四章



 馬を壁上で捨てた為にほとんどの荷を失っていたが、辛うじて懐にあったほしいいを分け合った。夜になって霧は益々厚くなり、湿気はまとわりついて体温を奪う。ちょうど岩棚の下に二人と狛で入り込めそうな狭間を見つけ、枯れ草を寄せ集めて暖を取った。


「瑜順、大丈夫か?寒いか?」


 問うと平気だ、と半ば呆れた気配をさせたが、ここぞと指摘する。

「お前はすぐに風邪をひくじゃねえか。いま倒れられたら困るぞ」

「いつまでも子どもじゃない」

 憮然とした調子の声にはそれ以上取り合わず、

「どうしてっかな、皆」

 二人で暖かな狛に身を寄せながら欠伸あくびをして言った。「合流地は食局しょくきょくにしたんだよな?麻姑なら上手くやるだろうからそれほど心配はしてねえけどよ」

 瑜順は髪を首に巻きつけ、呼吸に合わせて上下する巨虎の腹に頬を寄せた。毛並みを撫でつつ呟く。

「俺たちが関抜けに失敗したことはもう届いているだろう。期日までに合流出来なかったら先へ進む。あちらが心配なのはあと泉畿みやこの関門だけだ」

「そうだな」

 両人ともしばらく無言で微睡まどろみまでの時を刻んだが、ふいに韃拓が懐かしむように言った。

「こうしてると思い出すよな、昔を。よく悪さして小屋にぶち込まれてさ。真冬なんか凍死するんじゃねえかってくらい寒くてよ。暴れる鶏を抱きかかえて震えてたもんだぜ」

 瑜順も可笑おかしげにする。「おもにお前がやったくだらないことに俺が巻き込まれたんだがな」

「いいや、お前もしっかり楽しんでたね。二人して馬鹿やって、狩りをして腕を鍛えて。……俺はさ、正直言うとこれからもそうしてたいだけなんだよな」

「そうも言ってられない。角族の次代を担うのは俺たちなんだぞ。ここで考えなしに一族を小さくすることはあってはならない。一泉とは同盟しているとはいえ、安易に泉国を信じ過ぎれば角族の滅亡にじかに直結する。あくまで泉国とは対等の立場を保たなければ。水を失ったかの氏族の二の舞にはなってはならない」

 韃拓は溜息をついた。

「お前はほんとに固いよなぁ。俺が言いたいのは」

「自由は無償ただじゃない。何にも縛られず、角族として生きていきたいなら、障害となり得るしがらみはすべて取り除かなければ。俺たちは残念ながら不遇の民だ。泉人とは初めから持っているものが違う。先のことを何も心配なく守られて過ごせた子供時代を、今度は俺とお前が繋いでいかなければならない。……まあ、気持ちはよく分かる。俺だってこんな面倒な役回りは御免だったから」

「だよな。俺もこんなことになるなら『選定』なんて受けなくても良かったな」

「不遜だぞ。何人も通過できるものじゃないんだ」


 はいはい、と韃拓はそれでも笑う。「しかしよ、瑜順は角族おれたちをあの一族のようにしたいんだろう?……何だったか、西の隅の……速耳はやみみ?」

族」

「そう、泉人かぶれの西戎せいじゅう。だがあいつらには水がある。そりゃ泉地と同じような暮らしができて当たり前だろ」

「それだけじゃない。泉国と引けを取らないほどの組織体系と文明と歴史を古くから持った、夷狄いてきとしては別格の特異な一族だ。様々な民族の文化や政治、建築、製鉄技術を取り込み栄えている。まさに国と呼んでいい。彼らは特に耳目鼻に優れ各国で独自の情報網を築き、それによって泉国と渡り合う」

「犬みたいだな」

「神獣の一である狻猊さんげいを使役しているらしい。俺もなけなしの書から得た知識だから、よくは知らないが。泉外人のなかで真に泉国と対等なのは勢力を拡大した牙族だけだ。麦飯石と掠奪で生きてきた俺たちは今のところ一泉の慈悲に縋るしかない。だが俺はこれを足掛かりにもっと一族を強くしたいと思っている。その為には水がどうしても必要だ」

「ここで盟約を反故にされるとまずいってことか」

「父祖の時代はそれでも良かっただろう。しかし、確実に麦飯石は減っている。あの石は消耗品だから、年を過ぎるたびに岩層を掘り尽くして、やがては枯れる。過去、実際に辛酸を嘗めた。次のその時が来るまでに、なんとか角族の泉地での立場を磐石なものにしたい」

 暗闇のなかで韃拓は後ろ頭に両手をあてた。

「俺はお前ほど利口じゃないから難しいことは分からねえが、いずれは泉地に住んだほうがいいってことなのか?」

 瑜順はしばらく無言で虚空を見つめ、肯定の気配をさせた。「そう遠くない将来には、そうしたほうが賢明だろう。飲める水のない土地で暮らしてきたほうが奇跡に近いことなのだからな」

 それで、そうか、と起き上がった。手探りで隣に手を伸ばし、頭に触れる。

「じゃあ、俺が一泉主に掛け合ってやるよ」

 ぞんざいに髪を乱されながら瑜順は唖然とした。

「……ばか、今そんなことを言い出したら公主をいわば人質に貰う意味もないし、一泉人の反発だって大きいんだぞ。泉ひとつ手に入れるのだって何梅さまがどれほど骨を折ったか分かっているだろうに」

「それでも、言ってみるだけ言ってみたらいいだろ。一泉が駄目ならろく泉でもしち泉でも出向いてやるさ」

 からからと笑う韃拓に、しばらくして瑜順は心のままの表情を浮かべた。

「…暗くて良かった」

「なに?」

「もう寝るぞ。明日も早い」


 切り上げて寝返りをうった。韃拓には夢をわだかまりなく話せる。彼は見識は狭く単純な性格だったが、そのぶん心が広い。瑜順の危惧する全てを受け入れて持ち前の楽観的思考であっという間に不安な心をなだめてしまう。かなわないな、と眠りに落ちながらなおも顔をゆるめた。その実彼が『選定』を受け、神獣を授かったのはこの心の鷹揚さを買われたのではないかとさえ思う。自分には到底できようもないその神事に受かるだけのものを韃拓は持っているのだ。


 眠りに落ちる寸前心に湧いたのはこの愛すべき主に対する羨望と憧れ――――そして微かな、ほんの塵一つぶんの小さな嫉妬だった。




 毒霧にあてられてしまう不能渡わたれずではない二人にとっては霧界の谷川を流れる水も死に至らしめるまでの害を及ぼすものではなかったが、それでも直に飲める代物ではない。瑜順の持っていた濾過装置――それは竹筒の底に麦飯石を敷き詰めたものだ――で少しずつ濾しながら渇きを我慢した。泉地の外に渦巻く由霧ゆうむは大抵北に行くにつれて濃くなり、比例して毒も強いと言われる。人にだけ害となりうるもので、ここに棲む獣や野禽には影響がない。霧中で捕らえた獲物も二人は恵みとして受けることが出来たが、それでも紫に染まって黒ずんだ臓腑ぞうふまでは食欲をそそられるものではなかった。


 湿しっけたなかで苦労して火をおこし、ほらで眠り、そうして徐々に、さらに北に移動しつつ七日目、二人は一泉の長城である灰色の地平線を弓手ひだりてに見ながら、騎上でまっすぐ飛んでくる一羽の鳥に気がついた。



 少し開けた尾根の上でそれを発見した韃拓は狛を止める。後ろに跨った瑜順も目線を追った。一直線に飛来した鳥は鳥とは言い難い。羽ばたきは鳥の形容には似つかわしくなくより軽快で上下動が大きく、翼は羽毛に覆われてはおらず皮膚を引き伸ばしたかのような飛膜で、音もなく風を切り韃拓の頭に降り立った。


 ねずみの耳があり、体毛の生えていない尾があった。前肢は飛膜の翼と一体化していて小さく、三つ指が髪の毛に絡みつく。瑜順は手を差し出してその小鳥を移し、後肢うしろあしに結ばれた筒と髪紐をみとめ送り主を悟る。


「なあ、それお前の髪紐じゃねえか?」

 韃拓も振り返って指摘し、瑜順は首肯した。

「朴東の食局で失くした…」

 言いながら小さな筒のつまみを引くと、中にはさらに豆粒のごとく折り畳まれた紙片が入っていた。

「……麻姑からだ」

 おお、と韃拓が感嘆する。「なんとある?」

 紙片を広げて刻まれた文字に目を通す。

「あっちはあと二日もすれば泉畿に辿り着くそうだ。しかし、日付けを見るに時差があるな。今日あたり最後の関を越えるだろう」

「髪紐ひとつでお前を探し当てたってことか?大したもんだな」

 でかした、と小さな頭を指の腹でつついた。瑜順は改めてその妖鳥を見る。



 たしか寓鳥ぐうちょう、そんな名だ。洞穴や古い灌木かんぼくうろなどの暗がりに群れで巣をつくる。似た姿の蝙蝠こうもりと違って人によく懐き、信頼関係を築ければ主人に危機を知らせる。それ以外ではかない。しかし伝鳥のように調教されているのは瑜順も初めて見た。妖獣妖鳥のたぐいは人の手で繁殖させるのも使役するのも難しい。そもそも霧界にいる彼らを捕らえること自体が稀有、ゆえに貴重だ。四不像を騎馬として使いいにしえから共生している角族が育ててさえも、生まれる雛を毎年三割は七日と経たずに死なす。それほど容易に飼い馴らすことが出来ない。



「韃拓、なにか書くものはあるか?」

「俺が持ってるわけないだろ」

「そうだな」

 瑜順は狛から降り、あたりを見回して古木の根元に腰を落とす。なにやら木の枝で溜まった泥を掻き回した。韃拓も立ち上がって伸びをし、それから自らの帯の裾を剣で切り落とした。

「指も切ろうか?」

 布を渡し問うと瑜順は「俺がやる」と言い、それと、と下を向いた。

「血だけでは霧の湿気で滲む。こいつを混ぜる」

 韃拓にはそれは黒紫のただの泥土に見えた。

藤麹とうぎくだ。ふつうの泥のように水では落ちない」

「四不像の餌にするやつとはだいぶ違うな」

「あれは乾燥させて粉にしてあるんだ。普段はこうして泥と見分けがつかないが混ぜると泥よりももっと粘り気があるのがわかる」

 同じ根元に春を待ち侘びてすでに芽を出し密生していた蕺菜どくだみの大葉を敷いた上に藤麹をすくい乗せ、少量の血を混ぜる。細く削いだ枝に液だまりをつくって浸し、布に少しずつ文字をつづっていく。



 再び伝書を取り付けられた寓鳥は空に放られていちど二人のまわりをぐるりと一周すると、南へと飛び去った。

「俺たちも急ごう。なんとかして一両日中に壁を越えたい」

「そうだな。そんでここは既に北の果てだ、瑜順」

 韃拓が指差した中空には灰色の紗幕とそのなかでひときわ目を引く断崖が迫っていた。


「あれは黎泉れいせんの外淵だ」

 頂は天まで続いて窺い知れない。瑜順は首を巡らせなければ眼前に収まらない、途方もなく巨大な山とも言いがたいもはや空の一部を見つめた。ここはすでに神地のすぐ下、無闇に徘徊するのは禁忌の聖域だ。振り返ると森の上に真横に見える一泉の長城の稜線、その向こうにはぼんやりと擘指おやゆびほどの大きさの薄墨の陰影が浮かんでいた。


「宮城が見える。一泉の真北に来たな」

「おうよ。さて、どうやって入り込む?」

 狛を遊ばせるように進めながら韃拓が問うた。それで悩む。

「北には門も水門もないし、壁上は昼夜問わず兵が見張っている。入り込むのは簡単ではないが、時間もない……」

「やっぱり乗り込むか?」

 瑜順は険しい表情を崩さない。「最悪、そうなるな……しかし、仮にも泉宮の真後ろだ。後々言いがかりを付けられたくないから、なるたけ手荒い真似は避けたいが」

「しかしよ、そうも言ってられねえだろ?宣尾さんたちが関を通って宮へ行けば当主はどこだと問われる。代表もいない使節団となると一泉を侮辱していると受け取られ、敵に同盟反故の口実をみすみす与えちまうってことだろ?」


 無言の同意が返る。その危険は大いにある。すでに強襲され、一泉主でさえ角族の味方かも定かでない状況でこれ以上双方の関係を悪くすることは絶対にしたくない。まして行きがけに阻まれたから来れなかったと言えば、あちらは知らぬ存ぜぬでむしろ礼を欠かれたことを理由にこちらに不利な条件を突きつけて来る可能性もある。もしも泉主がこのことを知らない場合もしかり、最初の印象は相当悪いものになる。


 とはいえ気ばかりがいて強行突破以外の具体的な方法が何も思い浮かばないまま、陽はどんどん移動していく。それが空の中点を過ぎ、徐々に黄味を増してきた時刻に、韃拓は突然、一泉へと近づけていた狛を急停止させた。



 どうした、と問うた声に、と黙るよう言われ、瑜順は彼がしているように耳を澄ませた。霧の中で微かな音を聞いておもむろに獣から降りる。枯れ草の地面に耳を当てて震動を感じた。「……人か?」

「のようだな。なんかでかいのを連れてる」

 しばらく無言で意識を集中させると、たしかに下生えを掻き分ける音に人のものではない地鳴りが混じる。

「……瑜順、抜け」

 韃拓も降りながら手を振る。黒いしもべは音もなくあっという間に山あいに姿を消した。

「どうやらこちらも気づかれたみたいだな」

 ゆっくりと剣柄たかびを引いた。跫音あしおとは一旦、こちらの様子見をするように止むと再び響き、徐々に近づいてくる。


 息を詰めて見た先、灌木と蔓の生い繁る黄昏の薄暗がりから姿を現したのは、ともかく人で間違いないようだった。他には何者の姿もない。



「……おや。これは滅多なことが。こんな際涯さいがいに……ヒトの子とは」



 古ぼけた黒味の裹頭ずきんで顔は分からないが、まだ若そうな男だった。見えているのは目のまわりだけ、その瞼も閉じられている。手には荒削りの杖が握られていた。殺気を感じたのか反対を挙げる。


「剣を収められよ。害意はない。迷子…ではなさそうですね。こんなところでどうされた?」

「それはこっちの科白せりふだぜ。あんたこそなんでこんなところにいるんだ?」

 韃拓が剣を肩に担いで問うた。男は首を傾ける。なにやら外套の中をまさぐり、汚れた包袱ふろしきを取り出した。

「ひょっとして君たちは匪賊おいはぎかな?腹が空いている?生憎あいにく、金目のものはこれだけです」

 瑜順は武器を仕舞った。

「いいえ、我々はぞくではない。少々事情があり北辺をうろついていた。それは必要ない」

 そう、と男は腕を下げる。同時に、いきなり鳴った奇妙な音に顔を上向けまなじりで微笑んだ。「ひもじいのは間違いないようだ」

 韃拓も高らかに笑声をあげ、やっと剣を収める。腹をさすった。「金はこっちが払うからなんか食いもんを分けてくれねえか、大哥あんちゃん

「私も金は要らないよ。すぐ近くに仮屋かりやがあります。おいでなさい」

 男は杖をつきながら背を向けた。瑜順が横目でいいのか、と訴えたが、韃拓は大きく頷く。見たところは、妖の類でもなければ敵でもなさそうだ。



 男についていくらもせず剥き出しの奇岩が迫る山肌が見え、その岩が折り重なったわずかな隙間に招かれた。洞穴の手前の全面は開けた閑地になっていて、ところどころかまどの跡があり黒くすすけていた。


「――ここは?」

「知らないのにいたのか。ここは人夫の休息場ですよ」

「人夫?なにか作ってんのか?」

「いいや。この辺りは青雘せいわくの鉱床がある。法度に触れるが時おり一泉の者が密かに掘りに来るのです。緑青ろくしょうの数十倍の値で取引されるから。といっても、見つけられるのは雀の涙程度だけれど、それでも一欠片を求めて人は絶えない」

 頭上に吊るされた干し魚を降ろしていた男は、あ、と品よく口を押さえた。「しまった。教えてしまいました。もしか、君たちは一泉人かい?」

 韃拓が笑った。「いいや、違うから大丈夫だ。じゃああんたもその石を採りに来てたのか」


 男は先ほどの包みを取り出して二人に見せた。現れた大小の石は目を疑うほど深く冴えたあおい石だった。光を反射して透き通った断片がまばゆい。


「きれいだな。でもあんた、見えないのによく採れたな」

 言うと魚を火で炙りながら笑んだ。「そのぶん、他のところが発達する。手触りが土塊つちくれとはまるで違います。あとは叩いた時の音かな」

 へえ、と韃拓は狭い洞を見回した。ここには寝泊まり出来るだけの装備がある。「ずっとここに居るのか?」

「まさか。ここに来てひと月ほどだろうか。度々一泉に戻って必要なものを買ってきているのです」

 二人は顔を見合わせた。

「だが、一泉の北には門が無いだろう?東か西まで移動しているのか?」

「北門はありますよ。でも通る者がいないので開くことはなく形ばかりです。以前は――といっても、かなり昔のことらしいけれど、通行できたようです。すぐ近くに小泉があったから。だが由霧が浸蝕して放棄され、泉も涸れた。それに伴い壁を後退させて、その時に門は閉鎖されたのです。しかし泉外となったところにまだ当時の水井いどが崩れずに残っていて、盗掘する者が壁を越えるために使っています」

「水井ってなんだ?」

「かつての貯水槽から泉水を汲み上げた場所のことです」

 瑜順がでは、と見据える。「あなたもそこを出入りしているのだな。抜けるとどこに出る?」

 男は魚を二人に差し出し、石を包みなおす。

「中は道がいくつかあるが、私の知っている道は一泉の泉畿……巌嶽がんがくに出る。宮城から少し離れた墓地の崩れた廟堂びょうどうに」

 頬張りながら韃拓はそれだ、と串を向けた。「大哥、俺たちをそこまで案内してくれねえかな⁉一泉に入れなくて困ってる。礼は弾むぜ」


 男は少し気圧されたように黙ると、やがて首を傾げた。

「こんな怪しげな盲人の言うことを信じると?てっきり詳しいことを聞いたら私を殺すのだと思っていたのですが」

「そんなことしねえよ。それにあんたは俺からしたらとんでもねえ手練てだれだ。音はしないが、どんだけ得物を持ってる。その外套の中の飛刀ぶきは片手じゃ足りんだろ」

 韃拓の言に瑜順は、やはり、と息を詰める。只者ではなかったか。言われて男はふっと気を和らげ、空の両手を広げた。

「君たちも相当の剣士とみた。そう、私はもとは盗掘人ではありません。しかし、行きずりの者に詮索はよしてくれると嬉しい。私も君たちが何者であるかは聞かない」

「話の分かる御仁で助かった。とにかく俺たちは一刻も早くここから泉畿に入りたいんだ」

 うん、と男は柔和に頷く。「構いませんよ。ただ抜け道は他言無用にして欲しい。それだけ守ってくれるなら報酬も要らない」

「それではあなたが損をする。我々が絶対に吹聴しないとも言い切れない」

 言った瑜順にさらに閉じた目尻が弧を描く。

「まあ、そうなったら仕方ないでしょう。私もそろそろここを離れようと思っていたから、いい潮時のようです。そうそう、短い間だが君たちのことをなんと呼んだらいいかな?」

 二人はまた顔を見合わせ、瑜順が口を開いた。

「我々のことはようと」

「そうですか、では孟楊もうよう仲楊ちゅうようとでも呼ぶよ」

「あんたはなんてんだ?」

 問われた男は優しげな雰囲気を崩さず布越しに名乗った。

「私はフークです」




 フークは洞に置いてあるものをそのままに焚火の始末だけをして外へ出た。

「いいのかよ?」

「また荒稼ぎに来る者に残しておけばいい。別に私の家ではないのだから」

「お人好しだな」

「君たちのように迷い込んで来る者もいるかもしれないでしょう?」

 それはそうか、と韃拓は閑地に立って首を巡らす。陽は沈んで黒い空には月も星もない。


 おいで、と言われて後に続きながら森のなかを進んだ。その長身の背に話しかける。

「なあ、あんたも一泉人じゃないんだよな?」

「ええ。でも今は城下に旅舎やども借りていますよ」

「なら、泉畿の噂とかなんか知らねえ?」

 フークは前を進みながら呟いた。「噂…そうだね……近々北の泉外民が巌嶽に来るとは聞きました」

 あまりに時宜を得た言葉に二人は固まった。

「……へえ」

「同盟の再約だそうで。まあ、一泉にとっては割のいい話なのでしょう。小泉ひとつで郷里の劫掠ごうりゃくが収まるのなら安いものなのかもしれない」

「泉畿はそれでぴりぴりしてんのか?」

「ぴりぴり?」

 フークは倒木を跨いで、幹に手を当てた。

「なぜ?角族が破落戸ごろつきだったのももう二十何年も前の話でしょう?それに彼らの採る麦飯石は一泉のものより質がいい。それを食行しょくこうを通して他泉に売り国が潤い、泉畿はその恩恵をいちばんに受ける。歓迎されてはいても嫌悪されてはいない」

 どういうことだと瑜順は内心困惑する。では、あの襲撃や朴東関でのことや、ここまで追われたのは何だったのか。韃拓も口には出さなかったが混乱しているのが分かった。

「そうなのか。いや、俺は一泉に行ったことがないからよく分からねえんだ」

 そう、とフークはこちらの挙動には気がついていないようでそのまま歩を緩めず、やがて先ほどの閑地よりは随分小さいが木がり倒された草原くさはらに出た。数歩先の地面を覆った茂みを取り払うと木板が張られており、それを持ち上げれば難なく開く。中は石積みの空洞だ。


「これが水井です。昔はこの下から貯めた水を引き揚げて使っていました」

 中には少し心許ない細さの梯子が掛けられている。ぎしぎしと危なげに鳴る踏み板をつたって底まで降り、二人は音の反響する内部がかなり広い空間であるのが分かって驚愕した。


「仲楊、松明たいまつを点けるといい。もう地下だから衛兵には見つかりません」

 言われて韃拓は渡された火口ほくち入れを受け取り、油布を巻いた枯れ木に点火する。照らされた地下空洞は敷き詰めた石床が広がり、太い柱で支えられている。過去にはここに水を貯めたのだ。こんな大空間を満たすほど水があったら毎日浴びても困らない。同じような貯水槽が泉地には当たり前のようにあるのだ。韃拓は物珍しく周囲に首を巡らし、瑜順もまたしげしげと頭上を眺め渡した。



 再び歩き出しながらフークが囁いた。「響くから壁を越えるまでお喋りは禁止です」

 それで黙々となるべく立てないよう気をつける足音だけを響かせながら、三人は打ち棄てられた広い水槽を抜け、奥に続いている道のひとつに進んだ。ここからは石畳ではなく削った岩窟だ。細い坑道をひたすらに歩み、すれ違う為なのか脇が広くかれた隙間で時々休息し、瑜順がそろそろ夜明けだろうと感じていた時に突如として先導が口を開いた。


「壁を抜けた。この上はもう巌嶽だ」

 フークは振り返った。「お疲れ様。もう少しです」

「もう喋っていいか?」

 韃拓が口を開きたくてかなり辛抱していたのを瑜順は知っている。

「どうぞ」

「はあ……距離よりも黙ってるのがきついぜ」

「君は見ず知らずの人について行って罠じゃないかと不安にはならなかったのですか?」

 思い切り声を上げて笑った。

「俺はあんまり細かいことを気にできない。ゆ……孟楊がいいというなら信用に足ると思った」

 それでフークは瑜順に顔を向けた。

「大層信頼されているのだね」

「こいつは一人にすると何をしでかすか分からない。手綱が必要なんだ」

 聞いて、ふふ、と笑うとまた進み始める。「本当の兄弟みたいです」

 それはなんとなく懐かしむような響きがあったが、二人は彼の呟きよりもようやく目的地に辿り着ける喜びと興奮で気に留めることはなかった。




 出口はフークが言ったように崩れて荒れ果てた祠廟しびょうの床下だった。火災に遭ったのか柱は黒く焦げていた。その中から這い出てみればすでに陽は昇っており、あたりは墓石の並んだ荒地、用心しつつ立ち上がったが人気ひとけもなく、廟の脇に晒されたまま流れ込む水量の少ない蹲踞つくばいで顔を洗った。


「ここが、泉畿か……」

 呟いて見回したが現在地はかなり郊外のようで閑散としている。風が土埃を立てて余計に侘しい。フークが遠くの一点を指した。

「あれが泉宮。正面まで行けば大途おおどおりに出ます。人も多いから紛れられるし、泉畿を出る時には検問はない」

「ありがとよ、フーク。この抜け道もまた使えそうだ」

「恩に着る」

 瑜順は男に少なくない量の金を握らせた。

「おやおや、要らないと言ったのに」

「あなたがいなければこうして入れなかった。感謝する」

 渡されたほうは、そう、と首を傾げた。しばらく無言で瑜順の顔のあたりから頭を動かさない。

「……では、有難ありがたくもらっておきますね」

 韃拓がじゃあな、と手を振る。フークも杖を握った腕を掲げた。足早に遠ざかっていく音を聴きながらもと来た道を戻り始める。



「…………北の九垓くがい出遇であうとは、これもなにかのえにしか……しかし」

 笑みを隠すように布を押さえた。


「面白い組み合わせだ」


 呟きは砂塵に掻き消える。




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