五章



 ふらついた韃拓は民家の壁に手を着いた。先を歩んでいた瑜順が怪訝に振り返る。

「どうした」

 韃拓は顔を俯けて荒い息をした。

「――瑜順、お前は平気だったのか」

「なにが」

「フークだよ!」

 殺気立った眼で言い募る。「まだ鳥肌がおさまらねえ。なんなんだ、あの男」

 必死に腕をさする様子に瑜順はしばらく考え込む。

「確かに只者ではないとは思ったが、それほどか?」

だまされるな」

 痛むのか頭を押さえた。「悪寒を紛らわそうと必死だったぞ。あの感じはなんだ?あんなのは初めてだ」

 肩を掴んだ。「落ち着け。…そうか、お前がいやに朗らかだったのはそのせいか。そんなに手練てだれに見えたか?」

「姿を見る前はなにかもっとでかいやつの気配もした。あれは……まるで狛みたいな、そんな気だった。それなのにフークが現れたら気配は消えた。只者じゃないどころか人かどうかさえ怪しい」


 韃拓がこれほど警戒しむしろ怯えているかのような姿は今まで見たことがない。瑜順はもう一度先刻の男を思い返した。自分には怖がるほどの相手だとは感じられなかった。


「ともかく確かに人ではあったぞ。金を渡した時に温度があったしな。俺はそれよりも胼胝たこのほうが気になった。あれは絶えず剣を握ってきた者の手だ」

 なんにせよ、と腕を組んだ。

「もうあの男とは会うこともないんだ。受けた恩だけ有難がってあとは忘れろ。早く皆を探さなくては」

 促されてようやく歩き出す。「ひどい気分だぜ、腹の中を掻き回されるような」


 やはり韃拓は『選定』を受けてから、そういう目に見えない気配に以前にも増して敏感になった、と瑜順は思う。おそらく、人智を超えた力を手にしたからだ。その気持ちは自分には分かち合うことは出来ない。


 とにかく、強行突破で泉畿に入るなどという暴挙を避けることには成功した。フークの話によるとここではおそらく捕縛の手はなく、そうなればあとはもう準備を整えて泉宮へ行くだけだ。そう韃拓を励ましてなんとか大途まで出、露店のこしかけに座り込んだところで小卓の上にひらりと既視感のある影が舞い降りた。またもや髪紐が肢に結ばれている。



「――――あんたたち!」



 人混みの向こうで声を掛けてきたのは鳥の飼い主だ。喜色を浮かべて二人のもとへ駆け寄った。

寓鳥ぐうちょうが飛んで行かないから、まさかと思って後を追って来たんだ。お早いお着きじゃないか。あたしらも昨日入ったところさ」

「麻姑、皆は」

 問いには笑って頷く。「無事だ。泉畿は拍子抜けするくらい平和そのものだ。捕吏ほりの姿もない。心配してたんだ、朴東関でばれたと聞いて。けどうちの子がよくやってくれた」

 麻姑は小さなしもべを指に止まらせた。

「来な。みんな食局とあたしのやしきにいる」


 ともかくもほっとした。泉畿・巌嶽の空気は重くなく、むしろ春を迎えて人々は活気に溢れている。一泉特有の厳かな黒と金の慶事の帛旗はたが通りのあちこちに吊るされて揺れていた。

 それを見ていた韃拓に麻姑が説明する。

「もう何日も前から掲げられてる。角族とのことはここでは歓迎されてる」

 浮き足立った空気はそのせいもあるらしい。しかし一転して顔を曇らせた。

「なあ、少し確認なんだけど。あんたらは同盟を再び結ぶ為に来たんだよな?」

「なんだ、今更。それ以外何があるんだよ」

 いや、と言葉を濁す。「なんというか、出回っているのはあたしが聞いていた話とは違うのでね」

 二人は顔を見交わす。そのうち邸に辿り着き、ともかくも宣尾たちと再会し、身を清めて久しぶりに大いに食べた。





「――それで、さっきの話だが」

 瑜順が再び話を戻し、花庁きゃくしつに集った面々は難しげな顔をする。麻姑が椅子に腰掛けて腕を組んだ。

「あたしがあんたたちから朴東で聞いていたのは角族が使っている如願じょがん泉の貸与を継続させるってことと公主の降嫁だ。けど、ここ巌嶽では話がまるきり異なっている」

「どういう事だ?」

「角族は一泉に全面的に降伏、和睦して族領を放棄、一泉の定めた居住区への移住を開始する。また、恭順を示す為に王侯に角族の子女を差し出す、と」

 話し始めから眉を顰める突拍子もない話だ。

「なんだその法螺話は」

 面々は渋い顔をした。麻姑も長い爪で頭を掻く。「あたしも初めて聞いたよ。誰が広めたのやら知らないがとんでもない話だよ、これは」

「全面的にコウフクってなんだ」

 椅子背を前にし座ったまま韃拓が瑜順の袖を引く。

「角族が実質一泉の泉賤どれいになるということだ」

「はぁ⁉」

「いま分かったのかい。瑜順の言った通りだ。今回の奉賀は同盟の再約ではなく北狄ほくてきが一泉にくだったと民に知らしめる為のものだと認識されている」

 冗談ではない、と仲間が拳で卓を叩いた。

「我々を統治下に置いていいように使い回す気だ。これでは七泉に従属した東夷とういと同じく、泉外人として隔離され搾取されるということだ」

「泉国の中でも一泉は大国と言えるがどことも特に親しい国交があるわけでなくわずかばかり東南の八泉国と交流を持つ程度の閉塞した国だ。産業の頼りは莫大な埋蔵量を誇る麦飯石のみ。由歩ゆうほがことさら少ない一泉が国内の資源に限らず北の泉外地の豊富な鉱床までをも手に入れる為には霧を渡れる大量の人夫が必要なのさ。従って角族を併合すれば採石量も増える」

「だが、我々は八十万はいる。併合したとしてそれだけの人数を収容できる場所があるのか」

「離散させて振り分ければ大したことのない数だね。なにせここは土地だけは馬鹿みたいにあるから」

 離散、という言葉に全員が戦慄した。瑜順が指を組んで険しい顔を崩さない。

「……韃拓を人質にする気か」

「あたしはよくは知らないが、族主ってのは誰にでもなれるものではないのだろ?言うことを聞かせるならそれがいちばん手っ取り早いと踏んだんじゃないかい」

「これでは騙し討ちだ。盟約に反する」

 そうだ、と猛々しく叫びが上がる。「今すぐ帰ろう!こんな茶番に付き合わされてたまるか!」

 瑜順は息をついた。

「いろいろと情報が錯綜しているな。淮州でのこともそうだし、このまま帰っては真相は何もわからず、ますます一泉に俺たちを支配する口実を与えることになる」

 韃拓は憤然と声を荒げた。

「俺は瑜順に賛成だ。何が何だかよく分からねえ。第一ここまで来て引き退さがれるか。死人が出なかったからいいものの殺されかけたのは事実なんだぞ。一発殴らないと腹の虫がおさまらない」

「とはいえ、お前を泉宮に連れて行くのはあまりにも危険だ」

「今さらだぜ瑜順。俺は絶対行く。一泉主がどんなつらしてるのかちゃんと見ておくべきだ」

 友は思案してさらに無表情になった。顎を撫でる。


「麻姑、俺たち角族が泉畿入りしていることはまだ公に知られていないのだよな?」

「ああ。鏢行にも口止めしている」

 瑜順は頭指とうしで卓を鳴らした。

「……ここはあえて、敵のたばかりに乗るか」

 どういう事だ、とまわりがさざめく。

「俺たちが既に奉賀の用意が整っていることを国府に申し伝え、日を置かずして宮入りする。彼らもまさか朴東を越えられずにいたのにもう辿り着いているとは思っていまい。なるたけ敵に段取りの準備をさせずに拝謁を求める」

「俺たちがここにいる時点で捕まったりは?」

「可能性は低いな。こちらがここまで内密に入って来れたことに思い至るならば必ず外部の手助けを得ていることの予想がつく。巌嶽は入るのは難しいが出るのは簡単だ。ここで襲えば逃げられる危険をおかしてわざわざ捕らえに来ようとはすまい」

「捕まるとするなら、泉宮に入ってからさ。籠の蓋を確実に閉めてからじゃないと油断も隙もないからね、あんたたちは」

 麻姑も頷いた。じゃあ、と韃拓は固めた拳でもう一方のてのひらを叩く。

「決まりだな。一泉宮へ乗り込むぞ」

「待て。あくまで向こうは歓迎の体裁を崩していない。我々がここで噂されていることに気がついていないと思っているのかもしれない。とすれば宮に入るまではこちらもおとなしく従っているふりをするべきだ。初めにこちらから手を出してはならない」

 一泉主が角族のこれまでの経緯を知っているのか分からない手前、無闇な戦闘は避けたい。

「そうだな。最初から暴れたら泉主の顔を拝めないかもしれねえしな」

 神妙になったのに麻姑が噴き出した。「こりゃ大物だ」

「お前は泉主を殴ることしか考えてないだろう。拝謁の際の作法や口上を忘れてはいないだろうな?」

「大丈夫だ。任せろって」

 笑って肩を叩かれ、瑜順は絶対に避けられないであろうその対峙をおもんぱかって溜息をついた。





 韃拓と瑜順が巌嶽に入り込んで二日後、奉賀に関わる全ての準備と体裁を整え、雇った使者――これも安全を期して麻姑の手の者を使った――に国府へ角族使節団の到着をしらせる文を持たせた。


「いよいよだね」

 邸の窓辺で麻姑は煙管きせるの煙を吐き出した。「朴東関で逃走して、一時はどうなることかと思ったけど。捕まったっていう話も聞かなかったからね」

「まさかあなたがあんな妖鳥を使いこなすとは思わなんだ」

 瑜順が貢物の目録から目を離さずに言った。

「役に立ったろう?」

「人の物をくすねるとはとんだ盗っ人だ」

 言えば、笑って瑜順の結髪の先をすくった。

「ああいやだ、お大尽はあたしの首に噛みつくのに夢中で落し物にも気づかなかったのをわざわざ届けてあげたのにさ」

「よく言う。こちらとて背を引っ掻かれた」

 それには無視を決め込み爪で毛先を弾いた。「なあ、ひとつ訊いていいかい?」

 なんだ、とぞんざいに返してきた青年を見下ろす。


「……あんたはほんとに角族かい?」


 手を止めた。話し出してから初めて直視する。麻姑はいたずらめいた瞳を近づけて囁いた。

「背中の傷を見せてみなよ」

「……生憎あいにくそんな間柄ではないのでな」

 返しに、ふうん、とつまらなさそうに頬杖をつく。手の甲をつつき、とつとして思い切り刺し立てた。

 鋭い爪はそのままねじられ、裂けた皮膚からわずかに赤いものが滲む。瑜順はその手首を強く掴んで睨み据えた。


鋼兼ハガネじゃないんだね」


 この女、と奥歯を噛んだ。

「角族の民全てにその能力があるわけではない」

「へえ。族主の最側近がただの由歩だって?」

 あおるように言った麻姑の手を振り捨て、冴え冴えと感情のない目を向けた。だがそれでも相手は怯まない。

「あんたさ、一族のもんじゃないんだろ」

「詮索好きは身を滅ぼす。たとえそうでもあなたに明かす義理はない。そちらこそ、ただの商人にしては夷狄に詳しい。何者だ」

 麻姑は肩を竦めた。「ただのつまらない一介の商人さ。由歩という以外他の奴らと変わらない。なあ、あんたはなぜあのぼんに仕える?それほどの統率力があってどうして自ら主になろうとしない?」

「一度俺と寝たくらいで調子に乗るな。余計なことに首を突っ込めば後悔しても手遅れになる」

 梨のつぶて、とやれやれと首を振った。

「言っておくがあたしが邸まで貸してるのはあんたがいるからだってこと、忘れないでおくれよ」

「それも明日までだ」

 瑜順は傷つけられた手を袖の中に隠した。自分を呼ぶ声がだんだんと近付いて来たからだ。

「あたしも泉宮までついて行く。褒美の機会を逃すわけにはいかないからね」

「勝手にしろ。ただ、俺たちの邪魔をすれば許さない」

 はいはい、と手を振ったところで彼の主が顔を出した。

「ここにいたか。馬もなんとか集まった。念の為鏢行には明日まで案内と護衛に付いてもらうけど、いいよな?」

「問題ない」

「さっき他のやつに聞いたんだが、いまいち宮入りの行程が分からなくてよ。もういっかい聞いてもいいか?」

 向かいに腰を下ろしたのに対して薄く微笑みを返し竹簡しょるいを隅に追いやる。「緊張してるのか?」

「ていうわけじゃねえけど、堅苦しいのが苦手なんだよ。知ってるだろ?」

「どうにか耐えてくれよ」

 図面を広げた。一泉宮の大まかな俯瞰図だ。


「俺たちはまず国府に赴く。そこで手続きと挨拶を終えてから宮入りだ」


 国府は宮の手前、広大なほりで囲われた一泉宮の、外と繋がる橋を渡した南に置かれる国直轄の行政の中枢機関だ。各州府を取り纏める。泉畿のある剛州府もここに併設されている。


「おそらく国府を抜けてから前殿を過ぎ、外朝の主殿である太承たいしょう殿に招かれると予想する。この建物の前面には大門があって、大庭がある。この門が実質宮の入口だ。この庭を進み長い階の下でまず諸官と儀礼を交わし、それから族主と近侍のみが殿に登る」

「人数は決まってるのか?」

「確としたものはないが、おおよそ二十人前後だろう。他は下馬して中庭で待つ」

「それから?」

 瑜順は主殿と思われる図の中に湯呑みを置いた。

「おそらく泉主をはじめ重臣は皆ここに集まっている。順序よくいけば俺たちは同盟の再約をするが、たぶん向こうはここでお前を捕らえるつもりなのかもしれない」

「帯刀はできるのか」

 分からない、と瑜順は首を振った。

「あくまでこちらに計画を気づかせないために剣履けんりを許すかもしれないが、普通は泉主に拝謁となると必ず丸腰だ」

「理由をつけて取り上げられるほうが大きいってことか」

 韃拓は舐め回すように図面を眺めた。

「なあ、この建物に入るまでに包囲されたらどうする」

 大庭の周囲はぐるりと壁で囲われており、四隅に敵角楼みはりだいが建っているようだ。

「泉畿の噂が本当なら、あくまで一泉は俺たちを弾圧するつもりだが、無駄な反感を煽って血みどろの戦いになることは本意ではないだろう。いきなり矢を射掛けてくるとは考えにくい。角族の力を知っている者ならばなんとか懐柔しようとするはずだ」

 そうか、と主は何事かを考えている。瑜順はそれを窺った。

「韃拓、余計なことは考えるなよ。謁見が無事に済めばそれに越したことはないんだ」

「そうはいっても、淮州でのことは訊かなきゃならねえだろ」

「すべて泉主の差し金なのかもまだ予想の域だ。話し合いで解決できるなら俺は穏便に済ませたい」

 それまで黙って聞いていた麻姑が口を挟んだ。

「泉宮の中の噂は庶民のあたしらにはなかなか届いては来ないが、それでも宮に物品を卸している仲間からいくつか聞いたことがある」

「泉主のこともか」

「賢王とも愚王とも聞かない。ただ」

 難しげな顔をしてみせた。

「昔から妙な話がある。一泉の泉主は『二人いる』と」

「二人?」

「それはない」

 瑜順は即座に否定した。

泉帝せんていとは一国に必ず一人、常に黎泉れいせんから神勅しんちょくを受けた泉根せんこんだけだ。例外は唯一、大泉地で双泉そうせんを有する六泉の泉主たちのみ。他の国で泉主が二人いるなんて話は聞いたことはない」

「ああ。だからこれはおそらくたとえなんだ」

「どういうこった?」

「泉主の他に同じほど権力を持った勢力があるということだよ。これはあたしの推測だが――」

 麻姑は図面に文鎮を転がす。瑜順が置いた湯呑みのさらに北に。

「――それは後宮だ。もちろん、まつりごとに参与できるところではないが、ただひとりだけ、泉主を操れる者がいる」

「誰だよ、そいつは」

「……摂政せっしょう

 呟いた瑜順に麻姑は頷いた。

「つまりは、泉太后せんたいごう――泉主の母親だ」





 翌日早朝から巌嶽の街はにわかに騒がしくなった。そこかしこで縁日のようなざわめきが聞こえる。人々は噂した。いつの間にか角族の使節団は到着していて、今日宮城へ上がるのだ、めでたい日だと。その声を伝えた麻姑に当の本人たちは苦々しい顔をした。


 正装に身を包んだ瑜順は最終の段取りを確認してあたりを見回す。

「韃拓はどこだ」

「ああ、ここだ」

 門前に集めた馬の中から手が挙がった。瑜順はその笑顔を見て憮然とする。

「お前、ひげを剃らないのか」

 すると得意気ににやりと摩った。「このほうが偉そうに見えるだろ?舐められたくねえし」

「ますます荒々しいな…せめて整えろ」「整えてこれなんだよ」

「ほら、ぼうやたち。早く出ないと他のもんが待ちぼうけだよ」

 食局に逗留していた他の兵たちとは巌嶽の大途が交わる広場で落ち合うことになっている。すでに民が一目彼らを見ようと集まってきていた。


 広場の牌楼もんの下で馬に乗り、独特の極彩色の旗袍きものを纏った角族はかなり目立っていた。韃拓たちが通りの向こうに現れ、人々に取り囲まれるようにして待ち侘びていた人員は見るからに安堵した表情を浮かべた。


「当主。無事で何よりだ」

 その中で笑い含んだ男が韃拓に声をかけた。軍の長のひとり、中樊チュウハンだ。

「そっちの高車にぐるまも無事か」

「傷一つなく。正直驚いた」

 韃拓は同意する。鏢行はきちんと務めを果たしたようだ。

 よし、と手を前方に差し伸べた。

「行くぞ!」

 喊声かんせいが轟き渡り野次馬の民たちが一様に驚いた顔をした。喜色を浮かべつられて声を上げる者もいて、韃拓はその様子に高揚する。

「巌嶽のやつらは良い感じじゃねえか」

 しかし瑜順は無感動にそれらを眺めただけだった。隣で麻姑も苦笑いする。

「下に見て調子に乗っているだけさ。あるいは本当に噂を信じる馬鹿だ」

「根は悪い奴らじゃなさそうだぜ」

「瑜順、お前の主は大層お人好しのようだね?」

「……その勢いで併合を承諾しないでくれよ、頼むから」

 分かってらあ、と手綱を振る。軽快に進む一団は真っ直ぐ進み、丘の上に聳える山とも見違える巨大な宮城へと向かった。




 艶めく釉薬ゆうやく黒甍くろいらかが連なる国府の建物群の、その門前には数十人の黒衣の諸官が並んでいた。中心に佇んでいた男が一人、前へ進み出る。馬を降りた韃拓に袖で覆った両腕を曲げ、顔の前で水平に捧げてみせた。


「はるばるのお越し、痛み入りまする。角族族主におかれましては長旅のお疲れも癒えぬままにこうして善を急ぎご光来たまわりましたこと、泉主をはじめ三公諸卿さんこうしょけいいたく恐悦であると共に幸甚こうじんの極みにございまする。ここからのご案内はわたくし典客丞てんかくじょううけたまわります」


 頭を垂れてひざまずいた男に韃拓も儀礼通りに挨拶を返した。出迎えた者たちがさざなみのように左右に割れ、轟音を立てて門が開く。典客府の礼郎れいろう達に手綱が預けられた。馬はここで取り上げられ、韃拓たちは徒歩で国府へと入る。国府の殿もだだ広く四方を壁に囲われた庭があり、内心警戒しながらまっすぐ進んで行った。前殿に入ってからもう一度説明を受ける。


「早速ではございますが角族の皆様にはこのまま太承殿にお進み頂き、泉主と謁見の儀を執り行って頂きます」

「……なあ、なんとか丞さんよ」

 突如、韃拓が声を上げた。

「あんたは俺たちが何の為にここまで来たと思ってるんだ?」

 韃拓、と瑜順が小声でいさめたが彼は腕を組んで目の前の男を見つめた。相手は瞬き、それから顔を伏せた。

「もちろん、我が一泉国との強固な友好を結ぶよしと心得てございます」

「だから、つまりはどういう事だと思ってんだ」

 強い口調で重ねて言ったが瑜順に阻まれた。

「――ご無礼を。なにぶん当主は貴国が初めててございますれば、気がたかぶっております。お許しください」

 典客丞はいえ、と目を泳がせて口許を先ほどの拱礼れいと同じ動作で隠した。

「こちらこそ粗相がありましたようで。私は皆様をご案内するよう言いつかっているのみで、おん族主のお気に召すような問答を交わせる身分ではございません。何卒お許しを」

 舌打ちを背に瑜順は頭を下げ合う。

「それで、このまままっすぐ行けばよろしいのですね?」

 典客丞は中庭の中央に延びた石畳から身を引いて脇に避けた。「どうぞこのまま。太承殿の階下でお腰のものをお預かり致したく存じます」

 やはり、と面々は心の内で頷く。ゆっくりと進みながら、瑜順がこそりと韃拓をとがめる。

「痺れを切らすのが早いぞ。一体どうした」

「……嫌な気がする」


 硬い表情でそう囁いた。実際にあたりは不気味なほどの静寂に包まれている。閑散とした広場に城の警護の兵もたいして姿が見えず、上の門楼を見回しても人の気配が無かった。近づいた大門はゆっくりと軋んで内側へ開いてゆく。


「瑜順、鳴らせ」


 押し殺した声でそう命じられ、目を見開く。もう一度視線を交わし合ってから、瑜順は開門の音に混じって甲高く舌打ちした。かん、と梆子ひょうしぎを打ち鳴らしたかのような音、短く速く三回。


 ――――戦闘準備の呼子。


 韃拓は絶対に剣を渡すつもりがない。音を聞いて仲間たちが顔を強ばらせた。列の中を緊張が包む。

 大きな赤い門は開ききった。見える真正面には黒銀と朱に輝く大階段、一際ひときわ大きな黒い宮殿が見えた。優美に反り返った屋根先は完全な左右対称で、それはおびただしい数に重なりせり出した枓栱ときょうに支えられて荘厳さを増している。両横に連なる掖殿も、明渠すいろを無尽に流れる水を受けとめる石筧かけい蹲踞つくばいも全てが左右に二つずつ相対あいたいしていた。居並ぶ衛兵が掲げた黄金と黒のなにかの図匠を織り出した国旗が緩く揺れている。大庭は全面が石畳の広大な真四角の広場で、大門から階に繋がる幅広い帯線はそこだけ石の色が接した他のところとは異なる。一毫かみのけほどの隙もなくぴったりと合わされた目地までも規則的に組まれ、表面は凹凸なく滑らかに磨かれて歩いている者の影を映した。ゆっくりと進んだ使節団はついにあか毛氈もうせんの敷かれた壇下に到着する。大階段にも等間隔に甲冑よろいを着けた衛兵が槍を片手にこれまた均一に佇んでいる。韃拓は目だけを走らせた。


 再び黒い礼服に身を包んだ下官が進み出て、得物を渡すよう促してくる。


「断る」


 確固として拒否した。下官が狼狽した顔でこそりと隣の者に耳打ちして向き直る。

「しかし、佩刀したままの拝謁は許されておりません」

「本当に俺たちとかつて結ばれた同盟を更新するというのなら、俺たちが武器を持っていようと使う機会なんか訪れない。それとも、持っていてはなにか困ることが起きるのか?」

 下官たちは泡を食って右往左往し、困惑したように韃拓たちを見た。

「しかし…おん族主。このままでは殿上が許されません」

「誰が誰を許すって?俺は一泉と同盟を結びに来たのであって、下僕しもべになる為にやって来たんじゃない」

 韃拓は背に負った剣を鞘ごと外し、肩に横にして担いだ。そのまま階の一歩目を踏み出して周囲がざわめきに包まれる。異状を認めた衛兵たちも咄嗟に身構えた。



「何事だ⁉」



 ややあって脇の建物から走り出て来たのは比較的高位そうな男で、韃拓の様子に目を止め険しい顔をする。

「お控えられよ。角族主におかれては無礼が過ぎる。ここは和平の場であるぞ。そなたらは新たな泉主に随順と帰服を示す為に参られたのだろう。それなら相応の態度があろうというもの。たとえ一昔は北狄ばんぞくとして荒ぶった経緯いきさつがあるにせよ、すでにそれは過ぎ去りしこととして忘れられるべきもの。同じ一泉の民としての意志を示すならばこの場で無益な尊大さを見せつけてなんになろうか」


「…………新たな、泉主…………?随順と帰服?――――同じ一泉の民だあ⁉」


 黙って聞いていた韃拓は凄まじい形相で睨み据えた。

「お前なあ!」

「待て、韃拓」

 瑜順の制止を聞かず、担いだ剣をそのまま男に向けた。

「言ってることとやってることがあべこべだろうがよ⁉和平だと⁉淮州でいったい何が起こってるのか、あんたは知らないのか!郷里まちは理不尽な圧政で焼かれ、民がやむなく俺たちを襲うほどなんだぞ!」

 本当に焼かれたとは限らない、と瑜順は思ったが主は続けた。

「俺は焼け出されて親を亡くした子どもに内通されて関を越えられなかった。だがそうしなければ生きていけないと思わせたのは同じ一泉の奴らだ!同胞を痛めつけるあんたらが俺たちにまで従属しろだと?それならそれでお前らになびいて良かったと思わせるだけのことをしてみやがれ!」

 まくし立てられた官はいぶかしげに眉を顰めた。

「関を越えられなかった……?」

「ただ力だけで押し通そうなんてこっちはお呼びでねえんだ。そもそも俺たちは一泉と対等な同盟の延長でここに来てる。それに、新しい泉主だと?聞いてねえ。もうお前らを信用は出来ない!俺たちを殺そうとしたんだ、殺される覚悟はあるんだろうな」


 いつの間にか周囲は衛兵の群れが出来ている。韃拓は目の前の男へ向けた剣を降ろすと先を見上げたまま声を鎮めた。だが気は緩めない。

「瑜順、すまん。俺はもう泉主を斬りたくて仕方ない」

「落ち着け。このままでは本当に乱闘になる。無駄に死人を見たいのか」

 驚きつつ禁ずる目をしてみせたが、韃拓は背越しに、お前ら、と仲間に呼びかける。

「絶対に剣を抜くな。殺すな。そこから動くな」

「おい」

「瑜順お前もだ。俺ひとりで行ってくる。だから斬り合いはするな」


 言うやいなや猛虎のごとく階段を駆け登り始め、敵味方双方が唖然とその風を見送る。


「――あのばか!」


 小さく舌打ちして瑜順は後へ続く。ひとりで行かせられるわけがない。我に返った官が大声で、捕らえよ、と配下に命じるのが聞こえた。

 その時すでに韃拓は数段飛ばしで階を駆け上がり、槍を突き出してくる衛兵を剣を抜かないまま振り倒し、一目散に上へ走る。それを追いながら瑜順は焦りの滴を蟀谷こめかみから散らした。


「――韃拓!待て!」


 制止が聞こえていないのか。歯噛みしつつこちらにも襲いかかってくる衛兵をかわして急いだが、主の背が瞬きのうちに階上に消えるのをみとめた。




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