三十二章
しばらく韃拓は無言で見返していた。悪い冗談を言うような人でないことは、自分がいちばんよく知っている。
「……本当にどうしたんだ、媽媽。らしくねえぞ」
何梅はゆっくりと
「来なさい」
短く言うと天幕から出て
「それに、なんだってそんなに弱ってる。病か?」
いいえ、と微笑みの中に自嘲を浮かべた。「それもこれから話しましょう。顔を隠しなさい。障りがあります」
「近づいたら駄目だ」
もし
内にはもう何枚か、外装と相反して高価な
韃拓、とすぐ前で何梅が呼び掛けた。
「『選定』とは、一体なんのためにあると思いますか」
「……当主を決めるための試練だと聞いてきた」
「なぜ必要だと?」
「『選定』を通過しなけりゃ、獣の主にはなれない。当主がいなければ領地の守護に支障が出る」
視界の無い暗室で母が頷く気配がした。もう一人――いや、もう二人、息を潜めている気配がする。韃拓は胡乱な気配に緊張した。狛を
「しかし、そもそもの『選定』とは目的の異なるものだった。我々はその試練を乗り越えることで一族への忠誠と能力の誇示を表してきたが、『選定』を通過するということはそれ以上に大きな意味を持つ。……ここからは」
奥に呼び掛け、何梅は明かりをひとつ点けた。薄ぼんやりとした橙色の光が滲み、韃拓は一瞬目を逸らす。
「――泉外民の『選定』とは非常に
聞き覚えのある声にはっと瞠目した。正面に
「久しく
「…………太后⁉」
驚きの声を上げたのに黙って頷く女と何梅とを見比べる。
「どうやって……いつから」
「夏の終わり、一泉の宮城が不法者によって占拠され、
こうして、と幕内を見回す。「
「……泉主は」
「いまだ泉宮に囚われておいでだ。しかし命までは
韃拓は
「あんたが無事なら同盟は続けるってことでいいんだよな?」
「無論じゃ。妾はどうしてもそなたらの力が必要なのだから」
「それで、『選定』がどうしたってんだ?この状況となんの関わりがある。なにやら詳しいようだが、なぜあんたがそんなことを知ってる」
葛斎は
「妾が知っているのはひとえに何梅らと関わってきたからゆえ。角公は『選定』において従えられる神獣をご存知か」
韃拓は隣に座した何梅を見た。「……上辺だけなら。
「それだけ本来の姿の片鱗を
世界の、と葛斎は手で輪をつくってみせた。
「大泉地における天地
「大昔に大洪水が起き、水神は鎮めるためにこの地を泉で
「その通り。じゃが、角族に――泉外民に伝わる創世神話はまるきり異なる。そうであろ?」
韃拓が再び隣に顔向けば母は湯を沸かしながら頷く。
「かつて、
「陰……」
「神がいた。人の
「それが?」
「お前はおかしいとは思わないのですか?なぜこれほどまでに泉地と泉外地で事の
そうは言っても、本当にあったのかもわからない神話などいくらでも時の流れの中で歪曲出来るし、そもそも二人がなぜ今こんな話をしているのかよく分からない。
「俺たちの先祖はずっと由霧に囲まれた中で暮らしてきた。掠奪はしても泉地の人間とは関わらずに来たんだろ?
「大泉地とはいわゆる
葛斎が何梅から碗を受け取り、湯気の向こうからひたと見つめた。
「ゆえに、泉民の
「その目的ってのはつまり、俺たちが認識してきた『選定』ってのはこういうことだ、という理解の以前に、本当は
葛斎は心の内では微笑んだ。一見考えなしのように見えたこの青年もやはり何梅の息子だ。本気になれば頭がまわる。
「そういうことだえ。角公、そなたはどのように
「どのようにって……黎泉の外淵で出くわして闘ったが」
「そうして、狴犴に『選定』を受諾されたのであろ。幻を
韃拓はやはり母の入れ知恵か、と窺った。
「それを我々は
「天祐…賜器」
「外史の神々から授かった神器じゃ」
葛斎の言う我々とは誰のことを言っているのかは分からなかったが、他にもこの話を信じている者がいるのだ。
「『選定』とは、大泉地を崩すための『
――――崩す、鍵。まるで理解が追いつかない韃拓にさらに淡々と言が重ねられる。
「大泉地は水神から分かたれた九人の子、すなわち九子によって出来上がっている。九泉全ての王統とはこの九人の直系の
すなわち、と葛斎は今度は何梅を見つめた。受けて静かに継ぐ。
「私の下した
「それで、獣と契約した者が、泉地を崩す?どういうことだ?」
「大泉地とは『世界』から閉ざされた
韃拓はしばらく二人を見比べていた。
「……託された、って……誰から」
「外史の神々。いや、むしろ外史のほうが本来は正当なる神々なのじゃ」
「お前は
巨大な木の
「泉外民の『選定』通過者とはつまり泉地を浄化する為の『鍵』を手に入れた者たちなのだ」
「今この世はあるべき姿ではない。鍵の力を用いれば由霧は晴れ、大泉地は真にひとつになる。そうなれば我ら
「泉の……」
「そうなれば誰も水を求めて戦を起こしたりしなくなる。その為に、お前には是非とも協力して欲しいのです」
韃拓は頭を掻いた。
「なんか壮大な話になってるけどよ、俺たちは今は一泉の内乱を平定すんのを優先すべきじゃねえのか」
「もちろんです。しかしお前が再び『選定』を受け、狛に加えてさらに獣の九子を支配下に置くのならば戦況は圧倒的にこちらに有利になる。結果的に一泉の平定に貢献出来る」
かつて韃拓は
「……さっきの、一匹足りなかったが?」
葛斎は少しばかり俯いた。
「人と獣の九子どうしは対応する。
聞いて、そうか、と何梅を見た。
「それを下すために傷を受けたのか」
「……そう」
胸を押さえた。「しかし、いまだかなわず」
「媽媽でさえ手間取るような獣を俺にどうこうできるとも思えんが。太后、媽媽は豺をひと月で手に入れて帰ってきた。鱗だらけの睚眦ってのは本来ならとびきり獰猛だと聞く。獣としての姿をとどめる狴犴とは格が違う」
「今のお前にならば出来ると私は思っています。それに、我々には時が無いのです」
韃拓は眉を上げた。
「なにを焦ってる?」
おもむろに、何梅は袖をまくり上げた。白いふっくらとした腕の、肌に走る幾筋かの赤い傷痕に目が釘付けになった。
「……こないだのやつは、見間違いじゃなかったんだな」
「我らは若さを尊び、
一度思い詰めるように唇を引き結んだ。
「……主な理由はこれだ。一度『選定』を通過し、角族の王に君臨した者は程度の差こそあれど生来の
わずかに眉尻を下げた。「黙っていたことは謝ります。しかし韃拓、我らには力あるお前が必要だった。当主としてのお前が」
「……そんな話は一度も聞いたことがない。媽媽だけでなく、皆そうだったと?」
「明かせるはずがない。歴代当主は皆、このことが『選定』に関わって起こった事象だと悟る。広まれば『選定』を受ける者がいなくなり一族のかたちが崩れる」
「なぜ『選定』を通ると鋼兼が
「角族は生粋の泉外民ではないからというのが我々の見解じゃ」
口を挟んだ葛斎が無感動な目であらぬほうを見据えた。
「角族には
「俺は見たことはない」
「左様、今ではおらぬと聞く」
「赤毛が生まれるから、なんだってんだ?」
葛斎は骨ばった指を立てた。
「知っておろう。大泉地の天帝とは赤い髪の水神だという。さきに申したとおり、泉民と泉外民とは元来関わってこなかった、隔てられた種族なのだ。であるにもかかわらず角人には
「伝承では天帝の子である
韃拓は
「俺たちには半分泉地の神の血が流れるから、『選定』を受けると鋼兼が失くなる?その泉地の天帝と泉外人の神とやらは喧嘩でもしてたのか」
「言い得て妙だの。過言ではない。いわば角族は泉地と外界、どちらの血をも受け継ぐ特殊な民。『選定』とはつまり『
ようやく合点がいった。
「なるほどな。鋼兼がなければ九子を下すことが出来ない、と。媽媽はもうすぐ闘えなくなるということか」
そうか……そうか。韃拓はその事実を今の今まで知らなかった。だから友はあれだけ賢く武技に優れていても『選定』を受けようとはしなかったのだ。よくよく考えてみれば分かったことだ。しかし、鋼兼という特質があまりにも身近に溢れすぎていて、ただの由歩では獣を従えられないことなど、考えてもみなかった。
何梅は頷いた。
「そうなれば『鍵』の力も失われ、泉地に介入することも出来なくなる。我々が水の大地にありつける可能性がさらに遠くなるのです」
「だから俺にさらに九匹の獣を下せと。しかし神獣を二匹も三匹も従えている奴を見たことはないぞ。そんなこと可能なのか?それに数を揃えれば力が増すとでも?」
訴えに葛斎が呆れたように何梅を見れば、いつもの感情の分からない笑みを浮かべた。
「自身の力そのものが強まるわけではないけれど……いわば汎用が利くとでも言おうかしら」
「意味が分からない」
「私には既に七つの
目を見開いた韃拓にしかし、と続けた。
「肝心の一泉の九子が下せないのです。あれは強大すぎる。とてつもなく
「それほどなら、俺には」
無理だ、と突き放したのには首を振られた。
「お前は受け継いでいる。苛烈なまでの闘志と力を。常ならばすぐに忘れてしまう『選定』の幻をお前は憶えていた。七度繰り返し受けた私さえ
「
「私の母は一泉の九子を従えていた」
呆気に取られた空気にさもありなんと頷いたが、息子はまだ聞いた言葉を咀嚼するのに苦労しているようだ。
「姥姥が……?そんなのアリか。だって、」
「信じられないでしょうがともかくもそういうことなのです。……お前になら、同じことが出来るはず。まだ鋼兼の力が弱まっていない、お前なら」
韃拓は大きく息を吐いた。絵空事じみた話に閉口したが、まやかしだと一蹴することも出来ない。現に自分とて不可思議な体験をしたからだ。それに、目の前の賢女二人からこんな話を真剣にされては信じるしかない。
「……それで、その一泉の九子とやらはどんな獣なんだ?」
葛斎が吟じるように口を開く。
「人に甚大な被害をもたらす大いなる
続けるに合わせ、何梅も呟いた。
「
「私の母が倒したのは力を弱めて麅鴞の姿を
「弱めるといったって、姥姥や媽媽はそんな奴とどうやって闘ったんだ?」
「そこで賜器だ。天祐賜器があれば有用じゃ。おぬしはすでに賜器を持っておるゆえ、饕餮に対抗しうる」
分からない、とさらに二人を見比べた。
「いや、媽媽と太后が俺に頼んでる内容は理解出来た。だが、なぜそいつを倒さなきゃいけない?それは今絶対に必要なことなのか?」
「必要じゃ。真に火急とは言えぬが、近いうちに必ず饕餮は隷下に置いておかねばならぬのだ」
「『鍵』の完成の為に?」
問えば二人に頷かれ、どうたものか、とざらつく顎を撫でた。
まだ訊きたいことは山ほどあるが、ともかく葛斎と何梅は互いに手を組み角族に水の地を与えんと奔走してきたことは飲み込めた。であるなら尚更、一泉の叛乱の早期解決を優先すべきなのではないか。
「そうは言っても、
懸念を口にすると葛斎が首を振った。「幸いにして禁軍全てが寝返ったわけではない。味方となんとか
「こんな戦の渦中で俺が死んだら目も当てられないんじゃねえか?」
これには何梅が笑んだ。
「お前はたとえ饕餮に出
「買いかぶりだ」
「この私の見立てが信じられない、と?」
妄信ではなく冷静な判断だと返されて唸る。
「それに、このことは瑜順もすでに知っている。再会したら訊いてみるといい」
そうなのか、と呟いた。友がすでに九子についてと状況を把握した上で行動しているのならば、信憑性はある。『選定』が眼中になかったのが証拠だ。
韃拓がそう即座に思ったのを見透かし、女二人は彼に気がつかれないほどの一瞬、目配せした。
ついに降参した。
「分かった。だがとにかく、解毒の対策が出来るまでだ。敵軍攻略の目処が立ち次第、すぐに出兵する。
「もちろんです。……韃拓、恩に着ますよ。お前が素直に話を聞いてくれて助かりました」
「まだ半信半疑だけどな。媽媽、本当に七匹も下したのか」
「信じられないのなら
「
「知りません。特に口止めはしませんよ。ただ、あの人は私に気を遣いすぎるから」
「別に言いふらしたりはしねえけど」
肩を竦めた。
「それで、その饕餮?麅鴞?とやらはどこにいるもんなんだ?」
「黎泉外淵、神域になら
「媽媽が捕まえようとしたのは?」
「最北の天衝壁に沿った崖の底です。全てを飲み尽くすことを好むということは、姿を曝していれば己さえも
「どうやって探す」
「谷へ降りればそのうちに自ずと出てくる。あれは他の生き物を喰らいたくてたまらないのです。獣であれ、人であれ、目の前に居る者全てを身の内に宿さねば自身を保てないのだと、私は思っている」
そんなものからよく逃げて来られたな、と呆れと感心混じりに見遣れば、母はいつもの笑みを浮かべて腕を
「鋼兼の力が残っていなければ、今ごろ両腕両脚はもがれていたでしょう」
「そんなものと闘わなきゃなんねえのか……とんだ役回りだ」
葛斎が少しばかり気安く笑った。
「角公はとことん
「こんな運命なら要らねえなあ」
「いいや。これはおぬしにしか出来ぬことぞえ。――一泉の、泉地の安寧の為に、宜しく頼む」
「俺は難しいことはよくわかんねえ。細かいことはあんたらに任す。化物一匹狩って気が済むんならやってやるよ」
そう手を振ったところで、
「お
「起きたか。まだ寝ていて良かったのに」
「……どなたですか?」
しばらく挙動を見ていた韃拓は王太子の無垢な様子を鼻で笑った。胡座の後ろに両手をついて
「
怖いのか、
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