三十三章



 やれやれまったく、と不平を垂れながら水甕から這い出てきたどこにでもいそうな小男は、韃拓を見て屈託なく、やあ、と笑った。

「いつぞやぶりだね。いやしかし、まさかこんな荒行をさせられるとは思わなかったよ」

「お前も元気そうだな。駒麓くろくは無事か」

 なんとかね、と埃を払いつつ、顕賢けんけんは立ち上がった。その背後ではしかめ面の少年の姿も見える。

「お前も来たのか」

「顕賢だけじゃ、角族に取って食われそうだからな。それに俺は伝令役だ」

 ふん、と鼻を鳴らしたのに顕賢が頬を掻く。

「驚いたことに賽風坊さいふうぼうは由歩なんだ。びっくりだよね、泉外に出たことがないから自分でも知らなかったんだって。醸菫水じょうきんすいを作る手間が省けて何よりだろう?」

「あんたは自分で作って飲んできたのか?」

 もちろんさ、と胸を張った。「自称だけどこれでも煉丹れんたん術師だよ?自分が必要な薬水くらい、自力で作れないとね」

 へえ、と感心する空気が満ちた。


 刹瑪の穹廬いえの中で顕賢と賽風坊は甕の中から解放された。泉地からの客人を囲んでいるのはいずれも女、物珍しそうに彼らの持参した器具を観察する。

「まあ、とはいえ出立初日は晴れていたからね。助かったよ」

「一泉の状況はどんな感じだ?淮州で動きはあったか?」

「それがねえ……ああ、触るのはいいけど慎重にしてくれ。高いんだ」

 女たちが良かれと荷解きしているのをはらはらと注意して、顕賢は韃拓の前に膝を揃えた。

曲汕きょくさんはうんともすんとも動いてないね。軍も人もまるで以前からそうしてきたとでもいうように平常通りだ。ごう州も宮城も、出兵しただの衝突が起きただののしらせはない。西のほうでもひん州が国軍側に付いたから、そう州とは睨み合いが続いている。やれやれだよ、お陰で今年の冬至はズタズタだった」


 冬至に行われる郊祀こうしは一年で最も重要な祝祭であるからして、全く開催されないということはたとえ戦のさなかであっても一泉では有り得ない。捕囚の身とはいえ正当な泉主がいるのであれば、儀式進行の上で欠員があるにせよいけにえが用意され捧げられただろう。


「曲汕が動かない、か……」

采舞さいぶ八馗はっきを討伐した後、逃げた民はそのままに本陣へ戻ってひたすら守りに入ってる。たぶん、剛州に一極集中すれば角族から攻められ、呼応して西からも挟まれる。そうなれば苦しいと思ってるから、東の拠点を捨てたくないんだ」

「賽風坊、難しい言葉を沢山知ってるんだねえ」

 顕賢の本気の感心にむくれた。

「馬鹿にすんな。それと、言伝ことづてだ。あの旅帥りょすいと福は征南軍と無事に合流したそうだ」

「そうか。お前に報せが来たということは『耳』も無事なんだな」

 今のところは、と賽風坊は腕を組む。

「けど、敵に察知される危険が増して華囲かい太守の連絡は途切れた。だからわい州軍内部の様子は全く分からない」

「こっちも泉宮みやにいる仲間とは連絡は取れずじまいだ。西に鷹を飛ばしているがあっちも敵本営の動きは掴めていない。毒のことは知らせたから、どのみち対策を練る必要があるだろう。惣州が謀叛軍に迎合して鴆鳥ちんちょう毒を配られている可能性は拭えねえ」

 えげつないことをする、と顕賢はここにもやはり携えてきた壺を撫でた。

「そもそも鴆という鳥さえじかに見たこともないよ。古い書物で登場する程度の幻の毒鳥だよ?……まあ、采舞での惨事を聞くに本当なのだろうけれど」

 いまだ生々しい悲惨な記憶にしばし室内には沈黙が流れる。と、そこへ何梅がやって来た。

「お初にお目にかかります。角族先代当主、角楊何梅と申します」

 顕賢が座り込んだまま緊張したのが分かった。

「あ、これは……どうも。俺は、いや、私はまだいちおう重州刺史の、呉顕賢です。あなたがその……淮州の?」

 何梅は色のない瞳で見返した。

「淮州のを先導した張本人ですが、何か?」

 あ、いえ、としどろもどろに目を泳がせる。「まあ、一泉に住む者としていろいろと思うところはありますが、過去は過去で置いておきましょう。今は同盟のもと、私も出来る限り協力したいと思い参った次第ですので」

「もちろん、我々も貴方様をあてにしてお待ちしておりました」

 語る言葉とは裏腹にひたと見据える視線は冷たく、顕賢は首を縮めた。

「早速本題になりますが、刺史どの。鴆鳥毒に効くというのは、どういったものでしょう」

「そちらでも調べはついているのでは?」

「鴆鳥と並列して語られるのが最も多いのはやはり犀角さいかく。犀という牛のような獣の顔には角が生えており、これを採って毒消しの薬効とする」

 顕賢は壺を脇に置くと頷いた。

「しかり、やはり有名なのはそれですね。けれど犀なんて獣も滅多に発見できるものじゃない。それに敵が大量投入している鴆鳥毒に対抗しうるほどのまとまった量の犀角など、確保するのにどれほど時がかかるか分からない。……韃拓どの、あなたが使ったという扳指ゆがけを見せてください」

 擘指おやゆびに嵌めていた指環を手渡されてしげしげと眺めた。

「六泉の古い薬商の坐賈みせなんかに、たまに度肝を抜く値段で置かれているけれどね、俺も煎じて飲んだことはない……。これを舐めさせたのかい?効果のほどは?」

「熱を出して随分寝込んでいたが命は取り留めた」

「そうか。ならば真贋のほどは疑うべくもないかもしれないな」

「犀ってのは、ようするに牛だろ?なら水牛とかで代用できないのか?ああいう牛にだって、角はある」

 顕賢は片目をつむり指環を光にかざした。

「もちろん、出回っている煎じ薬には代用として入れることもあるさ。でも、これが本物として、解毒するまでに何日もかかった。腕を落とした状態で口に含ませそんな程度の効能なのだとすれば、はたして他の牛の角で同量の毒が打ち消せるのかどうかは疑わしい」

「舐めさせただけってのもあったとは思うけどな。どっちにしても犀角も水牛角もやっぱり大量に要るってことか」

 何梅が書物を広げた。「升麻しょうま‪はどうか」‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬

「確かに犀角の代替とも言われますね。それにわりとすぐ手に入る。解毒というと、他には朴消ぼくしょうなどいくつかありますけれど」

 でも、と扳指を韃拓に返し、袖内で腕を組み首を傾げた。

「鴆はいわば神話に片足を突っ込んでいる得体の知れない毒。もちろん今挙げたものは試してみるに越したことはないけれど、対抗出来るのかと問われれば決定打に欠けます。先代どの、他に見解がおありですか」

「私自身は霧界でも泉地でも見たことはないが、あらゆる毒を消す夢の薬といえばまずこの獣が思い浮かんだ」

 言いながら書物を見えるように掲げて指で示した。黒い羅列の一点を指す。

耳鼠じそといいます。尾で飛行する小さき獣。しかしこれこそ姿を見たという人も薬として使ったという文献も私は知りません」

 顕賢も同意したが、

「けれど存在の噂はありますよ」

「本当か」

「俺が文を貰って、鴆鳥毒に対抗出来るような薬効で思い至ったのは二つ。一つはおっしゃる通り耳鼠、二つめは焉酸えんさん。耳鼠は小禽ですが、焉酸は植物です。百毒に対抗するという幻の生薬」

「そんなもの、どこにあるんだ?」

 顕賢はいちど背を丸めると息を吐いた。「絶対にある、とは言えない。けれどそういう話がある以上、探してみる価値はある……隣だよ」

「隣?」


「噂の出処は大泉地一小さく、そして古い国。雪と氷に閉ざされた秘境、九泉くせん国だ」


 何梅が片眉を上げた。

「その噂とは?」

「九泉を行き来する人はあまりいない。あそこはことさら厚い由霧に囲まれて各国から遠ければ人も少ない過疎地域だ。しかしそれでも食行しょくこうの行き来はある。俺がその話を聞いたのはまだ六泉にいたころのこと、初めて九泉に行ったという者がどんな国だったかを話していた」


 幾万の薬草が生えており他国にはいない珍しい獣や鳥が集まり、周囲は雪の吹きすさぶ山峰だというのに、一歩中へ足を踏み入れれば花々が咲き乱れ静穏で、水の豊かな神仙郷ゆめのくにかと見紛い、はたまたどこかにあるという天界――瀛州えいしゅう方丈ほうじょうか、あるいは華胥かしょのようなさまという。特に六泉では巫術医術への関心が高い風潮があるせいもあってか九泉の見聞は人気が出たようで、一目見てみようとする旅人が後を絶たなかった。


「けれどねえ、九泉人というのはことさら他所者よそもの嫌いでも高名な人々なんだ。確とした目的もない旅人を歓迎したりはしないのさ。それ以前に観光気分で越えられるほど外郭の氷山帯は薄くはないし、国境近くで助けを求めたって助けてくれやしない。この法螺ほらのせいで結構な人が戻って来なかったと聞くよ」

 女のひとりが茶を差し出し、顕賢は礼を言って受け取りすすったが慣れない味に口をすぼめた。

「お前が法螺話だと断言するのなら、耳鼠も焉酸も実在するのか信じられねえな」

「信じてないのは九泉の様相のことだよ。薬はあるはずだ。俺は死んだ人間がそれを飲んでよみがえったのを見た」

「蘇っただあ?」

「死病にかかって余命いくばくもない女が烏頭とりかぶとで自死した。しかし焉酸を煎じたという薬を飲ませるとたちどころに息を吹き返した」

 韃拓と何梅はいぶかって視線を絡ませたが、顕賢はもう一度、探す価値はある、と言を重ねた。

「助けたのは九泉出身の流しの伝薬師くすりうりだったんだ。実在の可能性は大いにある」

「……刺史どのがそこまで確信しているのなら、探しに行ってみるべきか。いずれにせよ他にめぼしい解決法もない」

「だが、九泉っていうとここから北回りで向かってもかなり時がかかるぞ。顕賢は不能渡わたれずで長く霧界にはいれないし、かといって一泉を横断して行くのも危険過ぎる」

「もしや君、自分で行こうとしてるのかい?」

「韃拓、お前は駄目です」

 禁じられ、じゃあどうする、と見返した。何梅はいちど目を閉じると控えている女たちのほうを向く。

季娘キジョウ

 呼ばれてひとりが、えっ、と狼狽し慌てて頭を下げた。

「はい!」

「お前が行きなさい」

「あ、あたくしが……?」

「熊と草の地まで辿り着いた戦士たちはお前の貢献で命拾いした。もう一人前の刹瑪です。仮にも薬を探すのです、少しでも詳しい者がいたほうが良い」

「待ってくれ媽媽。否定はしないが、季娘は泉地へは出たことないだろ」

「なにも一人で行けとは言っていない。……彬州の瑜順と合流して向かいなさい」

「瑜順兄さまと…」

サイも貸す。瑜順であれば扱いも馴れているから問題ない。太后から書き付けをもらおう。九泉には、あれの親類がいる。その方に便宜をはかって貰いましょう」

 なんと、と顕賢は感心した。「九泉に太后陛下のお身内がおられるのですね。それは心強い……て、え?太后様?」

 きょろきょろとあたりを見回すのは構わず、韃拓は難しい顔をしてみせた。

「瑜順を九泉へ遣わすって?英霜えいそう城からそんな簡単に出られるか分からねえぞ」

「いまだ国内の戦況は膠着していて瑜順が必ずおらねばならぬ状況とは言えない。彬州にとどまった八馗は七十ほど、指揮は中樊チュウハンに任せ、瑜順だけを出国させる。期限を設けて、あれが戻らねば八馗兵を粛清しても文句を言わないと証文を書きなさい」

 幕内がざわついた。韃拓の表情はさらに険しくなる。

「一泉の為に不案内な冬の山越えをしようってのに、なぜこの上俺たちがそんな危険を背負しょい込まなきゃならねえんだ?」

「そうでなければ征西軍、征南軍の信を勝ち得ぬ。太后の書文を届けたところで、龍印もなければ偽造として破り捨てられよう。特に征西将は我ら角族を嫌っている。こちらがなにか企んでいるのではと勘ぐり瑜順をさらに厚い箱にめられては困ります」

褚文統ちょぶんとうを知ってるのか?」

 知っているもなにも、と何梅の瞳は壁に掛けた武具を映した。

「かつて淮州で八馗本陣に単騎で斬り込み、柱勢ジュセを殺しかけた血の気の多い男です。彼奴あやつの背には私が負わせた矢傷が残っているはず。当時はまだ向こう見ずな若者だったけれど、まさか生き延びて営将の一に昇っているとは。むしろあの男が謀叛に加担しなかったのが私には意外でなりません」

 思ったより文統とは因縁が深かったようだ。韃拓は息を吐き、次いで表妹いとこを見た。

「やれるのか、季娘」

 季娘は口を引き結び、こくりと頷いた。

「やってみたい……いいえ、やる!」

「……しょうがねえ。じゃあ途中まで送ってやる」

 眉を動かした何梅に肩を竦めた。

「ついでだよ。俺は神域に用が出来たし、途中までついててやるってことだ。たとえ豺で行くとしてもいつ他の危険な妖獣に襲われるとも分からん。しかも冬だ。少しの油断が命取りになる。季娘、お前自分で火をおこせるんだろうな?」

「馬鹿にしないでよ韃拓にい。数日がかりの山登りなら私だって慣れてるのよ」


 刹瑪は高所にしか生えない薬草なども自分の足で取りに行く。地形や由霧の流れが変わったとしても珍草の自生している場所を亡失しないよう、脚に覚えさせるのだ。


 霧界の確とした地形図はない。そもそも紫の厚い霧が常に取り巻き山の頂から俯瞰しても詳細な遠景を見渡すことが難しいなかで、頼りになるのは自分の知覚力と経験則、先人たちの遺した轍道や目印だけなのだ。昨日まで通れた道が翌日には崖崩れで埋まっていることも珍しくないし、見つけた薬草の群生が次に来た時には枯れていることもある。曖昧で不確かで自分の存在さえにじんで溶け出すような、由霧の揺蕩たゆたう土地とはそんな場所だ。


白鶻しろたかを彬州へ。一泉国内で敵が本気で動く前に、必ず九泉で鴆鳥毒の薬効を見つけ出して来るのです」

「はい!」

「それなら、私はもうお役御免ですか?」

 問うた顕賢に刹瑪たちは否と返した。

「耳鼠も焉酸も、まだ必ず効くとは分からない。こちらも出来るだけ解毒に使えそうなものを集めることにします。刺史どのにも手伝って頂きたい」

「まあ確かに、薬方の基本は一君三臣九佐使いちくんさんしんきゅうさし。そもそも複数の生薬で合和させるもの。組み合わせによって効きも違うでしょうしね。分かりました。使者が九泉から戻るまで滞在させて頂きましょう」

「とはいえ泉人に対して反感の高まっている今、長くとどまり姿が露見すれば摩擦が生じる」

 指図に従った女たちに取り囲まれて顕賢は動揺した。

「え?な、なに?」

「我らの巫師とは大抵女が務めるものなのです。刺史どののみてくれでは目立ちすぎます。幸い、ごつくはない。着るものだけ変えて顔を隠せばばれはしない」

 隣で噴き出した賽風坊にしかしそちらにも何梅は容赦なかった。

「ぼうや、あなたもですよ。見習いとして他家から連れて来たと誤魔化します。はい、皆、お客人には早速着替えてもらいましょう」

「聞いてねえぞ⁉」

「ちょっと待って、ここで脱がさないで⁉ええ……」

 あっという間に連れて行かれる二人を後目しりめに、韃拓は何梅を見上げた。

「……なんで瑜順を行かせるんです」

「なぜとは?彬州は一泉の西端、九泉に行くには最も近い。季娘を一人で遣わすのは私も心配ゆえ、見知った仲の瑜順であれば心強いと」

「彬州の八馗のかなめは瑜順だぞ。確かに正藍せいらん俟斤しきんの中樊は頼もしいが、作戦立てや禁軍との立ち回りを考えたら瑜順がいなけりゃ心許ないのは分かりきってるだろ?」

 目を眇める。「太后からなにか言われたんじゃないのか」

「なぜ?」

「瑜順は泉宮でたびたび呼び出されてた。なんとなく様子が変になったのはその後だ。そんでもって九泉ではあの女の家の奴を頼るという」

 こんな時だけいやに勘が鋭い、と内心思いつつ、表情には一切出さず何梅は韃拓の睨みを真正面から跳ね返した。

「瑜順ほどであれば山越えも薬探しも他の者より上手く出来よう。私の家僕しもべとして八馗家じゅうを巡っていたあの子なら豺の扱いも分かっている。それを見込んでのことですよ。何が不満なのです?」

「……あいつに危険なことをさせたら俺が許さねえぞ」

 低く言った声に微笑んでみせた。

「お前はほんに昔からあれが好きね」

「今のはあんたの息子として言ったんじゃない。当主として言ったんだ」

 硬い調子で強く牽制すれば、母は口角を水平に戻し拱手きょうしゅした。

「我らの主に隠し立てなどありましょうか」

 その返答に結局は、白々しい、と苦いものを感じて顔をそむけた。





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