求章 於 九泉国〈一〉
量に比例せず大きくけぶった自分の吐息があっという間に消えて風に流されてゆくのを、凍った睫毛を震わせながら呆気にとられた眼で追った。一呼吸するたびに痛いとさえ感じる冷たさの空気が肺を刺す。少しばかり
獣の足音も鳥の鳴き声もない。ましてや人などおらず、聞こえるのは自分の吐息と
「……地鳴り……?」
上から圧迫するような、否、下から突き上げるような妙な気があたりを包み、森は不気味に白く沈黙していた。
佇んだままの若藻は自分を呼ぶ声にはっと我に返る。近づいてきた女もまた頬を真っ赤に染めあげて白い息を盛大に吐き出した。
「平気?」
頷けば微笑む。「戻ろう」
峻峰の入り組んだ狭間の
「どうだった」
外は、と訊かれて頷き返した。
「嵐はすっかり止みました。よく晴れていてこれなら進めます」
彬州英霜を出立してから早六日が経とうとしていた。
若藻はてきぱきと手を動かし朝餉の準備をする。こんな極寒の山中でも探せば食べられそうな
「体の具合はどう?まだ大丈夫?」
おまけにこちらが
「季娘さま。わたしのことはお気になさらず。醸菫水もまだ余分があります」
季娘はさま呼びされてくすぐったそうに首を
「兄さま、あとどのくらいだろう」
「
実のところここにいる誰も九泉国への正しい道程を知らない。頼りは豺だけだ。ある程度なら人語を解す妖獣は主にも命ぜられているのか迷いなく一路西北へと進んでいる。はじめは本当に大丈夫なのだろうかと怪訝に思ったが、その憂いは蔭蝋関を出た初日に取り払われた。変わる景色を見れば目的地に確実に近づいていると分かったからだ。もう一頭の豺が季娘の背後に回り込んで伏せる。撫でられて満悦なのか鱗尾を波打たせた。
何梅に貸し与えられた二頭の豺――
結局のところ瑜順は若藻の同行についてそれほども怒ってはいないようだったが、かと言って諸手を振って賛成と言うわけでもないらしく、たまに難しい顔をしたまま黙々としている。英霜城にいた時よりなんだか話しかけにくい。それを察した季娘がなんのかのととりなしてくれ、どうにかここまでやってきた。
「どんなとこかなあ、九泉」
再び出発した一行は目も
「あたしはこのあいだちょっとだけ英霜に降りたくらいだから、実質初めての泉地なんだ」
「一泉よりはずっと暖かいと聞いています」
「九泉だって黎泉に一番近い北国なのに、どうしてなんだろうね」
たしかに、ここは滝も凍るほどの気候なのにここからさらに分け入った国が温暖などとは到底思えない。
「その前に、無事に入れるでしょうか。九泉人は
「話は通してるはずだから、大丈夫だとは思うけれど」
季娘は前方を先行する瑜順の背を見て頷く。「何より兄さまがいるから、なんとかなるよ」
「信頼がお
「当たり前だよ。すごい人なの。いつもは韃拓
「……わずかですが、存じ上げております」
本当に、彼は非の打ち所がない。
「それにあのお顔だから、一族の女はみぃんな懸想してると言っても間違いじゃない」
「季娘さまも?」
問えば、あは、と
若藻は目を瞬かせた。
「……そうなのですか?」
「うん。あたしなんかじゃ
「……意外です」
瑜順は何にも固執しなさそうだから、ましてや彼自身が想いを寄せる相手がいようとは考えもしていなかった。季娘は若藻の心中など知らずに鼻の下を伸ばす。
「お相手もとっても美人な御方なの。悔しがれないくらいお似合いだわ」
そうして話していれば聞こえたのか、当人が振り返った。無言で手招きする。滑るように豺を近づけると顔の前に指を立てた。それで娘二人はたちまち緊張に身を固くする。
瑜順は手振りで付き従うよう指示すると、ゆっくりと音を立てないよう豺を進ませる。無音の冬景色のなかをぴんと張りつめ、凍りきった川面に薄く足跡を残しながら向こう岸まで渡る。
川幅の中間ほどに来て若藻はふと頭上を振り仰いだ。――――なにか、音がしなかったか。
気のせいではない、背後で季娘が生唾を飲み込んだ。
突如、恐ろしい速さで豺が跳んだ。体が置いてきぼりになりそうになったところ、季娘が踏ん張って若藻ごと張りつく。獣は再び激しい動きを繰り返す。針のように鱗が逆立ち、殺伐とした
うつ伏せのまま驚愕に目を開くと、氷の水面にはびっしりと
「――季娘!谷を上がれ!逃げなさい!」
叱咤の怒声、瑜順はすでに剣を抜いて何者かと撃ち合っていた。剣戟の
「兄さま!」
「後ろ‼」
目の端を何かが掠めた。豺が指示を待たずに高く跳躍する。浮遊感に慌て、振り返り、視界に飛び込んできたのは一つ目の牛。豺とはまた異なる鱗尾の先には金の
「季娘さま!」
注意を促すと季娘は飛矢に狼狽してさらに身を屈めたが、それは届く前に豺の長い尾に叩き落とされる。構わず崖を地面と垂直に登っていく。振り飛ばされないようしがみつきながら、遥か真下で四、五騎の敵に囲まれた瑜順をみとめた。
「瑜順兄さまっ……‼」
季娘は叫んだが若藻は首を振った。
「今は逃げましょう」
「だって……でも!」
「瑜順さまはお強いのでしょう?私たちがいては逆に足を引っ張ります」
焦りを抑えて言うと季娘は軽く息を飲み、辛そうに一度崖下を見下ろす。谷から上がりきり若藻はあらためて背後を振り返った。
「ともかくも豺に従って逃げましょう。ここから少しでも離れて――――」
言いかけて横薙ぎの衝撃を受け、二人は悲鳴をあげて転げ落ちた。
何が、と頭を振って起き上がる。隣で季娘が唸る。肩に当たった飛刀が
衝撃に悶えながら飛んできたほうを睨む。若藻もつられて見た先、逆毛立って威嚇する豺の向こう、白い森の黒い陰からするりと人影が現れた。
闇からまろびでた黒い人は二人のことを無視して豺を見つめている。獣が一気に跳躍したのを受け、腕を構えるのが見えた。
若藻は咄嗟に、だめ、と叫んだ。しかし獣はそのまま突進し、刹那、鉤爪も届かないうちに横倒しになる。ぱきりぱきりと鱗が鳴った。低く
さらに追加の攻撃で豺は青い血を噴き出す。白い地面に弧を描いて飛沫が散る。唸れどもしかしその場から動くことなく、泡を垂らして攻撃者を睨み据えている。
身の毛もよだつ咆哮にはまるで頓着せず、人影はすぐ近くまで寄るとすいと飛び乗った。暴れる豺に前後に揺られながら
「豺に……何したの⁉」
駆け寄ろうとする季娘を引き止め若藻は大声を上げる。初めてこちらに注意が向いた。全身黒かったが、口周りだけは白く、そして赤かった。小さく開いたその
呆気にとられて為す
「――――やめて」
季娘が震えた。
「やめて‼」
金の球体に繋がる神経の筋をちぎり切って、両手を青く染めた人は惚れ惚れとそれを陽に掲げた。
眼が、と季娘は涙を溢れさせた。「眼を――抜きやがった……‼」
おまえ、と怒声を叫ぶ。人は血濡れの眼球を裾で包み小脇に携え、やっとこちらに向かって近づいてきた。
「ふざけるな――お前、何者だ!」
季娘が肩を庇いながら立ち上がろうとしたが、即座に横面を脚で殴られ吹き飛ぶ。若藻は悲鳴をあげて腰を抜かした。相手は一蹴りで動かなくなった彼女に逆に驚いたのか動きを止めて固まったが、ゆるりと顔を戻す。
「ん……?」
目の前でしゃがみ込まれて後
青い血糊で染まる細い指に顎をとらえられた。検分するように上向かせられ、唇を撫でられる。鼻から下しか見えない謎の人物、しかしそれよりも、その腕の中でいまだ湯気を立てて脈打つ金の眼球が衝撃すぎてそちらに目が釘づけになる。
「……驚いた。
ともすれば小童のような、歳若い声が呟いた。
「きみ、純血?」
なにも答えられない若藻を離し、今度は自分の顎に手を当てて首を捻った。まあいいかと言うように立ち上がる。ふと見ると敵の仲間か、倒した豺を数人が囲んでいた。
待って、とようよう掠れた声を絞り出したが、人はもうこちらには目もくれず一瞬にして消えた。立ち上がりつつ
どうして。豺は角族の先代族主のものではないのか。頭が疑問で溢れかえったまま、若藻は一団が霧中へ姿を消すのをどうしようもなく見つめていることしかできなかった。
玉虫色の鱗の体躯を
見たことのない黒い
「どこの者だ?一泉の謀叛兵ではあるまい」
相手は答えない。苦しみながらも嘲笑うように目を細めたので容赦なく肩を刺した。
「殺されたいのか?」
絶叫した敵は這って逃げようとし、すかさずその背を踏みつける。
「今言えば止血してやる。言わねば指を落とす」
「…………化物が、ヒトぶって」
憎々しげな呟きに眉を寄せ、ひとつ息を吐いた。
「誰の差し金か答えてもらう」
剣先をあてがったが、瑜順が手を下す前に風切り音が響き男の
「――――この者たちの将か」
答えはない。だが、
「おまえが
ほぼ同時に回した脚に新手は掛からず、信じられない跳躍距離で岩の上に舞い降り、くつくつと肩を揺らす。
接近されるまで受け身も取れなかったことに内心驚愕しながら、さらに中腰になる。
「お前は誰だ。なぜ俺を知っている」
「迎えに来たんです」
若々しい声は埃を払う仕草をして立ち上がり、手を差し出した。
「ぼくと一緒に行きませんか?」
眉を
「名乗れ」
「まだ言えません。一緒に来てくれるなら」
「まるで会話にならない」
「……おまえ、
さも可笑しげに口端を上げた。
「
主がいるのか、と目を
「断る。いきなり現れて攻撃してくるような奴を信じられはしない」
腕試しです、と影はまた座り込んだ。「どのくらい強いのかなって。……あと、これが欲しかったから」
膨らんだ懐から血まみれの金の小毬を覗かせて笑う。瞬時、瑜順は腕を振った。
「――――びっくりした」
投げた瑜順は怒気を増す。豺の眼を抜かれた。季娘と若藻にも攻撃されたということだ。
おそらく声と気配からして少年。彼は刃の貫通した手をそのままに立ち上がる。
「……どれほど剣技が優れていようと、ヒトとして育ったおまえは弱い。なぜなら自分が他とは違うということを本心で受け容れられないから」
「――――なにを」
「無理をして水を飲み、肉を食べれば毒となり体を
なぜ、と問うた。
「なぜそれほど詳しい」
「やっぱり
どこまでもこちらを逆撫でするふてぶてしさにそれ以上意思を交わすことをやめ、一気に間合いを詰めて横に払った。しかし少年は軽薄な笑い声を響かせてまた跳躍し姿を消した。
「どうしてそれほどまで一族に忠誠を誓う?拾い子だと
逃げてしまえばいいのに、と間近で囁く声。
「……お前たちに
「どうかなあ。主はおまえの力を見込んでしばらくお手元に置くかもしれないよ」
「
どこに行った。見回せばふいに背後で気配があり、振り向きざま剣を振る。虚しく空を切って舌打ちした。まるで掴めない。ふわふわと霧のように。
「ひどいなあ。同族の
不要、と耳の後ろに素手を伸ばす。指はかろうじて相手の
直立したままの敵は髪をなびかせてゆるゆると頭を上げる。作り物のように微笑んだ
「聞き分けがないね」
「そちらこそ頭が悪い。俺に言うことを聞かせたいのなら人質でも取ればいい」
かま掛けに少年はおどけた。
「おまえはそんな程度で乗っては来ないでしょう?――それが族主ならまだしも」
思わず瞠目する。「韃拓に何をした‼」
「しぶといんだよねえ。変に運がいいというか。本当なら
怒りで震えが収まらない。
「お前たちが仕込んだのか…………‼」
「誤解しないで。使うと言ったのは一泉の馬鹿共だよ」
同じことだ、と吐き捨てて白刃を向けた。
「――――殺す」
「できる?」
少年はくすりと
「ぼくと遊んですぐに死なないやつは久しぶり‼」
心底楽しそうに少年は笑う。何がそれほど愉快なのか理解出来かね、またその様子に得体の知れない気持ち悪さが増す。そうして徐々に移動しやっと川面から
「来たあ」
蛇が舌なめずりするごとくにやついた。瑜順は懐に入りすぎたか、と
両者半歩の距離に刺さったのは極太の矢。少年は出元を見上げ呟く。
「……九泉の
警戒しながら同じように見ると不可思議な影がちらつき、次々と飛び降りてきた。
「ユジュン。残念なことに時間切れ。ぼくと一緒に来なかったこと、おまえはきっと後悔する」
興が削がれたのかいじけた調子でそう言うと、少年は残像も追えないほどあっという間に川下へと駆けて行ってしまった。それを見送り、今度は身軽に降り立ってきたものに警戒する。人の上身に鳥の姿が繋がった異形の妖獣は弓を背負っている。背に跨るのは本物の人。
「怪我は?」
川下を見遣ってから向き直り、真顔で訊いてきた男は手を伸べた。瞬き、ともかくも借りて起き上がる。
「あなたは……」
「九泉国国境守備軍だ。角楊瑜順殿だな?遅ればせながら迎えに上がった。どこぞの
ええ、とまだ緊張を解かないまま答えて見回す。「――――連れが、いるのですが」
「すでに保護させてもらった」
「豺……いえ、私どもの騎獣は」
「残念ながら貴殿の連れていた一頭のみを確認している」
「我らは朱痺隊。朱痺とはこの獣の名だ。山狩りを得手とする。人の顔をしているが口も利けなければ笑うこともないから気にするな」
しかし手綱はつけておらず、制御には声をかけるようでその点は豺と同じだ。下肢の翼で飛び、難なく崖の
しばらく白い森を進むと
「あなた方は、誰の指示で?」
問えば隊長と思しき男は「下達があった」としか答えなかった。天幕のひとつに案内されると泣きべそをかいた少女が飛び込んでくる。
「瑜順さま!」
「若藻、怪我は」
大きく首を振ったが、なおも泣きながら
「季娘さまが……」
娘の意識はない。
「殴打の痕があるが命に別条はない。貴殿も手当てを受けなさい。ひどい顔だ」
はたと見下ろすとあちこち切り傷が浮いている。痛みはないくらいの浅いものだが、これほどの数が付いているとは。気がついていなかった。
隊長に問いかける。
「国境守備軍、と言われましたね。しかしながら九泉国まではあと丸一日はかかる見通しだと思っていたのですが」
「運が良かった。あの
どこまでも抑揚なく、さくさくと語ると出て行く。保護されたということはとりあえずは拒絶されず入国出来るということなのか。そう思って長く息を吐いた。若藻がまだ涙を零しながら薬を準備する。
「……若藻、すまない。上手く逃がしてやれなかった」
「わたしのことはいいのです。それより季娘さまと、豺が」
「豺はどこへ?」
それが、と用意した湯桶に浸した布を絞った。瑜順の顔を拭きにかかる。
「あの賊らが痛めつけて連れて行ってしまいました」
「そうか……」
借り受けた豺は何梅の従える群れの頭目に準ずる個体だ。自らの意思で命令を無視すると思えなかったが、抵抗出来ないほど痛めつけたのがあの黒衣の少年なら不本意だが納得はできた。
手当てを受けながら先ほどの戦いを反芻する。決して弱兵ではなく、どこぞの軍兵かと思える連携の取れた動きだった。しかし少なくともその中のうちひとりと、あの少年は楓氏の存在を知っていた。
(同族の誼…………?)
ふいに言葉が
彼女たちは自分のことを『
では、と顔を上げる。あの不気味な瞳をした彼もまた楓氏なのか。
「……若藻。俺の目は、何色に見える?」
若藻は突然の話題に戸惑いつつもおずおずと見つめた。
「いつもと変わらず、黒い
聞いて、そう、とぼんやりと頷いた。見目が異なるからといって可能性がないわけではない。とはいえ――、と眠る季娘に視線を向けた。金輪際関わるのは御免こうむる。あれらに対しての興味を全くの否定は出来ないが、それでもまともに交流を持てる相手とも思えない。それに、あの少年は何梅と
二人の賢女が自分をまやかしていると?奇襲してきた見ず知らずのひとりの言では判断できず、むしろあちらのほうが自分を幻惑して騙そうとしているとしか思えない。それに、韃拓が再度の『選定』に
そう結論するほどには、瑜順の信仰は揺らがなかった。
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