三十二章



 しばらく韃拓は無言で見返していた。悪い冗談を言うような人でないことは、自分がいちばんよく知っている。

「……本当にどうしたんだ、媽媽。らしくねえぞ」

 何梅はゆっくりとしとねから這いで、緩慢な動きで披風かぜよけを羽織った。

「来なさい」

 短く言うと天幕から出ていざなう。おとなしく従い、危なげな足取りを軽く支えながら歩む。

「それに、なんだってそんなに弱ってる。病か?」

 いいえ、と微笑みの中に自嘲を浮かべた。「それもこれから話しましょう。顔を隠しなさい。障りがあります」


 囲巾えりまきで首から上を覆い、歩き続けて家々から離れ、ふと前方を見るとさきほど水の丘を訪う途中で通った道が遠くにある。目を戻せば行く先には旗の立った粗末な天幕が迫っていた。

「近づいたら駄目だ」

 もし伝染うつったら。足を止めた息子にしかし母は聞かず、ゆるく頭を振ってあたりを見回す。集落からかなり離れたここに人影は無い。それを確認して薄汚れた帷帳とばりをめくった。

 内にはもう何枚か、外装と相反して高価な綵帳あやぎぬの垂れ幕、次々とくぐり、手狭な奥へと辿り着く。灯火はなく暗闇だ。


 韃拓、とすぐ前で何梅が呼び掛けた。


「『選定』とは、一体なんのためにあると思いますか」

「……当主を決めるための試練だと聞いてきた」

「なぜ必要だと?」

「『選定』を通過しなけりゃ、獣の主にはなれない。当主がいなければ領地の守護に支障が出る」

 視界の無い暗室で母が頷く気配がした。もう一人――いや、もう二人、息を潜めている気配がする。韃拓は胡乱な気配に緊張した。狛をんだほうがいいか?いや、危険な状況とはまた違う。


「しかし、そもそもの『選定』とは目的の異なるものだった。我々はその試練を乗り越えることで一族への忠誠と能力の誇示を表してきたが、『選定』を通過するということはそれ以上に大きな意味を持つ。……ここからは」


 奥に呼び掛け、何梅は明かりをひとつ点けた。薄ぼんやりとした橙色の光が滲み、韃拓は一瞬目を逸らす。


「――泉外民の『選定』とは非常に枢要すうようなるものである。本来なら、この寰宇かんうの根本を揺るがす大事なのだ」


 聞き覚えのある声にはっと瞠目した。正面にわだかまるのは黒い影。背後には小柄な少年が横たわっている。影は細い指で頭から被った紗布を落としてみせた。

「久しく無音ぶいんだった。元気そうで何よりじゃ、角公」

「…………太后⁉」

 驚きの声を上げたのに黙って頷く女と何梅とを見比べる。

「どうやって……いつから」

「夏の終わり、一泉の宮城が不法者によって占拠され、わらわは何梅を頼って角族の夏営地――熊と草の地まで落ち延びた。それから刹瑪にかくまわれていたのじゃ」

 こうして、と幕内を見回す。「瘟疫えやみのふりをすれば看病の女たち以外、人も近寄らぬ」

「……泉主は」

「いまだ泉宮に囚われておいでだ。しかし命まではられぬ。泉根がこちらにいるのだから、いま姜坎きょうかんしいせば己らの首が絞まる」

 韃拓は葛斎かつさいの傍らで眠る少年を見遣る。やつれてはいるが別条はなさそうだ。

「あんたが無事なら同盟は続けるってことでいいんだよな?」

「無論じゃ。妾はどうしてもそなたらの力が必要なのだから」

「それで、『選定』がどうしたってんだ?この状況となんの関わりがある。なにやら詳しいようだが、なぜあんたがそんなことを知ってる」

 葛斎は儲君ちょくんを一度撫で、改めて向きなおった。


「妾が知っているのはひとえに何梅らと関わってきたからゆえ。角公は『選定』において従えられる神獣をご存知か」

 韃拓は隣に座した何梅を見た。「……上辺だけなら。黎泉れいせんを守護する、九匹の魔物。うろこ混じりは下すのが難しい」

「それだけ本来の姿の片鱗をのこすものは力が強いからじゃ」

 世界の、と葛斎は手で輪をつくってみせた。

「大泉地における天地開闢かいびゃくの言い伝えのことは?」

「大昔に大洪水が起き、水神は鎮めるためにこの地を泉でふうじた……神話だろ?」

「その通り。じゃが、角族に――泉外民に伝わる創世神話はまるきり異なる。そうであろ?」

 韃拓が再び隣に顔向けば母は湯を沸かしながら頷く。

「かつて、天衝壁てんしょうへきで囲まれたこの寰宇はひとつの山だった。これは泉地の言い伝えと同じ。しかし、異民族に伝わるのは、大泉地とは広い世界の裏側、またはかげにあり、世界そのものではないということです」

「陰……」

「神がいた。人のあたまに蛇のからだ女皇めがみ。その名を女媧ジョカという。この世の人を形造り、神々の戦で均衡の崩れた世界が水害に見舞われた時に天地を修復し、陰陽いんようを整合したという」

「それが?」

「お前はおかしいとは思わないのですか?なぜこれほどまでに泉地と泉外地で事のおこりが異なるのか」


 そうは言っても、本当にあったのかもわからない神話などいくらでも時の流れの中で歪曲出来るし、そもそも二人がなぜ今こんな話をしているのかよく分からない。


「俺たちの先祖はずっと由霧に囲まれた中で暮らしてきた。掠奪はしても泉地の人間とは関わらずに来たんだろ?御伽話おとぎばなしが泉地と全く違ったって不思議じゃない。なにか問題なのか?」

「大泉地とはいわゆる泉外史せんがいしで語られる時の流れとは隔絶された場所なのだ」

 葛斎が何梅から碗を受け取り、湯気の向こうからひたと見つめた。

「ゆえに、泉民のあがめる天帝もまた外史に出てくる神々とは異なる。泉外地では泉地の正史の言い伝えが全く入らずに歴史を刻んで来たため、『選定』の本来の目的は失われ、意義も意味も各部族で独自に解釈された通過儀礼と成り果てたのだ。しかし、『選定』にはれっきとした目的がある」

「その目的ってのはつまり、俺たちが認識してきた『選定』ってのはこういうことだ、という理解の以前に、本当はあらかじめ何かのために決められた儀式だったということでいいのか?」

 葛斎は心の内では微笑んだ。一見考えなしのように見えたこの青年もやはり何梅の息子だ。本気になれば頭がまわる。

「そういうことだえ。角公、そなたはどのように狴犴へいかんを下した?」

「どのようにって……黎泉の外淵で出くわして闘ったが」

「そうして、狴犴に『選定』を受諾されたのであろ。幻をたあとに武具を授かったな?」

 韃拓はやはり母の入れ知恵か、と窺った。

「それを我々は天祐賜器てんゆうしきと呼ぶ」

「天祐…賜器」

「外史の神々から授かった神器じゃ」

 葛斎の言う我々とは誰のことを言っているのかは分からなかったが、他にもこの話を信じている者がいるのだ。


「『選定』とは、大泉地を崩すための『かぎ』を見い出す為にある」


 ――――崩す、鍵。まるで理解が追いつかない韃拓にさらに淡々と言が重ねられる。


「大泉地は水神から分かたれた九人の子、すなわち九子によって出来上がっている。九泉全ての王統とはこの九人の直系の苗裔びょうえいであるとされる……そして各泉を成した九天子から、かれて生まれた九頭の獣がある。その九獣——九地子が『選定』において下すことの出来る神獣のことじゃ」

 すなわち、と葛斎は今度は何梅を見つめた。受けて静かに継ぐ。

「私の下したサイ、つまり睚眦がいさいや、お前のハクである狴犴もその九地子の一ということ。下せる獣にはあと七頭ある。蚣蝮こうふく狻猊さんげい贔屓ひき螭吻ちふん蒲牢ほろう椒図しょうず…………。これらはもともとが九人の子からそれぞれに生じた神獣なのです。もうひとつの、半双かたわれの九子と言っていい。我々は『選定』においてこれらとちぎり支配下に置く」

「それで、獣と契約した者が、泉地を崩す?どういうことだ?」

「大泉地とは『世界』から閉ざされた一隅ひとすみなのです。この地をきよめる使命を託された者、それが『選定』を通過した者なのです」

 韃拓はしばらく二人を見比べていた。

「……託された、って……誰から」

「外史の神々。いや、むしろ外史のほうが本来は正当なる神々なのじゃ」

「お前はおぼえていたでしょう、あの幻を」


 巨大な木のそびえた、夢の中の出来事。謎の生き物。あれが神々だったというのか。


「泉外民の『選定』通過者とはつまり泉地を浄化する為の『鍵』を手に入れた者たちなのだ」

「今この世はあるべき姿ではない。鍵の力を用いれば由霧は晴れ、大泉地は真にひとつになる。そうなれば我ら夷狄いてきも泉の恩恵を分け隔てなく受けることが出来るのです」

「泉の……」

「そうなれば誰も水を求めて戦を起こしたりしなくなる。その為に、お前には是非とも協力して欲しいのです」

 韃拓は頭を掻いた。

「なんか壮大な話になってるけどよ、俺たちは今は一泉の内乱を平定すんのを優先すべきじゃねえのか」

「もちろんです。しかしお前が再び『選定』を受け、狛に加えてさらに獣の九子を支配下に置くのならば戦況は圧倒的にこちらに有利になる。結果的に一泉の平定に貢献出来る」


 かつて韃拓は二月ふたつきで『選定』を終え、狛を手に入れた。長く時をかける暇はない。葛斎も何梅もその高い能力を見込んでのことだ。しかし即答はせず、腕を組んだ。

「……さっきの、一匹足りなかったが?」

 葛斎は少しばかり俯いた。

「人と獣の九子どうしは対応する。もとを同じくするからだ。一泉は、水神から初めに生まれた九子。ゆえに九獣も他とは別格に強大な神獣じゃ。下すのは並大抵のヒトでは無理だ」

 聞いて、そうか、と何梅を見た。

「それを下すために傷を受けたのか」

「……そう」

 胸を押さえた。「しかし、いまだかなわず」

「媽媽でさえ手間取るような獣を俺にどうこうできるとも思えんが。太后、媽媽は豺をひと月で手に入れて帰ってきた。鱗だらけの睚眦ってのは本来ならとびきり獰猛だと聞く。獣としての姿をとどめる狴犴とは格が違う」

「今のお前にならば出来ると私は思っています。それに、我々には時が無いのです」

 韃拓は眉を上げた。

「なにを焦ってる?」


 おもむろに、何梅は袖をまくり上げた。白いふっくらとした腕の、肌に走る幾筋かの赤い傷痕に目が釘付けになった。


「……こないだのやつは、見間違いじゃなかったんだな」

「我らは若さを尊び、老耄ろうもうを軽んずる。全てにおいて力ある戦士を指導者として崇める。角族の当主が死ぬまで首座を守った例が少ないのはそういう理由もあるが」

 一度思い詰めるように唇を引き結んだ。

「……主な理由はこれだ。一度『選定』を通過し、角族の王に君臨した者は程度の差こそあれど生来の鋼兼ハガネ能力ちからうしなってゆくのです。だから当主は早くに後継を見定めて次代に『選定』を受けさせ、禅譲ぜんじょうし表舞台からは姿を消す」

 わずかに眉尻を下げた。「黙っていたことは謝ります。しかし韃拓、我らには力あるお前が必要だった。当主としてのお前が」

「……そんな話は一度も聞いたことがない。媽媽だけでなく、皆そうだったと?」

「明かせるはずがない。歴代当主は皆、このことが『選定』に関わって起こった事象だと悟る。広まれば『選定』を受ける者がいなくなり一族のかたちが崩れる」

「なぜ『選定』を通ると鋼兼がくなる?」

「角族は生粋の泉外民ではないからというのが我々の見解じゃ」

 口を挟んだ葛斎が無感動な目であらぬほうを見据えた。

「角族には騂髪あかがみが生まれることは周知の事実ゆえ」

「俺は見たことはない」

「左様、今ではおらぬと聞く」

「赤毛が生まれるから、なんだってんだ?」

 葛斎は骨ばった指を立てた。


「知っておろう。大泉地の天帝とは赤い髪の水神だという。さきに申したとおり、泉民と泉外民とは元来関わってこなかった、隔てられた種族なのだ。であるにもかかわらず角人には神裔こはなしるしが現れる。角族は文献が少ないゆえ濫觴らんしょうの詳細は分かっておらぬが、泉地の神と交わりがあるのは確かなようじゃ」

「伝承では天帝の子である地祇ちぎの神の血を引き広がったと聞く。我々の間では女神佛朶フツダ、角八祖子はそこから生まれた」

 韃拓は胡座あぐらの上で頬杖をつく。

「俺たちには半分泉地の神の血が流れるから、『選定』を受けると鋼兼が失くなる?その泉地の天帝と泉外人の神とやらは喧嘩でもしてたのか」

「言い得て妙だの。過言ではない。いわば角族は泉地と外界、どちらの血をも受け継ぐ特殊な民。『選定』とはつまり『天啓てんけい』をけることじゃ。おそらく内なる二つの血がせめぎあっておるのが、天啓によって均衡が崩れる、その結果が鋼兼の喪失なのであろうな。皮肉なものじゃ。由歩ゆうほでなければ鋼兼の力は顕現せず、鋼兼でなければ天啓を授からないというのに、天啓者となれば相反して力は失われてゆく……だから時が無いのだ、角公」

 ようやく合点がいった。

「なるほどな。鋼兼がなければ九子を下すことが出来ない、と。媽媽はもうすぐ闘えなくなるということか」


 そうか……そうか。韃拓はその事実を今の今まで知らなかった。だから友はあれだけ賢く武技に優れていても『選定』を受けようとはしなかったのだ。よくよく考えてみれば分かったことだ。しかし、鋼兼という特質があまりにも身近に溢れすぎていて、ただの由歩では獣を従えられないことなど、考えてもみなかった。


 何梅は頷いた。

「そうなれば『鍵』の力も失われ、泉地に介入することも出来なくなる。我々が水の大地にありつける可能性がさらに遠くなるのです」

「だから俺にさらに九匹の獣を下せと。しかし神獣を二匹も三匹も従えている奴を見たことはないぞ。そんなこと可能なのか?それに数を揃えれば力が増すとでも?」

 訴えに葛斎が呆れたように何梅を見れば、いつもの感情の分からない笑みを浮かべた。

「自身の力そのものが強まるわけではないけれど……いわば汎用が利くとでも言おうかしら」

「意味が分からない」

「私には既に七つの下僕しもべがいる」

 目を見開いた韃拓にしかし、と続けた。

「肝心の一泉の九子が下せないのです。あれは強大すぎる。とてつもなく禍々まがまがしくもはや獣と呼べる代物ではない」

「それほどなら、俺には」

 無理だ、と突き放したのには首を振られた。

「お前は受け継いでいる。苛烈なまでの闘志と力を。常ならばすぐに忘れてしまう『選定』の幻をお前は憶えていた。七度繰り返し受けた私さえおぼろにしか思い出せなかったものを、一度受けただけで五年は経っている今でもそらんじた。お前の能力は祖母に瓜二つです。私とは違って」

姥姥ばあさん?」

「私の母は一泉の九子を従えていた」

 呆気に取られた空気にさもありなんと頷いたが、息子はまだ聞いた言葉を咀嚼するのに苦労しているようだ。

「姥姥が……?そんなのアリか。だって、」

「信じられないでしょうがともかくもそういうことなのです。……お前になら、同じことが出来るはず。まだ鋼兼の力が弱まっていない、お前なら」


 韃拓は大きく息を吐いた。絵空事じみた話に閉口したが、まやかしだと一蹴することも出来ない。現に自分とて不可思議な体験をしたからだ。それに、目の前の賢女二人からこんな話を真剣にされては信じるしかない。


「……それで、その一泉の九子とやらはどんな獣なんだ?」

 葛斎が吟じるように口を開く。

「人に甚大な被害をもたらす大いなるわざわい。大凶とされその存在は忌避されてきた。ゆえに名をはばかり様々な仮名かりなで伝えられる。得体の知れぬものとして鵺鵼やこう、全てを暴き、食らいつくし滅ぼすゆえに疆奪きょうだつ、古くはけものむさぼると書いた。転じて、悪鬼邪鬼不祥もなべてこだわりなく飲み込む性分のゆえに辟邪まよけの神獣としてもおそれられる。諸説あるが、真名はそのような特徴を表して」

 続けるに合わせ、何梅も呟いた。


饕餮とうてつ、……と呼び習わす。いずれの名にしてもなべてその神妖を示す。力溢れる姿は大地に空いた大虚おおうろのよう、ときに獣の形をとり、獣形の饕餮を麅鴞ホウキョウなどとも呼び分けるそうだが」

「私の母が倒したのは力を弱めて麅鴞の姿をさらしたものです。麅鴞になればその他の神獣と同じく下すのは容易だと」

「弱めるといったって、姥姥や媽媽はそんな奴とどうやって闘ったんだ?」

「そこで賜器だ。天祐賜器があれば有用じゃ。おぬしはすでに賜器を持っておるゆえ、饕餮に対抗しうる」

 分からない、とさらに二人を見比べた。

「いや、媽媽と太后が俺に頼んでる内容は理解出来た。だが、なぜそいつを倒さなきゃいけない?それは今絶対に必要なことなのか?」

「必要‪じゃ。真に火急とは言えぬが、近いうちに必ず饕餮は隷下に置いておかねばならぬのだ」‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬

「『鍵』の完成の為に?」

 問えば二人に頷かれ、どうたものか、とざらつく顎を撫でた。


 まだ訊きたいことは山ほどあるが、ともかく葛斎と何梅は互いに手を組み角族に水の地を与えんと奔走してきたことは飲み込めた。であるなら尚更、一泉の叛乱の早期解決を優先すべきなのではないか。


「そうは言っても、鴆鳥毒ちんちょうどくへの有効な対処が定まっていない以上、無闇な反撃はできぬ」

 懸念を口にすると葛斎が首を振った。「幸いにして禁軍全てが寝返ったわけではない。味方となんとか連繋れんけいし、叛逆者らを掃討する打開策を練りつつ、角公には一泉の九子を下して欲しいのじゃ」

「こんな戦の渦中で俺が死んだら目も当てられないんじゃねえか?」

 これには何梅が笑んだ。

「お前はたとえ饕餮に出っても死ぬことはない。それは私が請け負う」

「買いかぶりだ」

「この私の見立てが信じられない、と?」

 妄信ではなく冷静な判断だと返されて唸る。

「それに、このことは瑜順もすでに知っている。再会したら訊いてみるといい」


 そうなのか、と呟いた。友がすでに九子についてと状況を把握した上で行動しているのならば、信憑性はある。『選定』が眼中になかったのが証拠だ。

 韃拓がそう即座に思ったのを見透かし、女二人は彼に気がつかれないほどの一瞬、目配せした。


 ついに降参した。

「分かった。だがとにかく、解毒の対策が出来るまでだ。敵軍攻略の目処が立ち次第、すぐに出兵する。ひん州に残った八馗はっきにも今後の動きを伝えておかないと」

「もちろんです。……韃拓、恩に着ますよ。お前が素直に話を聞いてくれて助かりました」

「まだ半信半疑だけどな。媽媽、本当に七匹も下したのか」

「信じられないのならんでもいいけれど、皆の前では混乱が起きよう」

爸爸おやじは知らないのか?」

「知りません。特に口止めはしませんよ。ただ、あの人は私に気を遣いすぎるから」

「別に言いふらしたりはしねえけど」

 肩を竦めた。

「それで、その饕餮?麅鴞?とやらはどこにいるもんなんだ?」

「黎泉外淵、神域にならふるいままの姿をとどめた九地子がんでいるだろうが、饕餮というのは二、三日探して易々と見つかるものではない」

「媽媽が捕まえようとしたのは?」

「最北の天衝壁に沿った崖の底です。全てを飲み尽くすことを好むということは、姿を曝していれば己さえもおかしかねないということ。だから視界のない闇にまぎれる」


 九陰とこやみに溶け込み、自らのかたちさえも分からないほどに光のない空処にいる。


「どうやって探す」

「谷へ降りればそのうちに自ずと出てくる。あれは他の生き物を喰らいたくてたまらないのです。獣であれ、人であれ、目の前に居る者全てを身の内に宿さねば自身を保てないのだと、私は思っている」

 そんなものからよく逃げて来られたな、と呆れと感心混じりに見遣れば、母はいつもの笑みを浮かべて腕をさすった。

「鋼兼の力が残っていなければ、今ごろ両腕両脚はもがれていたでしょう」

「そんなものと闘わなきゃなんねえのか……とんだ役回りだ」

 葛斎が少しばかり気安く笑った。

「角公はとことん運命さだめを引き寄せるようだの」

「こんな運命なら要らねえなあ」

「いいや。これはおぬしにしか出来ぬことぞえ。――一泉の、泉地の安寧の為に、宜しく頼む」

「俺は難しいことはよくわかんねえ。細かいことはあんたらに任す。化物一匹狩って気が済むんならやってやるよ」


 そう手を振ったところで、しとねの上の少年が目を覚ました。ぱちぱちと大きな目で瞬くと、葛斎の影に隠れて蚊の鳴くような声を出した。

「お祖母ばあさま」

「起きたか。まだ寝ていて良かったのに」

「……どなたですか?」

 しばらく挙動を見ていた韃拓は王太子の無垢な様子を鼻で笑った。胡座の後ろに両手をついてる。

孩子ぼうず、お前が泉主になる頃には角族はもっと泉地に関わって、きっと一泉は俺たち無しじゃあ駄目になってる。恩を売っておいてやるから、倍にして返せよ?」

 怖いのか、まるく黒い眼は絶え間なく揺れていた。見返しながら、そういえば、と頭の隅で記憶がよみがえった。よく似た瞳のあの少女はどうなっただろうか。怪我なく無事なのだろうか、と、一泉宮を離れてから初めて思い至った。




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