一章
瑜順の言った通り、怒濤の勢いで一泉への奉賀の準備が整えられつつ、あっという間に年が明けた。慌ただしく戴冠して新当主となった韃拓も狩りに参加する暇もないほど礼儀作法だの滞在中の視察の予定だのを口
すべての体裁を整えて使節団が領地を発つ日がやって来たのは暦の上ではもうすぐ春分という候。とはいえ未だ残雪と寒風厳しいなか、韃拓は裾をはためかせて
「行ってくる。あとを頼むぞ」
目を合わせず、腕に抱えられた眠る
莉羅は頷くと頭を下げる。それで韃拓には彼女がどんな顔をしているのかもう確かめようもなかった。
急勾配の丘を駆け登ってもう一度だけ振り返る。泥雪と毒霧に閉ざされたちっぽけな領地を見渡し、それから自分の後に続いてくる黒い列をぼんやりと見つめた。
「どうかした」
瑜順が横に並んできて韃拓ははじめ言葉を濁した。
「いや……小せえなと思って」
「俺もそう思う。
彼は本の虫だ。日々の仕事を終えたら大抵は
丘を抜ければすぐに山越えが待っている。紫の濃霧がたなびく山道の入口、しかしと韃拓は後方に続く
案の定図体の大きな荷は進行を大いに遅らせた。しかし安易に捨てて行くわけにもいかず、足場の悪い狭い坂道で
「ああ――くそ。本当に要るのかよ、こんなもん。馬鹿馬鹿しくなってきた」
苛立って悪態をついた韃拓に瑜順が汗だくになりながら憮然とした。
「一泉とはこの二十数年良い関係が続いている。
歯に衣着せぬ物言いを聞きながらさらに口汚く高車を
「これでやっぱり公主の降嫁をやめるとか言われたら俺は一泉主を
「ではすんなりと来ていただけるようにお前も少しはしおらしくしろ」
それは、と足を踏ん張り、車輪を
「嫁次第だな」
肌にきんと刺さる乾いた風は幾分緩み、あたりを包む空気も暖かみを増し、こうして
誰も起き出してこない払暁、朝陽もまだ山峰の尾根の向こうでさきがけの淡い光を滲ませるのみで薄暗い。
困ったように呼びかけられて少女はつんとそれを無視した。絹の
「嫌よ、そんな色」
しかし下官は首を振った。「今日は大切な式でございます。皆々様と揃えて頂かなくては困ります」
少女は黒
閑静な宮の中をしずしずと
貴人の到来に門卒が
「大層野蛮だそうですよ、なんでも、すぐに乱闘沙汰を起こすとか」
「関わりたくないですわ、
「そもそも話が通じるのかしら。猿のようでしたらどうしましょう」
「あら、あなた猿好きでしょう。小猿がいたら飼って差し上げなさいな」
くすくすと忍び笑いが起き、華やかな女たちの
女たちのひとりがこちらに話を振ってくる。
「殿下はどうでございますか、せっかく焚きしめた香が獣の
「……そうでもないわ。見たこともないものを最初からとやかくは言えないもの」
つれない返答に問うた女が明らかに興醒めしたのが分かった。円扇の下で口を歪める。
「まあ、さすが、お優しいのですわね。ああそうですわ、お茶にお招きしたら良いのです。殿下のお宮ならば夷狄も居心地良いと思われますわ。緑が多くって」
別のひとりが小さく噴き出した。
「猿が登る木には困りませんわね」
それには絹袖がかすれるような忍びやかな嘲笑が広がり、少女は思わず頬に朱を昇らせた。憤怒を
そんな少女の具合を心配して背後からそっと機嫌を伺ってきた下官に首を振り、太い柱の合間、
夢想に入ろうとした直前、大扉が開いて再び銅鑼が打ち鳴らされた。左右に分かれて
玉座に近づいてきたのは三人。先頭は男で、もう二人は女。特に最後に入ってきた姿に誰もがより深く頭を垂れた。
その黒衣の女は玉座のさらに上段に
下段にも男女が揃って座る。ふと気がつけば外の大広場の、こちらから見れば遥か対岸の大門は開け放たれ、黒い人波が整列して歩んでくるのが豆粒ほどの大きさで見て取れた。少女は
しかし、しばらく待てども一向に何者の姿も殿上に現れない。
皆が何事かと騒ぐなか、開け放たれた大扉の前に突如として人影が走り込んで来た。息せききって、急停止する。鞘を付けたままの大ぶりの剣を肩に担いでいた。
「ふざけんなこらァ‼」
空間を裂く
何事か、と声を上げた
「
宣言した姿に少女はあんぐりと口を開けた。
雲を浮かばせた鈍空が足許にもあることに韃拓は怪訝に目を細めた。やがてそれが水鏡なのだと理解して思わず歓声をあげる。
「瑜順!でっかい水溜まりがあるぞ!」
韃拓は騎獣を降りて淵に走り寄った。遠目からは黒く見える水はその実近寄れば底が見渡せるほど透き通って清い。
「これが一泉の泉水だ。やはりいつ見ても美しいな」
泉を初めて見た者たちは身を切るように冷たいのも気にせずに韃拓と同じように無色透明の水をこぞって飲んだ。ひとしきり味わって口を拭う。
「うまい。ウツクシイものはうまいのか、瑜順」
問われたほうは珍しく噴き出した。「そうだな、あながち間違いではないかもな」
そうか、と頷き返し、韃拓は改めて広くて丸い泉を見渡す。まわりを囲った岩の狭間から流れ落ちる小瀑によって水が
「ここからどうやって上がるんだ?」
駆け上がって首を巡らす。泉は地面にぽっかりと
「……雪?」
「
答えたのは同行者のひとりで
「
「話すのか?」
「ごくたまに。でも同盟で定められた交易以外の非公式のやり取りはあまりあけっぴろげになってはいけませんから、基本的には交換品を置いておき、互いに顔も見ぬまま取引を終えます」
「そのまま
「ないさ。このあたりの住民は我々を怒らせたらどうなるかよく分かっているから」
続いて瑜順が答えた。彼も稀に極秘でここへ降りたことがある。「特別に欲しいものがあればあえて姿を見せて依頼もするが、いずれにしても盟約に反する」
「
「無論だ。しかしこちらから泉人の接触を断る理由はないだろう」
それもそうか、と韃拓は森林の出口に向かいながらなおも首をせわしなく動かした。ただ水を仕入れに来ていたわけではないということだ。
森の出口は泉に流れ込む川沿いに
「これは?」
「
冗談めいたが笑みのない友の話を聞きながらその境界を越え、韃拓は今度は無言になった。続いて隣に立った瑜順も飛び込んできた光景に息を詰める。
一面の白い大地だった。それはなにも残雪のためだけではない。泉から少し離れた家々が軒を連ねていたけれども壁は白い石でできていて、そこかしこに見える城壁や高楼もすべて白、ただ霜の降りて粉をふいたような屋根甍のみに黒い
泉は通常、
「変だよな、なんで一番下の泉が溢れないんだろうな?」
韃拓が前を見つめたまま呟いたが、瑜順は聞き流したまま、まるで化かされたように美しい景色に目を釘付けにしていた。
緩やかな坂道を登り始めた一行は目新しい光景に心奪われて口数少ない。水の満ちる段差の
「見ろこれ」
覗き込むと丸い形をした透明なものがいくつも枝にぶら下がっていた。氷で型どった木の実のようだった。「なんだこれ。中身がない」
「たぶん、外側が凍ったまま実は腐り落ちてしまったんだ。一泉の寒さも侮れない」
まるで水晶玉が
「水が凍ることはねえのかなあ」
「常に勢いよく流れているから、よほどでない限り大丈夫なのでは?」
話しているうちに市街に近づいてきた。低い石垣で囲われた街区の入口である
「……待ち伏せて襲われるとか、ないよな?」
呟いたのに先導していた男が振り返る。この男は
「我々のことは一泉じゅうに周知されているはず。なあに、念書もあるし平気さ」
だが一行が近づくと門卒は槍を交差させて行く手を阻んだ。
「
一行は困惑してざわめいた。宣尾が慌てて説明する。
「我々は一泉との再度の同盟で参じた使節です。泉畿まで各都市を経由して行くようにとの我らの先代当主と一泉主のお達しがここにありますが」
門卒はそれでもならぬ、と一点張りだった。見渡すと楼堂の兵士たちは一様にこちらの動向を窺っている。韃拓は顔を前に戻した。
「宣尾さん。入れねえって言ってんだからしょうがないだろ。次のとこで泊まりゃいい」
宣尾は解せないようで困惑したが、韃拓がこう言った直後に不思議なことに行く手を阻んでいる彼らのほうはなぜか安堵したような空気を醸し出した。拒否された里の脇に逸れて続く街道を歩き出しながら、とはいえ、と瑜順が空を見上げる。
「次の街に着くまで日が暮れなければいいが」
「そうなれば野宿すればいいだろ」
極寒期の露営には慣れっこだ。
「しかし、なぜ街区に入れないのか。通達は出ているはずなのに」
角族が借り受けている泉は一泉の北東端にあり、国の最北に位置する泉畿までは半月ほどの行程である。周囲の郷里とて、こちらが来泉し宿を借りることは分かりきっているはずなのに。
さあな、と韃拓は頭の後ろで手を組んだ。「
言ったことはあながち間違いではなさそうだった。街道沿いに進んで五日めに、どこの郷里にも振られ続けた使節団は夜半、ついに敵襲を受けたのだ。
韃拓は濃闇に瞼を開いた。ひどい胸騒ぎと焦燥が体を駆ける。音を立てずに身を起こすと、隣の瑜順は既に剣を手にしていた。
「…何か来る」
「だな。五十はいる」
鋭い他の仲間も
視界のないなかを微かな足音がする。韃拓は柄に手を掛けた。
突然、塊が突っ込んで来た。そのまま迎え撃って殴り倒す。相手は短い悲鳴を上げて即時に気を失い、弱いことが分かって韃拓は笑む。一行は小団に分かれて街道から外れた山林の中で休んでいたのだが、どの隊も謎の影と交戦しているようだ。
またひとつ突撃してくるのがあり、今度は抜剣して斬り捨てようと中腰になる。しかし、瑜順の大声が響き渡った。
「
よく見ると
混戦になった状況で韃拓は瑜順に怒鳴る。
「殺さないときりがなくないか⁉」
「刃傷沙汰を起こせば一泉への宣戦布告になる!絶対に殺すな!」
そうはいっても、と掴みかかってくるのを鞘頭でめいっぱい振り倒す。向こうは殺す気で向かってくる。こちらとて手加減する戦い方に慣れていない。
目につく敵は動けないよう減らしたがまどろっこしさに舌打ちし、脇を逃げようとした小さな影の襟首を捕らえた。うっ、と苦しげな声を上げたそれを子猫よろしく
「お前ら!いい加減にしろ‼武器を捨てなきゃこいつを殺すぞ‼」
よく通る怒号が響き敵味方とも動きを止めた。火を焚くよう命じて、韃拓は抵抗する子どもに剣を突きつけた。すると、やめてくれ、と倒れた敵が初めて声を発した。
破れかけた
「どういうこった?」
荷台を降りながら降伏した敵を見渡す。彼らは恐々としながら韃拓を伏し拝んだ。
「お許しを。どうかその子だけは」
「お前が
手を合わせ進み出た男に剣を突きつけた。「俺たちが同盟を結んだ角族と知っててやったのか?」
男は何度もお許しを、と叫び伏し、瑜順が目の前で片膝をつく。
「どういうことか説明して頂きたい。もしや、我々が一泉入りしてからどの門も通れず郷里に入れなかったことと関係があるのか」
首魁は額に土が付いたままの怯えた顔を上げた。しどろもどろに視線を
「た、頼まれたのです……」
「頼まれた?誰に?」
男と仲間たちは一様に押し黙った。韃拓が苛つく。腕に噛みつこうとしている塊を小突いた。「言えねえのかよ」
「……お願いします。見逃してください。言えば私どもの
はあ、と呆れて瑜順を見る。そちらも眉間に皺を寄せて首を振り、溜息をついた。
「いいでしょう。しかし、二度と私たちを襲わないと約束してください」
男たちは怯えて何度も頷く。瑜順は仲間に武器を収めるよう言い、襲撃者たちにすみやかに去るよう命じた。
「娘を返してください!」
金切り声で哀願されて韃拓が、げ、と手を離す。子どもはいちど唾を吐くと父親の元へ走り寄り去っていった。
やれやれとあたりを見回す。負傷者はいないようだ。里人が逃げ帰って行くのをしゃがんだまま見送っていた瑜順に近づいた。
「どういう事だと思う」
考え込むように闇を見つめていた友は立ち上がる。「どうやら、一泉は一枚岩ではないようだ。誰の指図か知らないがあの者たちの言を察するに、脅されて襲ったようだな。俺たちが泉畿に行くのを良く思っていない
「どのみち失敗したんだ、里は焼かれるんじゃないか?」
他人事に興味なく言った韃拓に瑜順はなおも難しげに渋い顔をしたまま、かもな、と頷いた。
「いずれにしても泉畿まではあと十日はある。また襲撃がないとも限らない。引き続き郷里に入れないか交渉しつつ用心して進もう。何梅さまにも
宣尾が困り果てた顔で言った。「宿泊しながらの旅のつもりだったから、手持ちの食糧も少ない。どうにか街で調達できまいか」
水はいくらでも汲んで来られるが、野禽を人数分、わざわざここで狩るのも一苦労だろう。韃拓は唸り、では、と瑜順を見た。
「一泉人に混じって入り込めばいい。昼間は門が開いているだろう?高車は目立つが見張りがうろついているわけでもないし、何人か選んで忍び込ませよう」
瑜順は地図を広げた。「明後日には州境の
よし、と頷く。何者か知らないがこれで脅迫に成功したと思われるのは
「絶対に辿り着いてやるぜ」
そうして威勢よく図面の一点に指を突きつけた。
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