした彼もまた楓氏なのか。


「……若藻。俺の目は、何色に見える?」

 若藻は突然の話題に戸惑いつつもおずおずと見つめた。

「いつもと変わらず、黒い尖晶石ほうせきのようにお美しい瞳です」

 聞いて、そう、とぼんやりと頷いた。見目が異なるからといって可能性がないわけではない。とはいえ――、と眠る季娘に視線を向けた。金輪際関わるのは御免こうむる。あれらに対しての興味を全くの否定は出来ないが、それでもまともに交流を持てる相手とも思えない。それに、あの少年は何梅と葛斎かつさいのことを敵視している風にも聞こえた。


 二人の賢女が自分をまやかしていると?奇襲してきた見ず知らずのひとりの言では判断できず、むしろあちらのほうが自分を幻惑して騙そうとしているとしか思えない。それに、韃拓が再度の『選定』におもむいたのならば、彼もある程度のことは何梅本人から聞いて了承したということ。韃拓は嘘真うそまことを直感で見分ける。話を信じていなければこの時期にわざわざ旅には出ない。


 そう結論するほどには、瑜順の信仰は揺らがなかった。





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