三十一章



 天命さだめというものが本当にあるのなら、まさにそうだったに違いない。

 『彼女』の子である自分が『これ』を見つけたことはもはや偶然というには少々出来すぎている気がした。天というものが味方ならば、日々の祈りの報いとして自分たちがやろうとしていることに背中を押してくれたような、そんな気さえした。


いわいとして慈しめ。のろいにしてはならぬ」


 『彼女』の口から慈しみなどという言葉を聞いたのは後にも先にもこの時だけだった。


 だから、――――だから私は。




 何梅はよろめいて岩壁に凭れた。荒い息を整えようと首筋に手を当て、濡れた感触にてのひらを見る。べったりと付いた自らの血糊、しかし裂けた肉はゆっくりと塞がっていく。――――


 早くしなければ、と背を冷たい石に預けたまま上向く。しかし、やはり自分には無理なのかとも思う。改めて『彼女』の非凡さが身に沁みようというものだ。こんなことをいったい何度重ねたのか。

 やはり私では力不足だ、と冷静な頭で考える。そう認めるならば、やるべき事はひとつしかない。

 韃拓あのこならば、きっと、と、傷ついた脚を引き摺り谷間を降りはじめる。頼るべき時が来たのだと、心の中でかねが鳴った。







 行く先一面、白と紫で彩られた崖道で上空に雲はなく、昼の陽光が降り積もったものに反射し眩しく刺さるのを避け手をかざす。仰ぐと青を背景にした霧間に白い一点が見えた。屹立きつりつした岩山は皆同じ色で、混じればすぐに姿を見失うが、それは徐々に近づいて来るに従い斑雪はだれとは異なる白なのだと分かる。規則的に並んだ翼の模様が数えられるほどに近づき韃拓は麋鹿うまの上で右腕を掲げてみせた。


 目的の止まり木を認識した鳥はいちど大きく羽ばたいて彼の差し出した腕に鉤爪を預ける。

 白鶻しろたかは羽に比べるとごく小さな頭を甘えるように韃拓の頬に擦りつけてみせ、軽快に肩まで飛び跳ねて黄色のくちばしで頭をつつく。労えと言わんばかりの仕草におざなりに応えながらあしに取り付けられた革袋を解いた。


 小さな紙片をつまみ出し目を通すと、よし、と口の中で独りごちる。待ちわびた文を運んで来た褒美に餌を与え、手綱を握り直して前方を見据えた。列は狭道に沿って長く続く。穹廬きゅうろを解体して積み込んだ荷車を押す下仕えたちが身を切る寒さのなか汗だくになっているのを見、崖を越えたら休憩するよう伝達を走らせた。


 そうして時折足を休ませながら進み、陽の傾いた頃にようやく冬営地に辿り着いた。一族はこの土地をむじなと水の地と呼ぶ。穹廬も建てるが、ここには柔らかい地面を掘ってつくった窰洞ちかがあり、これは四方を土で囲んだより防寒に優れた家なのである。夏の遷住で持っては行けない、特に必要ではない大きな荷物――例えば史書なども決められた窰洞に保管されている。牧草地は少ないが何より如願じょがん泉に近く、冬の間出来る限り水を蓄え氷をつくり、夏には遠大な距離になる水汲みの手間をなるたけ少なくしている。


 簡単にしつらえた木のとりでをくぐり、韃拓たちは短いが骨の折れる旅を終えてやれやれと息をついた。ようやく着いたという溜息がそこかしこで聞こえたけれども、毎冬のような歓声や喜びのさざめきはない。まだ失った人々への想いの感傷が癒えないままに慌ただしく荷を纏めて北を後にして来たのだ。着いたと騒いで駆け回るのは状況が飲み込めていないまだ幼い子供らだけだった。


 韃拓が四不像しふぞうから下りて手綱をいて行くと、先んじて到着していた何梅の親類たちが出て来る。

「黄仙。泉地の八馗が戻ったと」

 声を掛けてきたのは年の離れた姉だ。泉地に降りた八馗は帰還に普段使わない最短の獣道を使った為、刹瑪シャマらと邂逅することなく北へ戻ってきた。帰路出会っていたところで、医術に長けた彼女たちにも憐れな兵士たちをどうすることも出来はしなかっただろうが、それでもあの惨状を思い返すと刹瑪が全員おればもう少しは助かったのではないか、というやるせなさが胸を去来してしぜん不機嫌になる。


 肩に白鶻を止まらせたまま問う。

媽媽おふくろはどこだ?」

「いまは山中に薬草を取りに行っています」

「一人でか?」

 姉は控えた笑みを見せた。「サイがいますから、大丈夫」

 帰ったら教えてくれ、と言い置いて歩き出す。


 肌を切るような寒風に目を眇めてなんとはなしに見回すと、集落から離れた場所にぽつんと一つだけ粗末な天幕が立っていた。目印の旗が立てられているから、おそらく誰か傷寒しょうかんにでもかかって隔離されたのか。それを遠巻きに通り過ぎ、しばらく行くと柵を巡らせた丘がある。入口の粗末な門には見張りが立っていて、主の姿を認めると嬉しさと悲しみが半々混じる笑顔を向けてきた。

大哥あにさま

「よくお戻りになられました」

 話は聞いたのだろう、槍を携えた少年たちはいたむ目をして頭を下げる。足跡の全く付いていない白く覆われた丘を眺め渡した。

旦骨タンコツは」

「先ほどいらっしゃいました。中に」

 門をくぐる。その実、丘の天辺から空洞の内部にかけては貯水槽で、地下は広い氷室ひむろになっているのだ。


 水守みずもりには定められた家の者が携わる。八馗の一員ではあるが、巫師の刹瑪と同じく常には頭数に加えられることのない特殊な戦士たちだ。彼らは如願泉から水を運び、交替で貯水の丘と氷室を守護する役割があるゆえに遷住には付いて来ず、一族が夏の間北に移動したあとも冬営地を巡回し野獣や盗賊から窰洞や数少ない畑を警固した。


 旦骨は水守りの家に生まれたが工作の腕を富隆フルンに買われ、さきの戦いでは床弩隊を率いて軍をたすけた。八馗が国境を攻略したあとは追随せずこちらに戻って来ていた。


 貯水槽と氷室はより清浄さを保つ為に基本的には守護の者しか入れない。それで門内に入ったものの腕を組んで待っていれば、ほどなく丘を回って手押し車をいてきた男がこちらをみとめて嬉しげな声をあげた。

「久しい、韃拓。少し痩せたかな」

 一族の男にしては獣っ気のない垢抜けた彼は車を置いて抱擁を求める。それに片腕で応え、軽く叩く。

「重州の壁ではよくやってくれた」

「よせやい。俺は後ろでゆみの調整をしただけだ」

 切り出した氷を飼葉で包み少年たちに渡しながら鷹揚に笑い、主の来訪の意図を尋ねた。

「それで俺に何か?」

「ああ。少し頼みがあって」

 共に歩き出しながら旦骨は首を傾げる。門を抜け、人目のないわだちまで来て韃拓は口を開いた。

「交易はいまはどうしている?」

 水守りは泉地との物品の取引も任される。たまに瑜順も旦骨と共にそれこそ如願泉までついて行ったり、南の六泉や八泉から流れてくる隊商と交流して珍しい書物や食物を持って帰ったりしていたものだ。

 旦骨は頭を掻いた。「一泉とこんなことになっちゃったからなあ。水は今まで通り定期的に採りに行ってるが、さすがに泉人とやり取りはしてない」

 彼は非公認だが如願泉の周囲の里人と種苗などを交換していた。ほぼ顔を合わすことなどないが泉人のなかにも接触を求める物好きはいて、だから一族の中では泉国の噂話や世情に詳しい情報通として名が知れている。


「泉の周りは警戒されてるか?」

 どうだろう、と首を捻った。

「戦が始まってからも二、三回降りたが、特に咎め立てもされなかった。まあ、敷地の外には出ちゃいないから分からないが。それらしい緊張は無かったな」

「そうか……。だとしたらあそこまでは手が回ってないということなのか」

「如願泉が使えなくなるかもしれないのか?」

「それも心配だが、それよりお前には水汲みのついでに人を拾ってきて欲しいんだ」

 旦骨はぱちくりとしてみせた。

「下女でも死んだか?」

「人攫いじゃねえ。招待客だ」

「そりゃ、また。泉人を領地に連れて来るのか。爺さまたちが騒がないか?」

 だから、と韃拓は両手を後ろ頭にあてる。「お前にこうして頼んでる。水甕みずがめに隠して連れて来てもらえるか?それほど大変じゃないだろ?」

「構わないけど、あちらには伝えてあるのかい?」

「近くまで来るようには言ってある。任せられるか?お前たちが次に降りる日取りが分からなかったから、待たせることになるが。次はいつ行く?」

 旦骨は分かった、と頷き意味深にながしめした。


「行くのは十日後。――冬至の日だ」


 そうか、と韃拓は空を見上げた。「ちょうどいいな」

「今年の祝詞のりとはやはり君が上げるのか?」

「いちおうは当主だからな」

「なんだい、珍しく自信なさげだ。まだ八馗を見殺しにしたとでも思ってるのか?」

 言われて顔を逸らした。「事実だ」

「違うね。韃拓、君はもう少し自分の存在価値に気づいたほうがいいよ」

「存在価値?」

「当主が死ねば一族は混乱する。まして次代にめぼしい継承者が見当たらない今、君に死なれては皆困るんだよ」

「跡継ぎ候補なら、那乃ナナイ満嵐マンランがいる」

 旦骨は首を振った。「今は一泉との再同盟という重要な岐路にある。達成されるかされないかによって交易も揺らぐんだ。如願泉だって俺たちの手から離れる危機だってある。そんな大役をまだ歳若い少年たちには任せられない。それに今から『選定』を始めて新たに当主を立てるのにどれだけ時がかかると思う?」


『選定』に送り出されるのは必ず一人ずつと決まっている。もしも同時期に通過者が揃えば無駄な争いごとになるからだ。


「そりゃそうだが、最悪媽媽もいるんだぞ」

「先代は既に主の位を空け渡した。降りると宣したということは一族を纏める力がもはやないと公表したということだ。いまだ人望あついとはいえ、皆を導く剣を折った者に八馗の戦士はいつまでも従っては行かない。それは君がやらなければいけないことだ。どれほど先代が偉大だったとしても、今の角族を引っ張っていけるのは君しかいない」

 旦骨は頬を掻いた。

「自己嫌悪を止めろと言ってるわけじゃない。だが正直、自信を失くしてもそれを俺たちには見せないで欲しい。懺悔ざんげする姿を晒してゆるされようとするな」

 甘えだと言外に含められ韃拓は思わず息を詰めて見返した。彼と瑜順とはどことなく雰囲気が似ているが、旦骨は朋友のように言いたいことをひとまず心中に留めておくという優しさは無い。その言葉が今は刺さる。

「……おう。肝に銘じる」

 うん、と笑って旦骨は幼子にするように韃拓の頭を叩いて撫でた。すぐに、あ、と手を引っ込める。

「ごめん。つい」

「……いや。お前にとってはまだまだ俺も小子ガキか」

 頭を触れられるのは親でも嫌いだが、今ばかりは文句も言えない。旦骨は両手を挙げて謝意を示すと、同じように空を見上げた。

「みんな子どもさ。どちらが早く生まれたかの違いだ。ただ皆、幼い頃の広い気宇きうを失って、生まれた国や内を流れる血の由来に固執しいがみ合うようになる。俺にはそれがひどく滑稽に見えてしまって戦いにも熱くなれない。だから静かな水守りの務めは性に合う……韃拓、可敦カトンを迎えるということは一泉あちらの国の人々を丸ごと受け入れることでもある。あちらに同胞はらからがどれだけひどい殺され方をしたとしても、和睦し同盟をするというのはそういうことだ。それを忘れては本末転倒だよ」

 若い主は黙っていた。配下を失ったばかりの今の彼には受け入れ難いかもしれない。もちろん、旦骨とて仲間の死は辛い。辛いが、それにばかり目を向けていては前には進めない。


 韃拓には新しい風を吹かせる力がある、と確信している。かつての掠奪で拉致してきた泉人の子孫である皁隷そうれいに対する扱いや、周囲からあれだけ裏で拾い子だとけなされてきた瑜順への接し方を見ていれば分かる。一族の者ではないからといって韃拓には特にこだわりが無いのだ。そういう彼が当主になれば結束を乱すという不平もあったし、血統を軽んじているとあからさまに嫌う声もあった。しかし、角族はもう同族どうしで世界の片隅に潜んでいていい時期をとうに過ぎた。行く末を考えるなら新天地を求めるという命題は必ず乗り越えなければいけない壁だと、瑜順は言った。先延ばしにして良いことではない、未来の希望をどう掴めるかを考えられる者が当主になるべきなのだ、と。それが今で、それが韃拓なのだ。旦骨はそう信じている。





 水守りと別れ集落に戻って来れば、穹廬の前で何梅の下女が待っており主人の帰還を告げた。それで赴く。母はいつもの祭壇を設えた大廬おおいえではなく、私幕ししつのほうにいた。


 姿を見て韃拓は眉を顰める。牀台ねだいに横になっている姿は血の気がなくぐったりとしていたからだ。

「……媽媽、どこか悪いのか」

 目を閉じている顔に呼び掛けると、ゆっくりと瞼が開き、視線がこちらを捉える。

「……問題ないわ。おかえりなさい。季娘は役に立ったかしら」

「ああ。助かった」

 そう、と頷いて起き上がる。当然の礼儀として背を支えた息子にゆるりと微笑むと下仕えに手を振った。人払いして傍に腰を降ろした韃拓に問う。

「なにか私に話があったのではなくて?」

「前に言っていた重州刺史――顕賢けんけんが鴆鳥毒に薬効のありそうなものを知ってるそうだ。ここなら山を越えればそれほど遠くないから、領地に呼ぶことにした」

大人たいじんたちは」

「ばれたらしょうがねえけど、ややこしくなるからなるべく知られたくない」

「その泉人を呼ぶ必要は本当にあるの?」

「何度もとりを飛ばしていればあちらに危険が多いし薬の見つけ方も練り方も文だけじゃよく分からねえから。媽媽のほうはどうなんだ?なにか手掛かりが掴めたか」

 何梅は額に手を当てた。

「書物を調べたけれど、どれもこれも簡単には手に入りそうにない代物だった。良いわ、目立たないようお呼びしましょう。正黄家の中だけでも口止めしておきなさい」

「承知した」

「客人の醸菫水じょうきんすいの余分を確かめておく。無ければ作らせるわ」

「頼みました」

 顕賢を招いたという報告だけをするつもりで来たので、用が済んで早々に立ち上がった。なぜか具合も悪そうだから安静にしてやったほうがいいだろうと軽く頭を下げたところ、ゆるく首を振られる。それがまだ話が済んでいないという意思と見て取り、いぶかる。

「どうしたんだ?」

 座りなさい、と言われて再び脚を組む。しばらく空を見据えていた母は珍しく迷うように発言を躊躇ためらっていた。

「……韃拓、お前に折り入って頼みがあるのです」

「頼み?なんだ?」



「……その前に、ひとつ訊いておきたい。――――『選定』でお前は何をた?」



 突然のことにますます懐疑の目で見返した。

「なんで今そんなことを?」

「お前がとどまってくれたのは私に時間を取り分けてくれるからでしょう?」

「『選定』の詳細は秘儀のはずだろ?」

「そうも言っていられなくなってきたから訊いている。いいから、お前の視た幻を教えておくれ」

 押し殺すような呟きに、頭の中は疑問に満ちたまま、つられて声を潜めた。


「……なんだか、よく分からねえけど……、木が、あったよ」


 何梅はまじまじと刮目した。


「木というか、山というか、とんでもなくでかい幹なんだ、多分。雲で枝も見えない途方もなく高い木が三本並んでた」

「それで。それで、何か声を聞きましたか?」

 半ば遮るように身を乗り出した。稀有に生気のある表情をされて韃拓はたじろぐ。

おまえだ、と……」

「他には?」

 記憶を手繰たぐり、顎に手をあてる。

「音が何も聞こえなくて、日陽たいようが沢山あって眩しかった。自分の重みは感じず、ふわふわと漂い、不思議なを見た。変な獣と変な女がいて、何かを口に入れられた。何を食ったのかは分からない」


 母親が両手で顔を覆ったのを呆気に取られて見つめる。

「……媽媽?夢占ゆめうらでもするつもりか?」

 問うたが激しく首を振られてただ状況の理解を待った。何梅は震える手で口を押さえ自身の肩を抱いた。

「……そう、そうだった……思い、出した…………」

 呟いて微笑む。

「お前はよく憶えていましたね」

「いや、全部じゃねえよ。何なんだ、一体」

 一度瞼を下ろした何梅は自身のたかぶりを鎮めるかのように大きく息を吸い、やがて、力を込めて再び押し上げた。

「……韃拓、お前に再び挑んで欲しいのです」

 凛とつよい瞳で見つめる。


「『選定』を、もう一度受けなさい」





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る