三十六章
ほどなく彬州英霜にも東地域と角族の戦いの詳細が
文面には続いてこちらへの指示、国軍との協調を託す旨の内容が書かれていた。もう一通は、個別で瑜順への指令が書かれた女文字の暗号文で、内容を読み終え不安に身を焦がした。何梅は狩猟を断念したのだ。韃拓が――ついに出る。複雑な思いに固く瞼を閉じた。加えて、やはり彬州にとどまったのは正解だったと
年も押し迫った厳寒の日、彬州西の国境の関門から伝令がもたらされ、同日昼に英霜城に現れたのは不可思議な獣に乗った人物だった。
鱗に覆われた短い四足と長い尾を持つ騎獣に乗ったまま、着膨れした防寒着に埋もれた人は、警戒されながらも話を聞いていた衛兵に通されて
「瑜順兄さま!お元気そうで何よりです!」
目の前で膝をつき、顔を覆った
「
瑜順は両手を持って立たせた。
「いろいろと大変だったろう。立派だったね。――引き続き
春に
「それで、韃拓は」
「すでに黎泉へと旅立ちました。白鶻と
そうか、と目を伏せ、それから季娘を運んできた獣を見た。おとなしく凍った地面に座り込み、鱗尾をゆらゆらと波打たせている。
「何梅さまから借り受けた
「お指図では二人で
中樊が言って季娘は頷いた。
「詳しいようでした。それに、韃拓兄がとても信頼していて」
「ほう」
「
「ともかくも鴆鳥毒に効くという薬を持ち帰らねば事は収まらないということなのだな。可能なのか、はたして」
もし話が夢物語の幻の産物だったなら。迅普武によると毒は全国に配るほど大量にはないらしいものの、特効薬が見つからなければ毒の有無に関わらず戦い続けるしか方法はない。
「何梅さまが我々をわざわざ親交もない他国へ
「では、九泉にはその解毒薬が必ずあるのか」
わからない、と季娘は首を振った。「けど、行ってみる価値はあるとお思いになられてる」
「行ってみるしかないだろうな」
そう呟くと、会話の途切れを待っていたのか、側の頭が動いた。
「瑜順、俺も行くぞ」
「
「俺はお前の目付けだぞ」
少年はむくれた。長いこと皆と離されて役目を欲している。東の戦士たちが潰されたのも衝撃だっただろう。個人の詳しい安否、彼の
瑜順はしばし考えるふりをし、首を振った。
「お前には中樊と一緒に彬州の八馗をまとめてほしい。あとは領地との連絡役として
「そんなの、俺じゃなくても」
「彬州の戦力を削りたくない」
韃拓や自分が戻ってくるまでに戦況が動かないとも限らない。そうなればどうしたってまず彬州が剛州と惣州に挟み撃ちに遭い、戦場になる。
「弓射千発千中と
だな、と歯を見せて笑ったほうも察してくれたらしい。渋る満嵐をおだてて持ち上げ、ようよう了承を得た。
九泉にいる葛斎の縁類とどのようにやり取りがなされたのかは分からなかったが、続いて届いた文によれば年始の祭祀中であっても瑜順たちの訪問は許可されるということだった。豺での山越えならばそれほど時はかからないとはいえ、旅の季節としては最も危険で骨の折れる時期だ。準備を整え、新年を迎えるまであと七日ほどという、長引いていた雪嵐がようやく収まった払暁に瑜順と季娘は英霜城の門前を後にした。
混乱を避けるため国境の関門までは使者の旗を立て、街道を使って馬並みの速度で西行する。とはいえ、不寝番で外にいた兵士たちはいかにも
彬州西の国境壁には関門がひとつだけ、西域の他国へ行き来する為の街道が続くが、険道が多く往来が困難であるために主な経路としては直下の惣州、以南の
連絡を受けてすでに門は開いていたが、その前に佇む小さな人をみとめて豺を停止させる。後ろに掴まっていた季娘が何事かと具合を問うた。
「……何してるんだ?」
少女は寒さで震えながらも気丈に見上げた。
「瑜順さま。わたくしもお連れください」
「具合が悪いと聞いていたんだが?」
彬州でのこの下女は数日前から姿を見せず、寝込んでいると伝えられていた。
「申し訳ありません。準備のために少し城を離れておりました。嘘をつきました」
「戻りなさい。本当に風邪を引いてしまう」
首を横に振った。きつく裾を握りしめ、こちらをじっと見据えて動かない。
「
「分かっております」
「……
「河元様に許可は頂いております。瑜順さまにお仕えするようにと」
胸に手を当てて若藻は
「しかし、由霧を越えての旅だ」
「醸菫水も頂きました。問題ございません」
掲げた小瓶を見て瑜順は眉を顰めた。無色透明の質の良いものだ。かなり高価なのだと分かる。
「……そんなものをどうやって手に入れた」
「ですから、河元様から頂いたのです」
「代わりに何を引き換えにしたんだ」
「……今日から三年分の、わたくしに支給される報酬と
しばらく黙って見つめ合う二人を季娘がおろおろと見比べる。
「お連れください」
「……瑜順兄さま、この子くらいだったら豺に乗せても
季娘がおずおずと尻
「――満嵐に見られていたら俺が怒られる」
「じゃあ?」
諦めて頷いた。「若藻はよく気がまわるのは事実だ。何かの役には立つだろう」
季娘は微笑んで少女に手を差し伸べた。
「良かったね」
「しかし、よく一人でここまで。君は小福と共に寝起きしていたのでは?」
「あの子も九泉に行ってみたいと言っておりましたが」
若藻は鱗の背によじ登りながら憮然とした。
「出し抜いてやりました」
堪えきれず季娘が噴き出す。慌てて真面目な顔に戻したものの、口角はひくつく。
「いまごろ地団駄踏んでおりますわ」
「ひどいね。瑜順兄さまが連れて行かないと言ったらどうするつもりだったの?」
二人に挟まれ、外套に包まれながら若藻はしばし黙ったが、広い背を見上げる。
「瑜順さまは、お優しいので。けれど嘘は必ずお見通しになる。なのでこちらも本気でお願いしようと」
「……それほど外に出たいのか。隙を見て逃げるつもりか?」
言いながらすんなりと蔭蝋関を越え、ぱらぱらと手を振り見送ってくれる兵たちに軽く返すと肩越しに問うた。
若藻はゆるく首を振る。「逃げたところで、醸菫水が切れるまでに他の国に辿り着くことなど不可能ですし。……でも、外に出てみたいという思いは否定できません。わたくしはもともと一泉の外から来ました。けれど、元いた場所へ帰ることは出来ない。どこに行っても故郷などない流浪の身ですが、今の居場所が
申し訳ありません、と俯いた。勝手ばかりしたが、断られはしないだろうと彼らの足元を見た。軽んじたのと同じだ。この柔和な男も流石に怒っているだろう。そう思い反省し落ち込んだが、後ろの娘のほうは若藻ごと瑜順に掴まりながら口だけを動かしてよろしく、と特に
朝に九泉への使者を送り出し、今日も忙しく立ち回って息つく暇もなくあっという間に夜を迎えた。頭を垂れて退っていく下官に労いの言葉をかけ、自身もまた州城の中にある官邸に戻る。
独り身の河元には与えられた邸宅は使い切れないほど広い。下仕えが用意した夕餉の皿をこなすように空にし、早々に
「
見知った声に瞬く。明るみに出てきたのは無精髭の男、人当たりの良さげな相好を崩して近づいてきた。
「
すまん、と手を挙げたが悪びれもせずに首を巡らせた。持ち主の性格を表して華美な装飾の一切ない、ともすれば地味な室内を見回し、手近の
「戦のさなかのわりに無防備だな」
「そんなことはなかったはずですよ。あなたがおそろしく忍び込むのが上手いのです」
驚いたのに疲れたのか、河元はやれやれとでも言いたげに肩を落とし茶壺を取り上げた。湯気立つ二人分を淹れると、
「ありがとう。彬州はどうだ?難民は増えているが、まだ混乱などは起きていないようだな」
「今のところは。しかし、長引けばそれだけ困窮するのは目に見えています」
「南三州は国軍側だろう。苦しければ禁軍諸将があちらから物資を回してくれる。それに惣州を先に落とすのだろう?」
のようですが、と自らも椅子に座り直して溜息をこぼした。
「どうなることか。……剛州に行ってきたのですか。よく関を越えられましたね」
陸郁は
なるほど、と河元は呟いた。州軍の中にも謀叛軍を良く思っていない兵はもちろんいるのだ。賄賂を渡せば関の通過を許すほどには。
「巌嶽はどうでした」
「さ。民は逃げることも出来ずに息を殺し、泉宮もひっそりとしている。冬至の
「……偽朝がどれほど正しく祭儀を執り行ったところで、神々に喜ばれるはずもないというのに。……私が言えたことではありませんが、謀叛は
「正当な泉主を失わせていないのなら、天の理は動かんだろうなあ」
「我らはただ、朝廷に彬州の窮状について目を向けて欲しかっただけなのに……」
こんなことになるなんて、と額を押さえた。条理から見て自分たちが正しく行動したとは思っていないが、これ以上民を苦しめることは本懐と真逆だ。
「陸郁、私は禁軍に貴方たちと通じているのではないかと疑われている。ここにはもう来ないほうが良い」
「
「この内乱を裏で焚きつけたのではないか、と。貴方が良かれと思って来てくれているのは知っているし、私も有難い。だがもうこれ以上は」
「お前は俺の恩人で友だ。今でもそう。友の為に働くのは、悪いことなのか?」
朋輩は黙って茶杯を握りしめている。
「錫堂。手を組むよう言っておいてなんだが、禁軍はお前が思うほどお人好しじゃないぞ。危険が迫れば彬州軍を当て馬にするかもしれない。その兆候がないか、目は配っておかなければ」
「ですが……」
「もとは彬州も謀叛を起こした側なのだから、完全には信用されてない。今のところその
「本気で思っていますか?」
問われて、陸郁は頭を掻いた。
「……いや、これは膨らませすぎたかな。淮州でのことを考えるに八馗は一泉を攻撃するつもりがない。采舞の伝聞で民の心象は変化してきている。泉地に降りてきた角族軍には迷惑しているが謀叛軍への評価はもっと最悪だ。羽目を外しすぎたな。あちらもそれが分かっていて下手は打てないとこちらを様子見している節がある。どう転ぶかは俺にも分からんね」
「八馗はここにいる七十程度を残して皆領地に帰還しました。鴆鳥毒が除けない以上、彼らも手は出せない。それに今は牽引する者が軍を離れていますから、こちらに有利不利になるにせよ大した動きはしないと思うのですが」
顎を
「西から貴方の言っていた子も無事に辿り着きましたよ」
聞いてそうそう、と陸郁は手を合わせた。
「
河元はその言葉に呆れて首を振った。
「どうした?」
「貴方は変なところで鈍いのですから。あの子は娘です」
言われて顎を落とした。「うそだろ。ぜんぜん気づかなかった……」
「八馗によく
「ああ……うん。そんなとこだ」
「それでなんでも
「――――え?」
聞いていないのですか、と河元は意外に思って眉を上げた。
「貴方が助けたという重州刺史です。仲間に隠させていたのでしょう?」
「ああ」
「医術の心得があるとかで、霧界を越えさせたと」
言いかけたのを遮り陸郁はいきなり立ち上がった。「――――それで?」
急に硬い声になったのにさらに怪訝に首を傾げる。
「刺史の助言で、鴆鳥毒の解毒薬を求めに角族の使者が九泉へと旅立ちましたが」
「いつだ」
「つい……今朝」
陸郁はせわしなく歩き回り、頬を
「どうしました」
「いや……それならまあ、そのうち俺のところにも報せは来るか……」
思い詰めた顔を観察したが河元は彼の為に心配するのをやめた。なにせ、陸郁は掴めない男だ。自分が知っているのはかつての同輩であり友であるという彼の一側面でしかない。深く知って、自分の立場と役目に影響が出るのも困る。
「ともかくも戦況は動かないまま新年を迎えてしまうことでしょうね。宮の叛軍はこんな時季にあえて陣地から出る必要もないのですから。いっそ、曲汕を攻めたほうが勝ち目はあるのかもしれません」
同意してくるだろうと顔を上げたが、そちらはなおも難しい顔をして腕を組み、無言で燭台の灯火を瞳に映していた。
「陸郁?」
「……なんとも、ややこしいことになった」
やがて溜息を吐くと少し笑ってみせる。
「お前は今まで通り務めを全うしろ、錫堂。お前ほど高潔で仁に
「持ち上げないでください。それに、私はそれほどの高人物では……。よく冷たいと
「ほう?」
「民が苦しむのは私とて耐えられません。けれど個人としては、あまり人や物に執着できない。こうして構ってくれる古馴染みはあなたくらいなものです。現に、自分の泉賤の歓心さえ買えないようで」
「面白いことを言う。お前は泉賤に懐かれたいのか。忠誠心が薄いということか?それでもこの
そこまでべた褒めされては逆に気持ちが悪い、と河元は眉根を寄せた。
「
「さてな。そうなれば俺が人をあてがってやる。しかし、お前の主人としての素っ気ないながら厚い気配りは十分にあれらの
だと、いいのですが、と憂えて陽に灼けた手が振られるのを眺めた。
「やはり寄って正解だった。ともかくも彬州はまだ持ちこたえられる」
「……これから、どこへ?」
陸郁が空にした茶杯を受け取り、河元は呟く。答えてくれる時もあればそうでない時も多いが、なんとなく去り際に掛ける言葉の常套句として訊いてしまう。
今回は返しがあった。
「惣州をまわって桐州へ行く。都水台の舟は動いてるからな、それほど苦じゃない」
「惣州は危険では」
「とうとう朝廷の
「……十分に、気をつけて」
河元も立ち上がり
「朗報が入ったら知らせよう」
ただ頭を下げた友は何も返さず、心細そうな姿に自分も頷き返したのみで、音もなく
澄んだ紺闇の真冬空に冷たく銀の月だけが皓々と掛かる。幽光に照らされた白い大地はどこもかしこも凍ってあらゆる音を吸い込み、きんとしてひと風も無いなか、自分の息遣いだけが大げさに響いている気がした。
――――どうか、あの子だけは。
眼前に広がる夜の荒地に、まるでその色を写し取ったかのような髪色の男が浮かぶ。端正な面立ちを悲痛に
――――私のことはいい。ただあの子のことだけが気がかりでならないのだ。
いい、って言ってもな、と耳奥で
あんたが気張ってるのは知ってる。だから出来る限り手は尽くすが、どう転ぶかはまったく分からない。最悪……と、自分の
(許せとしか言えんぞ――――
分厚い
「葛斎。何か口にしなくては体が
言いながら薬草と食材を抱えて
「何梅……怪我は、どうか」
もう平気です、と氷の入った鍋を火にかけた。色のない透き輝く石がみるみるうちに熱で溶け出し形を失うのを眺め、葛斎は思わずそれに
「……冬至に……間に合わなかった……。お前に骨を折らせるばかりで」
「何を言うの。貴女はよくやってくれている。間に合わなかったのは私のほう」
何梅はそっと友の細く冷たい手を握り込む。
「この二十数年、私たちは出来る限りのことをしてきた。天もそれを認めてくださりあの子たちを与えたもうた。あと一年待つことくらい造作もない。そうでしょう?」
しかし葛斎の
「本当に、このやり方で合っているのか……?」
「やってみるしかない」
「
「葛斎。我らはやるしかない」
言った顔はなんの色も窺えない。それに心中で
「九泉主が
「あの男は我らのことにはなんの拘りもない。己に害がないから高みの見物をしているだけです」
彼は観測者であり傍観者として、味方でもなければ敵でもない、と何梅は思っている。
「『あちら側』とどう関わっているのかも知ったことではないが、我らは我らのことに集中しよう」
「……お前は、それでいいのか……。仮にも、あの子はお前が手ずから拾った
情が移った。やはり葛斎でさえあの妖姿に
「角公にはまだ全てを伝えておらんのだろう?」
「伝えては支障が出る。韃拓の気性を見てみなさい。御し
「采舞のことで恨みを買ってしまったのではないか」
さらに心配を並べ立てた彼女は自分の前だといつもこうして小心者に成り下がるのだ。元来の気質が顔を出すと言ってもいい。真面目で繊細で思慮深い深窓の姫君。薄く
「大丈夫。大丈夫よ、葛斎。韃拓の成功を信じましょう」
「綱渡りだ。ずっと、ずっと……」
苦しい、と瞳が訴えてきて、何梅は友を抱き寄せた。彼女は己が良かれとしてきたことに疑念を抱き始めている。目的の達成までに長く時がかかりすぎて精神を
「葛斎、たしかに貴女は
葛斎は何梅の言葉になら
「貴女は間違いなく救世の
そのまま飲み込んで。
「
言えば、黒目がちの瞳を大きく開き、泣き出す直前のように唇を震わせた。
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