三十三章
やれやれまったく、と不平を垂れながら水甕から這い出てきたどこにでもいそうな小男は、韃拓を見て屈託なく、やあ、と笑った。
「いつぞやぶりだね。いやしかし、まさかこんな荒行をさせられるとは思わなかったよ」
「お前も元気そうだな。
なんとかね、と埃を払いつつ、
「お前も来たのか」
「顕賢だけじゃ、角族に取って食われそうだからな。それに俺は伝令役だ」
ふん、と鼻を鳴らしたのに顕賢が頬を掻く。
「驚いたことに
「あんたは自分で作って飲んできたのか?」
もちろんさ、と胸を張った。「自称だけどこれでも
へえ、と感心する空気が満ちた。
刹瑪の
「まあ、とはいえ出立初日は晴れていたからね。助かったよ」
「一泉の状況はどんな感じだ?淮州で動きはあったか?」
「それがねえ……ああ、触るのはいいけど慎重にしてくれ。高いんだ」
女たちが良かれと荷解きしているのをはらはらと注意して、顕賢は韃拓の前に膝を揃えた。
「
冬至に行われる
「曲汕が動かない、か……」
「
「賽風坊、難しい言葉を沢山知ってるんだねえ」
顕賢の本気の感心にむくれた。
「馬鹿にすんな。それと、
「そうか。お前に報せが来たということは『耳』も無事なんだな」
今のところは、と賽風坊は腕を組む。
「けど、敵に察知される危険が増して
「こっちも
えげつないことをする、と顕賢はここにもやはり携えてきた壺を撫でた。
「そもそも鴆という鳥さえ
いまだ生々しい悲惨な記憶にしばし室内には沈黙が流れる。と、そこへ何梅がやって来た。
「お初にお目にかかります。角族先代当主、角楊何梅と申します」
顕賢が座り込んだまま緊張したのが分かった。
「あ、これは……どうも。俺は、いや、私はまだいちおう重州刺史の、呉顕賢です。あなたがその……淮州の?」
何梅は色のない瞳で見返した。
「淮州の
あ、いえ、としどろもどろに目を泳がせる。「まあ、一泉に住む者としていろいろと思うところはありますが、過去は過去で置いておきましょう。今は同盟のもと、私も出来る限り協力したいと思い参った次第ですので」
「もちろん、我々も貴方様をあてにしてお待ちしておりました」
語る言葉とは裏腹にひたと見据える視線は冷たく、顕賢は首を縮めた。
「早速本題になりますが、刺史どの。鴆鳥毒に効くというのは、どういったものでしょう」
「そちらでも調べはついているのでは?」
「鴆鳥と並列して語られるのが最も多いのはやはり
顕賢は壺を脇に置くと頷いた。
「しかり、やはり有名なのはそれですね。けれど犀なんて獣も滅多に発見できるものじゃない。それに敵が大量投入している鴆鳥毒に対抗しうるほどのまとまった量の犀角など、確保するのにどれほど時がかかるか分からない。……韃拓どの、あなたが使ったという
「六泉の古い薬商の
「熱を出して随分寝込んでいたが命は取り留めた」
「そうか。ならば真贋のほどは疑うべくもないかもしれないな」
「犀ってのは、ようするに牛だろ?なら水牛とかで代用できないのか?ああいう牛にだって、角はある」
顕賢は片目を
「もちろん、出回っている煎じ薬には代用として入れることもあるさ。でも、これが本物として、解毒するまでに何日もかかった。腕を落とした状態で口に含ませそんな程度の効能なのだとすれば、はたして他の牛の角で同量の毒が打ち消せるのかどうかは疑わしい」
「舐めさせただけってのもあったとは思うけどな。どっちにしても犀角も水牛角もやっぱり大量に要るってことか」
何梅が書物を広げた。「
「確かに犀角の代替とも言われますね。それにわりとすぐ手に入る。解毒というと、他には
でも、と扳指を韃拓に返し、袖内で腕を組み首を傾げた。
「鴆はいわば神話に片足を突っ込んでいる得体の知れない毒。もちろん今挙げたものは試してみるに越したことはないけれど、対抗出来るのかと問われれば決定打に欠けます。先代どの、他に見解がおありですか」
「私自身は霧界でも泉地でも見たことはないが、あらゆる毒を消す夢の薬といえばまずこの獣が思い浮かんだ」
言いながら書物を見えるように掲げて指で示した。黒い羅列の一点を指す。
「
顕賢も同意したが、
「けれど存在の噂はありますよ」
「本当か」
「俺が文を貰って、鴆鳥毒に対抗出来るような薬効で思い至ったのは二つ。一つは
「そんなもの、どこにあるんだ?」
顕賢はいちど背を丸めると息を吐いた。「絶対にある、とは言えない。けれどそういう話がある以上、探してみる価値はある……隣だよ」
「隣?」
「噂の出処は大泉地一小さく、そして古い国。雪と氷に閉ざされた秘境、
何梅が片眉を上げた。
「その噂とは?」
「九泉を行き来する人はあまりいない。あそこはことさら厚い由霧に囲まれて各国から遠ければ人も少ない過疎地域だ。しかしそれでも
幾万の薬草が生えており他国にはいない珍しい獣や鳥が集まり、周囲は雪の吹きすさぶ山峰だというのに、一歩中へ足を踏み入れれば花々が咲き乱れ静穏で、水の豊かな
「けれどねえ、九泉人というのはことさら
女のひとりが茶を差し出し、顕賢は礼を言って受け取り
「お前が法螺話だと断言するのなら、耳鼠も焉酸も実在するのか信じられねえな」
「信じてないのは九泉の様相のことだよ。薬はあるはずだ。俺は死んだ人間がそれを飲んで
「蘇っただあ?」
「死病に
韃拓と何梅は
「助けたのは九泉出身の流しの
「……刺史どのがそこまで確信しているのなら、探しに行ってみるべきか。いずれにせよ他にめぼしい解決法もない」
「だが、九泉っていうとここから北回りで向かってもかなり時がかかるぞ。顕賢は
「もしや君、自分で行こうとしてるのかい?」
「韃拓、お前は駄目です」
禁じられ、じゃあどうする、と見返した。何梅はいちど目を閉じると控えている女たちのほうを向く。
「
呼ばれてひとりが、えっ、と狼狽し慌てて頭を下げた。
「はい!」
「お前が行きなさい」
「あ、あたくしが……?」
「熊と草の地まで辿り着いた戦士たちはお前の貢献で命拾いした。もう一人前の刹瑪です。仮にも薬を探すのです、少しでも詳しい者がいたほうが良い」
「待ってくれ媽媽。否定はしないが、季娘は泉地へは出たことないだろ」
「なにも一人で行けとは言っていない。……彬州の瑜順と合流して向かいなさい」
「瑜順兄さまと…」
「
なんと、と顕賢は感心した。「九泉に太后陛下のお身内がおられるのですね。それは心強い……て、え?太后様?」
きょろきょろとあたりを見回すのは構わず、韃拓は難しい顔をしてみせた。
「瑜順を九泉へ遣わすって?
「いまだ国内の戦況は膠着していて瑜順が必ずおらねばならぬ状況とは言えない。彬州にとどまった八馗は七十ほど、指揮は
幕内がざわついた。韃拓の表情はさらに険しくなる。
「一泉の為に不案内な冬の山越えをしようってのに、なぜこの上俺たちがそんな危険を
「そうでなければ征西軍、征南軍の信を勝ち得ぬ。太后の書文を届けたところで、龍印もなければ偽造として破り捨てられよう。特に征西将は我ら角族を嫌っている。こちらがなにか企んでいるのではと勘ぐり瑜順をさらに厚い箱に
「
知っているもなにも、と何梅の瞳は壁に掛けた武具を映した。
「かつて淮州で八馗本陣に単騎で斬り込み、
思ったより文統とは因縁が深かったようだ。韃拓は息を吐き、次いで
「やれるのか、季娘」
季娘は口を引き結び、こくりと頷いた。
「やってみたい……いいえ、やる!」
「……しょうがねえ。じゃあ途中まで送ってやる」
眉を動かした何梅に肩を竦めた。
「ついでだよ。俺は神域に用が出来たし、途中までついててやるってことだ。たとえ豺で行くとしてもいつ他の危険な妖獣に襲われるとも分からん。しかも冬だ。少しの油断が命取りになる。季娘、お前自分で火を
「馬鹿にしないでよ韃拓
刹瑪は高所にしか生えない薬草なども自分の足で取りに行く。地形や由霧の流れが変わったとしても珍草の自生している場所を亡失しないよう、脚に覚えさせるのだ。
霧界の確とした地形図はない。そもそも紫の厚い霧が常に取り巻き山の頂から俯瞰しても詳細な遠景を見渡すことが難しいなかで、頼りになるのは自分の知覚力と経験則、先人たちの遺した轍道や目印だけなのだ。昨日まで通れた道が翌日には崖崩れで埋まっていることも珍しくないし、見つけた薬草の群生が次に来た時には枯れていることもある。曖昧で不確かで自分の存在さえ
「
「はい!」
「それなら、私はもうお役御免ですか?」
問うた顕賢に刹瑪たちは否と返した。
「耳鼠も焉酸も、まだ必ず効くとは分からない。こちらも出来るだけ解毒に使えそうなものを集めることにします。刺史どのにも手伝って頂きたい」
「まあ確かに、薬方の基本は
「とはいえ泉人に対して反感の高まっている今、長くとどまり姿が露見すれば摩擦が生じる」
指図に従った女たちに取り囲まれて顕賢は動揺した。
「え?な、なに?」
「我らの巫師とは大抵女が務めるものなのです。刺史どののみてくれでは目立ちすぎます。幸い、ごつくはない。着るものだけ変えて顔を隠せばばれはしない」
隣で噴き出した賽風坊にしかしそちらにも何梅は容赦なかった。
「ぼうや、あなたもですよ。見習いとして他家から連れて来たと誤魔化します。はい、皆、お客人には早速着替えてもらいましょう」
「聞いてねえぞ⁉」
「ちょっと待って、ここで脱がさないで⁉ええ……」
あっという間に連れて行かれる二人を
「……なんで瑜順を行かせるんです」
「なぜとは?彬州は一泉の西端、九泉に行くには最も近い。季娘を一人で遣わすのは私も心配ゆえ、見知った仲の瑜順であれば心強いと」
「彬州の八馗の
目を眇める。「太后からなにか言われたんじゃないのか」
「なぜ?」
「瑜順は泉宮でたびたび呼び出されてた。なんとなく様子が変になったのはその後だ。そんでもって九泉ではあの女の家の奴を頼るという」
こんな時だけいやに勘が鋭い、と内心思いつつ、表情には一切出さず何梅は韃拓の睨みを真正面から跳ね返した。
「瑜順ほどであれば山越えも薬探しも他の者より上手く出来よう。私の
「……あいつに危険なことをさせたら俺が許さねえぞ」
低く言った声に微笑んでみせた。
「お前はほんに昔からあれが好きね」
「今のはあんたの息子として言ったんじゃない。当主として言ったんだ」
硬い調子で強く牽制すれば、母は口角を水平に戻し
「我らの主に隠し立てなどありましょうか」
その返答に結局は、白々しい、と苦いものを感じて顔を
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