一章



 瑜順の言った通り、怒濤の勢いで一泉への奉賀の準備が整えられつつ、あっという間に年が明けた。慌ただしく戴冠して新当主となった韃拓も狩りに参加する暇もないほど礼儀作法だの滞在中の視察の予定だのを口やかましく頭に叩き込まれ、ほとほと辟易してひと月も経つ頃には皆の隙を突いて逃げ出す始末、周囲はこんなことで本当に彼に役目がこなせるのかと呆れ果てていた。しかし何梅だけは感情の分からない微笑みを浮かべ、問題ないと言うのだった。



 すべての体裁を整えて使節団が領地を発つ日がやって来たのは暦の上ではもうすぐ春分という候。とはいえ未だ残雪と寒風厳しいなか、韃拓は裾をはためかせて穹廬いえの入口に立つ。続いて出てきた妻を振り返った。


「行ってくる。あとを頼むぞ」

 目を合わせず、腕に抱えられた眠る孺嬰ちのみごを一瞥した。

 莉羅は頷くと頭を下げる。それで韃拓には彼女がどんな顔をしているのかもう確かめようもなかった。



 騎獣うまに跨り列に合流したところで隊は動き出す。道の端に先代当主と父親の姿も見えた。それに黙礼し、彼方に臨む壁のごとく巨大にそびえた雪山にも軽く視線を投げた。

 急勾配の丘を駆け登ってもう一度だけ振り返る。泥雪と毒霧に閉ざされたちっぽけな領地を見渡し、それから自分の後に続いてくる黒い列をぼんやりと見つめた。


「どうかした」

 瑜順が横に並んできて韃拓ははじめ言葉を濁した。


「いや……小せえなと思って」

「俺もそう思う。泉地せんちはこの比ではない」


 彼は本の虫だ。日々の仕事を終えたら大抵は窰洞ちかの数少ない書庫に入り浸っている。一度ならず近辺に降りたこともある友には泉地がどれだけ広いのか分かっているのだろう。



 丘を抜ければすぐに山越えが待っている。紫の濃霧がたなびく山道の入口、しかしと韃拓は後方に続く貢物くもつを振り返った。あんな大荷物を運びきることができるのだろうか。半分は谷に落とさなければならないかもしれない。


 案の定図体の大きな荷は進行を大いに遅らせた。しかし安易に捨てて行くわけにもいかず、足場の悪い狭い坂道で高車にぐるまを押す羽目になった。


「ああ――くそ。本当に要るのかよ、こんなもん。馬鹿馬鹿しくなってきた」

 苛立って悪態をついた韃拓に瑜順が汗だくになりながら憮然とした。

「一泉とはこの二十数年良い関係が続いている。泉水みずだけでなく周辺地域でれた地の実りも格安で手に入れられ、一族の生活を支えてくれているし、採掘した麦飯石を一番高値で買ってくれるのは一泉だ。角族おれたちにとっては失いたくない相手。何梅さまも機嫌を損ねるのは得策ではないとのお考えなんだ。それなのに、現当主が最大の不安要素だから貢物にも念がこもっているんだろう」

 歯に衣着せぬ物言いを聞きながらさらに口汚く高車をののしった。

「これでやっぱり公主の降嫁をやめるとか言われたら俺は一泉主をたたっ斬るぜ」

「ではすんなりと来ていただけるようにお前も少しはしおらしくしろ」


 それは、と足を踏ん張り、車輪を泥濘ぬかるみから引き揚げた。威勢の良い掛け声と共に荷台を前へと押しやり、歓声の沸いたなかで爽やかに額を拭う。

「嫁次第だな」

 呵々かかとばかり笑った主に、瑜順は首を振ってみせた。







 肌にきんと刺さる乾いた風は幾分緩み、あたりを包む空気も暖かみを増し、こうして水榭みずどので欄干に頬杖をつきながらすぐ下に泳ぐ鯉と揺れる波紋を長らく眺めていても、寒さで房室へやに引き上げようとは思わなくなった。常には殿やしきの池に面した東は開けていて、そこから眼下に広がる広大な土地が見渡せるのだが、それはいまだ白くけぶり全容が知れない。


 誰も起き出してこない払暁、朝陽もまだ山峰の尾根の向こうでさきがけの淡い光を滲ませるのみで薄暗い。靄霧もやぎりがつくる弱々しい陰影の、遠くに見える城下の曖昧な輪郭を目線でなぞってぼんやりとするこの時間が、自分はいっとうお気に入りだった。しかしながら、それは一日のはじまりのほんの短いときだ。すでに寝所に姿がないことに気がついた下官の慌ただしい足音が近づいてくる。


 困ったように呼びかけられて少女はつんとそれを無視した。絹の褂裴うわがけで包まれ促され、渋々立ち上がる。水榭から出て走廊ろうかを渡り、暖かく調えられた自室に戻った。


 くしけずった髪に花香油の匂いがふんわりと漂うなか、広げられた衣装を見てげんなりとする。


「嫌よ、そんな色」


 しかし下官は首を振った。「今日は大切な式でございます。皆々様と揃えて頂かなくては困ります」


 少女は黒緞子どんすの衣を摘み上げた。黒は好きではない。似合わないことを知っていたし、自身ももっと花や空のような明るい色を愛していた。しかしこの国では正装は黒と決まっている。式典や大礼の際は王族のみならず百官はなべて黒を纏う。色が人で異なるのはじゅだけで、自分のものは紫。だがせめてもの抵抗で重ね着した時にちらりと覗く中衣だけは薄い紅色に替えさせ、珥珠みみかざりもそれに合わせて珊瑚をつけた。


 閑静な宮の中をしずしずと輿こしで運ばれ、時折雲間から射す陽を横目で眺め、少女は別の大きな宮の前まで辿り着いた。この先は内宮ないぐうから出て外朝がいちょうとなる。


 貴人の到来に門卒が拝揖はいゆうし、扉が開かれる。それを越えてしばらく進み、広大な中庭を擁した太殿に上がった。銅鑼どらが鳴り、少女よりも格下の臣下たちは一様にぬかづき、その中を真っ直ぐ通り抜けて正面は玉座、左右の脇に設けられた御座ぎょざのひとつへと着いた。周りにはすでに多くの妃嬪ひひんたちが集っており、主がまだ来ていないのをいいことに円扇おうぎで口許を隠し今日これからのことについて花を咲かす。


「大層野蛮だそうですよ、なんでも、すぐに乱闘沙汰を起こすとか」

「関わりたくないですわ、夷狄いてきとなんて」

「そもそも話が通じるのかしら。猿のようでしたらどうしましょう」

「あら、あなた猿好きでしょう。小猿がいたら飼って差し上げなさいな」


 くすくすと忍び笑いが起き、華やかな女たちの流蘇かざりが細かな音を立てて揺れる。しかし少女はその様子に寸毫すんごうも気品を感じられず、むしろ醜悪に思ってばれないよう溜息をついた。

 女たちのひとりがこちらに話を振ってくる。

「殿下はどうでございますか、せっかく焚きしめた香が獣のにおいで消えないか心配ですわね」

「……そうでもないわ。見たこともないものを最初からとやかくは言えないもの」

 つれない返答に問うた女が明らかに興醒めしたのが分かった。円扇の下で口を歪める。

「まあ、さすが、お優しいのですわね。ああそうですわ、お茶にお招きしたら良いのです。殿下のお宮ならば夷狄も居心地良いと思われますわ。緑が多くって」

 別のひとりが小さく噴き出した。

「猿が登る木には困りませんわね」


 それには絹袖がかすれるような忍びやかな嘲笑が広がり、少女は思わず頬に朱を昇らせた。憤怒をあらわにしようかとも思ったが、大事な儀式の直前に争いごとはやめよう、となんとか抑えて顔を逸らした。

 そんな少女の具合を心配して背後からそっと機嫌を伺ってきた下官に首を振り、太い柱の合間、漏花格心すかしまどからわずかに見える空に思いをせた。早く自宮の水榭に戻って城下を眺めたい。雲が晴れている。きっと今だったら凄く見晴らしが良いだろう。


 夢想に入ろうとした直前、大扉が開いて再び銅鑼が打ち鳴らされた。左右に分かれてひざまずいた臣たちは一斉に叩頭こうとう、女たちもさえずりをぱたりと止ませて俯く。その様子にわずかばかりの溜飲を下げた少女も立ち上がると腰を折った。


 玉座に近づいてきたのは三人。先頭は男で、もう二人は女。特に最後に入ってきた姿に誰もがより深く頭を垂れた。


 その黒衣の女は玉座のさらに上段にしつらえた金漆の屏風へいふうを背にした貴座に佩玉はいぎょくを揺らしながらゆっくりと腰を下ろした。龍紋の銀箔を貼った裾と金襴きんらん蔽膝ひざかけがまるで水面のように光に反射してきらびやかだ。下げた頭をほんの少しだけ横向けて見ていれば、それはすぐに紗羅簾うすまくが降りて見えなくなった。


 下段にも男女が揃って座る。ふと気がつけば外の大広場の、こちらから見れば遥か対岸の大門は開け放たれ、黒い人波が整列して歩んでくるのが豆粒ほどの大きさで見て取れた。少女はにわかに緊張する。ついにやって来たのだ。この国より北東に古くから住まう泉外人せんがいびと、自分の生まれる前に同盟を組み、以前には国中を荒らし回っていた北狄ほくてき。少女は初めて見るその姿を今か今かと待ち侘びていた。理由は見たことのないものを見たいという、ただそれだけ、好奇心を湧き上がらせる対象としてしか彼らを見ていなかった。



 しかし、しばらく待てども一向に何者の姿も殿上に現れない。いぶかしげに顔を見合わせる諸官はやがて切羽詰まった怒号と剣の打ち合う音を確かに聞いた。狼狽する大正庁おおひろまで次第に階下からざわめきが大きくなる。


 皆が何事かと騒ぐなか、開け放たれた大扉の前に突如として人影が走り込んで来た。息せききって、急停止する。鞘を付けたままの大ぶりの剣を肩に担いでいた。



「ふざけんなこらァ‼」



 空間を裂く大音声だいおんじょうが響き唖然と静まり返った。しかしその青年は頓着することなく居丈高に黒御影くろみかげの石床を足音高く進み、あろうことか玉座にずんずんと近づいてきた。遅れて入ってきた鎮護の衛兵が八方から戈戟ぶきを突き出し、青年を囲む。


 何事か、と声を上げた丞相じょうしょう泉主おう湶后おうひを守るように進み出た。加えて近衛兵が次々に殺到し、剣を抜き槍で囲み警戒する。そんな彼らにも怯えたふうもなく、乱入者は鞘付きの得物を振りかぶり正面を指す。


だましやがったなこの下衆げす共‼叩っ斬る‼」


 宣言した姿に少女はあんぐりと口を開けた。







 雲を浮かばせた鈍空が足許にもあることに韃拓は怪訝に目を細めた。やがてそれが水鏡なのだと理解して思わず歓声をあげる。


「瑜順!でっかい水溜まりがあるぞ!」


 韃拓は騎獣を降りて淵に走り寄った。遠目からは黒く見える水はその実近寄れば底が見渡せるほど透き通って清い。小童こどものようにはしゃいですくい上げる当主に皆が笑った。瑜順もまた無表情の中に穏やかなものを覗かせる。

「これが一泉の泉水だ。やはりいつ見ても美しいな」

 泉を初めて見た者たちは身を切るように冷たいのも気にせずに韃拓と同じように無色透明の水をこぞって飲んだ。ひとしきり味わって口を拭う。

「うまい。ウツクシイものはうまいのか、瑜順」

 問われたほうは珍しく噴き出した。「そうだな、あながち間違いではないかもな」

 そうか、と頷き返し、韃拓は改めて広くて丸い泉を見渡す。まわりを囲った岩の狭間から流れ落ちる小瀑によって水がたたえられ、ぐるりと石壁が張り出した窪地の中心がこの泉だった。山と霧を抜けてすぐに現れたので他の景色は遮られて見えない。


「ここからどうやって上がるんだ?」

 随従ずいじゅうには一泉に来たことがある者も選ばれていた。従者のひとりが流れ落ちる瀑布の裏側を示す。手綱をいて回り込むとそこには地上へと登れる石の坂道が続いていた。明るい光が差している。


 駆け上がって首を巡らす。泉は地面にぽっかりといた中に溜まっていたのだ。周囲は寒々しく鬱蒼と木々ばかり。九曲柳うんりゅうやなぎの太い幹がうねうねと広がって空を阻み、銀柳ぎんやなぎ水楊ねこやなぎの細枝には白い花穂がびっしりとついている。ふわふわと風に吹かれて漂う綿毛を目で追った。


「……雪?」

柳絮たねですよ。早いですね、もう舞っている」


 答えたのは同行者のひとりで蒼池ソーチといった。


如願じょがん泉の周囲二里圏内は我々に与えられた。楊柳やなぎが植わっている敷地は泉人せんびとには禁域です。ですが水を汲みに来た際にこっそり付近の住民と物々交換しています」

「話すのか?」

「ごくたまに。でも同盟で定められた交易以外の非公式のやり取りはあまりあけっぴろげになってはいけませんから、基本的には交換品を置いておき、互いに顔も見ぬまま取引を終えます」

「そのままられたりは?」

「ないさ。このあたりの住民は我々を怒らせたらどうなるかよく分かっているから」

 続いて瑜順が答えた。彼も稀に極秘でここへ降りたことがある。「特別に欲しいものがあればあえて姿を見せて依頼もするが、いずれにしても盟約に反する」

媽媽おふくろは知ってるだろ?」

「無論だ。しかしこちらから泉人の接触を断る理由はないだろう」

 それもそうか、と韃拓は森林の出口に向かいながらなおも首をせわしなく動かした。ただ水を仕入れに来ていたわけではないということだ。


 森の出口は泉に流れ込む川沿いにひらけていた。虎頭を彫った石柱が立つ。

「これは?」

石敢當まよけだ。森側は山魈ようかいの領域という目印だよ。ここから先へは俺たちも誰も許可なしに出たことはない」

 冗談めいたが笑みのない友の話を聞きながらその境界を越え、韃拓は今度は無言になった。続いて隣に立った瑜順も飛び込んできた光景に息を詰める。



 一面の白い大地だった。それはなにも残雪のためだけではない。泉から少し離れた家々が軒を連ねていたけれども壁は白い石でできていて、そこかしこに見える城壁や高楼もすべて白、ただ霜の降りて粉をふいたような屋根甍のみに黒い釉薬ゆうやくを施し、それは所々陽にけてあいを帯びていた。棚田状に広がった土地はまるで漏刻ろうこくのように段々に高低差で流れ落ちる水がとめどなく溢れている。韃拓たちの立つ所がふもととして徐々に傾斜がついている丘、その遥か頂上は近くに迫った建物や山々に埋もれ霞んで何も見えない。


 泉は通常、泉畿みやこ主泉しゅせんから幹川かんせんを通って各所都市に流れ込むものだったが、一泉の形状は変わっている。泉畿から国端までがまるでひとつの山のようになだらかに勾配がついているようであり、水は頂である彼方の一点から放射状に流れてきていると考えて良いようだった。


「変だよな、なんで一番下の泉が溢れないんだろうな?」

 韃拓が前を見つめたまま呟いたが、瑜順は聞き流したまま、まるで化かされたように美しい景色に目を釘付けにしていた。



 緩やかな坂道を登り始めた一行は目新しい光景に心奪われて口数少ない。水の満ちる段差の田圃でんぽの横に農閑期の本来の棚田が雪を被って並列していた。道の両脇には木が植えてある。何気なくそれを見た韃拓は瑜順を呼んだ。

「見ろこれ」

 覗き込むと丸い形をした透明なものがいくつも枝にぶら下がっていた。氷で型どった木の実のようだった。「なんだこれ。中身がない」

「たぶん、外側が凍ったまま実は腐り落ちてしまったんだ。一泉の寒さも侮れない」

 まるで水晶玉がっているようで、撫でると熱で溶けたしずくが光を弾きながら落ちていった。濡れた手を拭い、清冽な音を立てて流れゆく透水をしみじみと眺めた。

「水が凍ることはねえのかなあ」

「常に勢いよく流れているから、よほどでない限り大丈夫なのでは?」


 話しているうちに市街に近づいてきた。低い石垣で囲われた街区の入口である閭門りょもんの前と詰所の楼堂に門卒もんばんの姿が小さく見え、韃拓は一転、硬い表情でそれを見つめる。門卒たちは慌てる様子もなくただ一行が近づいてくるのを待っているようだった。

「……待ち伏せて襲われるとか、ないよな?」

 呟いたのに先導していた男が振り返る。この男は宣尾センビといって、かつて初めての同盟の折にもこうして一泉を訪れた先人だ。

「我々のことは一泉じゅうに周知されているはず。なあに、念書もあるし平気さ」


 だが一行が近づくと門卒は槍を交差させて行く手を阻んだ。


に入ることはまかりならぬ」


 一行は困惑してざわめいた。宣尾が慌てて説明する。

「我々は一泉との再度の同盟で参じた使節です。泉畿まで各都市を経由して行くようにとの我らの先代当主と一泉主のお達しがここにありますが」

 門卒はそれでもならぬ、と一点張りだった。見渡すと楼堂の兵士たちは一様にこちらの動向を窺っている。韃拓は顔を前に戻した。

「宣尾さん。入れねえって言ってんだからしょうがないだろ。次のとこで泊まりゃいい」

 宣尾は解せないようで困惑したが、韃拓がこう言った直後に不思議なことに行く手を阻んでいる彼らのほうはなぜか安堵したような空気を醸し出した。拒否された里の脇に逸れて続く街道を歩き出しながら、とはいえ、と瑜順が空を見上げる。

「次の街に着くまで日が暮れなければいいが」

「そうなれば野宿すればいいだろ」

 極寒期の露営には慣れっこだ。

「しかし、なぜ街区に入れないのか。通達は出ているはずなのに」


 角族が借り受けている泉は一泉の北東端にあり、国の最北に位置する泉畿までは半月ほどの行程である。周囲の郷里とて、こちらが来泉し宿を借りることは分かりきっているはずなのに。

 さあな、と韃拓は頭の後ろで手を組んだ。「北狄ばんぞく嫌いの領主なんじゃないか」



 言ったことはあながち間違いではなさそうだった。街道沿いに進んで五日めに、どこの郷里にも振られ続けた使節団は夜半、ついに敵襲を受けたのだ。



 韃拓は濃闇に瞼を開いた。ひどい胸騒ぎと焦燥が体を駆ける。音を立てずに身を起こすと、隣の瑜順は既に剣を手にしていた。

「…何か来る」

「だな。五十はいる」

 鋭い他の仲間もふとんを取り払って起き出した。誰かが熾火おきびを揉み消す。


 視界のないなかを微かな足音がする。韃拓は柄に手を掛けた。

 突然、塊が突っ込んで来た。そのまま迎え撃って殴り倒す。相手は短い悲鳴を上げて即時に気を失い、弱いことが分かって韃拓は笑む。一行は小団に分かれて街道から外れた山林の中で休んでいたのだが、どの隊も謎の影と交戦しているようだ。

 またひとつ突撃してくるのがあり、今度は抜剣して斬り捨てようと中腰になる。しかし、瑜順の大声が響き渡った。


みな、殺すな!敵の武器は棒切れだ!」


 よく見るとやぶを透かして入り込むわずかな月光の薄明かりにぎらつく白刃は見当たらない。敵は荒削りの棍棒やくわの柄を持っているのだった。案の定、相手は素人臭い所作で場慣れした余裕もなく、とはいえ数にかこつけなだれて襲ってくる。斬られる心配はないが殴り殺されるのは大いに有り得たので警戒は解かない。


 混戦になった状況で韃拓は瑜順に怒鳴る。

「殺さないときりがなくないか⁉」

「刃傷沙汰を起こせば一泉への宣戦布告になる!絶対に殺すな!」

 そうはいっても、と掴みかかってくるのを鞘頭でめいっぱい振り倒す。向こうは殺す気で向かってくる。こちらとて手加減する戦い方に慣れていない。


 目につく敵は動けないよう減らしたがまどろっこしさに舌打ちし、脇を逃げようとした小さな影の襟首を捕らえた。うっ、と苦しげな声を上げたそれを子猫よろしくつまみ、引きずって荷台に登った。


「お前ら!いい加減にしろ‼武器を捨てなきゃこいつを殺すぞ‼」


 よく通る怒号が響き敵味方とも動きを止めた。火を焚くよう命じて、韃拓は抵抗する子どもに剣を突きつけた。すると、やめてくれ、と倒れた敵が初めて声を発した。


 松明たいまつにより交戦していた相手の顔が浮かび上がってくる。

 破れかけた蒙面布ふくめんを剥ぎ取ると見たところ普通の民だ。皆特徴なく薄汚れていた。さらに子どもを見下ろす。いずれも粗末な姿なりで弱々しく兵士でもなければ破落戸ごろつきでもなさそうだった。

「どういうこった?」

 荷台を降りながら降伏した敵を見渡す。彼らは恐々としながら韃拓を伏し拝んだ。

「お許しを。どうかその子だけは」

「お前が首魁しゅかいか?なぜ俺たちを襲った」

 手を合わせ進み出た男に剣を突きつけた。「俺たちが同盟を結んだ角族と知っててやったのか?」

 男は何度もお許しを、と叫び伏し、瑜順が目の前で片膝をつく。

「どういうことか説明して頂きたい。もしや、我々が一泉入りしてからどの門も通れず郷里に入れなかったことと関係があるのか」

 首魁は額に土が付いたままの怯えた顔を上げた。しどろもどろに視線を彷徨さまよわせる。

「た、頼まれたのです……」

「頼まれた?誰に?」

 男と仲間たちは一様に押し黙った。韃拓が苛つく。腕に噛みつこうとしている塊を小突いた。「言えねえのかよ」

「……お願いします。見逃してください。言えば私どもの邑里むらに火がつけられてしまいます!」

 はあ、と呆れて瑜順を見る。そちらも眉間に皺を寄せて首を振り、溜息をついた。

「いいでしょう。しかし、二度と私たちを襲わないと約束してください」

 男たちは怯えて何度も頷く。瑜順は仲間に武器を収めるよう言い、襲撃者たちにすみやかに去るよう命じた。


「娘を返してください!」


 金切り声で哀願されて韃拓が、げ、と手を離す。子どもはいちど唾を吐くと父親の元へ走り寄り去っていった。


 やれやれとあたりを見回す。負傷者はいないようだ。里人が逃げ帰って行くのをしゃがんだまま見送っていた瑜順に近づいた。

「どういう事だと思う」

 考え込むように闇を見つめていた友は立ち上がる。「どうやら、一泉は一枚岩ではないようだ。誰の指図か知らないがあの者たちの言を察するに、脅されて襲ったようだな。俺たちが泉畿に行くのを良く思っていないやからがいるみたいだ」

「どのみち失敗したんだ、里は焼かれるんじゃないか?」

 他人事に興味なく言った韃拓に瑜順はなおも難しげに渋い顔をしたまま、かもな、と頷いた。

「いずれにしても泉畿まではあと十日はある。また襲撃がないとも限らない。引き続き郷里に入れないか交渉しつつ用心して進もう。何梅さまにも伝鷹とりを」

 宣尾が困り果てた顔で言った。「宿泊しながらの旅のつもりだったから、手持ちの食糧も少ない。どうにか街で調達できまいか」

 水はいくらでも汲んで来られるが、野禽を人数分、わざわざここで狩るのも一苦労だろう。韃拓は唸り、では、と瑜順を見た。

「一泉人に混じって入り込めばいい。昼間は門が開いているだろう?高車は目立つが見張りがうろついているわけでもないし、何人か選んで忍び込ませよう」

 瑜順は地図を広げた。「明後日には州境の郡郷まちまで辿り着けそうだ。州を越えなければ棨伝てがたの確認もない。それでいこう」

 よし、と頷く。何者か知らないがこれで脅迫に成功したと思われるのはしゃくだ。

「絶対に辿り着いてやるぜ」

 そうして威勢よく図面の一点に指を突きつけた。




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