四章
馬を壁上で捨てた為にほとんどの荷を失っていたが、辛うじて懐にあった
「瑜順、大丈夫か?寒いか?」
問うと平気だ、と半ば呆れた気配をさせたが、ここぞと指摘する。
「お前はすぐに風邪をひくじゃねえか。いま倒れられたら困るぞ」
「いつまでも子どもじゃない」
憮然とした調子の声にはそれ以上取り合わず、
「どうしてっかな、皆」
二人で暖かな狛に身を寄せながら
瑜順は髪を首に巻きつけ、呼吸に合わせて上下する巨虎の腹に頬を寄せた。毛並みを撫でつつ呟く。
「俺たちが関抜けに失敗したことはもう届いているだろう。期日までに合流出来なかったら先へ進む。あちらが心配なのはあと
「そうだな」
両人ともしばらく無言で
「こうしてると思い出すよな、昔を。よく悪さして小屋にぶち込まれてさ。真冬なんか凍死するんじゃねえかってくらい寒くてよ。暴れる鶏を抱きかかえて震えてたもんだぜ」
瑜順も
「いいや、お前もしっかり楽しんでたね。二人して馬鹿やって、狩りをして腕を鍛えて。……俺はさ、正直言うとこれからもそうしてたいだけなんだよな」
「そうも言ってられない。角族の次代を担うのは俺たちなんだぞ。ここで考えなしに一族を小さくすることはあってはならない。一泉とは同盟しているとはいえ、安易に泉国を信じ過ぎれば角族の滅亡に
韃拓は溜息をついた。
「お前はほんとに固いよなぁ。俺が言いたいのは」
「自由は
「だよな。俺もこんなことになるなら『選定』なんて受けなくても良かったな」
「不遜だぞ。何人も通過できるものじゃないんだ」
はいはい、と韃拓はそれでも笑う。「しかしよ、瑜順は
「
「そう、泉人かぶれの
「それだけじゃない。泉国と引けを取らないほどの組織体系と文明と歴史を古くから持った、
「犬みたいだな」
「神獣の一である
「ここで盟約を反故にされるとまずいってことか」
「父祖の時代はそれでも良かっただろう。しかし、確実に麦飯石は減っている。あの石は消耗品だから、年を過ぎるたびに岩層を掘り尽くして、やがては枯れる。過去、実際に辛酸を嘗めた。次のその時が来るまでに、なんとか角族の泉地での立場を磐石なものにしたい」
暗闇のなかで韃拓は後ろ頭に両手をあてた。
「俺はお前ほど利口じゃないから難しいことは分からねえが、いずれは泉地に住んだほうがいいってことなのか?」
瑜順はしばらく無言で虚空を見つめ、肯定の気配をさせた。「そう遠くない将来には、そうしたほうが賢明だろう。飲める水のない土地で暮らしてきたほうが奇跡に近いことなのだからな」
それで、そうか、と起き上がった。手探りで隣に手を伸ばし、頭に触れる。
「じゃあ、俺が一泉主に掛け合ってやるよ」
ぞんざいに髪を乱されながら瑜順は唖然とした。
「……ばか、今そんなことを言い出したら公主をいわば人質に貰う意味もないし、一泉人の反発だって大きいんだぞ。泉ひとつ手に入れるのだって何梅さまがどれほど骨を折ったか分かっているだろうに」
「それでも、言ってみるだけ言ってみたらいいだろ。一泉が駄目なら
からからと笑う韃拓に、しばらくして瑜順は心のままの表情を浮かべた。
「…暗くて良かった」
「なに?」
「もう寝るぞ。明日も早い」
切り上げて寝返りをうった。韃拓には夢を
眠りに落ちる寸前心に湧いたのはこの愛すべき主に対する羨望と憧れ――――そして微かな、ほんの塵一つぶんの小さな嫉妬だった。
毒霧にあてられてしまう
少し開けた尾根の上でそれを発見した韃拓は狛を止める。後ろに跨った瑜順も目線を追った。一直線に飛来した鳥は鳥とは言い難い。羽ばたきは鳥の形容には似つかわしくなくより軽快で上下動が大きく、翼は羽毛に覆われてはおらず皮膚を引き伸ばしたかのような飛膜で、音もなく風を切り韃拓の頭に降り立った。
「なあ、それお前の髪紐じゃねえか?」
韃拓も振り返って指摘し、瑜順は首肯した。
「朴東の食局で失くした…」
言いながら小さな筒のつまみを引くと、中にはさらに豆粒のごとく折り畳まれた紙片が入っていた。
「……麻姑からだ」
おお、と韃拓が感嘆する。「なんとある?」
紙片を広げて刻まれた文字に目を通す。
「あっちはあと二日もすれば泉畿に辿り着くそうだ。しかし、日付けを見るに時差があるな。今日あたり最後の関を越えるだろう」
「髪紐ひとつでお前を探し当てたってことか?大したもんだな」
でかした、と小さな頭を指の腹でつついた。瑜順は改めてその妖鳥を見る。
たしか
「韃拓、なにか書くものはあるか?」
「俺が持ってるわけないだろ」
「そうだな」
瑜順は狛から降り、あたりを見回して古木の根元に腰を落とす。なにやら木の枝で溜まった泥を掻き回した。韃拓も立ち上がって伸びをし、それから自らの帯の裾を剣で切り落とした。
「指も切ろうか?」
布を渡し問うと瑜順は「俺がやる」と言い、それと、と下を向いた。
「血だけでは霧の湿気で滲む。こいつを混ぜる」
韃拓にはそれは黒紫のただの泥土に見えた。
「
「四不像の餌にするやつとはだいぶ違うな」
「あれは乾燥させて粉にしてあるんだ。普段はこうして泥と見分けがつかないが混ぜると泥よりももっと粘り気があるのがわかる」
同じ根元に春を待ち侘びてすでに芽を出し密生していた
再び伝書を取り付けられた寓鳥は空に放られていちど二人のまわりをぐるりと一周すると、南へと飛び去った。
「俺たちも急ごう。なんとかして一両日中に壁を越えたい」
「そうだな。そんでここは既に北の果てだ、瑜順」
韃拓が指差した中空には灰色の紗幕とそのなかでひときわ目を引く断崖が迫っていた。
「あれは
頂は天まで続いて窺い知れない。瑜順は首を巡らせなければ眼前に収まらない、途方もなく巨大な山とも言いがたいもはや空の一部を見つめた。ここはすでに神地のすぐ下、無闇に徘徊するのは禁忌の聖域だ。振り返ると森の上に真横に見える一泉の長城の稜線、その向こうにはぼんやりと
「宮城が見える。一泉の真北に来たな」
「おうよ。さて、どうやって入り込む?」
狛を遊ばせるように進めながら韃拓が問うた。それで悩む。
「北には門も水門もないし、壁上は昼夜問わず兵が見張っている。入り込むのは簡単ではないが、時間もない……」
「やっぱり乗り込むか?」
瑜順は険しい表情を崩さない。「最悪、そうなるな……しかし、仮にも泉宮の真後ろだ。後々言いがかりを付けられたくないから、なるたけ手荒い真似は避けたいが」
「しかしよ、そうも言ってられねえだろ?宣尾さんたちが関を通って宮へ行けば当主はどこだと問われる。代表もいない使節団となると一泉を侮辱していると受け取られ、敵に同盟反故の口実をみすみす与えちまうってことだろ?」
無言の同意が返る。その危険は大いにある。すでに強襲され、一泉主でさえ角族の味方かも定かでない状況でこれ以上双方の関係を悪くすることは絶対にしたくない。まして行きがけに阻まれたから来れなかったと言えば、あちらは知らぬ存ぜぬでむしろ礼を欠かれたことを理由にこちらに不利な条件を突きつけて来る可能性もある。もしも泉主がこのことを知らない場合もしかり、最初の印象は相当悪いものになる。
とはいえ気ばかりが
どうした、と問うた声に
「のようだな。なんかでかいのを連れてる」
しばらく無言で意識を集中させると、たしかに下生えを掻き分ける音に人のものではない地鳴りが混じる。
「……瑜順、抜け」
韃拓も降りながら手を振る。黒い
「どうやらこちらも気づかれたみたいだな」
ゆっくりと
息を詰めて見た先、灌木と蔓の生い繁る黄昏の薄暗がりから姿を現したのは、ともかく人で間違いないようだった。他には何者の姿もない。
「……おや。これは滅多なことが。こんな
古ぼけた黒味の
「剣を収められよ。害意はない。迷子…ではなさそうですね。こんなところでどうされた?」
「それはこっちの
韃拓が剣を肩に担いで問うた。男は首を傾ける。なにやら外套の中をまさぐり、汚れた
「ひょっとして君たちは
瑜順は武器を仕舞った。
「いいえ、我々は
そう、と男は腕を下げる。同時に、いきなり鳴った奇妙な音に顔を上向け
韃拓も高らかに笑声をあげ、やっと剣を収める。腹を
「私も金は要らないよ。すぐ近くに
男は杖をつきながら背を向けた。瑜順が横目でいいのか、と訴えたが、韃拓は大きく頷く。見たところは、妖の類でもなければ敵でもなさそうだ。
男についていくらもせず剥き出しの奇岩が迫る山肌が見え、その岩が折り重なったわずかな隙間に招かれた。洞穴の手前の全面は開けた閑地になっていて、ところどころ
「――ここは?」
「知らないのにいたのか。ここは人夫の休息場ですよ」
「人夫?なにか作ってんのか?」
「いいや。この辺りは
頭上に吊るされた干し魚を降ろしていた男は、あ、と品よく口を押さえた。「しまった。教えてしまいました。もしか、君たちは一泉人かい?」
韃拓が笑った。「いいや、違うから大丈夫だ。じゃああんたもその石を採りに来てたのか」
男は先ほどの包みを取り出して二人に見せた。現れた大小の石は目を疑うほど深く冴えた
「きれいだな。でもあんた、見えないのによく採れたな」
言うと魚を火で炙りながら笑んだ。「そのぶん、他のところが発達する。手触りが
へえ、と韃拓は狭い洞を見回した。ここには寝泊まり出来るだけの装備がある。「ずっとここに居るのか?」
「まさか。ここに来てひと月ほどだろうか。度々一泉に戻って必要なものを買ってきているのです」
二人は顔を見合わせた。
「だが、一泉の北には門が無いだろう?東か西まで移動しているのか?」
「北門はありますよ。でも通る者がいないので開くことはなく形ばかりです。以前は――といっても、かなり昔のことらしいけれど、通行できたようです。すぐ近くに小泉があったから。だが由霧が浸蝕して放棄され、泉も涸れた。それに伴い壁を後退させて、その時に門は閉鎖されたのです。しかし泉外となったところにまだ当時の
「水井ってなんだ?」
「かつての貯水槽から泉水を汲み上げた場所のことです」
瑜順がでは、と見据える。「あなたもそこを出入りしているのだな。抜けるとどこに出る?」
男は魚を二人に差し出し、石を包みなおす。
「中は道がいくつかあるが、私の知っている道は一泉の泉畿……
頬張りながら韃拓はそれだ、と串を向けた。「大哥、俺たちをそこまで案内してくれねえかな⁉一泉に入れなくて困ってる。礼は弾むぜ」
男は少し気圧されたように黙ると、やがて首を傾げた。
「こんな怪しげな盲人の言うことを信じると?てっきり詳しいことを聞いたら私を殺すのだと思っていたのですが」
「そんなことしねえよ。それにあんたは俺からしたらとんでもねえ
韃拓の言に瑜順は、やはり、と息を詰める。只者ではなかったか。言われて男はふっと気を和らげ、空の両手を広げた。
「君たちも相当の剣士とみた。そう、私はもとは盗掘人ではありません。しかし、行きずりの者に詮索はよしてくれると嬉しい。私も君たちが何者であるかは聞かない」
「話の分かる御仁で助かった。とにかく俺たちは一刻も早くここから泉畿に入りたいんだ」
うん、と男は柔和に頷く。「構いませんよ。ただ抜け道は他言無用にして欲しい。それだけ守ってくれるなら報酬も要らない」
「それではあなたが損をする。我々が絶対に吹聴しないとも言い切れない」
言った瑜順にさらに閉じた目尻が弧を描く。
「まあ、そうなったら仕方ないでしょう。私もそろそろここを離れようと思っていたから、いい潮時のようです。そうそう、短い間だが君たちのことをなんと呼んだらいいかな?」
二人はまた顔を見合わせ、瑜順が口を開いた。
「我々のことは
「そうですか、では
「あんたはなんてんだ?」
問われた男は優しげな雰囲気を崩さず布越しに名乗った。
「私はフークです」
フークは洞に置いてあるものをそのままに焚火の始末だけをして外へ出た。
「いいのかよ?」
「また荒稼ぎに来る者に残しておけばいい。別に私の家ではないのだから」
「お人好しだな」
「君たちのように迷い込んで来る者もいるかもしれないでしょう?」
それはそうか、と韃拓は閑地に立って首を巡らす。陽は沈んで黒い空には月も星もない。
おいで、と言われて後に続きながら森のなかを進んだ。その長身の背に話しかける。
「なあ、あんたも一泉人じゃないんだよな?」
「ええ。でも今は城下に
「なら、泉畿の噂とかなんか知らねえ?」
フークは前を進みながら呟いた。「噂…そうだね……近々北の泉外民が巌嶽に来るとは聞きました」
あまりに時宜を得た言葉に二人は固まった。
「……へえ」
「同盟の再約だそうで。まあ、一泉にとっては割のいい話なのでしょう。小泉ひとつで郷里の
「泉畿はそれでぴりぴりしてんのか?」
「ぴりぴり?」
フークは倒木を跨いで、幹に手を当てた。
「なぜ?角族が
どういうことだと瑜順は内心困惑する。では、あの襲撃や朴東関でのことや、ここまで追われたのは何だったのか。韃拓も口には出さなかったが混乱しているのが分かった。
「そうなのか。いや、俺は一泉に行ったことがないからよく分からねえんだ」
そう、とフークはこちらの挙動には気がついていないようでそのまま歩を緩めず、やがて先ほどの閑地よりは随分小さいが木が
「これが水井です。昔はこの下から貯めた水を引き揚げて使っていました」
中には少し心許ない細さの梯子が掛けられている。ぎしぎしと危なげに鳴る踏み板をつたって底まで降り、二人は音の反響する内部がかなり広い空間であるのが分かって驚愕した。
「仲楊、
言われて韃拓は渡された
再び歩き出しながらフークが囁いた。「響くから壁を越えるまでお喋りは禁止です」
それで黙々となるべく立てないよう気をつける足音だけを響かせながら、三人は打ち棄てられた広い水槽を抜け、奥に続いている道のひとつに進んだ。ここからは石畳ではなく削った岩窟だ。細い坑道をひたすらに歩み、すれ違う為なのか脇が広く
「壁を抜けた。この上はもう巌嶽だ」
フークは振り返った。「お疲れ様。もう少しです」
「もう喋っていいか?」
韃拓が口を開きたくてかなり辛抱していたのを瑜順は知っている。
「どうぞ」
「はあ……距離よりも黙ってるのがきついぜ」
「君は見ず知らずの人について行って罠じゃないかと不安にはならなかったのですか?」
思い切り声を上げて笑った。
「俺はあんまり細かいことを気にできない。ゆ……孟楊がいいというなら信用に足ると思った」
それでフークは瑜順に顔を向けた。
「大層信頼されているのだね」
「こいつは一人にすると何をしでかすか分からない。手綱が必要なんだ」
聞いて、ふふ、と笑うとまた進み始める。「本当の兄弟みたいです」
それはなんとなく懐かしむような響きがあったが、二人は彼の呟きよりもようやく目的地に辿り着ける喜びと興奮で気に留めることはなかった。
出口はフークが言ったように崩れて荒れ果てた
「ここが、泉畿か……」
呟いて見回したが現在地はかなり郊外のようで閑散としている。風が土埃を立てて余計に侘しい。フークが遠くの一点を指した。
「あれが泉宮。正面まで行けば
「ありがとよ、フーク。この抜け道もまた使えそうだ」
「恩に着る」
瑜順は男に少なくない量の金を握らせた。
「おやおや、要らないと言ったのに」
「あなたがいなければこうして入れなかった。感謝する」
渡されたほうは、そう、と首を傾げた。しばらく無言で瑜順の顔のあたりから頭を動かさない。
「……では、
韃拓がじゃあな、と手を振る。フークも杖を握った腕を掲げた。足早に遠ざかっていく音を聴きながらもと来た道を戻り始める。
「…………北の
笑みを隠すように布を押さえた。
「面白い組み合わせだ」
呟きは砂塵に掻き消える。
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